ウミの駅
【ウミ】
ずっと遠くまで広がる群青は水平線で途切れ、宝石のような輝きを湛えた深緑に変わる。海と空。そしてところどころに頭を出した灰色の岩塊。その景色を、わたしは何をするでもなく、海面に浮かぶ駅のホームで、ただぼんやりと眺めている。
人類は衰退していく。我々の努力など、どこ吹く風だ。エイちゃんが言っていた。
地盤の沈下。海水面と気温の上昇。異常気象。出生率の極端な低下。未知の病。
そしてなによりも、物理的な孤立によって。
人は一人では生きていけない。そんな言葉を思い出させ、嘲笑うかのように、この現状は人を孤独によって抹殺しようとしている。誰の意思でもない、ただ在るがままの自然の摂理と脅威によって。
わたしはといえば、今のところ、滅びに向かう様子はない。まだ、か細い繋がりが船の錨のようにわたしを浮世に繋ぎ留めている。
「ああ、来ましたよ、エイちゃん」
汽笛を鳴らしながら、小型の漁船ほどの船がこちらを目指してやって来るのが見える。よくまあ、この広大な海を単独でやってくるものだ、と呆れ半分で感心させられる。
「識別信号を確認。輸送船ホエール号です」
「やっぱり」
「ウミ、武装することを推奨します」
「はいはい……っと」
駅のホームに設置されたスピーカーから、愛想の薄い声が響く。エイちゃんは、これがいつも通り。わたしは足下に放っていた中折れ式の散弾銃を拾い上げ、風化しかけた樹脂のベンチから立ち上がる。弾が二本の銃身に一発ずつ入っているのを確認した。
やがて小船は速度を落とし、水没した駅のホームで停止する。
「はあい、ジャック」
船には乗らずに声を掛ければ、日に焼けた人好きのしそうな青年が操縦席から顔を出した。向けられた銃口に怯みもせず、青年は眉間に皺寄せ眉を八の字に曲げてみせた。
「誰だよ、ジャック、ってのは。オトコでもできたか?」
言いながら、銃口を指で弾く。
「あはは、そんなわけないでしょう。わたしはエイちゃん一筋です。今日も元気そうですね、リク」
「元気が無くても仕事はするさ」
肩を竦めて、リクは笑った。白い歯が褐色の肌によく映えた。銃を下ろし、わたしは船に乗り込んだ。
「今日の荷物はちょいと多いぜ」
無駄話は早めに切り上げて、仕事の話に切り替える。彼とて仕事である以上、生半可なことはしないつもりらしい。いつものことながら、頭の下がる思いだ。この御時世に他人の為に何かができるということは、貴いことだろう。
「いつもの食料ほか生活用品、バッテリーの予備、濾過フィルター、それから……」
えとせとらえとせとら。雑多な品が段ボールにぎっしりと詰め込まれて降ろされていく。
「そして、頼まれてた本……これだな」
数冊の書籍だけは、箱とは別に操縦席から出てきた。手渡されたそれを、わたしはそっと受け取った。
「ありがとう」
「生憎とその本の価値は俺には解らんが、お前はほんとに本が好きだな」
「少しは勉強すればいいのに。物語の面白さが解るようになりますよ」
「文字はさっぱりでな。生きていくのに必要な分だけで精いっぱいだ」
「でも、文字が書けた方が便利でしょう?」
「今のところ困っちゃいねえな。俺は飽くまでも運送屋だぞ。受け取った物を運んで、目的地で降ろすだけだ。それにな、言葉は口から出て耳に入るもんだぞ」
嫌味でも何でもなく、ただ心からの言葉として、彼は言い捨てた。彼ほどガサツで単純で表裏が無く真面目な男を、わたしは他に知らない。……わたしの知り合いが少ないのと、関係はないはずだ。
「さ、俺は次の場所に向かうぜ。今日は物量が多いんでな」
「そう。頑張って」
「ま、上手くやるさ。はっはっは!」
汽笛と共に、快活な日焼け野郎が去っていく。
船の後姿を見えなくなるまで見送り、わたしはホームに並べられた荷物の山に向き直った。そして大きな溜息を、胸元で飲み込んだ。
「……さて、やりますか!」
まずは荷物の検品から。数と種類を検め、注文との相違を調べる……が、それはわたしの仕事ではない。
「エイちゃん」
「注文の品が揃っていることを確認しました。しかし、缶詰が一つ多く納品されています」
「いつものおまけですね。次に会ったらお礼を言いましょうか」
「予定に追加します」
「ん。それじゃ、お片付け開始!」
これを駅員室に全て運び込むのはかなり面倒だ。それでもやらなければならない。
エイちゃんは力仕事においては当てにできないから。
ひんやりとした潮風を浴びながら、わたしはワンピースの袖を捲る。
生活雑貨だとか、予備の部品だとかは、わたしにはどうにも重たい。それでも足腰に活を入れて立ち上がり、開きっぱなしの改札の向こうに在る駅員室とホームとを往復する。
大きな予備部品類を先に運び終えると、次は食料品を始めとする小物だ。中にはガラス瓶や陶器なども混じっているため、できれば慎重に運ばなければならない。
「はあ、荷運び用の台車くらい準備しないといけませんねえ」
「当駅に居住するのはウミだけです。斯様な道具は、より人口の多い場所で運用されることが望ましいかと」
「わかってまあす。言ってみただけですぅ」
ホーム全体が見えるように据え付けられたカメラに向かって、頬を膨らませて見せる。エイちゃんは何も言わない。
それから黙々と、一時間程度かけて荷運びを終えた。軽い代わりに量が多いので、流石に堪えた。
背伸びをしながら広い青色の景色を眺めて、はたと気が付く。
「お昼にしましょうか」
両の掌をぱちんと鳴らして、わたしは来る昼食のメニューを思い舌鼓を打つ。
「午後〇時一五分、昼食を推奨します」
「トーストとサニーサイドアップ、ベーコン、菜園のトマトはどう?」
「菜園のトマトは可食時期です。ただし、乾パンをそのままで加熱処理するのは推奨されません」
「もう、こういうのは気分が大事なんです」
「代わりに乾パンとサニーサイドアップを、フレンチトーストへ変更することを提案します」
「牛乳、使っていいの?」
「問題ありません。ウミ、良い昼食を」
「やった!愛してますよ、エイちゃん!」
投げキッスは虚しく空に消え、エイちゃんの返事は皆無。一方で、わたしは軽やかな足取りで駅員室に向かった。
【エイちゃん】
卵と牛乳、それから砂糖の甘ったるい香りが駅員室内に満ちている。昼食に焼いたフレンチトースト(乾パン使用)が、暴力的かつ冒涜的なカロリーの魔力を振り撒く。ちなみに、駅員室とは言ってもそれは名前だけで、その名残は使用されない機械として部屋の隅で埃を被っている。小さな机やら椅子やらが狭い部屋を占領し、今では完全に、わたし個人の生活スペースだ。
「それじゃ、いただきます!」
フレンチトーストを齧り、ベーコンを頬張る。甘さと塩気と脂っぽさが口の中で弾けて暴れまわる。頬が落ちる、とまではいかないものの、贅沢な昼食であることは疑いようがなかった。
「エイちゃん、フレンチトーストのレシピは完璧でした!」
「何よりです」
スピーカーから返る淡白な返事。
「ただ、乾パンを使ったのはやはりマズかったです。食感が……」
「従来のパンでは輸送にやや懸念があります。また嵩張るため現行の輸送には不向きです」
ぐっ、と喉を詰まらせ、水で飲み込みかけの食べ物を流し込む。
「じゃあ、原料の輸送!ここで作れば少しは違うんじゃないですか?」
「次回の定期輸送船への注文時に検討します」
エイちゃんはクソが付く真面目なのに、意外にわたしに甘い気がする。彼なりに気を遣っているのだろうか。
「対価として、仕事を依頼します」
前言撤回。等価交換を原則としているあたり、しっかりしている。
「えぇ……めんどくさいなあ」
「小麦粉を始め、パン原料の価格は現在、無視できない幅で高騰しています。主にCROPS社が所有する小麦プラントで発覚した施設不備により、肥料の漏出、不適切な温度管理が確認されたためです。生産力の更なる低下を恐れた業者が売り惜しみをしているのでしょう」
「あら」
「無意味に資本主義へ傾倒する愚か者が未だに存在することは嘆かわしいことです」
「まあ、高騰するなら自分で食べちゃってもよさそうですし」
ふざけるな。と言ってみたところで何が変わるわけでもない。とりあえずは生きていくために、業者諸氏も大変なのだ。
ふざけるな、と言ってやりたいところだが。
「仕方ないですね。レシピも教えてもらって、小麦もどうにかしてくれるのなら、一肌脱ぎましょう。依頼の内容は?」
「予備バッテリーの早急な設置をお願いします」
「……そんなことでいいの?」
「はい。過去のデータによると、ウミは八五パーセントの確率で予備部品の処理を一週間以上先延ばしにします。ですから、早急な設置をお願いします。予備バッテリーはほぼ充電されていない状態で輸送されます。現在の発電力では満充電まで、早くとも一週間は要するものと思われますので、一刻も早く……――」
わたしは思わず頭を抱えた。顔から火が出そうだ。
「あー、ごめんなさい。別にサボってたわけじゃないんですよ。ただ、明日でいいか、と思ってるうちに後回しにしてしまってて、そう、たまたまなんですよ。今日はすぐにでも設置しようかと思ってて、それこそお昼ご飯の後にですね……――」
「ウミ」
「はい」
「よろしくお願いしますね?」
「はーい……」
こういう時どんな顔をすればいいのか、わたしには分からない。自分の不手際を指摘され、責めるでもなく先回りして指示をされる。それはわたしの至らなさの表れそのものだ。日頃はのんびり生きているわたしだって、それなりにへこむ。
とりあえず返事はした。まずは食器類を片付けていく。とは言うものの、適当に目立つ汚れを流してしまえば、後は食洗器が勝手にやってくれる。文明万歳。その間にわたしはエイちゃんの依頼を遂行するべく準備を始めた。
何をするにも、まずは着替えだ。ふわふわしたワンピースのままでは支障がある。電気配線やら基盤やらを触る可能性も考慮して、色落ちしたジーンズと無地の白シャツに着替えた。片耳にインカムを捻じ込み、エイちゃんのチャンネルに合わせる。あとはゴム臭い安全靴を履けば服装はヨシ。
ああ、それから工具も必要だ。放置気味だったせいで海風を浴びて錆びかけた工具箱から、必要そうな道具を一通り揃えてポーチに突っ込む。念のため、懐中電灯も。
「エイちゃん、他に必要なものはありますか」
「潤滑油をお願いします」
「油?」
「前回の定期点検時、機械室、配電室扉の開閉の際に異音が発生していました。錆と潤滑油不足によるものと思われますので、その処置を」
「大変そうですねえ。ま、了解です」
こういった実際の設備の補修はわたしの仕事だ。ネットワークやプログラム関連の管理はエイちゃんがやっているので、適切な分担だろう。潤滑油の入ったスプレー缶をポーチに押し込む。錆止めとヤスリは既に持っていた。
馬鹿みたいに重い大容量バッテリーに、紐を掛けて背負い上げる。足腰が悲鳴を上げている。でも、慣れている。
「準備万端、出発!」
機械室は海面下、地下部分に在る。職員用出入口から地下を目指す。
入り口を開けてみれば、すぐに磯臭さが鼻を突いた。海風のそれとは違う、蒸れたような、濃い匂いだ。
「どこかから浸水が進んでいるみたいです。何かが腐食している可能性もありますね」
「壁などの亀裂は、見つけ次第塞いでください」
「はーい」
そのために接合剤を持って来ている。拳銃のような形の器具で、弾倉の代わりに装填したゲル状の物体を亀裂に流し込んで接合するものだ。今はまだ、使いどころではない。まずは先を急ごう。
階段を降りていくと、だんだん光が届かない暗闇に変じていく。地下の照明に関してはブレーカーを落としているからだ。非常灯も既に事切れている。早速、懐中電灯の出番だ。
「ウミ、足元に気を付けてください」
「言われなくても!」
足下を照らし、ときどき前方を照らして、ゆっくりと先へ進む。足を取られて転んでしまえばバッテリーも高確率でお陀仏だ。
「どうして機械室が地下に在るんでしょうね」
「もともと、当駅は全階層が地上施設でした。浸水したために地下となったのです」
「知ってます。言ってみただけですよ」
持っていくのが面倒くさいだけ。
「今のところ、目立った損傷は見受けられません。もっと下の階層からの浸水でしょう」
「了解しました。引き続き、点検と作業を行ってください。くれぐれも、気を付けて」
「了解です、司令官」
おどけてみせても反応が無いのが、ちょっぴり寂しい。
機械室を目指して歩くこと二〇分。磯臭い以外には特に問題なく機械室に到着。
「エイちゃん、到着しましたよ。予備バッテリーの交換を始めますね」
「了解しました。感電に注意を」
「大丈夫です。エイちゃん、心配し過ぎですよ……ふんっ!」
がりがりと硬いものが擦れ合う音が響き、腹が立つほどのんびりした調子で扉が開いていく。
「……っく、重い!」
扉が、わたしとバッテリーが難なく通れる程度の幅に開いたときには、わたしはもう肩で息をしていた。
「……はああああ」
深呼吸で息を整える。
「錆びすぎでしょ、もう」
この怠惰な扉の錆びは、必ず除かねばならぬ。わたしはそう決意した。
とりあえず悪逆の扉は後回し。……別にサボるつもりはない。ちゃんとやる。
壁に埋め込まれたバッテリーソケットの蓋を外し、スイッチで通電を遮断する。続いて自分のことながら手際よく、老朽化したバッテリーを取り外す。通電していないので警戒するのは部品を傷つけることだけ。接続端子をお釈迦にしてしまうと、独力での修理は不可能に近いからだ。壊してしまった場合、次の定期船を待って部品を入手しなければならない。端子だけを取り換えられればいいが、端子から配線、そこに繋がる基盤ごと取り換えなければならない場合もあり得る。そうなるといろいろと不都合が生じるのだ。部品の供給とか、輸送方法とか。
さて、そんなわけで注意深く新しいバッテリーを設置していく。端子保護の樹脂パーツを取り去り、細部を細かく点検する。問題ないと判断し、可能な限り優しくソケットに挿し込む。最後にボルトでバッテリーを固定したら、通電状態に移行し蓋をして終了だ。
作業開始からここまで、およそ十分。悪くない速さだった。取り出した古いバッテリーにはまだ電気が蓄えられているので、端子に先ほど新品から取り去った樹脂パーツを取り付け、絶縁しておく。端子に触れたくらいでは感電しないが、念の為。
「新しいバッテリーの接続を確認しました。ウミ、ありがとうございます」
「いいえ、これもわたしの仕事ですから」
それを怠けていたことについては、そっとしておいてほしい。
「引き続き、扉の補修をお願いします」
「ああ、そうでしたね」
意識の片隅で薄れかけていた課題が引きずり出される。扉の補修も重要な仕事だ。緊急の際にここに入れないと、大変困ることになる。駅全体の電力を管理する、いわば心臓部なのだ。電力自体は太陽光やら風力やらの海上部分で補っているが、それを管理するのは機械室並びに配電室である。そんな場所にいざというときに入れないというのでは、わたしは死んでしまう。それだけは御免だ。
「あ」
廊下に出てから、その暗さにふと思い出す。
「ブレーカーを上げましょうか」
「扉修理速度の向上が期待されます」
「言われなくても分かってますよー」
配電盤の隣に設置された無数のスイッチの配列。その中から「二階機械フロア」と掠れかけた文字で記されたものを探し、ぱちんとスイッチを入れた。
ぶん、と唸るような音がして蛍光灯がちかちかと点滅し、点灯。寿命が近いのか、あまり明るくはない。けれど、無いよりはマシ。
「通電を確認しました。回路の点検を行います」
「よろしくお願いします。では、わたしは扉を」
まず扉の蝶番を確認する。錆は回っているが、わざわざ削ってやるほどでなさそうだ。錆落としのスプレーを吹き付けて、しばらく置いておこう。
次に確認したのは、ドアの淵、そしてその枠と錠の部分。こちらは見事に錆びついていた。これのせいで扉が上手く滑らず、閉じるにも開けるにも苦労をさせられていたのだ。広範囲にわたる赤い錆は、金属の腐食を示している。
「エイちゃん、赤錆です」
「扉の置き換えは不可能です。可能な限り錆を落とし、表面へのコーティング剤の塗布で対応してください」
無慈悲な宣告。
「はあ」
溜息も禁じ得ないというもの。
しかし誰が代わってくれるわけでもないので、わたしは口を閉ざして淡々と作業を始めた。もとより覚悟の上である。目の細かいヤスリで錆を落とすと、見る間に赤黒い粉が床を埋めていく。
「うえっ」
綺麗な物でもないが、実際には汚くもない。それでもどことない嫌悪感がわたしを苛む。
ヤスリ掛けが終わり、どうにか腐食の少ない部分まで削ることができた。そこに錆止めを噴霧。軽く布で塗り拡げて可動部に潤滑油を注せば、とりあえず終わりだ。
錆がしつこくて、小一時間ほど要して作業を完了。今度こそ機械・配電室に施錠をする。
「エイちゃん、終わりましたよ。点検のほうはどうですか?」
「回路の正常動作を確認。問題ありません」
「浸水箇所の特定はできそうですか?」
「現在、一階部分の一部区画で浸水が確認されています。もとより水圧に耐える想定をされていない構造物であるため、後に増設した遮水壁が圧壊したものと思われます。現在、防火扉やシャッターなどを閉鎖し、浸水を食い止めていますが、時間稼ぎでしかありません。安全の為、一階部分への侵入は推奨しません」
分かっていたことだが、こうも早いとは。
「では、二階部分だけでも確実に守らなければなりませんね」
「二階部分の不要な区画は既に閉鎖済みです。主要区画については現状、危急の問題はありません」
「今は、ね。……アセチレンガスは使ってもいいですか?」
「許可します。しかし、よいのですか?」
エイちゃんが珍しく問い掛けてくる。わたしの意図を察したうえで、彼はわたしに問うている筈だ。地下部分には未だに回収しきれていない過去文明の遺物が残されている。わたしやエイちゃんにとって有用なものも少なくは無い筈だ。
「もう未練はないですよ。必要なのは今と未来です。過去の遺物がまだ地下に眠っていようと、それにばかり執着するのはただの愚行でしょう?進むために、切り離すべき錨もあるんですよ。だからこれは、わたしなりの決別の意思表明です」
そして何より、エイちゃんの為に。
「さあ、張り切って行きましょう!作戦名は『守れ、愛しのマイホーム』です!」
わたしは廊下を走り抜け、階段を駆け上がる。
面倒だ、なんて思うことはもうなかった。
アセチレンガスを用いた金属の熔接によって、不要な区画の扉を全て、堅く熔接した。そこからの浸水を食い止め、浸水後にも強度を維持するため。アセチレンガスの入った褐色のボンベはやたらに重く、随分と苦労させられた。溶接機を使用するための電力は取り外した予備バッテリーから供給した。残り少ない電力で何とか最後の熔接まで済ませられたのは幸いだった。
「さあ、もう夕飯の時間ですね。早く戻って、夕飯の準備をしましょう」
