第3話 血染
皆さんこんばんは、星月夢夜です。
とても暑い日が続いておりますね。
私はこの前、ちょっと体調を崩しました。
皆さんも体調管理はお気をつけて。
では、本編スタートです。
雲一つない空模様の下、クライト家の庭園では雲の白さを吸い込んでしまったような真っ白なシーツたちが踊っている。それらは、まるで晴天を喜んでいるかのようだった。そんな日の朝、いつもと同じく早めの起床をしたヒビキは自室のカーテンを開け、すでにジョーカーが用意していた服に着替える。彼の朝は1人の時もあれば、ジョーカーがいる時もある。今日はどうやら1人の日なようだ。
ヒビキが自室の隣である書斎に行くと、そこには立ったまま本に何かを真剣に書いているジョーカーの姿があった。彼はヒビキが来たことに気付くと、書くことをやめ顔を上げて微笑んだ。
「ヒビキ様、おはようございます」
「おはよう、ジョーカー」
ヒビキも微笑んで挨拶を返す。
「朝食の準備ができているようですが、いかがなさいますか?」
そう言いながら、ジョーカーは本を閉じる。
「行くよ」
お腹が空いているヒビキは朝食を食べるために、ジョーカーと共に早速ダイニングルームへと向かった。
クライト家に存在する4グループのうちの1つである、コフ。朝食、昼食、夕食のメニュー考案と調理、食品の調達と管理、食器や調理場の管理等を担当する彼らは執事とメイドで構成されている。メンバーはリーダーのココア、シュガー、プリン、ソルトの4人。個性的なメンバーが多いが、彼らの腕は多方面でその力を発揮していた。
ジョーカーとダイニングルームに来たヒビキは、すぐに運ばれてきた朝食を1人で黙々と食べていた。その様子を、料理を作って運んできた張本人である屋敷のメイド、シュガーが微笑みながら隣でじっと見ていた。彼女は毎日のようにヒビキが食べている姿を、こんなふうに観察しているのである。そんなシュガーの行為を見て、ヒビキの少し後ろにいるジョーカーはため息をつく。
「まったく。それほど見る必要がありますか?」
ヒビキとシュガーの距離は、手を伸ばすと触れることができるほど近かった。
「もちろん! ヒビキ様の感想をいち早く聞くために、大事なことなのよ!」
それでは理由になっていないと思ったジョーカーはまたため息をつく。そんな彼のことなどお構いなしという感じで、シュガーはヒビキの観察を続行していた。そんな時、奥の厨房へと続く出入り口から屋敷の執事であるソルトとココア、メイドのプリンが姿を見せる。
「シュガーさん、少しいいですか?」
何か困ったような表情を浮かべながら、ソルトはヒビキの隣にいるシュガーに声をかける。
「いいよ! どうかしたの?」
「実は、今日の昼食に使うはずの食材がまだ届いていないんです。予定では、今日の早朝に届くはずだったんですが……」
深刻そうに言うソルトの隣で、プリンはのほほんと独特の雰囲気を醸し出していた。
「ソルトも私も朝からずっと待機してたのに、誰も来なかったなのー」
彼らはよく食材の在庫をチェックしている。屋敷の食を担当するコフにとってそれはとても重要な仕事であった。誰かが勝手につまみ食いをして在庫が減っている、なんてことは稀に起こるのだが、今日のように食材が届いていないというのは初めてであった。ソルトの言葉を受け、ジョーカーが自身の持つ懐中時計で現在の時刻を確認する。
「今は、早朝と呼べる時間からは程遠いですね」
シュガーは考え込むように腕を組み、ジョーカーを見る。
「配送業者に何かあったのかな?」
「きっとそうでしょうね」
そんな2人の会話を聞き、ソルトはだんだんと焦りを感じる。
「どうしましょう……このままじゃ昼食に間に合いません……!」
1人頭を抱えてしまうソルト。
「まぁまぁソルト、とりあえず落ち着くなのー」
この状況下でも全く緊迫感の無いプリンに、ソルトはまた頭を抱えた。
「昼食のメニューを変えることはできないのですか?」
ジョーカーの質問にココアが口を開く。
「メニューの変更自体はできる。だが今日頼んでるやつは、今日の分だけじゃなく数日分だ。あれが無いと、今日はいけるかもしれないが明日からのが厳しくなるうえに、再度頼んだとしても時間がかかる。あと普通にめんどくせぇ」
