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「本当にいたのかい」
「いたさ。ベネルが持ってるビルヒ玉より青いやつだ」
「ちょっと信じられないね」
「ミシャは疑り深いなあ。疑り深いやつは損をするってね」
「だれが言ったの?」
「ばあちゃんだっけか、とにかく、ニベルセの市場へ持って行けば、五千キインはカタいってもんだ」
「だけど滝の裏側にはオロセが棲んでいて、毒を吐くそうじゃないか。ガル山のサンジンたちだって、あの辺りでは梁を仕掛けたがらないというぜ」
最初にとり戻したのは音だった。
せせらぎが耳もとで絶え間なく鳴っていた。
やがて触感が、まずは右手の先から、蘇ってきた。
ひんやりと、
水の冷たさが、熱をもっているらしい身体に心地よかった。指ばかり、かろうじて動かすと、水の抵抗をかすかに感じた。
せせらぎの向こうから、さっきの声がまた聴こえた。こちらへ近づいてくるようだ。
「ちぇ、怖いのかよお」
「もちろん怖いさ。だれだって、こわいものは怖いだろう」
「弱虫だなあ、ミシャは。あんな小さな滝にオロセなんて、いるわけないじゃないか。セイジャーバを独り占めしようとして、嘘を広めたやつがいるんだよ」
糸がつながるように、不意に嗅覚が戻り、湿った土と旺盛な植物のにおいが一気に押し寄せてきた。においに溺れた者が、これまでいただろうか。もしいないとしたら、かれが第一号になったかもしれない。
「……!!」
ひと呼吸ごとに大量のにおいが流れ込み、気管支を詰まらせた。のたうちまわりたくても筋肉は相変わらず弛緩したまま、むやみに指を折り曲げ、痙攣的に身体を震わせた。
やがて弾むような息づかいが間近く聴こえたが、自身の苦痛に圧倒されたまま、うめき声ひとつたてられなかった。
「そこだよ、本当に怖いのは。たとえ滝の後ろからオロセがぬっとあらわれても、一目散に逃げてしまえばいい。ところがオロセの代わりに嘘を広めた何者かがいたとしたら、そいつは木の陰にじっと隠れて、ぼくたちのことを見張っているだろう。隙をみて後ろから、滝壺に突き落とすつもりかも……」
ひとつの足音がぴたりと止まり、もうひとつの音も、おずおずと途絶えた。
「どうしたの」
「しっ……だれかいるみたいだ」
瞼が開くと同時に、とめどなく咳があふれた。ようやくにおいの呪縛を解かれた気管支から、清涼な酸素が五体に染みこむのを覚えた。
涙でかすむ視界の中に、大小二つの人影がみとめられた。声の印象では二人とも男の子と思われたが、そのうちの一人はまるまると肥えて上背もあり、とても子供の体格に見えない。セキトリ、という言葉が、それが何を意味するか失念されたまま浮かんだ。
もう一人は手足の華奢な、いかにも少年らしい体つき。長い巻き毛が肩にかかっていた。涙と木もれ陽のため二人とも輪郭の中は塗りつぶされていた。まだぼんやりした意識も相まって、メルヘンの影絵を見ているように感じられた。ほっそりした影の後ろで、「セキトリ」が戯画的に躍り上がっていた。
「ガートンだ! 棒で叩きのめしてやる」
棒を探すつもりか、「セキトリ」は逆方向へ駆けだそうとした。けれどもその襟首は、たちまち敏捷な腕にとらえられた。じたばたしている太い手足を、落ち着いた声がたしなめる。
「待つんだ、デーコ、これはガートンじゃない」
デーコと呼ばれた丸い人影を置き去りにしたまま、もう一人の少年が近づいてきた。かれの前で身をかがめ、振り向かずに言う。
「間違いない、人だよ」
「こんな変てこな恰好の人間がいるもんか」
「バイラン低地人かもしれないけど、でも今は低地人だって、むやみに傷つけたら罰をうけるよ。それにこの人、怪我をしてるみたいだし」
瞬きを繰りかえすうちに、徐々に視界が開けてきた。金色の巻き毛に縁取られた白い顔が目の前にせまっていた。かれをじっと覗きこんでいる、碧い瞳。薔薇のつぼみを想わせる、ふっくらとした唇。これではまたヴェニスで死人が出るなあと、意味不明な考えが浮かんだとき、少年が尋ねた。
「武器はもっていない」
「たぶん、もっていない」
他人が喋っているような、かすれた声が洩れた。なぜ真っ先にそんな質問をされたのか理解できず、そういえば海の向こうでは、筒の先から火を吹き出し、人も猛獣も一撃で撃ち抜く武器がそのへんの店舗で売られており、市民が普通に持ち歩いているのだっけ。あの武器の名前はシュワルツェネッガーだったか、考えこんでいるうちに、今さらながら、とある重大な事実に気がついた。
武器の名称だけではない。
思い出せないではないか。
自分自身の名前を!