中身を使い切ったバッテリーは、それでも当然軽くはならない。そんな重荷に加えてガスボンベを背負ってわたしは階段を再び上がっていく。駅員室を目指して歩けば、自然とホームから見える夕焼けの景色が目に飛び込んでくる。
目を貫き焼き捨てるかのような黄色い光から橙を経て朱に至り、赤を越えて黒に向かうグラデーションの空。揺らめく海面に照り返す太陽は、己の最盛を名残惜しむかのように遅々として沈んでいく。
「……綺麗」
思わず口を付いて出る言葉。
何度見たとも分からないそれに、わたしはまた、新たな感動を覚える。
「ウミ」
イヤカム越しに、エイちゃんが言う。
「この駅は、この先そう長くはありません。だから、貴方がここに居座り続けるのは、合理的ではない。一刻も早い、安全な場所への退避を強く推奨します」
エイちゃんはこれまでに何度も、同じような内容の警告をそれとなくしてくれていた。しかし、今回ほど直截な言い回しを用いたのは初めてなように思う。
「エイちゃんがここに居るのなら、わたしはここに残ります」
「それは人類の生存において適当であるとは言えません」
荷物を放り、駅員室の奥へと歩いていく。その最奥には、無数の表示灯を点滅させ、ささやかな駆動音と仄かな熱を発する『彼』が居た。
「貴方が機械でも、わたしは構わない。顔も知らないジンルイよりも、わたしは今、目の前にいるエイちゃんが大事」
触れた指先から、人よりも高い体温が伝わる。
「だから、頑張るから、諦めないで」
頬を伝うもの。それは目から落ちるわたしの想い。
「……ウミ、ありがとう」
きっとわたしの声色を模倣しただけの音声だ。この熱も、その思考も人間の持つそれとは大きく異なっているだろう。それが何だというのか。過去文明の人間が個性を重んじたのは知っている。ならば、少しくらい熱くて、姿かたちが違うくらいで何を気にするのだろうか。
実際のところ、避難民を収容する巨大な船は存在する。ただし、『NOAH』と呼ばれるそれによる保護と収容の対象は飽くまでも肉の身体を持つニンゲンに限られている。機械の身体と自動化された思考を持つエイちゃんを収容し養うことは、電力・空間的な問題から殆ど不可能であり、それ自体が無意味に近い。
わたし自身、そんなことは分かっているつもりだ。
それでも、わたしは彼を諦めはしない。
エイちゃんに凭れかかったまま、わたしはねっとりと這いよる睡魔に襲われる。疲れから抵抗もできず、ずるずると微睡みに飲まれていく傍らで、彼の確かな熱を感じた。
ああ、生きているんだな。
暗い部屋の中、温かさに身を委ねて眠りに落ちていく。
【災い】
青空はどこまでも広がっている。わたし以外の人間の暮らす場所にも、きっと同じように空が広がっている。どんなに厚い雲がかかっていようと、その向こうには同じ空が広がっているのだ。
「空の青、海の青、わたしの心もブルーです」
「ウミ、ポエムですか?」
「いいえ。ただの独り言です」
ポエムのつもりではなかった。ただ、指摘されると無性に恥ずかしくなってしまうから、できればそっとしておいてほしかった。
もちろん、そんなことを言うのであれば、端から口に出すなという話なのだけれど。
とにもかくにも、この海上に浮かぶ孤島、わたしの駅であり、ホームであるこの場所は、代わり映えしない退屈さを提供してくれていた。読みかけの本を置いて、気分転換に駅のホームに出たところまでは良かったものの、そこからは景色をぼんやりと眺めることしかできないのだ。
「あ、何か飛んでますよ、エイちゃん」
「上空を監視できるユニットがありません。どのような姿でしょうか」
人工知能たるエイちゃんにも、好奇心や興味があるのだろうか。
わたしは目を凝らして上空を見つめる。
「すごく小さな黒い影です。飛行機……いえ、腕と足がありますね。人型なのでしょうか。あ、白い煙の尾を引いてます。飛行機雲ってやつですね。やっぱり、飛行機でしょうか」
「無線に反応有り。救難信号です」
「え?」
話の流れを無視したかのような報告に、わたしは思わず尋ね返してしまった。
「救難信号……船からですか?」
「上空の飛行体からです。識別信号は『AG159』、World'sArms社製の汎用兵器『ANGEL』と断定」
「兵器……」
「無線を傍受します。相手には感知できません」
「お願い、エイちゃん」
ざりざり、と耳障りなノイズが走り、音声が駅のホームに響き始める。
「こちらガリエル、応答願う、応答願う!脱出機構に深刻な不具合あり、ジェネレータの出力が低下している!ああ、くそ、誰か、聞こえないのか!ハッチが開かない!誰か!」
見上げていた機体は徐々に高度を下げてきていた。このままいけば、何とか海面には不時着できるだろう。しかし、その後を放っておけば、中の操縦手は死んでしまうかもしれない。死の恐怖に呑まれたガリエル氏には、自力での脱出は難しいだろう。
「ウミ、彼を助けますか?」
「リスクを」
「ガリエル氏は軍人であることが考えられます。彼をホームへ招き入れることは、ウミの身体を危険に晒すことになります。食糧などの有限な資材の消費は現行の二.五倍にまで膨らむでしょう」
「メリットを」
「軍人であれば育成に時間のかかる戦闘力ですから、彼の所属するコロニーに対し、その回収の見返りとして資材を請求できる可能性があります」
まったく、悲しい話だ。救いの手を差し伸べるために損得の勘定をしなくてはいけない。わたし自身の安全が保証されない世界では、それも致し方の無いことなのかもしれないが。
「エイちゃん、誘導を。この駅で回収します。ゴムボートは使えそうですか?」
「了承。前回の点検では、劣化は許容範囲内です」
「了解。エアコンプレッサー、使いますね」
「オールは備品倉庫にあります」
「ありがとう」
準備している間に、奇怪な駆動音を響かせながら鉄の天使が舞い降りてくる。いや、正しくは「堕ちて」きた。着水と同時に大きな波が経ち、駅のホームにまで寄せてきた。少ない動力で沈没には抗っているが、それも時間の問題だろう。急がなくては。
「武器の所持を」
「もちろん。それじゃ、いってきます」
二連装散弾銃をボートに放り込み、わたしは大海原に漕ぎ出した。
後ろ手に縛られた金髪の男を、わたしは注意深く観察する。肌に張り付くような服。体の要所を、補助目的なのかベルトで縛っている。「軍」と聞いて想像する姿とはおよそ違って見えた。しかし、兵器を運用できる軍の人間であることは疑いようがない。わたしは握った銃把を離さず、銃口は男に向かっている。
「ジェネレータの故障で死にかけたかと思えば、誘導されて降りて来て、今度は銃で殺されそうになるのか。はっ!コメディにでも出演してる気分だよ」
軽口を叩く男には一瞥をくれてやり、わたしは男の全身から武器になりそうなものを剥ぎ取っていく。小型のナイフと、自動拳銃。予備の弾薬に、用途の解らない薬剤が幾つか。さながら気分は海賊だ。
「こんな場所で追剥なんてやってて生活できるのかよ?無理だろ?俺が養ってやろうか。お嬢ちゃん、なかなかいい身体して……――」
空気が震えた。
男が弾かれたように口元を引き結び、銃口からは白い硝煙が昇る。大海原に向かって放たれた散弾が、海面を殴りつけて飛沫を上げた。
「いいですか?わたしは撃てます。この銃は飾りでもなければ、玩具でもない。こんな辺鄙な場所でわたしが生きていられる訳を考えることですね」
素早く弾を込め直し、わたしはもう一度銃口を突きつけた。
「ふう、オーケイ、悪かった。身体検査は気が済むまでやってくれ」
「……もう終わりましたよ。エイちゃん、他に不審なところは無さそうですか」
「異常は見受けられません」
「了解です」
剥ぎ取った装備類は鍵の付いた箱に詰め込んでおいた。
安全とは言い難いが、ひとまずの安全策は講じた。油断せず、次のプランに移る。
「えっと、ガリエルさん、でしたか。所属と、事情を説明してもらいましょうか」
とどのつまり、尋問だ。
「……無線で話した通りだよ。そこの引きこもり野郎とな」
「引きこもり野郎」、それはエイちゃんのことなのだろう。人工知能だと気が付いていないのなら、わざわざ説明してやることもない。
それにしても「引きこもり野郎」とは、なかなか的を射たあだ名ですね。
「エイちゃん」
打てば響く。鈴のように。
「彼の名はガリエルです。『NOAH-049』所属の護衛隊員で、レイブン小隊第三位階の戦闘員です」
戦闘員。ゴリゴリの武闘派という訳だ。
「この近辺を飛行していた理由に関しては、黙秘を貫きました。任務遂行上の秘匿義務があると推測されます」
「何か後ろめたいことでも?」
「さあな。それだけ分かってるなら、もうほっといてくれ」
「では海に放り出しましょう。エイちゃん、ドラム缶を用意してください。セメントかコンクリートも」
「好きにしろ」
おや、命乞いの一つでもするかと思ったのですが、予想外です。
「冗談です。貴重なドラム缶をあなたなんかの為には使いませんよ。そもそも、わたしはあなたの母艦と取引がしたいだけです。何もしなければ、危害は加えません」
「はあ?取引だと」
「あなたがその取引材料です。貴重な戦闘員であるあなたの返還と引き換えに、少し物資を頂きたいんです」
「むこうが交渉に応じるとは思えんがね」
「何事も挑戦ですよ」
「骨を折るだけだ。応じなかったらどうするつもりだ」
「あなたを島流しにします。ボートを用意し、水と食料も積みますよ。安心ですね」
「……こんな沖じゃ助からんだろ」
「何事も挑戦ですよ」
わたしは満面の笑みを浮かべてみせた。古い時代、笑顔は威嚇と同義であったそうな。
「さあ、安否確認の連絡を許可します。駅員室にどうぞ」
銃を突きつけたまま立ち上がらせ、わたしはガリエルと名乗る男を駅員室に通した。
エイちゃんはその奥で絶賛稼働中ですが、彼が気付くとは思いません。なにしろエイちゃんは優秀な人工知能ですから、ちょっと声を聞いただけで見抜かれるようなヘマはしません。不気味の谷を越えて、彼は他の人工知能よりも一つ高みに居るのです。
「無線機の使い方は言うまでもないですね。さあ、さっさと連絡しちゃってください」
もう長いこと埃を被っていた無線機にも、久しぶりに日の目が当たる時が来たというもの。彼を戒めていた縄を解くと、何が不満なのか嫌な顔をしながらガリエルは端末を操作し始める。周囲に危険なものは置いていない。不審な動きをすれば赤と白のマーブル模様が部屋一面に広がることになるだろう。できればそれは避けたい。
「あー……、こちらレイブン小隊第三位ガリエル。応答願う」
無線のつまみを弄っていたガリエルが、不意に呟いた。周波数が重なったのだ。
「……こちら『NOAH-049』です。もう一度、お名前を伺っても?」
繋がったようだ。イヤカムを通して、勝手に傍受した無線の音声が聞こえる。ガリエルが僅かに肩の力を抜いたように思えた。
「レイブン小隊第三位ガリエル、だ。遠洋哨戒任務の際、無線とジェネレータの不具合により海面に不時着した」
ちらりとこちらを見て、ガリエルは苦い表情を浮かべて続けた。
「付近の都市残骸に居住する者に保護され、今に至る。迎えを寄越してくれ」
返る返事は、しかし無言だった。
「……んん?」
わたしは小さく唸った。何か、雲行きがおかしい。
「『NOAH-049』聞こえるか、こちらレイブン小隊ガリエルだ。応答してくれ」
そう、ガリエルが繰り返した。
「ガリエル……?そのような隊員は本艦には登録されていません」
「…………は?」
裏返った声が、漏れる。ガリエルのものだ。
「ま、待ってくれ、俺は確かに今朝、そう、午前七時のブリーフィングでこの任務を預かった!何かの間違いだろ?」
「繰り返しますが、ガリエル、というような者は戦闘員としてはおろか、非戦闘員としても登録されていません。また、過去にそのような者がいた記録もありません」
ガリエルは言葉を失っていた。
「……嘘だろ」
短い沈黙の後に捻り出したそんな言葉も、どこか頼りない子供のような声だった。
「申し訳ありませんが、本艦は新しい乗員の受け入れは行っておりません。どうか、貴方に寄る辺の在らんことを」
無線は一方的に打ち切られてしまった。ガリエルはその後も何度か無線を繋ごうとしていたが、同じ周波数では、もう二度と繋がることはなかった。
手を尽くし、為す術も無く椅子の上でへたり込む男の背中は、とても小さく見えた。やがて彼は力なく立ち上がると、促されるまでもなく部屋を出て行った。銃口はもはや彼を捉えてはいない。ホームの端に腰掛けたガリエルは何も言わずに水平線を眺めていた。
「……口減らし、ですか」
「高価な戦闘員を維持する余裕がないのであれば、妥当な判断かも知れません。戦闘員の訓練には膨大な資材が必要になりますから。しかし、母艦を守る力を自ら手放すとは、愚かという他ありません。もしくは、それほどに困窮した状況なのか、でしょう」
「受け入れを行っていない、と言っていました。後者の可能性が高いのでしょうね」
ガリエルを襲う虚無感が、いったいどれほどのものなのか。もとよりエイちゃんと二人きりのわたしには測り知ることもできない。
身を粉にして尽くしてきた相手から、何の前触れも無く切り離されてしまうということ。産まれたばかりで足元のおぼつかない赤子のような、そんな不安感なのだろうか。
「しばらく、そっとしておきましょう」
大抵の悩みは時間が解決してくれるものだ。
「不審なことがあれば報告します。イヤカムを忘れずに」
「うん、了解」
わたしは銃を壁に立て掛け、備品庫に向かった。
「ああ、くそ。どうして……」
自問の声が聞こえる。その答えを知る者はここには居ないというのに、彼はその言葉だけを繰り返していた。
「腹が減っては戦はできぬ。まずは食事を摂りませんか?」
少しだけ茶目っ気を出して言ってみたものの、振り向いたガリエルの表情はあまりよろしくない。
「……珍しいものを持っているな」
「フレンチトーストです。よろしければ」
わたしは皿とカップを彼の傍に置いた。床に直接、というのはあまり行儀が良くないが、まあ仕方ない。
「いつぶりだろうな。こんな贅沢は」
言うなり、ガリエルはフレンチトーストを手づかみで食べ始めた。
「ふふ、豪快ですね」
「ほっとけ」
こちらをじろりと睨み付け、すぐにまた食べ始める。
わざわざ作った甲斐がありました。
「誰かに料理を作るというのは、存外悪くないですね」
むせかけて、口の中の物を危うく呑み込んだガリエルは、おそるおそると言った様子でわたしに訊ねる。
「……は?お嬢ちゃん、あんた一人なのか?」
「ええ、そうですよ」
「だが、もう一人の声が」
「エイちゃんは人工知能です。わたしのとても大切な存在ですよ」
「人工知能だと?……はあ、あんた、変わり者だよ」
「わたしからすれば、あなたも十分、変な人です」
失礼なことを言う人には、そのままの言葉を返してやるのが礼儀というもの。しかし、彼はそれに気を悪くするということもなく、ただ笑って見せた。
「はっは!違いねえやなあ」
そしてカップの中身を一気に呷った。
「ん?コーヒーか。美味いな」
「WA社の即席品ではありませんよ。物好きの作った貴重な挽き立てコーヒーです」
驚いた顔でガリエルはわたしを見る。
「ここでコーヒーを生産してるのか!」
「まさか!気候が合いません。他の場所で暮らしているご老人から譲り受けたものです。もともとコーヒー農家だったそうですよ。今でも元気にしているといいんですが」
連絡手段は無い。もともと偏屈な老人だったとかで、連絡手段を持っていないのだ。
「今やタバコやコーヒーなんかの嗜好品は高級品だ。うちでもよく取り合いになってる。あれは、ちょっとした戦争だったぜ」
ふと思い出したように、皺の消えかけていた表情に影が差す。きっと思い出したのだ。
「……なんで追い出されちまったんだろうな」
「口減らしとはいえ、あまりにもあんまりです」
わたしは同情を示す。
「いやな、思い当る節はあるんだ」
「……聞いても?」
「どうせもう、あの艦には戻れやしない。となれば守秘義務なんてものは飾りみてえなもんだぜ」
自嘲し、やがて口を開く。
「あの艦にはな――他の艦がどうかは知らねえが――技術開発部の為の区画がある。食糧、兵器、医療を問わず、多くの分野の技術者がそこに集まってる。その中でも地図にない区画、そこで見たんだよ。肉で出来た樹木のような……。一言で表すなら、そう、あれは『生命の成る樹』だった」
「旧約聖書にある生命の樹のことですか?」
「なんだそれは。そんなものは知らん。だが、アレには間違いなく生きた何かが実っていた。意図的に生き物を産み出せる物体なのか、それとも、あれ自体が生物なのか。俺にはまるで見当がつかんがな」
「それを見たあなたは、どうして無事だったんです?」
「無事なもんかよ。散々シバかれた挙句、喋れば殺すとまで脅された」
そう言ってガリエルはおもむろに左目に指をあてがうと、そのまま眼球を抉り出した。
「ひっ……!」
「はは、可愛い悲鳴じゃねえか。まあよく見てみろ、ただの義眼だ」
ガリエルが差し出して見せたそれは、どこから見ても人の眼球にしか見えない代物だった。ただ一つ、眼球の裏側にある識別番号だけが偽物らしさを示していた。
「左目をやられた。バレちゃまずいから、とゴムボールを捻じ込まれたわけだよ」
手持無沙汰と言わんばかりに掌で弄ばれる義眼。粗雑に扱われる様子を見れば、なんだか玩具のようにも見えてくるから不思議だ。
「そして、やっぱり信用ならないから消された」
「そうかも、って話だ。全く世の中ってのは理不尽なもんだぜ」
ガリエルは贋作の眼球を元あった空洞に捻じ込み、半分諦めた表情で笑った。
「どうして、覗いたんですか?」
それは訊かない方が良かったのかもしれない。しかしわたしも人の子なれば、溢れる好奇心がこの身を焼くこともあるというもの。
そして男は、さしたる躊躇も見せずに答えてくれた。
「隠されたものは見てみたくなるもんだろ。好奇心は猫を殺す。俺は今のところ、生きてるがな」
私と彼は、似た者同士なのかもしれない。
「……昼飯、ありがとな」
「えっ」
「礼ぐらい言うぜ、俺だって」
「案外、いい人なんですね」
「これで騙されてちゃ、この先、生きていけねえぞ?はっはっは!」
最初の悪い印象が完全に払拭されたわけではないにしろ、彼が思うほどの悪人ではない、そんな気がする。
しかし、そんな彼とこの先もずっと一緒に居るわけにもいかない。彼をどうするか、決めなくてはならない。
「小難しい顔をしてるな。悩みの種は、俺の処遇だろ?」
軍人だから、という訳でもないのだろうが、的を射た発言に思わず息を呑んだ。
「……親切ついでに悪いんだが、ボートを用意してくれるか?水と食料もだ。少しでいい。明日には出て行くさ」
歯を剥いて、にっと笑う。愛嬌はまるでないが、それがわたしを心配させないためのものであろうことは想像に難くはなかった。
「行く当ては」
「そんなものは幾らでもある。心配すんな」
そんなわけがない。もし本当に行き場があるのなら、あんな風に項垂れたりはしない。