少し険しい顔でそう言うココア。どうやらこの状況が彼とってはもうすでに億劫なようだ。
「まぁ配送業者に何かあったっていうのは多分間違いないし、どっちにしろ調べなきゃいけないよねー」
ココアと相反してシュガーは笑顔を作っていた。とにかく楽しいことが好きな彼女は、どれだけ深刻な状況でも普段と違うというだけで楽しむことができるのだろう。ココアとシュガーの考えを聞いたジョーカーは、確認のためにヒビキを見る。
「どうなさいますか?」
ヒビキはいつの間にか食べ終わっており、皆の方を向いてその話を真剣に聞いていた。
「ソルト、その業者の人との約束の場所は、いつもこの屋敷なの?」
「はい、そうです」
こういったトラブルにまだあまり慣れていないソルトは、食材の在庫リストを両手で抱え困り果てた顔をしている。だが、この問題を解決したいという意思が彼にはあった。
「なら、この屋敷から配送会社までのルートを辿ってみよう。その道中に何かあるかもしれないし」
そこでヒビキは一度下に視線を落とす。
「数日分の食材を載せてるなら、相当目立つはず。もしかしたら、目撃者がいるかも」
そして視線を上げて皆を見る。主に答えるかのように、ジョーカーは頷いた。
「承知しました。あなた方はどうしますか? できれば、一緒に来ていただきたいのですが」
「俺はパス」
ジョーカーの提案を即答で却下し、早々に離脱するココア。
「私は行く! このままだと、ヒビキ様の観察ができなくなるもの」
シュガーは楽しそうに意気揚々と返事をする。
「ぼ、僕も行きます。購入した物や業者の方の顔が分かりますから、きっとお役に立てるはずです」
怖がりながらも、ソルトは行くことを決めたようだった。
「私も行くなのー」
相変わらずの雰囲気でプリンは返答する。
「では、早速行きましょうか」
そうしてヒビキ、ジョーカー、シュガー、プリン、ソルトの5人は、配送業者と食材を探すこととなった。
何回か配送会社に行ったというソルトの記憶を頼りに、会社までのルートを5人で周りを確認しながら歩く。最初の方は何も不審な点はなかったが、それが崩れたのはルートの中間ほどまで来た時であった。
「……あれ?」
先頭を歩いていたソルトの足が止まる。その先には、通行止めと書かれているバリケードがあった。
「おかしいですね。ついこの前まで何もなかったのに……」
首を傾げるソルト。彼と同じく、ジョーカーも違和感を感じたようだった。
「私も、この道が通行止めになるとは聞いていませんね。ここは比較的屋敷に近い場所ですから、そのようなことがあれば知らせが来るはずなのですが」
彼らはこの現状に違和感を感じつつもこれが怪しいものであるという確証はないため、無理矢理通るわけにもいかない。となれば、ここは大人しく別ルートで行くしかないだろう。
「も、もしかしたら、最近通行止めになって、配送業者の方もこのルートを通っていないかもしれません。ここは別のルートを行きましょう」
ソルトの提案に残りの4人は同意し、来た道を少し戻って別ルートで向かうことになった。
そうしてルートを変えて進み出してから少し経った時、ジョーカーがある異変に気付く。少し前を行くシュガーとプリン、ソルトには聞こえない声量で、ジョーカーはヒビキに耳打ちをする。
「……血の匂いがします」
ヒビキは一瞬ジョーカーを見たものの、すぐに前に向き直った。シュガーとプリン、ソルトもどうやら何かを感じたようだった。
「なんだかこの辺り、少し不気味じゃないですか……?」
「嫌な感じがするなのー」
「……」
今度は明らかな違和感を覚えているソルトとプリン。そんな2人とは対照的に、シュガーは珍しく無言で前を見続けている。しかし、彼女は今も笑顔を浮かべていた。
「ヒビキ様、私の側を離れないでくださいね」
「分かった」
