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あなたを夢に見た日に

作者: 磨糠 羽丹王

『冬来たりなば春遠からじ』


 英国の詩人シェリーの詩「西風の賦」の一節から翻訳された言葉。

 私はこの大好きな一節を胸に抱き、日々過ごして来た。

 今の私は冬の入口にいるのだろうか、それとも出口の傍にいるのだろうか……。






 出勤前の身支度を済ませカーディガンを羽織はおり玄関を出る。

 川沿いの桜が花を付けているけれど、外はまだ肌寒い。


 誰かが残して行ったのだろうか、歩道の脇にあるベンチの周りにゴミが散乱している。

 空を見上げると、どんよりとした曇り空。

 そう言えば朝のニュースでは午後から雨になり「花散らしの雨」になると言っていた。

 華やかな桜とも今日でお別れかな。


 あの日もそうだった……。


 翌日に短大の入学式を控え、これから楽しい学生生活が始まると思い浮かれていたあの日。

 高校二年の時から付き合っていた彼氏に突然別れを告げられた。

 ほんの数日前まで幸せな日々を重ねて来たのに。

 訳が分からなくて震える声で理由を尋ねた。


「俺さあ、お前と付き合う前から彼女居たじゃん。なんかまぁ続いていたのよ。てか、お前の方が浮気相手って感じかな」


「私と付き合う時に別れたって言ってたよね」


「言ったっけ? 覚えて無いわ。悪いな。じゃあそういうことで」


 彼は悪びれる風もなく、手をひらひらとさせながら立ち去って行く。

 私は後を追う事も出来ず、その場に呆然ぼうぜんと立ちすくんだまま、降り出した雨にただ打たれていた。


 これまで何も疑わずに彼との時間を過ごして来た。

 彼はいつも『お前だけだ』と優しく言ってくれていたのに。

 私はその言葉を信じて、彼の望むままに全てを捧げて来た。

 今日みたいな態度を取る人ではなかったのに、どうして急にこんな事になってしまったのだろう。

 春の雨が身を刺すように冷たい。


 足元に散った桜の花びらが涙でにじんだ。

 人に踏まれ汚れた花びらが、まるで自分の様に思えた……。




 社会人になってから二度目の春を迎えた。

 あれから恋に憶病おくびょうになり、誰ともお付合いはしていない。

 友達の紹介や合コンでの出会いはあるけれど、前に進む気持ちにはなれなかったからだ。


 会社の更衣室で制服に着替えると、月に一度の朝礼が始まる時間になっていた。

 同期の女の子と目が合うと、嬉しそうに部長の横を指さしている。

 そこには同期入社の男の子が立っていた。

 まあ同期と言っても彼は四年大学を出ているから二歳年上だ。

 そう言えば四月の異動で、今日から出社だと部長から聞いていた気がする。


 彼は地方の支店に配属されてから、わずか二年で本社に異動になった。きっと同期の中では一番の出世頭だと思う。

 新入社員研修での彼の溌溂はつらつとした受け答えは、何となくそれを予感させるものがあった。

 研修で同じ班だった八人は今でも仲が良く、出張で本社に誰かが来ると必ず飲みに行く。

 今日は彼の歓迎会という事で、本社勤務の同期と共に四人で飲みに行く事になった。

 事務方の女子三人に男は彼ひとりだけれど、総合職の女の子が出張で来ない限りいつもこんな感じの飲み会になる。

 四人で駅前の居酒屋に入り『取りあえずウーロンハイ』で歓迎会が始まった。


 お酒が進み酔いが回って来たのか、一番お喋りな子が彼のプライベートについて聞き始めた。

 話を聞いていると、彼は相変わらず学生時代からの彼女と遠距離で付き合っているらしい。

 本社勤務になり更に距離が遠くなり大丈夫なのか聞いたら、実は今年の秋に結婚すると言い出した。