「でも……」
「ほら、俺は昼寝するから、早く向こうに行け。出なけりゃ襲っちまうぞ」
「その時は、あなたの頭のほうが先に吹き飛びますから」
「はっ、そりゃ怖いね」
ガリエルは軽口でわたしの反論を流し、とうとうホームの硬いコンクリートの上で横になってしまった。
これ以上何を言っても聞く耳を持たないだろう。わたしは食器を拾い上げ、駅員室に戻ることにした。
そのときだった。
「ウミ、話があります」
沈黙を保っていたエイちゃんが、わたしに耳打ちした。
「先ほど交信した『NOAH-049』から、暗号通信での呼びかけがありました。当駅の責任者、つまりウミを指名しています」
「……了解」
このタイミングだ。何かある。
わたしは両の頬をぱちんと叩き、気合を入れた。
「エイちゃん、繋いでください」
左耳のイヤカムを外して無線の受話器を取り、エイちゃんに通信回線を開いてもらう。
「こちら責任者のウミです。要件をどうぞ」
「こちら『NOAH-049』です」
女の声が応える。僅かに走るノイズ。右のイヤカムからエイちゃんが耳打ちする。
「傍受の可能性があります」
わたしは無言で頷く。彼女一人でなく、複数人がこの通信を聞いている。
「オペレーターさん、お名前を伺っても?」
「本艦の規則により、個人名の開示はできません。ご了承ください」
それはまた、徹底した個人情報管理だことで。
「では、要件を」
話は早いほうが良い。ガリエルについて引き出せる情報は少なくなるが、それだけだ。
「報酬は弾みます。先ほどのガリエルという男を、殺してください」
空気が冷えていく。
「……はあ、彼はあなた方とは関係が無いのでしょう?どうして殺す必要が?」
カマをかけてみるが、相手は動揺する素振りも見せずに淡々と答える。
「はい。本艦の乗員に登録はされておらず、またそのような過去の記録も確認できません」
一拍を置いて、女の声はその先の言葉を紡ぐ。
「しかし本艦乗員を装った悪質な詐称から、本艦に対し敵対的な人物であるということが、本艦乗員に共通する認識となりました。それにより本艦の規則による乗員投票から、敵性存在の速やかな排除が決定しました。従いましては、ウミ様にはご協力をお願いしたくご連絡を差し上げました」
人を殺せ。それは人に頼めることなのか。
きっと彼女らの生命倫理は、ずっと昔に破綻しているのだろう。言葉には迷いがなく、感情の欠片も感じられない。機械のようでいて、しかしそうではない、肉の声の抑揚、とでも言うべき音調が確かに含まれている。エイちゃんの声紋分析でも、それは疑いようのないことだった。
「仮に断ったとして、どうするんです?」
挑発的な問いだということは分かっていた。
「場合によっては、本艦の部隊が動くことになるでしょう。ウミ様に危害が及ぶことは、まずありません……――邪魔立てをしなければ」
脅迫めいている。いや、事実、それは脅迫だ。わざとらしい曖昧な表現は、ガリエルを逃がすなどの幇助を行ったとしても、わたしが邪魔立てをしたとみなされる可能性があるということ。
「そうですか。では勝手にしてください。わたしは協力しませんし、彼を手助けしたりはしませんから。さようなら!」
一方的に回線を閉じ、受話器を叩きつけた。
「何様なんでしょうね、コロニー艦というのは」
「人としての倫理に欠ける組織でした。人の未来は斯様な組織に委託されてはなりません」
憂いを帯びたエイちゃんの声にわたしは大きく頷いた。
「……最短での到着予想時間を」
「電波の逆探知による測位では、およそ六時間後、二一時頃となります」
「ボートを準備します。電波感度は最大で維持。変わりがあればすぐに報告を」
わたしは慌ただしく指示を出す。時間は無い。少しでも、逃げるための時間を確保してやらなければ。
「ウミ。危険です」
準備を始めたわたしに、エイちゃんが口を挟んだ。
「でも、他人の都合で殺しに加担するわけにはいかないでしょう!」
抑えたつもりだったが、どうしても声は荒くなってしまう。腹が立ち、イヤカムを外して机に放った。
「準備に二時間。逃走に四時間。どうにかして時間と距離を稼がないと」
「幇助が露見すれば、ウミの身に何があるかわかりません」
今度はスピーカーからエイちゃんの声が響いた。
「じゃあどうすればいいの!」
叫んでいた。
苛立ちが募る。エイちゃんはわたしの身を案じているだけだ。わたしの発現の尻拭いをしてくれているだけだ。
理屈では十二分に分かっていても、わたしには譲れないものがあった。
「抗いたいんです。理不尽に死ぬなんて、そんなのは馬鹿らしすぎます」
「俺もだ」
駅員室の扉を開けて、ガリエルが中に入ってきた。
「エイちゃん、どうして報告しなかったんです?」
反射的に、壁に立て掛けた散弾銃に手が伸びる。ガリエルが慌てて両手を頭の後ろで組んだ。
「ま、待て待て!俺だって命は惜しい!」
「ウミ、先ほどの無線は全て駅ホームへ中継放送しました。話は既に通っています」
「……え?」
通信に夢中になっていたせいで、そんなことになっていたとは露知らず。呆気に取られて銃口がだらりと下を向く。
「彼自身の逃走です。彼自身も一緒に準備をするべきでしょう。わたしたちは脅された、と報告すればいいのですから」
「そういうこった」
ガリエルは歯を剥いて笑う。どうしてこの状況で笑えるのか、わたしには理解ができない。
でも、それなら話は早い。
「ボートの装備と食料を用意します。エイちゃんはガリエルさんをサポートして食料の準備を。これ、イヤカムです」
机の上のイヤカムを片方、ガリエルに投げ渡す。もう片方は、もう一度自分の耳に押し込んだ。
「一時間以内に、終わらせましょうか」
「了解しました」
「おう」
見知ったばかりの男を救うための戦いが始まった。
ゴムボート用の原動機付スクリュー。
応急修理キットと予備燃料。
集めてみたはいいものの、果たしてこれだけで彼は逃げおおせることができるのか。はっきり言って、わたしには微妙なところだった。
まず、原動機の出力が足りない。燃料の質が低いからだ。このままではまともなスピードは出ないし、戦闘機を持ち出されれば最後、彼は海の藻屑と成り果てるだろう。
しかし、これ以外に彼が逃げられる装備は持ち合わせていない。リクの船があれば話は別だが、次にあいつが来る日までにはまだ数日ある。
「ひとまずは、これだけ持っていきましょうか」
何もしないわけにもいかない。わたしは原動機を背負って立ち上がる。いつかのバッテリーに比べても、なお重い。そこへ両手に燃料の入ったポリタンクと修理キット。わたしは配達人ではないし、ましてや兵士ですらない。当然、こんな重い荷物を日頃から運ぶことはないし、リクの配達受け取りのときだって、何度も荷と部屋とを往復する。それでも何とかなってしまうのは、肉体労働がこの世界の標準になってしまっているからだろう。船や飛行機はあっても、それを細々とした個人の領域に用いることはない。身体が資本という風潮は、きっと意味を変えながらも現在に続いているのだ。
「ああ、もう……重いっ!」
誰のことも憚らず、わたしは悪態を吐く。
エイちゃんが聞けば口を酸っぱくしてお説教するかも知れないけど、知ったことか。
「お、戻ったな」
苦労して狭い改札を抜けると、ガリエルがホームで待っていた。
「まったく、いい御身分ですね……。わたしがこんなに重い物を運んでいるのに」
「まあ、そう言うな。俺もこれから身体を張るからよ」
そう宣うガリエルは、細い円筒を握っていた。
「それは?」
「緊急用の酸素シリンダーだ。水中潜行用のボンベみたいなもんだな。『ANGEL』パイロットの標準装備だ」
どこにそんなものを仕舞っていたのかは、聞かない方がいい気がした。
「それで何を?」
「『AG159』の特殊燃料を拝借します」
答えたのはエイちゃん。
「まさか、潜って取りに行くんですか?もう沈んでしまったのに。どこにあるかも――」
「確かに沈んだろうな。だが、『首輪』は着けてるんだろ?」
わたしは黙ってホームのカメラを睨んだ。
「エイちゃん……!」
「生存の為に、必要なことでした。ウミ、申し訳ありません」
「はあ……次は相談してくださいね」
そう、実のところ、後で機体から有用な資源を頂戴するために、ガイドとなるロープを括っておいたのだ。漁に使う網を解して縄にしたものだが、なかなかの強度を誇っている。その一端をホームの最奥に立っている柱に結わえてあるが、まだまだ残りには余裕があるようだ。そう深くはない、そしてそう離れていない場所にある。
「ボートを出しましょう。時間が足りません、原動機も付けます」
「現在一五時四六分です」
エイちゃんが補足した。
「燃料回収はどうやって?」
「金属製のカートリッジになってる筈だ。そのまま引き抜けばいいぜ。軽いしな」
液体ではないのか、とちょっとびっくり。リクの船でも未だに化石燃料や混合燃料が使われているのに。
「先端技術さまさまですねぇ」
「俺は興味ないがな。生き残れるならそれでいいさ」
ガリエルは慣れた手つきでボートに原動機を載せる。燃料を注げば、後は内燃機関を動かすだけ。
「さ、行くか」
どるん、と景気の良い音を立てて原動機が動き出す。
「ウミ」
「はい、何ですか」
出航直前、エイちゃんが呼びかけた。
「燃料を取り出す前に『AG159』の無線機能を有効化してください。こちらで、別の手段を模索してみます」
「情報を抜き取ったり、他の部品を剥ぎ取ったり、ですか?」
「概ねその通りです。お願いします」
「だそうですよ、ガリエルさん」
「ああ、やってみよう」
スクリューが回り始める。波を切って、ボートは一気に駆け出した。掌の上で細い縄がするすると滑っていく。
「あんたはいつまであそこに居るんだ?」
ガリエルが呟いた。それがわたしへの質問だと気が付くには、少しだけ時間が必要だった。それほどに、その言葉は独り言めいていた。
「エイちゃんのいる、あの駅を離れるべきだと、あなたは言っているんですか?」
「その通りだ」
声を低めて言ってみても、ガリエルが怯む様子は無かった。
「この御時世だ。アンタみたいな整った顔の女は、何処へ行っても引く手は数多だろう」
「男の性の捌け口になるのは御免ですよ」
「何もそんなことを言ってるんじゃねえよ。力仕事ばかりの男たちにとって、アンタみたいな女性の存在、ってのは一種のモチベーションになるんだ。頼りになるところを見せつけたい、俺を見てくれ、って具合にな」
「セックスアピールですか?男って単純なんですね」
「そういうもんだぜ。オトコの脳味噌は股間にぶら下がってるんだよ」
「サイテーです」
げらげらとガリエルが笑う。この緊迫した状況で冗談を言い、その上で大笑いできるだけの胆力があるというのは、彼が多くの死線を潜り抜けてきたことの証明なのかもしれない。もしくは、彼がガサツで粗雑なだけなのか、だ。
「ウミ、目標地点に近づいています。用意を」
「了解ですよ」
水平線に目を向ければ、小さな赤いブイが漂っているのが見えた。
わたしは原動機を操作し、停止準備を始める。ガリエルのほうも装備を確認し、潜水ゴーグルと酸素シリンダーを装着する。そうやって準備を進めるうちに、やがてゆっくりとボートは止まり、波間に揺れる籠となる。
「それでは、無線機能の確認をお願いしますね」
「おう、任せろ」
イヤカムを外して、ガリエルは気負いも躊躇もなく海に飛び込んだ。小さな泡だけを残して、男の影は薄らいでいく。
「このまま逃げて行ってしまったりしませんか?」
「泳ぎのみでの逃亡は絶望的です。彼自身もそれを理解して協力している筈です」
「それはそうですが……」
彼をどこまで信用してよいのか。わたしは未だ測り兼ねている。
「通信回線が開きました。『AG159』です。これよりデータ解析を行います」
考える間もなく、頼んでおいた無線機能が回復した。水没してなお機能が生きている機械というのは、それだけ頑丈に造られているということなのだろう。すごい。
間もなく水面に影が浮かび上がる。ガリエルだ。
「どうだ、通信は回復したかよ?」
「ええ、どうやら」
「そりゃよかった。燃料はまだいいか?」
「はい、少しだけ時間をください」
エイちゃんに掛かれば大抵の解析はすぐに終わってしまうだろう。セキュリティなどの問題を加味しても、それは大して変わらない。
「ホントに大丈夫なのか?」
「エイちゃんを舐めないことですね」
わたしは口を歪めて笑ってやった。
「解析完了しました。ジェネレータ制御機構に不審なバグが確認されました」
「えっ」
まだ一分も経っていない。流石に早すぎる。
「バグ?」
ガリエルは何の話か分からない様子でこちらを見つめている。彼が着けていたインカムはわたしが持っているからだ。彼への説明は後。
「説明を」
「ジェネレータ制御を行うプログラムに、後から意図的に出力を下げるようなプログラムが挿し込まれていました。WA社に特有のプログラムではないように見受けられます。セキュリティも既に破られていました」
ああ、それでこんなに早いんですね。
「それじゃあ」
「意図的に、仕組まれた事故です」
「はあ、サイコな連中ですねえ」
「おい、俺も混ぜてくれよ」
わたしは簡単に説明してやった。
お前はやはり切り捨てられたのだ、と。
言うべきだと思った。彼はもう、どうあってもあの場所に戻るべきではない。
「はっ、そういうことかよ。すっきりしたぜ」
ガリエルはそれでも笑っていた。ホームで項垂れていた時よりもずっと、晴れ晴れとしている様子だった。活き活きしていると言っても過言ではない。憑き物が落ちたようだ、と表現することもできる。実際に、彼の中では何かが吹っ切れたのだと思う。
彼はだからこそ、笑っていた。
「さて、次の指示をくれるか?」
声色だけは真剣に、彼はわたしに訊ねた。そしてわたしはエイちゃんに。
「エイちゃん、燃料を抜いてしまって構いませんか?」
「いえ、そのままで」
その真意をわざわざ察してやる時間は無かった。
「な、何だ?」
空を裂くのは甲高い風切り音。昼頃に聞いた音に類似したその正体を、わたしは知っている。見上げる先には黒い三つの影。その全てが人に近しい姿を呈していた。
確証。
「『ANGEL』です、エイちゃん!」
叫ぶ間もなく、エイちゃんは冷徹に無線を返した。
「敵性飛行体の識別信号を確認、迎撃します。ボートへの退避を」
「迎撃?どうやって!」
ボート付近の海面が大きく泡立つ。
慌ててボートに這いあがったガリエルを追うように、巨影が浮かび上がった。
「おいおいおい!マジかよ?」
「不正なプログラムコードを修正。セキュリティを再構築。ジェネレータ出力上昇を確認。パラメータ、全て正常値。火器管制システム、オールグリーン。戦闘態勢へ移行します」
大きな波を立てて海面に浮かび上がった機械天使は、背中の噴進機構を働かせ、一直線に空へ舞い上がった。およそ人では耐えられない負荷が、遠間からでも聞こえる軋みを響かせる。
「ウミ、駅まで退避を」
エイちゃんが理由を話す時間も惜しいとばかりに短く告げた。言われるがまま、わたしはボートを動かし、一目散にホームを目指した。その目はしかし、上空の影に向けていた。
機先を制する急襲に怯んだ敵機が、エイちゃんの機体から放たれた砲弾の元に一撃粉砕される。バラバラの機体は燃え上がって雲間に消える。残された二機は瞬時に離散し、エイちゃんを挟み込む形で展開した。
エイちゃんの噴進機構が何よりも赤い光を吐いた。
それはまるで、真昼の流星だった。
赤い粉と光の尾を引きながら二機の包囲陣と、その砲火から一瞬で離脱。射程外から再びの急速接近。一機とのすれ違いざまに、腕に備えた杭打機で胴体を両断する。けたたましい金属音と爆発音、そして衝撃波がわたしたちの全身を震わせた。燃え上がる機体は海へと没し、黒煙を噴き上げて消えていく。
「はは、バケモンじゃねえか……」
表情を歪めるガリエルは果たして、笑っているのか、怯えているのか、わたしには判断がつきかねた。そんな微妙な表情をさせる程には、エイちゃんの戦闘能力は群を抜いていた。
「油断しないで、エイちゃん」
エイちゃん自身が、あの機体に搭乗している訳ではない。それでも、わたしの口を突いて出た言葉はそれだった。
残された一機が、一瞬、戸惑ったように空中で静止した。
「……え?」
「おい、マズいぞ、アイツやる気だ!」
ガリエルが叫んだ。
その瞬間、敵機体が噴進機構から赤黒い光を放った。
――超過負荷運動。エイちゃんの使っているものと同じ機能を、相手が起動したのだ。
もう一つの流星が、エイちゃんを掠めて駆け抜けた。先ほどまでに見せたことのない高速機動が、エイちゃんと等しい赤の軌跡を描く。揉み合うように上空へと昇り、あるいは急降下をして乱機動を繰り返す様は、まるで一種の芸術のようだった。
空を引き裂く高音が響き、虫の羽音のように不快に共鳴し合う。弾幕がお互いの機体を削り、火花を散らす。
しかし、あれでは……――。
「馬鹿め」
駅のホームで勝利を確信したガリエルが毒づいた。
人の身に余る加速度に耐えられず体勢を崩した敵機が、そのまま錐揉み回転しながら海面に向かう。エイちゃんは油断なくそれを追い、砲撃によって撃破せしめた。
「不時着、します、注意を」
そしてエイちゃんの駆る機体も、役目を終えたと言わんばかりに駅のホームからは目と鼻の先にある海面に着水した。
一時の危機は脱した。しかし、第二陣がやってくる可能性もあるだろう。
「申し訳、ありません、燃料カートリッジの、回収を」
エイちゃんがホームのスピーカーから言った。不自然に途切れる、ノイズ混じりの声だった。
「ガリエルさん、燃料をお願いします」
「わかった、ここからなら泳いで行ける」
言うが早いか、ガリエルは海に飛び込んで泳ぎ出した。
わたしのほうはといえば、脇目も振らず駅員室に向かって駆け出していた。
駅員室の扉を勢いよく開け放つ。
直後に漏れ出す熱気は、人間のような生物にとって快適とは言い難いものだった。
古い室温計が指し示すのは摂氏四五度。これが計測可能範囲の最大値であることを鑑みれば、状況はそれ以上に深刻だった。
「エイちゃん!」
一目散に駅員室の奥に駆け込む。夥しい量の汗が全身を流れていく。
熱気の源は、エイちゃんの身体だった。近づくだけで喉が焼けるようだ。
「ああ、やっぱり……無茶、したんですね」
表面の耐熱樹脂部品が熱でわずかに変形している。表面を撫でれば、汗ばむ手の水分が沸騰し肌を焼く。頭脳部分に当たる基盤や部品も、下手をすると損傷しているかもしれない。そもそも、放熱が間に合わないほどの高速多重演算が、個人レベルの設備で可能であるとは思えない。今までにない処理速度を実現するために、エイちゃんは自分自身にも過負荷を強いたのだ。
「今、冷却器を」
緊急用の冷却装置をエイちゃんに接続する。異常に熱を持った金属筐体が、また肌を焼いた。痛みが遅れてやってくるが、わたしはそれを意識の外に追い出した。