奥に行くにつれて血の匂いが濃くなっていることから、何かを察したジョーカーはヒビキのすぐ隣を歩き始める。少し前を歩いていたシュガーとプリン、ソルトもややヒビキに近付いて歩き出す。そして少し開けた場所に出た時にヒビキたちが見たものは、血塗れになったリアカーとそれを引いていたと思われる人の姿だった。大量の血を流し、体の一部は原型をとどめていなかった。
「……」
この異常かつ非日常な事態に、ソルトは1人絶句していた。
「うわー、なの」
一方でプリンは淡々としており、シュガーは相変わらずの笑顔を浮かべて無言でいる。ジョーカーはリアカーと死体に近付き、それらを観察しながら考え事をしている。ヒビキはいつも通りの無表情だった。
「……僕たちが探していた方は、この方で間違いありません」
ソルトが小さな声でそう呟いた。配達業者の顔を知るソルトは、目の前のことに疑念を持った。なぜこの人が殺されなければならなかったのだろうか、この人が何か悪いことでもしたのだろうか。目の前で起こっていることを事実と認めたくなかった。しかし何度見ても、横たわっている血塗れの死体は彼らが探していたその人なのである。
「しかし、荷物がありませんね」
冷静に事態を捉えているジョーカーは、血塗れのリアカーに目的の物が乗っていないことに気付く。
「じゃあ、この方は、強盗に、あったってことですか?」
悲観そうな顔でソルトがジョーカーを見る。
「まだ断定はできませんが、その可能性が高そうですね」
その瞬間、ジョーカーは違和感を感じて周りにある建物に目を向ける。どうやら前は住宅街だったようだが、もう人は住んでいないようだった。建物のほとんどが廃れており、ゴーストタウン化している。だが、ジョーカーはそんな場所に人の気配を感じていた。
(すぐ近くの建物から人の気配がしますね。1人のようですが)
ジョーカーは頭の中で淡々と現状を分析していく。
(死体の状態から見て、プロの犯行ではありませんね。でしたら私1人でもどうにかなるでしょうが、今私がやるべきことは荷物の回収です。それならば……)
その時、ジョーカーにはある案が浮かぶ。それを説明する暇はないと思った彼はそれをすぐさま実行することにした。
「そこにいるのは分かっています。大人しく出てきなさい」
突然のジョーカーの発言に驚いたソルトは小さな悲鳴を上げ、反射的にジョーカーの後ろに隠れた。シュガーはいまだに相変わらずの笑顔で、プリンは不思議そうにしている。ジョーカーの隣にいるヒビキは表情一つ変えず事を見ていた。そしてジョーカーの呼びかけから数秒後、彼の予想通り1人の少年がすぐ隣の建物から出てきた。少年はとても痩せており、髪も服もボロボロであった。その手にはナイフが握られている。
「この方を襲ったのはあなたですか?」
ジョーカーからの問いに、少年は無言を返す。
「では質問を変えましょう。このリアカーに乗っていた荷物は、今どこにありますか?」
またしても無言かと思いきや、少年は口を開いた。
「……アンタ、貴族だろ」
自分に質問を投げかけてきたジョーカーに答えるわけではなく、彼はヒビキに向かってそう言った。少年の目は、ただ真っ直ぐにヒビキを捉えている。
「そうだよ」
ヒビキは変わらずの無表情だ。
「だったら、金も物資も腐るほど持ってるだろ。あれぐらい失ったって、アンタらには何ら変わりないはずだ」
「あれぐらい、ということは、荷物を奪ったのはやはりあなたですね?」
少年はまた無言になり、顔を逸らした。
「……君は、貴族が嫌い?」
その唐突なヒビキからの問いに少年は少し驚き、顔を上げる。そしてヒビキを睨んだ。その瞳には、少年の確固たる意思が見えた。
「嫌いだ、貴族なんか」
少年の答えを聞いて、ヒビキは優しく微笑む。
「僕と同じだね」
「……!」
少年は目を見開いた。まさか貴族であるヒビキからそんな言葉が出てくるなど、思いもしなかったのだろう。
「荷物は君にあげるよ」
ヒビキの隣に立つジョーカーは横目でヒビキを見る。
「そのかわり、もう人は襲わないこと。いいね?」
いつの間にかいつもの無表情に戻っていたヒビキは、少年にそう告げる。少年はヒビキの言葉に困惑の表情を見せたもののすぐに振り返り、ゴーストタウンの奥へと走り去っていった。
「本当によろしいのですか?」