 余りに急な話に驚いたけれど、彼女の家族の事情で急ぐという事だった。


 しばらくすると社内にもこの話は伝わり、まだ二十四歳の彼が結婚する事を知り、彼の事が気になっていたのか事務方の独身女性の多くが落胆していた。

 彼は結婚することに浮かれる事もなく、仕事を的確にこなし、本社営業部の戦力として十分に活躍している。

 事務方の私に仕事を渡す時もいい加減な事は絶対にしない人だった。


 彼に婚約者が居る事も分かっているので、特に意識せずに楽しく話せたし、仕事もお互いにサポートし合って上手く行っている。

 とても仲良くしていたけれど、もちろん私に恋愛感情はなく、人として好きだと感じていただけだった。




 彼が転勤して来てから半年が経ち、地元で結婚式を挙げた彼は、少し日焼けをして新婚旅行のお土産を抱え出社してきた。

 仕事も真面目で周囲に好かれていたから、大量のマカダミアナッツチョコと共に皆から祝福されていた。

 そんな彼は、結婚前は会社から遠くないアパートに住んでいたけれど、奥さんと広い部屋に住むために、会社からは遠い場所に引っ越して通勤で苦労している。

 満員電車で通勤してくるので、時々Yシャツに口紅を付けられたり、スーツのボタンが外れそうになった状態で出勤して来たりしていた。

 そんな時は休憩室でYシャツを脱いで貰い、口紅を落として目立たない様にしたりボタンを付けてあげたりした。

 そんな感じで、彼の結婚後も仲の良い同期として変わることなく一緒に過ごしていたのだ。


 それから一年ほど経った頃から、いつも直ぐに家に帰っていた彼が、やたらと社内の人達と飲みに行くようになり、私たち同期とも飲食の回数が増えていった。

 変に思った同期の子が理由を聞くと、奥さんが里帰りして家に居ないという事だった。

 そんな事が定期的にあり、彼が『独りだ』と言う期間が長くなっていた。

 その頃から彼に二人で食事に誘われる事が多くなった。

 同じ営業部だから残業で帰りが一緒になる事が多く、『帰っても食事が無い』と言うので駅の近くで食事に付き合う機会が増えたからだ。

 彼の独りの期間があまりにも長いので、それとなく事情を聴くと、奥さんがこちらの生活が合わないみたいで、実家から帰って来なくて苦労しているという事だった。


 彼は話が上手で一緒にいて楽しかった。

 時々冗談めかして私に好意がある事を伝えて来たけれど、お互いにそれ以上踏み込む事はなかった。

 私にその気は無いし、彼もいい加減な人ではなかったからだ。

 それでも夕食を食べた後に街を歩いたり、喫茶店で話に花を咲かせていると『彼に奥さんや彼女が居ない時に出会えていたら良かったのに』と感じた事はあったと思う。



 それから二年位経った頃、一緒に食事をしていた彼から翌月で会社を辞めて地元に戻る事を知らされた。実家から帰って来なくなった奥さんの為らしい。

 私は良く分からないショックで、それから殆ど話せなくなってしまった。

 落ち込んだ私を励まそうと思ったのか、彼はいつも以上に明るく振舞ってくれた。

 彼はそうやって、いつも私に優しくしてくれる。

 それまで恋愛感情ではないと思っていたけれど、彼が居なくなると分かった瞬間から胸が苦しくて悲しくて堪らなかった。


 店を出て駅まで一緒に歩いた。

 何とも言えない重たい空気の中、彼も私もひと言も話せなかった。

 でも彼が急に手を握って『キスがしたい』と言い出したのだ。

 驚いて彼を見ると『君の事がずっと好きだった。本当はこのまま離れたくない。君と一緒になりたい』と言って私を抱きしめた。


 嬉しかった。私もそうなりたいと思った……。

 それでも自分の気持ちを……芽生えた想いを抑え込んだ。