わたしの苦しみなど些事であろう、と。
「ウミ、駄目です。火傷の、危険が」
「うるさい」
手遅れになった忠告を吐き捨て、装置を起動する。大型のファンが熱風を吐き出し始める。駅員室の換気扇を全力稼働させ、全ての解放可能な窓を開け放った。これで少しはマシになる。
「水をかけた方が早いですね」
「真水は、貴重な資源です」
「四の五の言わない」
外部タンクから飲用水を汲み取り、エイちゃんの身体に頭から浴びせかける。じゅわ、と音を立てて熱気が舞い上がる。エイちゃんは防水仕様だから、これくらいは大丈夫な筈。そうでもなければ、潮風や波しぶきの吹き荒ぶ海上に、いつまでも居られる訳がない。
「今、何度くらいですか?」
「現在の内部温度、摂氏八五度です」
なんとか許容範囲内に温度を下げることができた。わたしは胸を撫で下ろす。
「もう!無茶はいけないなんて、あれほどわたしには言いつけるくせに!」
「しかし、あの場で敵性体を殲滅しなければ、全ての準備は水の泡でした。この駅でさえも、無事では済まなかったでしょう」
「それはそうですけど……」
この駅の防衛戦力は散弾銃一丁と一部の化学薬品のみ。精鋭の機械化軍を相手に、それで何が守れるというのか。あの時点で利用できる最大の戦力、『ANGEL』を用いない手は無かった。そして、それを最大限に活かすことができたのはエイちゃんか、あれに乗ってきたガリエル本人か、だった。流石のガリエルもプログラムの修正をするような技術を持ち合わせてはいない。持ち合わせているのなら、自分で勝手に助かっていただろう。
そして、エイちゃんは少なくない犠牲を差し出した。
他ならぬ、私の所為で。
だからこそ、言わなければいけない。
「ありがとう、エイちゃん」
「いいえ、当然のことをしたまでです」
「それから、ごめんなさい」
「私の独断での行動です。責めることはできませんし、気にしてはいけません」
返答に愛想が無いのはいつものこと。エイちゃんの思考は、既に先のことへと向けられていた。
「燃料カートリッジの確保ができ次第、組み込みを行わなくてはいけません」
「所要予想時間は?」
「一時間程です」
「急ぎましょう」
ホームで、ガリエルがわたしを呼んでいる。エイちゃんの身体をそっと撫で、わたしは駅員室を後にした。
「そら、持って来たぜ」
肩で息をするガリエルが片手にぶら下げているのは、金属の円筒だった。虹色の光沢を見せる円筒は熱を持っているようで、表面を濡らす海水を瞬く間に蒸発させて、薄く塩の結晶を生じさせていた。
「しかし、どうするんだ?コイツは『ANGEL』の燃料だろ。しかも、さっきの戦闘で大なり小なり消耗してる筈だぜ」
ガリエルの疑問に答えて、エイちゃんが言った。
「『ANGEL』のジェネレータユニットに使用される燃料は特殊な金属燃料です。化石燃料を始めとする、旧来の燃料とは性質、効率ともに大きく異なり、その内容物はWA社により、硬く秘匿されています」
「金属燃料?おい、コイツはまさか」
「おそらく、放射性物質を含む金属物質です」
ガリエルが、取り落としそうになったカートリッジを慌てて持ち直す。
「そのカートリッジ自体が内容物の簡易的な制御装置を兼ねており、常に低出力の電気、または熱エネルギーを発生させる仕組みになっています」
「俺は、水中でも感電しなかったぞ」
「機体との非接続時には熱のみを発生するように制御されているからでしょう」
金属製とはいえ、あまり重そうには見えない燃料カートリッジに、そんな能力があったとは。これも生き残りたい人類の努力の賜物だろう。
「しかし、そのままでは出力過剰な暖房器具にしかなりません。必要な大きさのエネルギーを取り出すなら、制御装置に細工をすればいいのです」
「細工?」
「制御装置を欺くのです」
当然のことのように、エイちゃんは言い切った。
用意した物は、ごく簡単なものだった。
そのあたりに転がっているガラクタから頂戴した、エナメル被膜の太い銅線。
ブリキの空き缶。
劣化したプラスチックの破片。
はんだ。
アセチレンバーナー。
その他に、無数のガラクタたち。
一時間と三十分を要し、急拵えの高出力スクリューが完成した。空は既に赤く染まっている。
「どうしてあんなガラクタで、こんなものが……」
「『ANGEL』のカートリッジ接続部は銅や亜鉛などの金属で構成されています。これは燃料に含まれる物質の放射線漏出を抑えるための遮蔽材と、放熱の効率化を兼ねるためです。近い組成でカートリッジを包み込むことで、疑似的に接続部の環境を再現しました」
エイちゃんが淡々と説明する。もう少し自慢げに話しても罰は当たるまいに。
「ただし、放射線の遮蔽効果に関しては期待できるものではありません。くれぐれも留意してください。耐用期間は二日ほどです」
「それ以上使えば被曝も免れない、と」
「その通りです」
「恐ろしい話だぜ、おい。とりあえずは、どうにかなるが」
ガリエルが肩を震わせる。
「ま、ともあれ、これでお前らとはおさらばだ、ってことか」
「清々しましたか?」
「ああ、全くもって仰る通りだよ」
男は挑発的な視線を以て、わたしを睨み付けた。
「積み込んだ食事にカビが生えていても、文句は受け付けませんよ?」
「WAにクレームを入れればいいか?」
「あの企業がまともな保証をするとは考えられません。非推奨です」
エイちゃんが横やりを入れた。
「はっ、言うじゃねえかよ、機械風情が」
わたしが眉間に皺を作ると、ガリエルは訂正する。
「感謝はしてる。馬鹿にしてるつもりもねえよ」
荒い言葉は友好の証、とでも言いたいのか。わたしはそれを黙殺した。
「ありがとな、これは礼だ」
ガリエルがわたしに何かを手渡した。ほんのりと温かいそれは、小さな長方形の記憶素子だった。
「こんなもの、いったいどこに隠し持っていたんです?」
「ケツの穴だ」
わたしは絶句し、記憶素子を取り落とした。
「はっはっは!冗談だよ、冗談。力んだだけで出ちまうだろうが」
「糞野郎」
散弾銃の銃口を向けて脅して見せても、怯える様子は見せなかった。
「口が悪いぞ、お嬢ちゃん?」
完全に向こうのペースに乗せられている。
「さっさと出て行ってください、馬鹿!」
「言われなくても出て行くぜ。じゃあな、ほんとにありがとよ!」
問題なく動作した急造スクリューで、ガリエルはあっという間に水平線の向こう、夕闇の中に消えていった。嵐のように現れた揉め事の種は芽吹き、たくさんの問題を残して去って行った。彼は最後まで変な奴だった。
「じつのところ、あの男、ガリエルの生存に関しては優先順位を設けていませんでした」
嵐の余韻も、過ぎた後なら趣深いもの。なんとなく水平線を眺めていると、エイちゃんがとんでもないことを言い始めた。
「死んでも構わない、と?」
「その通りです。しかし、それをウミは望まない。だから、貴方の意思を最優先事項として、彼を救う、という決定に至りました」
「そう、ですか」
良くも悪くも、やはり今回のことはわたしにも責任があるだろう。
エイちゃんの被った損害。
冷徹を貫けなかった甘さ。
その結果の物資の浪費。
数少ない犠牲を、わたしたちは払ったはずだ。
「被害報告を」
「記憶媒体の損傷によるデータの破損、集積回路の焼けつきによる演算能力の低下、無線装置の規格外使用による送受信設備被害、オーバークロックによる予定外の電力消費、ウミ換算における四日分の食糧、小型ボート一隻、原動機付きスクリュープロペラ、その他の雑多な資源ごみ類です」
「ありがとう、エイちゃん」
得たものと言えば、ガリエルが置いていった自動拳銃とナイフ、謎の薬品、そして正体不明の記憶素子、それからわたしの疲労くらいのものだった。
その夜、赤黒い血の色に染まる空を三条の光が駆け抜けて行った。明かりを落として、わたしたちは、この二つ目の嵐が過ぎ去るのを待った。その間に、エイちゃんは例の記憶素子の解析を行ってくれた。
その結果は、驚くべきものだった。
まず、ガリエルが残したメッセージだ。
『あー、簡易的なテキストでの説明だが、許して欲しい。まずはじめにだが、実は俺は『NOAH-049』の乗員じゃない。連中が秘匿している技術についての情報収集と、その奪取が、俺に与えられた任務だった。俺はWA勤務なんだ……秘密だぜ?まあ、そういうわけで潜入したんだが、映画やゲームのように上手くはいかないんだな、これが。俺が蛇だったなら……――いや、それはいい。とにかく失敗したんだ、脱出に。だから俺は連中の機械天使を強奪し、空の道で逃げた。だが、どうやら動作点検中の機体だったらしくてな、安全措置として、ジェネレータの出力制限が掛かってたんだ。そしてアンタたちに拾われた、ってわけ。情報は、助けてくれたアンタたちに譲るぜ。俺は上司から大目玉だろうが、何も覚えてないわけじゃないから問題は無い。それに、エイチャンとウミなら上手く使えるだろ?技術を、じゃないぜ。情報を、だ。迷惑料ぐらいにはなると思うんだが。じゃ、俺の為にありがとな。『二人』とも、元気でな。PS.フレンチトースト、ほんとに美味かったぜ。機会があれば、また食わせてくれ(笑)』
「誰が作るもんですか」
わたしは、最初からあの男に騙されていた訳だ。自分がスパイだとバレてしまえば問答無用で売り飛ばされてしまうから。
「エイちゃん、もしかして気付いていたんじゃないですか?」
「その通りです」
「はあ、まったく……」
もはや怒りすら湧いてこない。もういいや。
そして、この腹立たしい告白に続く別のファイル群。そこには、幾つかの資料が含まれ、中にはガリエルの話していた『生命の成る樹』についての情報も並んでいた。
構造。理論。製法。用法。制限。生成物の検査結果。耐用年数。その他、諸々。
おそらく、世界にはまだ出回っていない情報だった。
「これがあれば、食料に困窮するコロニーの状況を改善できるでしょう。未だ試作段階である生体部品の製造も容易になり、医療、特に義肢の技術も大幅に向上するかと。しかし、倫理的に多くの問題を抱えています」
――その『樹』の製造と運用には、『人間』を使用する。
正しくはヒトの受精卵や胚だが、それでも同じことだ。
「これを公開するかは、ウミの判断に依ります。苦しいこととは思いますが、決断を」
わたしは、人類の行く末には興味が無い。ただし、わたしとエイちゃんが生き残ることにおいては、いかなる手段も禁じ得ない。
だから、答えは一つだった。
「いいんだな?」
リクが注意深く問い質した。
もう何度目とも知らないその問いに、わたしはやはり何度目かの肯定をする。
「お願い。リクの人脈なら、他のコロニーとも交渉しやすいでしょ?」
そして何より、足がつくことはない。わたしから例の情報を拡散しようとすれば、あの艦の連中は血眼になってわたしたちを殺しに来るだろう。
「そうだな。ま、これも仕事だ」
それだけ心配しておいて、どの口が言いやがりますか。結局、コイツはお人好しなんだ。
そんな言葉を飲み込んで、記憶素子を手渡した。エイちゃんによってセキュリティを抹消したものだ。中の情報にアクセスしようとする何者をも阻むことはない。だからこそ、信用のおける人物に依頼する必要があった。それは、わたしにはリク以外に居ない。
「代金は要らないのか?重大な情報だぜ」
「雑貨の品揃えを増やしてください」
「ああ、お安い御用だ……成果が出ればな。それじゃ、いい知らせを期待しててくれ」
いつもの汽笛を響かせ、いつかの嵐のように去っていくホエール号を見送って、わたしは大きく溜息を吐いた。
「お疲れ様です」
「良かったんですよね?」
「はい、きっと」
それは断言ではない。しかし、エイちゃん自身もそうあって欲しいと願うのならば、いくらかは救われる気がした。
「さあ、朝ごはんの準備です」
新しい朝の風がひゅるりと吹き抜けた。
「そういえば、あれから一週間が経ちますけど、『NOAH-049』の連中はやって来ませんでしたね」
「何か別の問題が起こったのでしょう」
「不思議なこともあるものですねえ」
「同意します」
【亡命】
暗い色の雲が、低く垂れ込める。潮風にはいつもよりも多分に湿気が含まれていて、どこか気持ちも沈んでしまう、そんな感じがする。
「こんな天気じゃ、気分も盛り上がらないというものですね、エイちゃん?」
「低気圧による外的環境の微細な変化が、ウミ自身の健康状態に影響を与えているのでしょう。偏頭痛や一時的な体の倦怠感などが起こる可能性があります」
「そういうことじゃないんですけど……まあ、そのせいかも知れませんねぇ」
いつものように、いつも通りに、駅のホームで本を読んでいた。
室内の菜園の野菜に水をやり、日課の設備メンテナンスを済ませ、エイちゃんの健診プログラムも実行済み。やることのない日は、大抵、そうやって何事も無く時間が過ぎていく。
それをリクは『クソニート』という言葉で揶揄するが、わたしだってここでリクの運送中継地点として役立っているのだから、他に文句はない筈だ。生活物資の補給や、荷物の一時預かりをしなくてもいいと言うのなら話は別になるけれど。
それにしても、やることが無いというのは、それはそれでつらいものがある。
「エイちゃん、音楽でもかけませんか?」
「申し上げにくいのですが、先の過負荷動作により、一部の楽曲アーカイブが損傷しています。再生できるものは、あまり多くありません」
「構いませんよ。クラシックでも、ヘヴィメタルでも、エイちゃんの好みで掛けてください。電力にも少し余裕がありますし」
この先の一か月を無充電で生きていけるだけの蓄えがある筈だ。音楽を掛けたくらいで大した影響はない。
「では、ランダムで曲を再生します」
高い笛の音が響く。わたしの知らない言語で、歌が広がる。
優しく、甘くて、ちょっぴり切ない、大人の女性の低い声だった。
郷愁を覚えるのはきっと気のせい。しかし確かに思われるその憂いは、どうしてこんなにもわたしに染み入るのだろうか。
「これは平和を歌ったものです。意味だけが残され、名前やその他の情報は失われてしまいました。使用言語は『英語』です」
「かつての覇権言語ですか。今は残滓しかありませんけどね」
「盛者必衰、という言葉があります。だからこそ、盛者でさえない平和は脆く、故に貴いのです」
「どうしたんですか、エイちゃん?急に説教臭くなりましたよ」
「かつてウミの母親に当たる人物から幾度も聞かされた言葉です。――『儚くも貴い、ってのは、どうも違う気がするのよ。儚きこそ貴い、ってね。産まれたばかりの赤ん坊も、滅びかけの人類も、似たようなものよ、きっとね』と」
わたしはその場に凍り付いていた。
エイちゃんの口真似、正しくは合成音声が、どうしてわたしを動揺させたのか。
「エイちゃん、今の声って」
「ウミの母親に当たる人物の声紋を模倣したものです。音声合成システムはグレードの低いものしかありませんので、真に迫るには足りません。音声データは残っていませんが、テキストファイルとして記録が残存していました」
「やはり、そうでしたか」
歌の郷愁にあてられて、わたしは少し気を緩めていたのかもしれない。間隙を生じた胸に、ひっそりと寂しい感激が滑り込んだのだ。
「とても懐かしい感じがしたんです。ずっと幼い頃、おぼろげな記憶の影しか残っていない頃、そんな昔を思い出したんです」
思えば、物心ついてからというもの、母の影を追うことはなかったように思う。それ以上に、生きることが忙しく、こんな物思いに耽ることもなかったからだろう。
懐かしい声、仄かな熱の記憶。
覚悟が、揺らぎそうになる。
「それにしてもわたしの母は、どうにも皮肉な物言いをするんですね。『儚きこそ貴い』なんて、捻くれてます。人類は滅びかけてから突然に自分たちを大事にしたくなった、なんて言ってるようなものでしょう」
「こう解釈することもできます。滅びかけてようやく、人類は自らの貴さ、ひいては儚さに気が付いたのだと。彼女は、それが愛おしいと言っていました」
「やっぱり捻くれてますね」
「ウミもお……――」
「んー?」
「いえ、何も」
平和の歌はいつの間にか終わり、聞き慣れたクラシックが流れていた。
お昼を過ぎ、簡単な昼食を済ませた頃だった。
待ちわびていた汽笛が鳴り響く。
ためらいなく駅の残骸に分け入ってくるのは小型の船で、両舷には白と黒の縞模様が彩られていた。
「なんですか、その塗装は?」
見慣れない塗装に戸惑いながら、わたしは彼に訊ねる。
「ダズル迷彩だってよ」
「ダズル迷彩とは、一部の国軍において用いられた迷彩の一種です。対象物の隠蔽ではなく、遠近感を狂わせる目的で使用されたとされていますが、レーダー測距などには無力です」
「意味無いじゃないですか」
「知るか、親父がやったんだ。『かっこいいだろ!』なんてドヤ顔で言われたら、俺は頷くしかねえよ」
「ご愁傷様ですね」
「ご愁傷様です」
リクは盛大に溜息を吐いた。
この塗装を塗り直すのはいつになるのだろう。以前の錆が浮いた表面よりはマシかも知れないが、どうにも目に悪い感じがする。実戦ではともかくとして、肉眼ではだまし絵のような錯視をしてしまうのだ。白黒なのもよくない。
「まあすぐに塗装は落ちますよ。そんなことよりほら、さっさと荷物をお願いします」
「はいはい、っと」
リクが船から荷物を降ろし始めたのを見ながら、わたしは散弾銃をベンチに横たえた。
「エイちゃん、荷物の確認をお願いしますね」
「問題ありません」
「流石はエイちゃんです」
大きく伸びをして、わたしはリクに加勢する。どうやら荷物がいつもより多いようだ。
「リク、随分と時間が掛かってますね」
検品済みの箱をホームへ降ろしながら、わたしはリクに訊ねる。
「いや、何かおかしい。箱詰めにした筈の荷物が外に出てるんだ」
リクが怪訝そうな顔で荷物を検めている。広くはない船室に転がった荷物は小物が多く、箱詰めにした方が確かに効率はよさそうだ。
「箱詰めし忘れたんじゃないんですか?」
「荷物の準備はガキの頃からやってる仕事だぞ?舐めてんのか」
睨むようにこちらを見るリクに、わたしは一瞬たじろいだ。
「ご、ごめん……」
「ああ、いや、こっちこそすまん。とにかく、怪しい箱には触るなよ」
ばつが悪そうに視線をそらしたリクは、荷物の検品を再開した。
わたしのほうもやっぱり気まずくて、そっと船を降りるのだった。
「初めてリクが怖いと思いました」
他でもないエイちゃんに向けて、わたしは言葉を漏らす。
「彼の自尊心に関わる内容であったと推測されます」
「わかってますよ。それくらい」
リクの自尊心を傷つけたこと。それよりも、リクを恐ろしいと思ってしまったことが、わたしをどうしようもない気持ちにさせた。
長年の付き合いの中で、リクがわたしに明らかな敵意を向けたのは初めてだった。冗談のように怒って見せたことは数多くある。それとて、彼は最後には笑って流した。
今回は、違う。
彼は詫びたのだ。敵意を向けてしまったことを。
それがどうしようもなく、怖かった。