ジョーカーが少し呆れた顔でヒビキに問う。
「うん」
ヒビキは前を見据えたまま答える。
「全然よろしくないですよヒビキ様! あぁどうしよう、絶対ココアさんに怒られる……」
1人落胆するソルトに、申し訳なさそうな表情を浮かべるヒビキ。
「ごめんね、ソルト。ココアには僕が言っておくから」
ヒビキがそう返すもソルトは落胆したままで、どうやら今の彼には何も届かないようだった。
「これは警察の方にお任せするとして、我々は帰りましょうか」
これ以上の長居は不要と考えたジョーカーは、部下たちに撤退の命を出す。
「はーい!」
「了解したなのー」
「……はい」
急に生気が戻ったかのように元気になったシュガーとずっと調子が変わらないプリン、そして未だに踏ん切りがつかないソルトはジョーカーの命通りに来た道を戻りだす。その少し後ろを、ジョーカーとヒビキが歩いて行く。
「何を考えてらっしゃるのですか?」
コフの3人と少し距離が開いた時、ジョーカーはヒビキに話題を持ちかけた。
「……彼のことを、試してみたいんだ」
主からの予想だにしない返答にジョーカーは少し驚く。ヒビキが他者に対してそのようなことを言うのは、これが初めてであった。
「僕と同じ志を持っているかもしれない彼を、ね」
ヒビキは微笑む。
「これから彼がどう出るか、少し楽しみだね」
隣でそう言う主を見てジョーカーは、やはりこの方は自分に少し似ているなと思っていた。
その出来事から約1週間後のとある朝。書斎でヒビキ、ジョーカー、そしてソルトの3人がその日の朝刊を確認すると、配送業者が何者かに襲われる事例が多発しているという記事が、表紙を大々的に飾っていた。記事には襲われた配送業者は見るも無惨な姿になっている、と書かれている。
「……これ、あの子だよね」
記事を見ながらヒビキがポツリと呟いた。
「えぇ、そうでしょうね」
ヒビキの隣でジョーカーは笑顔でそう返す。
「……」
ヒビキはずっと無言で視線を変えようとはしない。表情こそ変わらないものの、その瞳はどこか暗いような気がした。すると突然、朝刊をじっと見つめていたソルトが顔を上げる。
「僕、もう一度その子に会ってきます!」
そしてそう言い放ち、そのまま足早に部屋を出て行った。それは大人しい性格であるソルトからは考えられない行動であった。しかしながら、ヒビキとジョーカーには彼が少年に会いに行った理由が分かっていた。だからこそ、2人はソルトを追いかけることができなかった。
「……ソルト」
ジョーカーは考える。あの少年に善か悪かの選択肢を与えたのはヒビキだ。彼がどちらの道に進んだとしてもそれは少年が自分で決めたことであり、どんな結果になろうともそれは誰のせいでもない。だが、ソルトはそのようには思っていなかった。少年が間違った道へと進んでしまったのは、自分のせいだと思っている。ジョーカーはそう考えていた。
「……」
彼は、今の自分がやるべきことが分かっていた。自分の部下であるソルトをあの少年から救わなければならない、と。心の中でため息をつきつつ、ジョーカーは上司としてやるべきことをやろうと思ったのであった。
ソルトは街を走っていた。記事に書かれていた配送業者が襲われていたのは、全て少年と出会ったあのゴーストタウンの近辺だった。ならばそこに行けばもう一度少年に会えるかもしれない、ソルトはそう思っていた。ソルトは普段の業者との連絡、そして貨物の輸送に関する事を任されている。だからこそ、彼は今回のことに責任を感じていた。自分がもっとしっかりしていれば。自分がもっと世間の事を知っていれば。自分が、自分が。
例のゴーストタウンに到着したソルトは早くに街の中で1人佇むあの少年を見つける。彼はソルトに気付くと、慌てて近くの家へと逃げ込んだ。
「ま、待って!」
おそらくいつものソルトならば警戒してすぐには追いかけないだろうが、今の彼には考える余裕などはなく、疑うことを一切せずに彼を追いかけた。それが、正しい道だと信じて。
