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「さあ空は綺麗に晴れわたりました。府中の森には心地よい風が吹いておりますが、ここ東京競馬場はいま、十四万八千人の熱気に包まれ、揺れ動こうとしています」
ざわざわと流砂が鳴るように、どこからか声が聞こえた。
いったいだれが、どこで喋っているのか、その声はとても遠くから聴こえるようでもあり、自身の頭の中で鳴っているようにも感じられた。
何かが狂っていた。
あるがままの姿で安定していなければならない世界が、あってはならない形に変化しようとしていた。奇怪な雑音はその前兆なのだろうか。
どこか自分の知らないところで、見知らぬ男たちが見知らぬ声で、しきりに話し合っていた。何よりも耐えがたいのは、その話題がかれ自身の上に及んでいるらしいことだった。
ホースの上で、かれは小刻みに震えながらこめかみを押さえた。
「本日この場所で最強の三歳馬が決せられるわけですが、例年にも増して盛り上がりをみせているのは、なんといっても無敗の二頭が、初めてこの場所で激突するからなんですねえ」
「そうなんです。一頭は言うまでもなく、皐月賞を圧倒的脚力で制した黒い巨星こと、キュクロプス。そしてもう一頭は地方競馬出身ながら、青葉賞では残り四百メートルからの驚異的な末脚を発揮し、十三頭を一気に抜いてトップに躍り出た白い稲妻こと、タケミカヅチ」
「二頭の初顔合わせが日本ダービーという大舞台になったのも、運命的な巡り合わせを感じますね」
「はい。しかも無敵・無敗の二頭を駆るのがまた、近ごろ最も注目を集めている二名の若手とくれば、否が応でも盛り上がろうというものです」
「皐月賞の勝者、キュクロプスを駆るのは二十一歳の女傑、フジシロ・ヤエカ。去年もGⅠで三勝するなど飛ぶ鳥を落とす勢いで、夢のクラシックレース三冠に挑みます」
「しかも、もしこのレースで彼女が勝てば、史上最年少のダービー覇者となりますから、これはもう、女性騎手としても大変な栄誉となるのですね」
「そして白い稲妻、タケミカヅチに騎乗するのが、弱冠十九歳のハザマ・タケルであります」
「かれはこの馬とともに、彗星のごとくあらわれました。人気のほうは若干キュクロプス寄りですが、青葉賞でみせた末脚の衝撃は、一部でディープインパクトの再来と噂されるほど。またハザマくん自身、たいへん若い方ですので、このレースを制すれば夢のサクセスストーリーに世間を酔わせること必至でしょう」
ゲートに収まったところで、ヤエカはさっきから感じていた違和感の正体に、ようやく気づいた。
(この子が怯えてる? まさか……)
見かけによらずデリケートな馬だということは、重々承知していた。だからこそ、自分以外の誰も乗りこなせなかったのではないか。調教師すら匙を投げかけていた二歳馬をたまたま美浦で見かけ、軽々と駆けてみせたのは自分のはずだ。
十五万人の観衆に怯えたのか。いや大舞台でこそ、この子は力を発揮する馬だ。
ならば、いったい何が……?
「こわくない、こわくない」
歌うような口調でそうつぶやきながら、ヤエカはキュクロプスの頸にぴったりと身を寄せた。漆黒の鬣をとおして、ぶるぶると軽い嘶きが伝わり、その奥に底の知れない絶望を見る思いがした。
「こわくない」
次に決然と自身に言い聞かせて顔を上げ、ぎゅっと手綱を握りしめた。
「これはどうしたことでしょう。ゲートの開閉に何らかのトラブルが生じたと思われます。ただいま係員が駆けつけて検査を行う模様です。これはちょっと心配な事態に……いえ、どうやら問題は取り除かれたようです。十四万八千の大観衆が安堵の歓声を上げます。さあ、ちょうど時間となり、いよいよ第◇◇回日本ダービーがスタートを迎えます」