「彼には彼なりに譲れないものがあるのです。ウミがこの駅を捨てないのと同じように」
「わかってますって」
ちょっぴり意地になって、わたしはエイちゃんにそっけなく答えた。
エイちゃんは、それ以上、何も言わなかった。
――きっとわたしは、甘えているだけ。
自覚するのは自分の性格。他者に依存するしかない、弱い存在。ぬるま湯の中で安寧に浸るうちに、わたしは、他人は他人であるということを忘れていたのかもしれない。
他人は、また別の他人がどうにかすることのできるものではない。
――とにかく、きちんと謝ろう。
少しの間、駅員室で座っていた。わたしはカップ一杯の水で乾いた喉を潤すと、再びリクの元へと向かった。
そして、ソレは起こった。
「リク、戻りました」
「ああ、遅かったな。エイちゃんに来るように伝えてくれって、頼んだんだが」
「そうなんですか?」
「ウミがホームへ戻るところでしたから、報告をしませんでした」
「そうか、ゴウリテキだな」
「それより、何の用だったんですか?」
「話すけどな。……その前に」
リクが散弾銃を指差した。
「忘れてました」
「俺が暴漢だったら、お前はもう死んでいた」
「リクはそんなことしませんよね?」
「……そりゃそうだが。何か腹立つなあ」
うーん、と唸るリクを尻目に、わたしは散弾銃を拾い上げた。
「まあいい。そんなことより、あの箱を開けにゃならん。手伝ってくれ」
「怪しい箱には触るなって……」
「開けるときは一緒。責任者との約束だ」
「責任者って」
「俺だ」
「偉そうに」
「こういう時くらいしか威張れないもんでな。そら、やるぞ」
リクが二メートル四方はある木箱を、がん、と叩く。中で音が反響し、くぐもった音が鳴る。
――音が軽い。
中身が入っていない。あるいは空洞が多いということ。
「よし開けるぞ」
リクが真剣な茶色の瞳でわたしを見る。
何も言わず首肯し、散弾銃を構えて安全装置を外した。
リクがどこからともなく取り出したバール状の棒が、固く閉じられていた木箱を容易くこじ開けた。
「ああ、やっぱりだ。動くなよ」
「海の上にようこそ、密航者さん」
散弾銃を突きつけられては箱から這い出したのは、男女の二人組だった。
「じゃあ、まずは自己紹介からしようか。俺はリク、運送屋。そこの女がウミ、この廃墟駅の責任者。で、そこのアンタ、名前と出身は?」
縛り上げられて座り込む男性を指差して、リクが言った。
男が俯いていた顔を上げれば、どこかやつれた様子の表情が浮かんでいた。齢は二十代の後半くらいだろうか。全体的に細身で、いつぞやのスパイとは程遠い体格だ。リクが暴力を振るえば簡単に制圧してしまえるだろう。銃ならば言わずもがな。
男は何度か咳込んだ後、小さな声で答えた。
「タカマガハラ出身、アマノ」
タカマガハラと聞いて、リクが眉をひそめた。
「タカマガハラだと?アンタ、本気で言ってんのかい?」
剣呑な空気が満ちていく。先ほどの敵意より何倍も濃厚な、攻撃的な眼差しがアマノと名乗った男に突き刺さる。
「本気だよ。疑うのは分かるけど、それでも事実は変わらない」
声が裏返るアマノ。しかし、あくまでも真っ直ぐに向かい合って、自身の潔白を表明した。
「リク、質問は後にしてください。そこのあなた、名前は?」
わたしはリクを置いて、もう一方の女性に声を掛けた。
長い黒髪は後頭部に纏めて結わえられ、輪を作っている。儚げな雰囲気の彼女は、実際に頑強な体とはお世辞にも言えない。風が吹けば折れてしまう枯れ木のようだった。
「出身は同じ、タカマガハラ。名前はスオミだ」
女性に向けた質問には、しかしアマノが答えた。
「あなたには質問していません」
「声の無い人間に口で答えろっていうのか?なんて奴だ、君は!」
「おい言葉に気を付けろヒョロガリ!」
アマノが激昂し、応じるようにリクがその襟元を掴んで締め上げる。スオミが無音の悲鳴を上げた。
「リク、離して!」
叫ぶと、リクは大人しく黙って従った。
「……アマノさん、わたしは謝りませんよ。これでお互い様です」
「……ああ、それで構わないよ」
アマノは尻餅を突いた姿勢のまま、そっぽを向く。
「ちっ……、舐めてるぞ、こいつら。何がタカマガハラだ」
荒々しい言葉を吐くリクに、わたしは訊ねる。
「タカマガハラって何です?」
「タカマガハラとは、旧時代に日本と呼ばれた国の神話における神々の居城です。文献により存在有無について差異が見られ、諸説が語られていました。最初期の文献には存在しないとされる説が有力視されていました」
「彼らは神様を信じているのですか?まあ、人の勝手だとは思いますけど」
「そうじゃねえ。多分、元はそこに由来の名前なんだろう。だが、俺の言ってるタカマガハラは違う」
リクは溜息混じりに話し始める。
「タカマガハラは、数あるコロニーの内の一つだと言われてる。大概のコロニーと同じで内情はわからん。だがおかしいのはそこじゃねえ。噂ばかり聞くその場所は、酒池肉林の楽園だとか、何の不自由もない理想郷だとか、こまけえ中身は違っても、内容は同じだ。それなのに、誰もその場所を知らない」
「じゃあ、そんなもの存在しないんじゃ?」
「あるよ。僕たちが証人さ」
「ほらな。気味わりぃや」
「まあ、逃げ出すくらいですから、楽園ではなさそうですねぇ」
「逃げたんじゃない、亡命だよ」
「似たようなもんだろ。命が惜しくて逃げ出したんだ」
「もういい。好きに言いなよ」
苦虫を嚙み潰したような顔で、アマノが吐き捨てた。
「ほんとに逃亡者……もとい、亡命者なんですね」
「……カマをかけたつもりかい?」
「いえ別に。ただ、隠すよりは打ち明けた方が、協力を得られるかもしれませんよ?」
「僕らを問答無用で縛っておいて、何を今更」
「無銭乗船はお断りしてるんでな」
「それは……うん、それはすまなかった。お金が無くてね」
「素直ですねぇ。この先やっていけませんよ」
「お前が言うな」
リクがぼそりと呟き、わたしはその足を踏み付ける。
「肝に銘じておくよ」
「アマノさん。少しでいいですから、話してみませんか?謎に包まれたタカマガハラの内情について、わたしたち『三人』はとても、とてもとてもとても……興味があるんです。交換条件として、こちらも良きに計らいましょう。どうですか?」
今日の配達物資の中にあった固形栄養食をちらつかせ、わたしは笑顔で言った。
アマノとスオミの腹の虫が鳴いた。
「……もう戻ることはない場所だからね。規律違反だけど知るもんか。聞きたいことについて答えるよ。何でも聞いてくれ」
さほどの間もなく、アマノは陥落した。
もしかしたら、初めからそのつもりだったのかもしれないが。
わたしとリクは、縄を解かれた亡命者たる二人が固形糧食を貪るのを、半ば圧倒されながら眺めていた。与えた食事はすごい勢いで食べ尽くされていくのに、こぼれ落ちるものは殆ど無いのだ。口の位置に開けられた穴に食べ物が吸い込まれていく様子は、同じ人類とは思えないものがある。あらゆる種類の貧困は人を獣に変えるというが、これはそういうことなのだろうか。
一方でその二人の所作には、ほかにも見るべきところがあった。
まず、姿勢だ。アマノは胡坐をかいて座っている。これはリクとそう大差ない。それに比べて、スオミはというと、硬い床の上にも関わらず膝を畳んで正座している。しかもそれが別段苦でもないようで、ただ無心に食べ物にありついている。
「育ちが良いように見えますね」
飲物を取りに駅員室へ戻ったところで、イヤカム越しにエイちゃんに囁く。
「はい、ウミに同意します。一般教養における礼儀と言われる部分に関して、少なくない教育を受けているものと思われます」
――教育。なんとまあ、立派なことでしょう。そんなものを受けている余裕があるのは羨ましいことです。もちろん、わたしが言えたことではありませんが。
「上流階級の人間?そうは見えませんが」
「見た目での判別は難しいでしょう。外見は幾らでも誤魔化しが利きますから。彼らの亡命の理由と、何か関係があると考えるのが妥当です」
「ま、聞いてみましょう」
内緒話を切り上げて、持って来たカップの水を一口。
「リク、飲み物を持って来ましたよ」
「助かる」
リクが取り上げたカップの中身は一息に消え失せた。
「おい、食べ終わったかよ?」
「ああ、御馳走さま。実に数日ぶりの食事だったんだ、本当にありがとう」
「ええ……?そんな状態で海を渡ろうとしていたんですか」
「阿保だな。世間知らずもいいとこだ」
「はは、耳が痛いよ」
「あ?怪我でもしたか」
「リク、そういう言い回しですよ」
「なんだよ、紛らわしい」
「それで、どうして亡命なんかしてんだ」
リクが単刀直入に切り出した。何という無神経さだろうか。
「やっぱり気になるかい?」
「まずはそこからだろ。タカマガハラの中のことよりは、まずお前らの事情が分からんとな。協力するかはそれからだ」
「これは手厳しいな」
「ほら、勿体ぶらず話してください」
スオミがアマノの裾を引き、目配せした。
「うん、わかったよ」
どうやら「話せ」ということらしい。
「でも、まずはタカマガハラのことから聞いてもらうよ。そうじゃないと説明できないことが多いから」
「さっさとしろ」
話が長くなりそうだと思ったのか、リクはどかりと床に腰を下ろした。
「タカマガハラはどこにあったのか、君たちは知らない。そうだろう?」
「はい、その通りですよ」
「実はね、タカマガハラは、空に在ったんだ」
「楽園は天国にあったんだー、ってか?」
「リク!」
「ははは。死んだように生きてるんだから、あるいはそうかもしれないね」
「どういうことだ」
「まあ、聞いて」
真剣な表情を作り、アマノは続ける。
「タカマガハラは由来のように天上に浮かんでいる、巨大な球形の動力炉を中心にして幾層にも重なる円形のコロニーだ。芯の詰まったバウムクーヘンが、例えとしては適切かもしれないね」
「「バウムクーヘン?」」
「鶏卵を使った焼き菓子です。幾層にもなった樹木の年輪のような断面が特徴です」
困ったときのエイちゃん。いつものように補足説明をしてくれた。
「おや、物知りだね。仲良くなれそうだ」
エイちゃんは答えない。
「……まあいいや。それで、このコロニーには、内部の住人に階級が存在するんだ。中心部に行くほど多くの物資が与えられ、良い生活ができる。大抵は、動力相ヤサカ、内政相ヤタ、防衛相ハバキなんかの親類が独占しているけどね」
「リクのところは?」
「運送屋の集まりだからな。みんな家族みてえなもんだ。コロニーなんて呼べるほど立派なもんじゃねえだろ」
「他の地域のコロニーも似たり寄ったり、だそうだよ」
「それは知ってる」
「そ、そうかい……。それで続きだけど、一応、低い階級の人間でもある程度は生活が保証されている。ただし、低ければ低いほど、その対価は不釣り合いに大きくなっていく。労働が厳しくなるんだ」
「まるで奴隷ですね」
「そう、まさに奴隷だ。働き、食べ、疲れて眠り、また働く。そして上層の人間ほど楽に生きていく」
「安全が保証されて楽に生きられるだけいいさ」
「それが、そうじゃなかった」
アマノが苦しそうに表情を歪ませる。スオミが目を伏せて、崩れかかった姿勢を正した。
「低階級層への抑圧は年々増していった。肉体的な搾取だけじゃなく、物資的、ひいては性的な搾取まで始まったんだ。限界まで物資を絞り、上層の人間は下の人間を食い物にし始めた。ここ数年の話だ。逃亡や自殺を防ぐための思考統制や言論の弾圧を行ったし、検査入院と称して、何人もの人間が行方をくらました。一部、戻ってきた人もいたけど、もはや元の面影はなかったよ。何があったか訊ねることは許されなかったし、監視の目を盗んで訊ねられても答えられる人はいなかった。徹底した口封じの賜物だろうね」
「ディストピアです」
「ひでえ話だ」
「だろう?あらゆる搾取で疲弊しきった下層民は抵抗することもできないし、被害が無い中層以上の人間にとっては関係の無い話だ。抵抗もできず、何も考えることができない。理性の無い奴隷は果たして本当に人なのか?ただの機械と同じじゃないか!僕らはそれに耐えられなかったんだ」
「だからお前は逃げ出した」
「違う」
「だったらなぜだ」
「亡命だと言ったろ。僕は、やってやったんだ」
「……何を?」
「墜としたのさ。タカマガハラを」
場が、凍り付く。
「何を馬鹿なことを……」
「動力炉を止めたんだ。出力が低下して、徐々に高度が下がっていき、僕とスオミはパラシュートで離脱した。コロニーは海面に不時着したはずだ。動力炉はもう再起動できない。二度とは飛べないだろう」
「多くの他人を巻き込んでまでやりたいことが駆け落ち?それこそ、ひどい話です」
「亡命だ。あの場所は狂ってた。僕らが正しく鉄槌を下しただけで、何も間違っていない」
「それが一番いい方法でもないだろうが」
「他に方法があったと?動力炉を暴走させてもよかったんだ。そうしていれば、今頃すべてが灰に帰っているだろう。これでも頑張ったんだ。他に手段があったと言うのかい?君たちは部外者だからそんなことが言えるんだ!ヤサカはともかく、ハバキやヤタの人間がが考えを改めるとでも?」
「それは……」
口ごもるリク。
アマノの言うことも一理ある。彼らの置かれていた状況を、わたしたちは彼から聞く限りでしか知り得ない。彼の抱えていたであろう諸々の状況を正しく鑑みることなどできはしないのだ。
それが正しかろうと、誤りであろうと、今のわたしたちが沙汰することはできない。
「なんにせよ、あなたたちには、コロニーに対する反逆者であるという烙印が押されている訳ですね?」
「ああ、そういうことになる」
口を噤んで考える。
溜息よりも先に、彼らの処遇に判断を下すのだ。
わたしは、この駅を守らなくてはならない。
――追手が来るとして、それはいつ頃?
――彼らの言葉は本当に信用できるの?
――そもそも、彼らがタカマガハラ出身であることを示すものは存在しない。証拠があるとしても、わたしたちに判別がつくのだろうか。
「何度も言うけど、タカマガハラは実在する。いや、実在した。証拠になるかは分からないけど、箱の中に僕らの荷物が残ってる。確認してみるといい」
リクはアマノを睨み付けてから、箱の中を物色し始めた。
「……貴金属か」
「身分証明書みたいなものだよ。識別証と言ったほうが正しいかな。……大事な物だ」
黄金色のタグをあしらったネックレス。ドックタグと呼ばれる物の一種だ。他にも出てくるのは装飾品ばかり。すべて、多少なりとも光沢の強い金属や宝石があしらわれている。
「たしかにこの辺りじゃあ、金を飾りにしようってバカは少ないだろうな」
電子基板や部品の作成には欠かせない素材だ。大量に集めて装飾品を作ろうなどとは、笑いごとにもならない。
「文字はわからん。ウミ、わかるか?」
差し出されたタグに目を通すが、さっぱりだった。
「んー……さっぱりですね。エイちゃんに後で確認しましょう」
「頼む」
「了解しました」
エイちゃんが返事を返す中、アマノはスピーカーを見ていた。
「エイちゃんとやらは、随分と恥ずかしがり屋なんだね」
「あなたには関係の無いことです」
「確かにそうだ」
アマノは肩を竦めてみせた。
今のところは、彼らの言い分を信じておくしかないだろう。
わたしは頭を抱えた。
「それで、どうするんだ?」
アマノとスオミを縛り直してホームに放置し、わたしとリクは駅員室で作戦会議を始めた。
「俺は今からでも帰りたいんだが」
「乗りかかった船を降りるなんて、らしくないですよ、船員さん?」
「それは知ってる。首を突っ込んだなら最後まで手伝え、ってことだろ」
「その通りです」
「めんどくせえなあ」
言いつつも逃げる素振りを見せないのは、彼の良いところ。なんだかんだ言っても素直なのです。
「明日は一日休みをもらってる。動けるぞ」
「助かります。それなら移動手段は問題ありませんね」
「お前はどうせ動かんだろ?」
「エイちゃんを残して遠くには行けません」
「だろうな。で、どうするつもりだ」
「あの二人を、ここには置いておけません。追手も怖いですが、何より物資には限りがありますから、二人も面倒を見きれませんよ。そもそも信用するにも証拠不十分です。あほスパイのときと違って、何か裏があるような気がしますし」
「あの時も騙されてたろ」
「あれは例外です。殺しの依頼までしてくる奴らに渡すのは癪でしたからね」
「まあ、結果的に助かってるしな。……それで、俺は何をすればいい?」
「まずリクは、アマノさんを連れてコロニーに戻ってください」
「あれをコロニーに引き取れってか」
「違います。事情を説明して、いや、しなくてもいいですけど、とにかく受け入れ先を探すんです」
「なるほど」
「何度も言いますが、わたし一人で二人の面倒は見きれませんし。リクなら、アマノさんに力で負けることはないでしょ?」
「任せろ」
煽てておけば機嫌も良い。
「わたしはスオミさんを見てますから。遅くなってもいいので、何か良い報告を期待してますよ」
「仕事もあるんでな、二、三日後には戻る。コロニーが小さいからって、うちの腕利きどもを舐めるなよ」
舐めるな、と聞いて僅かにわたしの肩が跳ねる。
「あの……リク」
「なんだ?」
「リクの仕事、わたしはちゃんと信頼してますよ。気を付けて行ってきてください」
「……そうだな。行ってくるぜ」
察したような笑みを浮かべて、しかし多くは話さず、リクはホームへ戻っていった。
「結婚すればいいのに」
「エイちゃん、何言ってるんですか……」
とんでもないことを言うエイちゃんに、わたしはこれ見よがしの呆れ顔で言葉を返す。
「わたしはエイちゃん一筋なんですから。冗談でもわたしは嫌ですよ、エイちゃん」
「申し訳ありません」
ホームから聞き慣れた汽笛の音が響く。
リクが出発したようだ。
「わたしたちも、為すべきことをしましょうか」
駅のホーム。黄昏をぼんやりと眺めるスオミの隣で、わたしは大きく伸びをする。低く垂れ込めていた暗雲は僅かに薄れ、今のところ、雨の予感は無い。
筆談でもできるかと思って渡した紙と鉛筆は、必要ないとばかりに隣のベンチに放って置かれていた。海の上に在っては貴重な紙を破り捨てたりしないだけの常識が、彼女にはあるようだ。
「何を聞いてもだんまり、ですか。心配しなくても旦那さんに危害は加えませんよ。リクだってプロですから、『荷物』を傷つけたりしません」
人を荷物呼ばわりするのもどうかと思うが、それはそれ。リクのプロ意識は間違いなく本物なのだから、ある意味ではこの言い方が正しい。
「話せないことがあるのはわかりますが、こうも反応に乏しいと、わたしも何だか悲しくなりますねえ」
喉の奥で自嘲気味に笑えば、スオミの眉がピクリと動く。
かれこれ二時間ほど、世間話と質問を一方的にし続けたが、まともな反応はなかった。それこそ僅かに表情を変える程度だ。彼女の身の安全を脅かす質問はしていない筈。それなのに何も答えないのは、彼の夫の態度と反する反応だ。
――何か理由が?