しかし、そんなソルトの理想はあっけなく打ち砕かれた。ソルトは少年が入った家に入ってすぐに頭に強い衝撃を受ける。それが少年に殴られたことによるものだと、そう理解するのに時間がかかった。視界が大きく揺れ、そのまま床に倒れる。少年は両手で鉄パイプを持ち、床に臥したソルトを見下ろしていた。
「……どう、して」
ソルトのか細いその呟きを聞いて、少年は驚く。ソルトは意識が朦朧とするなか、床に臥したまま話し始めた。
「どうして、ヒビキ様の忠告を、聞かなかったの。どうして、あの時で、やめなかったの」
そう言いながらゆっくり体を起こそうとするソルト。血の間から見えるその目は、少年を真っ直ぐに捉えていた。
「こんな事を、続けても、君のためにならない。ヒビキ様は、君を、助けようとしてた!」
ソルトは自身が酷い状態にされてもなお、少年のことを思い続けていた。しかしながら、相反して少年の表情は険しくなっていく。少年を思い遣ったソルトの言葉は、今の少年にとっては火に油のようだった。
「うるさい!!」
突然怒鳴った少年はソルトを睨む。
「お前らに何が分かる! 恵まれているお前らなんかに、何が分かるんだ!!」
少年の言葉を聞いたソルトは目を見開く。
「俺みたいな貧民を、貴族は奴隷のように扱う。最初から人として見ちゃいないんだ。飯も睡眠もろくにとらせず、毎日毎日こき使って。それで死んでいったヤツを、俺は何人も見てきた。アイツらは、自分の事しか考えないただの腐った外道だ! そんなヤツらの助けなんか、こっちから願い下げだ!」
少年の今までの鬱憤が、ソルトの言葉をきっかけに全て吐き出される。ソルトは、少年の言葉を聞いて気が動転した。今までヒビキ以外の貴族と関わったことがないソルトにとって、それは衝撃的な内容だった。
「お前も、他の使用人たちも、あの貴族に洗脳されてるんだ。思い込みたいんだよ、自分は大丈夫だって」
少年は話しながらゆっくりとソルトに近付いていく。ソルトは危険を感じ少年から離れようとするも、体に力が入らず思うように動かない。
「そうやってお前も他人を見下して、アイツらと同じになっていくんだ」
ついにソルトの近くまで来た時、少年はソルトめがけて鉄パイプを振りかぶった。
「貴族なんて、みんな死ねばいい」
自力で逃げることができないソルトは、見ることしかできなかった。貴族を恨み、憎み、負の感情を他者にぶつけようとする少年を。そして、少年が鉄パイプを振り下ろそうとしたその時だった。
「まったくもって同意見ですね」
家の裏口から落ち着いた男性の声が聞こえる。少年が驚いて振り返ると、そこには微笑みを浮かべるジョーカーの姿があった。
「ジョーカーさん……!」
ジョーカーが来るとは微塵も思っていなかったソルトは目を見張る。
「お前、あの時の執事……!」
自分が貴族に目をつけられ、こんな面倒なことに巻き込まれているのは全てこの執事のせいだと思った少年は、ジョーカーに対して怒りを抱く。そんなことなどお構いなく、といった感じでジョーカーは少年に近付いていく。
「来るな!!」
少年の制止を聞くことはなく、歩みを止めないジョーカー。
「ヒビキ様も私も、貴族は嫌いですので。貴方とは、とても気が合いそうです」
ジョーカーは少年の持つ鉄パイプが自身に届かないところで止まる。
「しかしながら、それでもヒビキ様も貴族ですので。貴族への侮辱はヒビキ様への侮辱。この意味が、貴方にお分かりですか?」
そう言って不気味な微笑みを見せるジョーカー。次の瞬間、素早く左足を前に出すとそれを軸として右足で少年を思い切り蹴り飛ばした。その衝撃で少年は手から鉄パイプを落とし、数メートル先の壁に激突する。そのまま床に落ちた少年は呻き声をあげ嘔吐いている。あまりにも突然のことで、ソルトは思考が追いつかなかった。そんなソルトにジョーカーは寄っていき、片膝をついてソルトと目線を合わせる。
「酷くやられましたね、ソルト。早く屋敷に戻って手当をしなければ」
笑顔でソルトを心配するジョーカーだが、その意識はすでに少年に向けられていた。ソルトは少年にゆっくりと近付こうとするジョーカーを見て、自分が止めなければと衝動的に感じた。
「待ってください……!」
ソルトの言葉を聞いたジョーカーはその歩みを止めてソルトを見る。