「ダメだよ奥さん居るのに。今キスしたら本気になっちゃうよ。そしたら困るでしょ? 止めよう」


 悲しみを堪えて彼の体を押し戻した。

 彼は私を困らせた事を謝り、静かに駅に向かって歩き始めた。


 翌月、彼は会社を去り地元へと帰る事になった。

 同期と三人で彼を見送りに。

 彼は独り小さな荷物を抱えていて、私たちの他には見送りは居ない。

 駅のホームで最後にハグをした。

 とても優しいハグだった。




 それから二年の時が流れ、私は人の紹介で出会った人と結婚する事になった。

 年齢的にも親を安心させたかったし、優しくて良い人だと思ったから。

 結婚前に婚約者の転勤が決まり、結婚後は会社を退職して転勤先に付いて行く事に。

 仕事は続けたかったから、引越し先で何か職を探そうと考えていた。

 でも結婚が近づくにつれて、彼の事を思い出す事が多くなっていた。

 何故だか分からないけれど彼と過ごした日々の事を思い出すのだ。


 優しい人だった。

 一緒に居て楽しかった。

 もっと一緒に居たかった。

 私もきっと彼の事が好きだった……。


 結婚式の一週間前に、どうしても我慢ができず彼に電話を掛けた。

 もう番号も変わっているかも知れないし、もし彼が出なければ二度と掛けないつもりでいた。

 でもワンコールで彼は出た。


「久しぶり。元気にしてた?」


 彼の優しい声が聞こえ、胸がギュッと締め付けられる。


「どうした?」


 私がいつまでも話さないから、彼が戸惑とまどっていた。

 深呼吸をして声を絞り出す。


「うん。あのね……ちょっと報告があって」


「なになに」


「私、結婚するんだ」


 彼が息を吸い込む音が聞こえて、それからお互いに無言になってしまった。


「どうしても、この事はあなたに伝えないといけない気がして……」


「お、おめでとう。そっかぁ……」


 押し黙った彼が『間に合わなかった』って小声でつぶやいたのが聴こえた気がした。


「あ、いや、ごめん。本当におめでとう」


「うん……」


「幸せになってね」


「うん……」




 結婚して直ぐに携帯の番号を変えた。夫がそう望んだからだ。

 夫から許しが出た親類や同期の女の子には連絡したけれど、他には誰にも伝えられなかった。でもそれは愛情からの独占欲だと思って受け入れた。

 新しい街で仕事に就き日々の生活を繰り返すうちに、いつの間にか数年が過ぎていた。

 私達夫婦には、なかなか子供が出来なかった。お互い特に問題はなさそうだったけれど、さずからなかったのだ。


 日々の生活に追われ、彼を思い出す事はなかったけれど、不意に夢に見ることがあった。

 夫に不満が有るわけではない。

 でも、彼の夢を見た日は一日中嬉しい気持ちで過ごせた。


 そんなある日、夫から記入済みの離婚届を渡された。会社の後輩に手を出して子供が出来たそうだ。

 今まで見ない様にしてきたけれど、本当は結婚直後から夫の私への態度は冷たく、辻褄つじつまの合わない残業や出張も多かった。

 夫からは散々文句を言われ、私がもっと尽くすべきだったと怒鳴られた。でも言われた事は、身に覚えがない言い掛かりばかり。

 夫に対して愛情がなかった訳ではないけれど、それ以上一緒に居るのも嫌になり、離婚に応じる事にした。


 離婚届を出しに行った日はどんよりとした雨模様。

 元夫は私を汚い物でも見るかの様な表情をして、役所の前から足早に立ち去って行った。

 役所前の歩道に雨で散った桜の花びらが散乱している。

 雨に打たれたあの日から、私は何も変わっていない。

 一歩も踏み出せないまま、私はまだ冬の中に居る。


 