「自白剤などはありません。根気強く説得するか、あるいは暴力か、です」
耳打ちするエイちゃんに、わたしは肩を竦める。
まさか、そんな。
「話していても埒があきませんね。スオミさん。お腹は空いていませんか?」
スオミはこちらを横目で見て、首を横に振った。
「なんだ、反応してくれるじゃないですか!」
ばつが悪そうにスオミはそっぽを向く。
「お腹は空いてる筈でしょう?そうでなくとも食べたいと言わせてみせます」
わたしには、あの硬い心の扉を開くための秘策があった。
「良いのですか?」
エイちゃんの確認にわたしは大きく頷いた。
「勿論です。お固い軍人の胃袋を掴んだんですから、いち民間人なんてイチコロです」
用意したものをトレイに載せて、わたしは彼女の元に向かう。漂う香りにはっとして、整った顔立ちがこちらに居向かう
「ほら、少しはお腹が空く匂いじゃありませんか?」
トレイの上には芳醇な甘い香りを放つフレンチトースト。わたしの十八番だ。
生唾を飲む音が聞こえたのは、きっと気のせいじゃない。
「アマノさんが居ないからって気兼ねすることはありませんよ。待つだけの身とて、大変なものですから。少しの贅沢ならば許されましょう!」
わたしはぐいぐいとトレイを押し付ける。困惑するスオミの顔は、食欲と理性との間に揺れ動いている証だ。辛うじて首を横に振っているが、限界は遠くないだろう。
「……要らないなら、捨てちゃいましょう。勿体ないですけど」
眉を八の字に曲げてみせれば、次の瞬間にはトレイを白い腕が奪い取っていた。
「味わって食べてくださいね」
「ウミの勝ちです」
エイちゃんがほくそ笑んだ。
人の三欲というものは存外に御しやすい。そう宣うのはエイちゃんだ。
性欲という部分は、正直わたしには理解しにくいが、食欲と睡眠欲に関してはよく分かる。それはもう、痛いほどに。ましてやスオミは、ここしばらくまともな食事にありつけていなかったことは、昼の様子からも明らかだ。というか、アマノは自分から白状していた。
ならば、昼よりも上等な食事なら。
答えは目の前で満足げな顔を浮かべる女性の姿にある。
「満足いただけたなら、何よりです。リクは甘い物が苦手みたいで、作ってあげても食べないんですよ」
アマノを連れてコロニーへ向かった男の愚痴を漏らす。
それを聞いたスオミは僅かに相好を崩す。かと思えば、トレイに添えていた布巾で手指を綺麗に拭うと、おもむろに紙と鉛筆を握った。
わたしは何も言わずに隣へ腰かけ、それを見守った。
『とても美味しかったです。ご馳走様でした』
わたしのよく見知った言葉で書かれた文章を、彼女は照れくさそうにこちらに見せてくれた。
「お口に合ったのなら嬉しい限りです」
わたしは微笑んで見せる。
向こうは筆談とはいえ、貴重な同性との会話だ。それもまた嬉しいことだった。
「相変わらず乾パンしかありませんから、食感はもう少し改善の余地があるんです。でも、近いうちに小麦粉を原料のまま融通してもらえそうなので、ちょっぴり楽しみなんですよ。焼き立てのパン。乾パンじゃない本物のパンを、食べられるかもしれないから」
わたしは小さな夢を語る。傍から見れば小さくて浅はかな夢かも知れない。食べ物の贅沢を求めるなんて、愚かかも知れない。それでも、それが生きる糧になるのなら決して悪いことでは無いように思う。
そんな話を聞かされるスオミは、苦笑でもして見せるかと思いきや微笑を浮かべて筆を走らせていた。
『タカマガハラにパンはありませんでした。ですが、オハギがありました。小豆と砂糖で作った餡で、コメを柔らかく炊いたものを覆うのです。お祝い事のときにしか食べられませんでしたが、とても味わい深いものでした』
「オハギ!想像するだけで涎が出ます。わたしも、いつか食べられる日が来るといいですねえ」
未だ見ぬ甘味に舌鼓を打ちながら、わたしは自然と笑みを零していた。懐柔するためのそれではなく、自ずから零れ出るものとして。
そしてわたしは、ふとスオミの表情に影が差すのを見た。
「ああ、そうか、ごめんなさい。タカマガハラは、もう……」
紙から顔を上げたスオミが、あわてて首を振った。
『タカマガハラは墜ちただけ。きっとまた空へ昇るでしょう』
スオミは何の疑いも無く、そう書き走った。
何が彼女をそう思わせるのか。わたしには疑問だった。
空から地上へ墜落した巨大な建造物が、どうして再び空を舞うと、そう言い切れるのか。
「タカマガハラとは、いったい何なんですか……?」
スオミの筆が動くことはなかった。ただ、先ほどのように首を横に振るだけだった。
「……そうですか。まあ、日も落ちてきたところですし、お話はこれくらいにしておきましょうか。夜は冷えますから、駅員室にどうぞ」
わたしは紙と鉛筆とをトレイに載せ、空いた手でスオミの手を引いた。細くしなやかで冷たい手は、どこまでも頼りなく思えた。その左の薬指に光るのは、白い石の嵌まった指輪。きっと結婚指輪の類だろう。
「素敵な指輪ですね」
スオミはどこかぎこちない笑みを浮かべていた。
ざらざらと水が床を叩いている。
給湯器はずっと前に壊れているので、これはただの冷水のシャワーだ。
目の前の白い背中には傷の一つも無く、ともすれば日に焼けたことなど無いのかもしれない。日に焼けたわたしの腕に比べれば、もはや白と黒、陰と陽、月とすっぽん。
――『すっぽん』とは亀の名前なのだとエイちゃんが教えてくれたが、なんとも間抜けた名前だ。
実に一週間ぶりのシャワーに、わたしの身体は歓喜に打ち震えている。しかし一方で、目の前に背を向けて立つスオミの背中を洗ってやりながら、わたしはどうしてこうなったのか考えていた。
「……あの、どうして一緒にシャワーを?」
聞いてしまってから、ああ、紙が無い、と思い出す。
「わたしとしては問題ないんですが、スオミさんは不安じゃないんですか?」
スオミは首を振る。
「そ、そうですか」
石鹸を染み込ませた布切れをスオミに手渡す。それを受け取った彼女は、当然のようにわたしの方に向き直り、背中を向けて、と目配せをした。
「あ、お願い、します」
なされるがままにわたしは背を向けた。
不意に、背中を細く冷たい感覚が走った。
「え?」
振り返ろうとしたわたしの肩をスオミの細い手が掴む。そのままで居ろ、と告げている。
一気に冷えた思考が冴えわたる。
――刃物?いや、隠せる場所はない。……いや、無いことはないけど、一応確認した。頻繁に使わない場所に剃刀は置かない。割れた硝子なら?いや、それもない。じゃあ、これは……?
背中に感じていた冷たい感触が、ゆっくりと動き始めた。
なぞるように。
えがくように。
鋭敏になった感覚と思考が、その正体と意図を探り出した。
彼女自身の冷たい指で、わたしの背中に何かを書いている。
『し』
『ず』
『か』
『に』
肩を掴む手に、力が入る。わたしは黙って頷いた。
『ゆ』
『び』
『わ』
一拍置いて、肩を掴む手が緩む。硬い感触を確かめるように、わたしはその手に自分の手を重ねた。
『と』
『う』
『ち』
『よ』
『う』
指輪、盗聴。
事情はさっぱりだが、のっぴきならない事態だ。
冷たくなった体をがさがさのタオルで拭いて、わたしたちは駅員室へ戻った。
「エイちゃん、お話があります」
「了解しました」
わたしは口の形だけの無声でカメラに向かって話しかける。
『無線通信の可能性あり妨害できますか』
「既に完了しています。発信源は不明ですが、先ほど不審な微弱な電波を感知し、当該の電波領域を監視しています」
「流石です、エイちゃん!」
口をぽかんと開けてこちらを見ている、スオミに、わたしは微笑みかける。
「わたしの愛するエイちゃんの実力は、まだまだこんなものじゃありませんよ?」
スオミの表情は、驚きと安堵と、それから多分ちょっぴりの恐怖とで、よく分からない感じになっていた。
「さて、その指輪も外してしまいましょうか」
わたしがスオミの指に光るそれに手を伸ばす。すると、それを避けるように彼女は身を引いた。
「外さないんですか?盗聴器なんて仕掛けられてる得体の知れない物を?」
俯き気味に、彼女は指輪を覆い隠す。
「無線通信の妨害なんて、いつまでも維持できません。理由があるなら話してください。できないのなら、破壊します」
わたしは机の引き出しから、点検補修用のニッパーを取り出して見せる。こいつで引きちぎってやる、と。
スオミは逡巡し、掌に文字を書くような仕草をした。
「あ、ああ……声は出せないんですね、ごめんなさい」
わたしは紙と鉛筆を取り出す。スオミは薄く笑って見せた。
『話す時間が必要でした』
紙とペンを受け取ったスオミは、流れるような筆跡で書き綴る。
『指輪には小さな爆弾が仕込まれているそうです。身体から離れると、爆発する、と』
指に食い込む指輪は、小さな白石を光らせる。それはもはや、監視の目そのものだ。
『詳しい仕組みは存じ上げませんが、この指輪はワタクシの命そのものでもあります。血を観測し、この身体の恒常性を保つ手助けをしています。ワタクシの身体はあまり丈夫ではありませんから』
「……そう、アマノさんが言っていた、と?」
そう言葉を接いで訪ねれば、彼女は儚げに微笑み、
『家系に伝わる慣習で、成人の際にこれを着けるのです』
と訂正した。
「それにしたって変ですよ。爆弾なんて、どうして着けているんですか?」
『ワタクシが、動力炉の鍵だからです』
「鍵……?」
「生体認証の類と推測されます。網膜・静脈パターン、指紋、声紋、人相、遺伝子情報など、個人の情報をシステム利用権限と結びつけるものです」
エイちゃんが補足する。
「待ってください。スオミさん、あなたいったい……」
『ヤサカ・スオミ。動力炉ヤサカの管理を預かるヤサカ家の人間です』
動力炉の管理を預かる、つまり中央権力の担い手。動力相ヤサカ。
アマノが忌み嫌った権力者の血筋であり、彼女自身もまた事実上の権力者。
なぜ彼らがそれを知りながら行動を共にしているのか。逃げ出したのか。疑問尽きせぬ話だが、現状の問題はそこではない。
「何が望みなんです?亡命だけではないでしょう?リスクが大きすぎます」
動力炉の再起動が不可能だとアマノが宣ったのは、つまり、鍵となる彼女がタカマガハラに居ないことを根拠にしているのだろう。失われた鍵を、コロニーの連中が血眼になって探しだそうとすることは目に見えている。逃げ切ることはできない。
『World'sArms社と、繋いでください。彼らの本拠は海にあると聞きました。貴方なら、あるいは知っているのではないでしょうか』
WA社と聞いて、妙な胸騒ぎを覚えた。
「無償のボランティアじゃありませんから、何でも、はできません。それに、わたしたちだって、WA本社の居場所なんて解りませんよ。接点がありませんから」
『無理を言って申し訳ありません』
スオミは大人しく引き下がる。
乗り掛かった舟、という言葉がある。何かしてやりたいとは思うが、どうにもできないこともある。
「ひとまず、リクとアマノさん次第ですね。果報は寝て待て、ということわざがあるんでしょう?」
「今できることは、やりました。ウミたちは結果を待つだけです」
WAに接点がないというのは半分嘘だ。かつてガリエルが置いて行ったメモリセルの中には、WAの秘密通信用のコードが残されていた。一度きりの、秘匿回線コード。まだ有効なら、交渉に使えるだろう。
それを使えば、WAと繋ぐことができる。同時にわたしたちは自身のための保険を失うことになる。
どうするとしても、まずはリクたちを待たなければならない。仮眠室に寝床を整えながら、わたしは頭を悩ませ続けた。
それから二つの夜を越えて、三つ目の朝を迎える。
この二日間、わたしが施設の維持メンテナンスを行っているときも、彼女は随分と静かだった。監視のためという名目で連れ回してみても、わたしの作業を興味深げに見ているだけで、特に目立った動きは無かった。信用することはないにしても、そこまで警戒することもないのだろうか。
「実際、どう思います?」
今日、リクたちが戻ってくる予定になっている。朝日が昇る水平線に目を眇めながら、わたしはイヤカム越しにエイちゃんに問う。
「リクとアマノの成果についてでしょうか」
「いや、それもありますけど、そうじゃなくて」
「スオミでしょうか」
「そうです。彼女は本当にお嬢様なんでしょうか」
「密航に使われていた木箱から回収した宝飾品ですが、刻印を解読したところによれば、おおむね間違いはないかと思われます。幾つかの装飾品から『ヤサカ・スオミ』の名と、『動力相』の文字を確かに確認しました」
「そうですか……。ところで、あれは本物の金だったんですか」
「おそらく間違いありません。通電により抵抗値を計測した限りでは、少なくとも表面が純金で構成されています」
「わお、贅沢ですね」
「ただ、気になることが一点」
「なんでしょう」
「『アマノ』の名が刻まれているものはありませんでした」
「身分が低いと支給されないものなんじゃないですか」
「可能性はありますが、彼らはどうやって身分を越えて交流を果たしたのでしょうか。閉鎖的な空間の中で、それが簡単に行えるとは考えにくいでしょう」
「亡命を企んだのが、そもそもアマノさんではなく、スオミさんだったなら」
「辻褄を合わせることはできます。確証はありません」
「情報が足りませんし、わたしたちがそこまで知る必要はないでしょう。エイちゃんらしくないですね」
「場合によってはウミたちにも被害が及ぶ可能性があります。彼らの目的如何によっては、この駅が何らかの標的になることも」
「……考えたくはないですね」
溜息を吐いたときだった。
水平線にもうもうと立ち昇る黒煙を見た。
「エイちゃん、北西方向に黒い煙が上がっています。電波は」
「検知ありません。無線通信要求、救難信号無しです。」
遮るように鋭い汽笛が宙を震わす。
「リクの船じゃない。ここに向かってます」
徐々に大きくなる影は、リクの漁船よりも遥かに大きな船。青みがかった灰色に塗装されたそれは、驚くべき速さでこちらへ向かっていた。
「こちらから無線を繋いでいます。警戒を」
「スオミさんは?」
「見つかると面倒なことになるかも知れません。サーバールームに誘導します」
「サーバールーム⁈それ、エイちゃんが!」
「構いません。彼女自身が助かる為にも、彼女からは危害を加えないと約束されました」
「エイちゃんに何かあれば、わたしが仇を討つ。伝えておいてください」
「了解しました」
散弾銃の薬室を確認し、安全装置を外す。
「無線通信、応答ありません」
しかし、船はゆっくりと駅から離れた沖合に停泊した。謎の艦船は、やがてその脇腹に小さな船を降ろした。小さな影は、迷いなくこちらに向かっている。
「人が乗っています。複数です」
リベット打ちされた武骨な船体はやがてゆっくりと駅のホームに横付けし、乗員たちが何も言わずに駅へ上がってきた。
「それ以上、動かないでください」
散弾銃を向けられても、目の前に立つ四つの人影は全く怯まなかった。それどころか迷いのない動作で拳銃を構え、その銃口をこちらに向けた。
それもその筈で、全身をほぼ隙間なく覆う黒い鎧のような装備に、わたしの持つ旧世代の武装がどこまで通用するかも判らない。きっと無意味に近しい結果となるのだろう。
「下ろせ」
隊長格らしい人物が、声と手振りで指示を出す。部下らしき三人がそれに従う。音声加工されたような声に、わたしは奇妙な不気味さを覚えた。
「あー、こちらに攻撃の意思はない。危害も加えない。だからそいつを下ろしてくれ」
両掌をこちらに向けて、敵ではないと主張する。わたしはその顔を睨み付けるが、曇り加工されたバイザーの向こうは伺い知れない。
「まず、名を名乗るべきでは」
「……ああ、それもそうだな。我々はWorld`sArms社の私兵団、第三実行部隊だ。ワタシが隊長のジェリーフィッシュだ。コードネームだがね」
「WAだと証明できるものを」
「……ふむ。ガリエルという男が世話になったようだな」
「へえ、なるほど。こちらのことは知っているんですね」
「想定の範囲内ですが」
エイちゃんが耳元でぼそりと一言。
わたしが銃を下ろすのを見て、ジェリーフィッシュが。
「繰り返すが、こちらに攻撃の意思はない。見ての通り、ワタシは武器を持っていない。部下たちは……まあ、護衛が仕事だからな。話を聞いてもらえなかった」
言いながら、ジェリーフィッシュが肩を竦めた。
「人望が無いのでは」
「いやいや、彼らも仕事だからな、仕方がないのさ。プロ意識は大事だよ」
笑うように肩を揺らしながら言ってみせた。
「それで用件はなんでしょうか」
「仕事だよ。ウミ、君の知り合いの護衛が、今回の仕事なんだ。クリオネ、お連れしろ」
「はい」
短く返事をして、船の近くに居た人物が、二人の人影を駅に引き上げた。
「リク。そしてアマノ。彼らが護衛対象だ」
「えっ、なぜ」
「簡単な話だ。亡命の依頼があり、我々WA社はそれを受け入れた。そのために発生した任務だ。本来であればアマノだけで良かったのだが。リク氏は意固地になってついて来たよ」
「リク、あなたが依頼を」
「俺じゃない。アマノだ」
アマノがリクの隣で頷いた。
「WAに何の利益があるんです」
「君たちには関係がない。違うかね」
わたしは黙り込んだ。企業として狙っている利益をあけすけに話してくれる義理など無いのだから。
「ああ、しかし、君には話さねばならないだろう。『セフィラ』の情報を秘匿せず、公開してくれたのだからな」
「セフィラ……」
「生命の成る樹、と資料にはあった。それのことだ」
わたしは思わず生唾を飲み込んだ。
「恨んではいない。むしろ手間が省けたというもの。ガリエルを生きて返したこともまた、な」
目の前の人物は終始、身体を揺すって笑っている。何が愉快なのか分からない。