「彼を、殺してはいけません……! まだ、まだ話は、終わっていないんです……!」
ジョーカーはソルトを見ながらその言葉を聞きつつも、その意識はやはり少年にあった。なぜなら、少年が隠し持っていたナイフを握り、ふらふらしながらも立ち上がったためであった。そのことに、ソルトは気付いていない。彼は必死な目でジョーカーを見つめていた。
「ソルト。1つ言っておきますが」
そんなソルトに答えるかのように、ジョーカーは話し出す。
「一度選択してしまったものは、もう元には戻せないのです」
ジョーカーがそう言うのとほぼ同時に、少年が怒りの剣幕で2人に向かってきた。ジョーカーはソルトを守るように、彼を右手で自分に引き寄せて少し後ろにさげる。そして向かってきた少年の右手首を掴み、食いとめた。
「時には、諦めた方が良いこともあるのだということを、よく覚えておいてください」
ソルトに向かって淡々とそう話すジョーカー。ソルトはジョーカーを見てはいるが、今は彼の言葉が聞ける状態ではなかった。
「あぁ、そうそう。それ、お返ししますよ」
何かを思い出したようにジョーカーは少年を見、掴んでいる少年の右手首を解放すると同時に、左足で彼の右腕を下から蹴る。その衝撃で少年の手から離れたナイフを、ジョーカーは素早く左手で取ると、そのまま少年の心臓を的確に刺した。それにより絶命した少年は、力無く後ろに倒れる。それらは、本当に一瞬の出来事であった。
「……」
ジョーカーに抱えられているソルトはあまりのショックと頭を殴られた反動が重なり、意識を失ってしまった。
「おや」
そんな状況下でただ1人、ジョーカーは冷静だった。大怪我を負っているソルトを早く屋敷に連れて帰らねばと思うものの、この死体をどうしようかとジョーカーが考えていた時に裏口から人の気配がした。そして、そこから姿を現したのはココアだった。彼は無言で家に入ってくると、ナイフが刺さった少年の死体を見てため息をついた。
「お前なら、そうすると思ったよ」
そう言いながら、ココアは頭を掻く。
「ソルトに聞いたのですか?」
「……あぁ」
面倒事が嫌いなココアだが、それでも自身の部下のことは気になったようだった。
「それで、わざわざ追いかけてきたのです?」
「……悪いか」
素っ気なく答えるココアに、ジョーカーは笑顔を向ける。
「いいえ」
ココアはジョーカーを見る。その時、彼は大怪我を負ったソルトの存在に初めて気付いた。
「おい、ソルトは大丈夫なのか」
「早く屋敷に連れて帰った方がよろしいでしょうね。ですが、私はこの死体の処理がありますので、ソルトを連れて先に行っていただけますか?」
そう言うとココアの返事を聞くよりも早くジョーカーはソルトを横に抱き、ココアに引渡した。
「……」
少し不服そうなココアだったが、ソルトの身を案じたのか足早に裏口から出て行った。ココアがソルトを連れていなくなった後、それまで笑顔を見せていたジョーカーだったが何を思ったか急に無表情になり、ただ横たわった死体を見つめていた。
死体の処理を終わらせたジョーカーは早急に屋敷へと戻る。屋敷に着いた彼は、すぐにヒビキのもとに向かう。この事の顛末を、なるべく早く主に伝えなければと思ったからであった。書斎に入ったジョーカーはヒビキに向かって一礼する。
「ヒビキ様、ただいま戻りました」
書斎にはヒビキだけでなく、シュガーとプリンの姿もあった。
「おかえり、ジョーカー」
ヒビキは微笑んでジョーカーに返事をする。ソファの周りを行ったり来たりしていたシュガーは、ジョーカーを見ると急いで寄ってきた。
「ねぇジョーカー! ココアが大怪我してるソルトを運んできたんだけど!」
「一体何があったなのー?」
少し興奮気味のシュガーに対して、プリンはいつも通りだった。
「今から、全て説明いたしますので」
シュガーの勢いにも臆することなく、冷静なジョーカー。そして彼は、あの廃屋で起こった出来事を3人に話した。
「……ソルトはしばらくひきずるでしょうね」
シュガーは先ほどとは打って変わって、肩を落としてそう言った。