 離婚後は実家に戻り、仕事にも直ぐに就いた。でも、出戻りで肩身の狭い思いをしている。

 あれから元夫の夢は一度も見ないけれど、彼の夢は時々見る。

 彼の夢を見た日は、やはり一日中嬉しい。

 そんな日は彼と一緒に過ごした遠い日々の事を思い出していた。


 そしてまた桜の季節が巡って来た頃、同期だった女の子から連絡が入った。久し振りに同期で集まるらしい。

 特に行けない理由はないので参加する事に。


 参加者は五人。その中には彼の姿が……。

 そもそも彼が数年振りにこちらに来るというので、集まる事になったそうだ。会うのは十年振りだと思う。

 彼は余り変わっていなかった。あの頃と変わらない優しい笑顔。

 時々目が合うと嬉しそうに微笑んでくれる。

 会社を辞めて地元に帰ると言った時の、苦しそうで悲しい顔はそこにはなかった。きっと地元で幸せに過ごしているのだろう。


 お喋りな同期が、またプライベートな事を聞きまくっていたけれど、彼は苦笑いしながら上手にかわしていた。

 私の事も聞かれたけれど、思わず離婚したことは隠してしまった。

 同期は皆結婚していて何だか幸せそうだったからだ。

 その後、二次会で久し振りにカラオケに行き、あの頃歌った曲を皆で熱唱した。何だか昔に戻った気がして、とても楽しかった。

 時間延長を繰り返しお店を出たのは終電に近い時間。

 駅前で解散となり皆と手を振って別れた。


 彼の宿泊先が同じ方面だったので、乗り換えの駅まで同じ電車で移動。

 当り障りのない話をしながら駅に着くと『見送るよ』と言って彼も一緒に降りて来た。

 そう言えば一緒に働いていた頃、同じように電車で帰っていた時に、彼がふざけて降りるのを邪魔して、そのまま乗り過ごした事があった。

 怒る私に次の駅まで彼が謝りまくっていた事を思い出し、可笑しくなって思わずひとりで笑ってしまう。

 その事を話すと彼もその事を覚えていて、面目めんもく無さそうな顔をする。

 そんな彼を見ながら、あの頃に彼に抱いていた気持ちを思い出していた。

 ふと視線を向けると、ホームの外に月明かりに照らされた綺麗な桜が咲いていた。


 電車がホームに入って来た。場内アナウンスが私の乗る方面の最終電車だと伝えている。

 私は彼の方を振り向き、お別れの挨拶をしようと思った。

 この先いつ会えるのかも分からない。もしかしたら、もうこれが最後かも知れない。

 そうと思うとあふれる想いで胸が締め付けられる。

 でも彼には幸せな家庭が待っているはずだ。笑顔で挨拶をして別れよう。そう思い手を振ろうとした時だった。


「あのさ……もう二度と会えないかも知れないから、どうしても伝えておきたい事を言ってもいい?」


 彼の顔を見ると、私がキスを断った時と同じ顔をしていた。

 悲しげで困った様な顔。


「馬鹿な寝言だと思って、聞き流してくれて良いから」


 何だろうと思い首を傾げつつうなづいた。


「あれから何年も経つけれど、時々君を夢に見るんだ。君を夢に見た日は一日中嬉しい気持ちでいっぱいになる」


「……」


「夢に出て来て一番嬉しい人は、きっと一生君だと思う」


「う、うん」


「気持ちの悪い話をしてごめんね。何だかこの気持ちだけは伝えておきたくて」


「あ、ありがとう……」


 到着した電車のドアが開き、殆ど人が乗っていない車両に乗り込む。

 ドアの前に立ち振り返ると、彼は照れくさそうな顔をしていた。

 彼の言葉が嬉しくて胸が高鳴っている。

 だから私も最後に想いを伝えたいと思った。

 胸が苦しくてなかなか言葉が出なかったけれど、必死で声を絞り出した。


「あなたの奥さんに失礼だとは思うけれど……私もあなたの夢を見ると一日中嬉しいよ。きっとこれからも……ずっとそうだと思う」


 私の言葉を聞いて彼は一瞬微笑んだ。そして頭をきながら恥ずかしそうに話し始めた。


「俺さあ、地元に帰ったけど結局離婚されたんだ。やっぱりダメだった。見事に結婚に失敗しちゃったよ。それからずっと独りなんだ……情けないだろ」


「えっ?」


「今日は会えて本当に嬉しかった。さっきの君の言葉、嘘だとしても嬉しかったよ。ありがとう。君は旦那さんといっぱい幸せになってね! 遠くの空から君の幸せを祈っているよ」


 彼が笑顔で手を振っている。

 私は彼が恥ずかしそうに言った言葉が、いったいどういう事なのかを直ぐには理解出来なかった。

 でも、もう一度彼の言葉を思い出し、私は笑顔になった。

 彼と過ごした日々が、暖かで素敵な思い出になって行く。

 電車のドアが閉まると伝える場内アナウンスが流れている。


『冬来たりなば春遠からじ』


 もしかしたら、私は冬の出口の直ぐそばに居るのかも知れない。


 笑顔で一歩前に踏み出し、電車を降りた――――




         ― E N D ―



     ~ 思い出の中の大切なあなたへ ~




 作:磨糠まぬか 羽丹王はにお





 引用:「西風の賦」《原題Ode to the West Wind》

    パーシー・ビッシ・シェリー

   (Percy Bysshe Shelley , 1792―1822)


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