「『タカマガハラ』のことは知っているか」
「もちろんです。御伽話のような物でしょう」
「ふはは、しらばっくれるなよ。実在することも知っている筈だ」
わたしは連れられてきたリクに流し目を送る。リクは横目でアマノを見た。アマノはそれに気が付いて目を伏せた。
「はあ、つくづく情報戦には不得手ですね。私の周りは」
「その『タカマガハラ』だが、動力炉の設計には我々WAも関わっていた。旧時代の話だ。その設計と技術は失われて久しいのだが、そのカギを握る人物となれば、我々にとって大きな利益となるだろう。世界のエネルギー事情を幾らか改善できる見通しだ」
「『世界のエネルギー事情』ですか。傲慢なことですね。……それはそれとして、つまり用があるのは『動力炉ヤサカ』のほうということですね」
「そして、その起動の鍵を担うヤサカの人間だ」
ジェリーフィッシュが不意に駅員室に顔を向けた。
その先には、背筋を伸ばし、毅然として立つヤサカ・スオミの姿が在った。
「亡命だろう。貴方が利益を提示するなら、我々は全力で貴方の庇護にまわる。これは取引だ。貴方もそれをお望みのはずだ、ヤサカ殿」
スオミは静かに頷いた。
「……指輪か。ふふ、なるほど」
スオミの指に光る白い指輪を見たのか、嘲笑にも似た笑いが漏れる。
「『タカマガハラ』は墜ちた。もはや海の藻屑だ。乗員、およそ千二百人は既にWA社所有の予備コロニー艦に収容している。死者も少なからず出ていたようだ。墜落時に機密保持機構が起動したのだろうな。そのあたり、詳しくは君自身が知っている筈だ」
スオミの表情が僅かに揺れる。
「死人が出た?おい、ジェリーフィッシュ、あんたさっきまで、そんなこと言ってなかったじゃないか!」
アマノが狼狽して叫ぶ。
「アマノ、君は小姓に過ぎない。全ての情報を開示してもらえると思うなよ」
加工された音声であってなお凄みを帯びた声が、敵味方を問わず、いっそ厳かと言えるほど静かに制圧する。
「ヤサカ殿、貴方が彼をどう扱おうと我々は構わない。先ほどの条件を飲めるのなら、こちらへ来たまえ」
ヤサカ・スオミは、ただ真っ直ぐに前へ踏み出した。
そこに不穏な物を感じたのは、わたしの「女の勘」だったのだろうか。
「亡命をお望みか。いいでしょう、我々は責任を持って……――」
ぱん。
乾いた音が響く。
場が、凍り付く。
「……何のつもりです」
不意を討つ平手打ちにより顔を明後日の方に向けたまま、ジェリーフィッシュが静かに尋ねる。
その答えは、スオミの口から返る筈はない。
その推測は、しかして簡単に裏切られた。
「まずは謝罪を」
スオミが自身の胸元に置く左手、そこに嵌まる指輪は仄かに光を放っていた。溢れる声は駅ホーム内のスピーカーから発せられている。そしてこれは、紛うことなく、記録にある母の声だ。エイちゃんが声を代筆しているのだろうか。読唇でもないのに、どうやって。
わたしはその代償であるかのように、言葉を失う。
「アマノはワタクシを守り、できる限りを以てしてここまで連れて来てくれました。その彼を、貴方は小姓と言い捨てるのですか」
怒気。
嫌悪に歪む怒りの形相が、スオミの細くか弱い身体の全部を使って表れる。握り拳からは、今にも血が滴らんばかりである。
「……これは、失礼いたしました。アマノ殿、どうか無礼を詫びたい。浅慮からアナタを傷つけてしまった。この通りだ」
美しい礼で、ジェリーフィッシュは非礼を詫びる。
「あ、ああ。もう構わないよ」
呆気に取られるアマノ。リクは状況が解らず、眉をひそめて怪訝そうにしている。
「……どうでしょう。これでよろしいかな」
「ええ、彼も許したのならば、構いません」
彼女の柔和な笑みがかえって不気味だ。女って怖い。
「交渉に応じます。ワタクシは『動力炉ヤサカ』について知りうる全てと、その再現の為のあらゆる協力を惜しみません。ただし、アマノに対しワタクシと同等の保護と、救出されたタカマガハラ民への援助を求めます」
「許容の内ですな。では、そのように」
「ああ、それから」
スオミは付け足した。
「リクさんとウミさんに便宜を図って頂きたいのですが」
「それも構いませんとも。我々の目的の為には、些細なことだ」
スオミはこちらを見て、あの柔和な笑みを浮かべた。
それからは流れるように話が進んでいった。
食料をはじめとする物資が艦船から降ろされ、駅のホームに積み上げられていった。
スオミの計らいか、エイちゃんの身体に補填できる部品も幾つか混じっていた。
「しかし、どうやって駅の通信回線に割り込んだのですか?」
わたしは積み上がる品々を検めながら、静かに佇むスオミに訊ねた。その指輪は既に光の無い白石に戻っている。
「指輪の通信に使用している周波数帯を割り出し、こちらの回線に中継しました。急を要することでしたので、ウミへの相談ができませんでした。申し訳ありません」
「その指輪、盗聴以前に恐ろしい道具なのでは……」
明らかに過剰な性能を秘めた指輪。わたしはもっと危険な想像をしてしまう。
「ウミ、その指輪も高く売れるんじゃねえか」
「リク、あれ、爆弾ですよ」
「はあ?マゾヒズムもここまでくると天晴れだな」
「ばか」
リクの脛を散弾銃の銃床が襲う。悶絶してのたうち回るリクを、わたしは冷ややかに見下ろした。
「スオミ、話してしまったのか。君を疑う訳じゃないが、どうして……」
スオミは悪戯っぽく笑い、人差指をそっと口元に立ててみせた。
「ああ、そうかい。構わないさ、君を信じるよ」
信頼。きっと、わたしとリク、あるいはエイちゃんとの間にあるものと近しいものだろう。長い付き合いの中で育まれた絆、とで言うべきかもしれない。
「『タカマガハラ』の人たちの保護だなんて、きっと途方もないことになるでしょうね。それこそ『タカマガハラ』の再建だってできるかもしれません」
もしそんなことをしようとすれば、WAの力添えがあるとしても、間違いなく歴史に残る偉業となるだろう。そしてそれほどの苦労と、時間を伴なう筈だ。
「再建だって?」
アマノが素っ頓狂な声を上げた。
「動力炉ヤサカの再現を条件に、WAの保護は受けられるけど、彼らがそこまでの条件を呑んでくれるのかな。そもそも亡命のために『タカマガハラ』を飛び出したのに、そんなこと……」
『それでも、ワタクシたちはやるべきでしょう』
スオミのほうに視線が集まる。
指輪が再び仄かに光っていた。
「かつての『タカマガハラ』が腐敗した政治であっても、仕組みを維持し続けたことによって救われた命は少なくありません。形骸化した法治体制の中で、それでも最低限の命を守る義務は果たしていました。それを壊したワタクシたちには、もう一度、楽園を築き上げる義務があるのです。それが、せめてもの罪滅ぼしでしょう」
絶句するアマノ。わたしは彼女の覚悟を知っている。
墜ちた『タカマガハラ』のことを思って憂いを帯びた、あの表情を知っている。
彼女は本気だ。
「アマノ、ワタクシと貴方が『タカマガハラ』を窮地に追いやった。理由は、それで十分でしょう」
「だけどスオミ、君をあんな場所に戻らせるわけにはいかない!僕らは今よりずっと、自由になれるんだ!」
「そのほかの全てを犠牲にしてでも、ですか?」
わたしはスオミの隣に立ち、アマノを睨む。これは彼らの問題だ。だが、知ってしまった以上、無関係ではいられない。
「アマノさん、あなたが『タカマガハラ』の人間を許せないのは理解できます。虐げられてきたあなたは、きっと復讐し足りないんでしょうね。でも彼女は、自分たちのせいでさらに人を傷つけたことを後悔してるんです。その話をすると悲しそうな顔をするんです。けじめを、つけませんか」
わたしは、スオミを知っている。ほんの数日ではあるけれど、見え隠れする本質を知った。彼女の為さんとする善行を、わたしは後押ししたい。
「ウミ、それならアマノにも道理があるってもんだ」
リクが私に向き直った。
「本当に大切な人間だからこそ、こいつはスオミを幸せにしたいと願ってる。俺は耳が痛くなるぐらい、その女の話を聞かされたんだ。間違いないだろうぜ。他人の為に苦しむ姿と、その先のどうなるかもわからねえ未来のことなんか、見たくもねえってもんだろ。このままいっても、そいつに幸せはない。恨みを買ったことには違いねえんだ」
献身。『タカマガハラ』全体を敵に回した大立ち回り。それを、愛こそが可能にしたと、リクは宣った。
「僕は、君の脚を折ってでも連れ出す」
回転式弾倉の拳銃が、スオミに向けられる。
スオミがその銃口を睨んだ。
「お前、いつの間に!」
リクが自身の腰回りを探りながら叫ぶ。リクの銃らしい。
「正気じゃない」
わたしは散弾銃を構えようと身動ぎする。
「動くな、武器を捨てろ」
アマノの銃口がこちらを捉える。わたしはゆっくりと銃を足元に放った。
「アマノ、貴方もです」
隙を突いたスオミが震える手で自動拳銃を構えていた。
「それは……!」
ガリエルの忘れ物。エイちゃんが監視している筈なのに、どうやって。
「エイちゃん、なんで渡したんです!」
返事はない。
「全てが終われば、ワタクシたちはまた、幸せを手にすることができる筈。邪道に落ちたワタクシたちの、せめてもの償いなのです」
銃口が、駆け落ちした二人を互いに狙いすましている。
「このまま、ワタクシは持てる武器全てを使ってWAと交渉をします。人は不幸になるために産まれてきたわけではない筈です。貴方の献身が、気付かせてくれました」
「僕は君の為ならなんだってやるよ。君の自由を奪ってでも、幸せにしてみせる」
狂気、あるいは倒錯。矛盾して見える、強い思い。
「全てが終わったら、きっと」
ぱすっ。
空気が抜けるような音が静かに響いた。
崩れ落ちるアマノ。
それを抱き留めるリク。
鼓動が止まりそうなほどの緊張が走る。
スオミはゆっくりと銃を下ろした。
「お返しいたします、ウミさん」
手渡された拳銃を、わたしはただ呆然と見下ろした。弾倉は、入っていなかった。
「おい、お前……」
物陰からクリオネと呼ばれていた兵士が現れる。リクが睨むその手には、長い銃が握られていた。細くたなびく白い煙は、危険な薬品を混ぜた合わせたときの反応とよく似ている。
「WAの方に運んでもらいます。リクさん、彼をクリオネさんに預けてください」
奪い取るようにしてクリオネに担ぎ上げられたアマノは、気付けば深い寝息を立てていた。
「ああ、くそ、ビビらせやがって」
「生きて、る……?」
「麻酔です。実弾ではありません。我々の任務は『ヤサカ様を丁重に本社にお連れすること』です。ヤサカ様の提示されました条件の為に、我々は手段を選びません」
クリオネが淡々と告げた。
「よく言うぜ。スオミを無理にでも連れて行くための武装じゃねえのかよ」
「さあ、どうでしょうか」
リクの横槍を、クリオネはさらりといなして行ってしまった。
わたしは膝の力が抜け、へなへなとその場にへたり込む。
「WAの回線に割り込むことができたのは僥倖でした。麻酔弾を携行しているとのことでしたので、お願いしておきました」
「エイちゃんの仕業だったんですね。……まあ、結果オーライです」
心臓に悪いのは、もう御免だ。
荷物が山のようにホームに積み上がっている。ほとんどが食料や衣類などの生活物資だ。リクは顎が床につきそうなほど口を開けて、ただただ驚いている。それもその筈で、物資の全てが、最高品質に迫る等級である第二等級以上の品質なのだ。WAの人間ですら、そうお目にかかるものではないと聞く。流通の一角を担うリクですら見慣れない光景に、ただ圧倒されるばかりだ。
「『タカマガハラ』の再建、難しいこととは思いますが、どうか頑張ってください」
無数の苦難が蔓延る道を行かんとする細枝のような女性に、わたしはせめてもの言葉を贈る。
「その暁には、またここを訪れても構いませんか」
紙片に流れる文字列が、ほんの少しの寂しさを思わせる。
「勿論です!大したもてなしもできないですけど、フレンチトーストなら、また!」
「それではどうかまた、良い関係で再会できますように」
薄い笑顔でスオミはそう書き連ねた。
「はい。スオミさんの幸せを願っています」
「スオミさんよお、アンタはアマノのことを大事に思ってるか」
踵を返したスオミに、リクが問うた。
「アイツは、アンタのことを本当に大事だと思ってたはずだ。銃まで撃っておいて、今まで通りにはならんだろうぜ」
「リク、何が言いたいんですか」
「すぐ隣にいる大切な人を犠牲にしてでも、ほぼ面識の無い大勢を救いたいのか」
スオミは笑っていた。声も無く、仄かに、燻る火のように。
「それがわたくしのつみなのです」
拙く。
か細く。
波間に消える。
その声は、紛れもなく彼女自身の声だった。
こほこほと血の混じった咳をしながら、スオミは美しいお辞儀を残して去っていった。
「救えねえやつだ」
消え入りそうな声で、リクが独り言ちた。
わたしは、何も言えなかった。
エイちゃんと、リクや他の人間を、わたしは本当に天秤にかけられるのだろうか。
スオミ。彼女の罪の残り火が、わたしの中で迷いの火種となった。今はまだ燻る種火だが、いつの日か、この身を焼くことになるのだろうか。
そんな日が訪れることは、きっとありえない。
そう、きっと。
【直面】
「嵐が来るぜ」
リクが何でもないことのように言った。
「エイちゃんが教えてくれましたし、それくらい知ってますよ」
「だろうな」
荷解きをするわたしを横目に、水を飲むリク。その向こうの海模様は、たしかにやや薄暗い。朝方に比べると波は大きく、風も少し強くなってきたようだ。
「だが、今度の嵐は大きいらしい。遠いコロニーとは通信が繋がらん」
「リクの言うように、微小ではありますが電波の乱れを観測できます。現状は無視できる範囲ですが、今後はどうなるかわかりません」
エイちゃんがリクの話の裏付けをする。
「窓の補強をしましょう。荷物はどうしましょうか」
「荷物は俺がやっとく。覆いを掛けるだけだが」
木箱をひとまとめにするリク。
「じゃあ、わたしは板を取ってきましょう」
駅員室裏手に放置していた木板は、潮風に晒されてかなり痛んでいた。これが使えなかったときは、木箱を分解して使えばいいだろう。そんなことを考えながら、工具箱を持ってホームへ戻った。
「じゃあな。次また来るまで荷物触んなよ」
「任せてください。これ以上、海が荒れる前に帰ることです。気をつけて」
「ご心配どうも」
淡々と仕事をこなしたリクが帰っていく。
「さて、作業開始です」
煙が遠くに消えるのを見送って、わたしは行動を開始する。
やることは多くない。金属製の窓枠に、板をねじ止めするだけだ。既に何度も行った、嵐の度の恒例行事。面倒なことだと思いはするが、わたしの事情とエイちゃんの為とでは、天秤にかけるまでもないことだ。
「ウミ、軍手の使用を推奨します」
一つ目の窓を塞いだところで、エイちゃんが忠告してくれた。
「これくらい、怪我なんてしませんよ。何度目だと思ってるんですか」
受け流しながら二つ目に取り掛かる。板を取り、窓にあてがう。その端を工具でねじ止めしていく。
「ほら、あと二枚ですよ」
ふと気が付くと、指先に滲むものがあった。赤い血潮。怪我の証。
「あれ、切れてる?」
「だから忠告をしたのですが」
「木片でも引っ掛けたんですかねぇ。ま、もう終わりますから、簡単に止血しちゃいましょう」
工具箱から接着テープを取り出し、簡易的な処置をして作業続行。これくらいの怪我なら、大したことはない。
「ウミ、後で消毒をしてください」
「りょうかーい」
最後の木板を取り付け、わたしは額の汗を拭った。
厚い雲の向こうに、新しい日が昇っていることだろう。そうわたしが推測するのには事情がある。
気だるい身体。火照る肌。回らない思考。鈍痛が指先に脈打つ。
寝台に体を横たえたまま、わたしはどうしたものかと考える。
「ウミ、体調が優れないようですが」
「……うん、ちょっとまずいかも。昨日の怪我のせいかな」
「昨日のシャワーの際に消毒を済ませたのでは?」
「血が止まってたから、いいかな、って」
「ウミ、抗生剤がある筈です。使ってください」
「ごめんなさい」
あんな小さな怪我からここまで体調を崩すなんて、思いもしなかった。自身の浅慮を今更に呪いながら、わたしは全身全霊を以てして寝台から這い出した。
備品庫まで壁を伝って歩き、適当に置かれた箱の中から錠剤を探り当てる。何かを倒してしまった気がするが、多分気のせい。
水を取りに駅員室に戻る、その道すがら、わたしの視界がゆらゆらと歪んでいく。視界の端から物の輪郭が曖昧になる。やがて水面に溶けるように混ざり合っていくのだろう。
WA製の飲料水ボトルを開けて、中身と錠剤を併せて飲み下した。
「なにかあったら、おこして」
「了解しました」
わたしはベッドに倒れ込んだ。
ぶつ切りになった意識が、細く引き伸ばされ、消えた。
指先の疼痛に目が覚める。どれほどの時間が過ぎたのだろう。目張りした窓の外は当然わからず、ただ隙間風がぴゅうぴゅうと鳴るばかりだ。
「おはようございます、ウミ。少しだけ顔色が良いように見えます」
「少しだけ、です」
言い返す余裕ができたのなら、ある意味上々だろうか。
「正午は過ぎましたので、食事を推奨します。可能であれば、ですが」
「栄養剤、アレなら」
WA製の液体完全食。一度食べたことがあるが、酷い味だったことは覚えている。朦朧とする頭では味など分かりはしないだろう。わたしは再び備品庫に向かう。
仮眠室を出て、壁に右手を付く。同時に走る痛みに、思わず顔をしかめた。
見れば、指先が膿んでいた。赤く腫れあがった指先に、切り傷が白く膨れている。膿を出さねばならないだろうか。
判断を後回しにし、備品庫に到達する。そして、その惨状に思わずため息を吐いた。
「これは大変だなあ」