「えぇ。しかしながら、ソルトは何も悪くありません」
「そう言っても、今のソルトには何の意味もないなの。その言葉で気にしなくなるほど、ソルトはまだ強くないなの」
ソファにもたれかかってぼんやり天井を眺めているプリンだが、その言葉は鋭い。だが彼女が言ったことには、他の3人も賛成であった。屋敷の使用人の中で最年少であるソルトにはまだ経験が足りない。それはソルト自身も分かっている事である。彼はまだ成長途中であり、これもまた1つの経験としてソルトの中に刻まれるのだろう。
「ヒビキ様、ソルトは今どこにいますか?」
「ココアが処置室に連れて行ったよ」
ジョーカーはソルトに会わねばと思っていた。
「……私はソルトに会ってまいります」
そう言ってヒビキに再度一礼をし、ジョーカーは書斎を出て行った。彼が出て行った後、プリンは不思議そうな顔を浮かべる。
「ジョーカーさんは、ソルトに申し訳なさを感じてるなの?」
シュガーは唸って首を傾げる。
「うーんジョーカーに限って、そんなことはないと思うんだけど。まぁでも、何かしら思うことがあったんじゃないかな?」
シュガーとプリンがそんな会話をしている一方で、ヒビキはただ黙って、前を見続けていた。
屋敷の者が怪我をした時のためにある処置室は普段はクライト家に存在するグループのうちの1つ、インカが管理をしている。そこにはいくつかのベッドがあり、その隣の小さな部屋には様々な種類の薬品や包帯などが置かれていた。
そんな処置室に着いたジョーカーは奥のベッドで上半身を起こし、頭に包帯を巻いて悲しげな表情を浮かべるソルトを見つける。ジョーカーが部屋に入ってくると、ソルトは彼の姿に気付く。
「ジョーカーさん……」
ソルトはジョーカーに無理をした笑顔を向ける。そんなソルトに何も言わず、ジョーカーは彼の近くに寄りベッドの横に置いてある小さな丸いイスに座る。
「あの、僕のこと、助けてくださってありがとうございました」
そう言うとゆっくりと頭を下げるソルト。そんなソルトにジョーカーは微笑む。
「……怒らないんですね。私のことを」
ソルトもまた、微笑んだ。
「ジョーカーさんが、僕の命を助けてくださったのは事実ですから」
「あなたは、本当に心が広いんですね」
ジョーカーの言葉を聞いて、ソルトは顔を下に向ける。
「今でも少し、あの子を助けられたんじゃないかって、そう思っているんです」
そして静かに話し出す。
「僕も、あの子と同じ貧民でしたから。あの子の痛みはよく分かるんです。だからこそ、彼を助けてあげたかった。もしかしたら僕は、あの子と過去の自分を重ねていたのかもしれません。過去の自分に、何か償いができないかと」
そう言ってソルトはジョーカーを見て、また微笑む。
「でも、今の僕がやるべきことは過去の自分への償いじゃない。今なら、それが分かります」
「……」
ジョーカーは黙ってソルトの言葉を聞いていた。
「今の僕には、ヒビキ様がいます。あの方が僕を救ってくださった。その恩を、忘れたくないんです」
そしてソルトは自分の胸に手を当てる。
「……きっと、今日の出来事はあなたにとって、良い意味でも悪い意味でも印象に残るものだと思います」
ゆっくりと話し出すジョーカー。
「人生の選択において、正解も不正解もありません。大切なのは、後悔しない方を選ぶことです」
そして彼はソルトに笑顔を向けた。
「あなたの選択を、私はいつだって尊重しますよ、ソルト」
ジョーカーの言葉にソルトはハッとし、輝いた笑顔を見せる。
そんな2人の会話を、処置室の外で聞くココアの姿があった。彼はその会話を聞くと、その場から立ち去っていった。
再度皆さんこんばんは、星月夢夜です。
今回はコフが主役の回です。
主役はソルト、といったところでしょうか。
第3話のタイトルは「血染」と、とても物騒ですね。
ソルトやジョーカーの決断が果たして良いものだったのか。
クライト家の使用人たちのこれからの人生が
血染にならないことを祈るばかりです。
それでは、本日もお世話をしてくれている家族と
インスピレーション提供の友達に感謝しつつ
後書きとさせていただきます。
星月夢夜