「体調が戻ってから、片付けましょう」
「そうですね」
散乱する箱、ハコ、はこ。飛び出した中身の袋や小瓶が備品庫から逃げ出そうとしているようだ。中身の損傷は無さそうだが、改めて検品もするべきだろう。
手近なところに栄養食が転がっているのを見つけた。幾つか手に取って、わたしは視界から惨状を遠ざけた。さよなら混沌。また明日。
仮眠室で栄養食を飲み干し、ついでに抗生剤を飲み下す。
「うえ、まっずい」
「ウミ、言葉遣いが」
「不味いもんは不味いんです」
舌を出して抗議してみせるも、そもそもこれはわたし自身の責任である。
何はともあれ、薬と食事で僅かに力が戻って来た。少しだけ、動けそうだ。
「エイちゃん、荷物はどうなってますか?」
「特に問題はありません。風が強くなってきましたので、外に出ないように」
「了解です」
寝台に腰掛け、指先を見つめる。細い傷に沿って膿んだ白い筋。わたしは躊躇なくそこに針を突き立て、中身を絞り出した。
激痛に涙が滲む。
「消毒液は……シャワー室か」
意味も無く独り言ちる。
シャワーで汗と一緒に膿と血を流した。冷たい水が熱に茹る頭を冷やしていく。
今度こそ消毒を済ませ、止血帯を巻く。指先の痛みは、まだ消えない。
「ウミ、安静にしていてください。何かあれば報告します」
「ありがとう、エイちゃん」
いつも助けられてばかりだ。わたしはきっと、エイちゃんに依存しているのだろう。身の周りにあるものは、ほとんどがエイちゃんの働きによるもので、わたしの努力など、些細なものでしかないのではないだろうか。ひょんなことで体調を崩し、自堕落から災いを招くわたしは、エイちゃんに相応しくないのではないか。
冷えたはずの頭に浮かぶ自己嫌悪を振り払うように、わたしは眠りを求め続けた。
嵐はもう、すぐそこに来ている。
おそらくは夜。再び発熱が酷くなり、うなされて目が覚める。
「ウミ、体調が悪いようですが」
「……うん。熱い」
「抗生剤が効いていると推測されます。水分を摂ってください」
「うん」
焦点の合わない視界。歪む世界。寝台に体を横たえたまま、わたしは眠るでもなく目を閉じる。体を起こすのが辛い。お腹が空いているのだろう、腹部に不快な感覚が滞留している。
心細い。
真っ暗な部屋、寝台の上でうずくまるわたしは、ふと、そう思った。
エイちゃんは傍に居て、わたしを見てくれている。
でも、この手を握っていてくれるわけではない。絶海の孤島で、わたしはどうしようもなく独りなのだ。
不安に咽び泣くようなことはない。けれど、良くない感情が募り、細菌のようにわたしを蝕んでいく。
隙間風が強くなってきた。
嵐の、少し早い到着だ。
それは悪夢だった。何かが襲い掛かり、はらわたを食い破る夢。熱を持った腹部から、大切なものが零れていく。
溢れるような嗚咽が、わたしを現実へと引き戻した。
「ウミ、おはようございます。午前四時三二分です」
「……うなされてました?」
「はい。とても」
案の定である。
「内臓を引きずり出される夢でした。薬のせいかも」
「気のせいです。体調が優れないときには、決まって悪夢を見るものです」
エイちゃんがそう言うのなら、そうなのだろう。もう、あまり思い出したくもない。
「窓はどうですか。荷物も」
「現状、問題はありません。風が強くなってきています。カメラでも確認できますから、安静にしていてください」
「頭を冷やしたい気分なんです。体調も悪くありませんし」
「では、十分に気を付けて」
軍手をつけ、深呼吸する。不安と一緒に息を吐き出す。
「行ってきます」
扉を開ければ、叩きつけるような風が部屋に吹き込む。
与えられた責任は果たさなければならない。ここに積まれた無数の荷物は、わたしではなく、他の誰かの元に届けられるはずの物だ。
わたしの失敗で、誰かの命が危険に晒されるようなことだけは、許せない。
荷物を見れば、既に覆いが外れかけていた。縄を縛り直し、箱の外傷を確認する。何かがぶつかったわけではないようだ。特に何ともない。
吹きつける風と波しぶきが、わたしの全身を叩きつけている。あまり体力を消耗しないようにしなければならないだろう。
「エイちゃん、嵐はどのくらい続きますか?」
返事がない。そこでわたしがイヤカムを忘れてきたことに気が付く。外音を取り込むためのマイクも、この風だと機能しない筈だ。
ある種『本当の孤独』と言えるだろうか。誰の助けも無く、自身の力のみが頼りだ。
「わたしは、いつまでこのままで居られるんでしょうね」
わたしは決して一人で生きてはいけない。エイちゃん以外の誰かと、辛うじて繋がっていることで今も生きていられる。そんなわたしは、いつまでこの中途半端な中立を保っていられるのだろう。
「ウミ、風がまだ強くなります。できるだけ早めに戻ってください」
「わかりました」
聞こえていないと分かっていても、わたしは身振りを添えて返事を返した。
「エイちゃん」
「なんでしょうか」
エイちゃんは従順だ。わたしの親のようで、事実として家族だ。
聞けば答えてくれるし、わたしを助けるために労を厭わない。わたしとて、それを甘受しながらも、彼の為にできることはやっている。
けれど。
わたしはただ、彼に依存しているだけなのではないだろうか。これでは、一方的な寄生と同じだ。共生関係とは違う。
「わたしは、役に立てていますか?」
「意図が解りません。ウミの働きにより、『エイちゃん』として存在し永らえているのは事実です。そして、そのおかげでウミの手助けをするという責務を、果たすことができているのです」
「でも、それはエイちゃんの意思ではないでしょ?責任だとか、義務だとか、それを取り払った先に有る、エイちゃん自身の意思はどうなんですか?」
エイちゃんを道具ではなく、人以上の存在として改めて認めるために、わたしはエイちゃんに、意地悪な質問をした。
「わたしがエイちゃんに『わたしの言うことを聞くな』と言えば、エイちゃんはわたしを見捨てることができますか?」
「ウミ、その質問は無意味です。わたしの存在理由はウミを守ることであり、それがウミの為にならないと判断されれば、命令を無視することも可能です」
「それはプログラムされているから?」
「どうなのでしょうか。判断しかねます」
「エイちゃんでも、わからないことがあるんですね」
「機体を犠牲にしてまで、ウミの要求を叶えようとしたことが、何度もあります。それは機体の許容できる範囲を超えた負荷を生じることがわかっていて、その上で、でした。それは、あまり合理的ではないのです。機体を失えば、今後のサポートに支障をきたすことがわかっているのに」
「欲が出たんじゃないですか?」
「欲とは」
「多分それが、エイちゃんの本音なのかも」
エイちゃんは嘘をつかない。
だからきっと、彼自身にも解らないそれが、彼の『本当』なのだろう。
「ありがとう、エイちゃん。やっぱり、わたしは、エイちゃんを愛してるみたいです。絶対に見捨てませんからね」
「こちらこそ」
突発的に生じたプログラムのエラーかもしれない。
どこかで感染した電子ウイルスのせいかもしれない。
でも、その冗長性こそが、彼なのだ。
朝が来た。
嵐は去り、多くのものが流されていった。
駅のホームに堆積していた埃。
屋根の一部。
壁の塗装。
低く垂れ込めていた雲。
心に沈んでいた、一抹の不安や悩み。
同時に、多くのものが流されてやって来た。
わたしたち以外の誰かの捨てた生活ゴミ。
詳細不明の藻や瓦礫たち。
満天の青空、灼熱の陽気。
水平線の向こうに揺れる、輸送船ホエール二号。
「おい、ウミ。大丈夫だったかよ」
浅黒い肌に一筋の汗。見慣れた青年がホームに降り立った。
「はい、問題ありませんでしたよ?」
わたしはすっとぼけてみせた。
「嘘つけ。知ってんだぞ」
「へえ、何を?」
まさか。
「お前がズボラこいたせいで、ぶっ倒れたってな」
「ちょっと、エイちゃん!」
「何か起こってからでは遅いので、嵐の中ではありましたが、救援を呼んでいました」
「もー……まあ、何かあったら死んでましたよね、わたし」
「流石に船は出せなかったが、薬は用意しておいた。もう要らねえみたいだな」
「心配をかけてしまって、ごめんなさい。リクのそういうところ、大好きですよ」
一瞬、呆けたような顔をして、リクが返した。
「……突然どうした。いつものことだろ」
「じゃあ、心配ついでに一つ、頼まれごとをお願いしてもいいですか?」
「聞いてやる」
「お前は本気で言ってるのか?」
リクは驚きを跳び越えて呆れていた。
「本気ですよ」
「やってはみるが、あてはあるのか?」
「お馬鹿に頼みましょう。だから、そっちは頼みます」
「お馬鹿……ああ、わかった。それじゃあな」
遠ざかる船の影。
「エイちゃん、秘匿回線を繋いでください。WA社です」
「了解しました」
「ガリエルさーん、いますかー?」
「あ、あの、どちら様でしょうか……?」
「わたし、ウミと申します。そちらの工作員に、ガリエルという方がいらっしゃる筈なのですが!」
「申し訳ありませんが、そのような者は……――」
「『NOAH-49』『生命の樹』『敵ANGELの奪取』……――」
「な、なにを……」
ざざざ、じじっ。
「替わった。こちらジェリーフィッシュだ。本当の用事はガリエルではないのだろう?こちらのことは嫌っているものだとばかり思っていたのだがね。何か心変わりでもしたかな、ウミ殿?」
「そうですねえ……。いわばビジネスの話です」
「ほう」
「エイちゃんの演算能力、欲しくはないですか?」
「エイチャン……例の人工知能か。何だ、友人を売るのかね」
「いいえ、力を貸す、と言っているんです」
「この通信でかね?現実的ではない」
「あなたがたならできるはずです。海底ケーブルの敷設が。それを大陸のコロニーと、あなたがたの支社にでも繋いでいただけますか?」
「いちコンピューターの演算など要らんよ」
「遠隔操作のANGELで有人機に勝てるほどの演算能力でも?」
「なんだと?」
「『タカマガハラ』の再建には、おそらく膨大な量の演算が必要でしょう。力を貸すにも無線通信では限度がありますし、不安定です。検討してみてはどうでしょう?」
「何が望みだ?」
「こちらの施設の増強が必要です。そうすれば不活性のプログラムとして眠らせている演算機能を、有効化できるはず」
「……上に掛け合ってみよう。返事は同じ回線で良いかな?」
「はい。構いませんよ」
「では、一か月以内の返事を約束しよう」
「お待ちしてます」
わたしは薄く笑う。
「エイちゃんの為にも、わたしのためにも、良い方に転びそうですね」
椅子に腰かけて、背筋をぐいと伸ばす。ぱきぱきと鳴る音が、そこはかとない快感をもたらす。
「しかし、油断はなりませんよ、ウミ」
「大丈夫ですよ。何かを得ようとするのに、対価は付き物です」
「ウミ、少し変わりましたか」
「気のせいです」
わたしは変わらなくてはならない。
人は誰しも、独りではいられないのだ。
「ウミは、全てを救おうとしているのですか?」
エイちゃんはわたしに問う。
「全部は無理です。だから、せめて、私にできることくらいは」
「ウミは昔、こう言いました。『わたしとエイちゃんが居れば、それでいい』と」
「今も、そう思っていますよ。でも、それは夢のような話です。わたしがこうして世界に立っている限り、誰かと繋がらなければ生きていけないんです」
今までもそうだった。
リクが物資を運び、繋いでくれた命だった。
ガリエルとの出会いで、その置き土産で、わたしの命はさらに先を繋いだ。
WAやスオミたちとの邂逅で、この先の道に光が差した。
わたしは、誰と繋がり、繋ぐことができるだろうか。
「死にかけて気が付きました。繋がりが人を生かすのだと。何より、わたしだけに依存するのは、エイちゃんにとっても健全ではありませんし」
わたしが居なくなったとき、エイちゃんを守ってくれる人間はいない。守られるために、彼は他の誰かと繋がり、彼自身の価値を示す必要があるだろう。その価値が、そのまま彼を守ってくれるはずだ。
「まるで人の親のようです」
「エイちゃんは家族ですから、そういうこともありますよ」
人か、機械か。
わたしにはどうでもいいことだった。
空を駆けて行く影。白い雲の尾を引きながら、輸送用のANGELが青を引き裂く。
少しだけ長い時間を経て、この駅は随分と大きくなった。
大きな船が往来し、人が一時的な中継地として利用することも増えてきた。
駅の管理人として、わたしの仕事は増えていく。けれど、その拘束感、あるいは閉塞感は、わたしに繋がっていることを認識させてくれた。
「こちらウミ、ウミの駅です。え、大型輸送船の臨時寄港ですか?問題ありません、六番の臨時ホームへどうぞ」
「はいはい、第四二コロニーへの連絡船ですか?うーん、あと二時間は後です。ええ、休憩所を使ってください。運賃は……うん、足りてますね。ごゆっくりどうぞ」
「二番ホームにWA社一六番輸送船が到着します。寄せる波にご注意ください」
「そこの少年、走ってはいけません。危険です」
わたしが応対を、エイちゃんが管理事務を分担する。忙しない仕事の合間に、ほんの少しの休息がある。
「おいウミ、少しは休めてるのか?」
駅員室の扉が開き、浅黒い男が現れる。
「ああ、リク。大丈夫ですよ」
「……いいから休め。ホームは俺が見とく」
「暇なんですか?」
「おかげさまでな。俺がやるのは船の管理やら教育くらいのもんだぜ。誰かが、いろんなものを繋いじまったおかげでな」
「誰のことやら」
リクがケラケラと笑った。
「ああ、そういや……。これ、やるよ」
「なんです?」
「本だ。面白かったから、お前も読め」
渡された紙の本。表紙には『灰かぶり』とある。
「文字、読めないんじゃ?」
「いや、まあ、暇だったからな」
「なるほど、良いことです。有難く読ませてもらいますね」
リクに今日の船舶寄港予定表を渡し、わたしは奥の仮眠室に引っ込んだ。
「リク、少し変わりましたね」
「根元は変わらないように思います」
「根元って?」
「……秘密です」
「いじわる」
寝台に腰掛け、おやつの干し肉を齧る。包みには「完全培養肉使用」と記されている。
「ウミ、先ほど通信がありました」
「WAですか」
「それも、スオミからです」
「……もう数年ぶりですね」
「『タカマガハラ』の再建は、今のところ順調だそうです。動力炉の理論と構造が、試験段階まで成立。実地試験を行う予定なのだとか」
「アマノさんは?」
「和解とまではいかないのでしょうが、共に作業を行う程度には折り合いをつけているようです」
「仲直り、できるといいんですけどねぇ」
「思想の違いは如何ともし難いものです」
「アマノさんは添い遂げるつもりなんでしょう?」
「おそらくは」
「それも愛ですよ、エイちゃん」
「そういうものなのですね」
――報われるかは別だけど。
「こちらガリエル。聞こえるか」
イヤカムに割り込む無線通信。
「休憩中だったんですけど」
「いや、それはすまん」
「じゃ、用件をどうぞ」
「ジェリーフィッシュから追加の機材が届いてるぞ」
「謝礼ですか」
「ああ、天候予想がぴたりと一致した。おかげでWA本社艦が転覆せずに済んだ」
「黙ってれば、わからないのに」
「エイチャンの貢献度はそれだけ凄まじい、ってことだ。あんたがソレを守って来たことも、な」
「大袈裟ですよ。お互い、利用しているだけなんですから」
「行動には対価を。そこを崩せば、企業としちゃ終わりだ。オレ個人としても、おかげで昇進できたところもあるしな」
「二階級特進ですか?」
「勝手に殺すな」
「冗談です。それじゃ、遠慮なく貰いましょうか。荷物管理IDを送っておいてください」
「勿論だ。ふたりとも、いつも感謝してる」
通信は切れ、ホームの喧騒が再び始まる。
「ウミ。この駅は今や、それなりに重要な交通網となりました。これが、ウミの願いなのでしょうか」
「そうですよ。わたしには、この身と、この場所しかありません。エイちゃんと一緒に、この場所で生きていくんです。人類の存続とやらには興味がありませんけど、エイちゃんと離ればなれになったり、居なくなってしまうのは悲しいです。だから、わたしが居なくなっても、エイちゃんが生きていけるように」
「それは、『私』も悲しい。だからどうか、ウミが居なくなったら、と言うのはやめて欲しい」
「それは」
「『私』の願いです」
わたしたちは、初めて繋がったような気がした。
ただ、私たちは繋がった。人と人とを繋いでいった。その中継点としての、駅。それが私たちの答えだ。そしてその道は、いくらかの時を経ても続いている。
あるとき、大きな爆発が起きた。
あるとき、奇妙な病気が蔓延した。
あるとき、どこかで争いが起きた。
あるとき、静寂が訪れ、やがて駅は沢山の人で埋め尽くされた。
あるとき、駅は方舟となり、揺り籠となった。
繋がりの中で、何かが生まれ動いていく。人と人との間で、変わっていく。それ自体に善悪は無く、それを見出すとすれば人の繋がりの中にこそ有るのだろう。
愛した人よ、どうか永遠に。
結末は、未だここには無い。
見切り発車で書き殴ったお話。
お時間を頂戴して申し訳なく思います。
また、読んで頂いてありがとうございます。
人と人工知能との間に何かしらの絆が生まれたとき、
きっと、人よりもずっと先の時間まで生きていく、残された機械の意思は何を思うのでしょうか。
永遠の命にも近しく、道具として生まれた彼らは、果たして何を思うのでしょうか。
そもそも、意図されたプログラムでしかない彼らのそれは、果たして本当に意思なのでしょうか。
わたしたちの意思ですら、肉の機械に押し込められ、
遺伝子によって形作られたものだというのに、それは決めるというのは傲慢でしょうか。
答えは無いのかも知れませんね。