僕は奇跡を信じない
奇跡、という言葉がある。
主にもの凄く低い確率の賭けに勝ったときなどに使われる言葉だ。
そんなもの、ありはしない。全て偶然か必然の産物。
だから僕はその言葉が、大嫌いだ。
「なんで恭弥はそんなに奇跡が嫌いなのかなぁ。いいじゃん。なんかロマンチックで」
少しふてくされた女の子の声がどこまでも続く青い空に響く。
「だから嫌いってんだよ。そんなもん確率論だって」
高校の屋上に僕達はいた。春特有の強い風は遅咲きの桜を容赦なく散らしていく。
僕の隣では未来が頬を膨らませている。風になびく彼女の黒い長髪はとても魅力的だった。
「なんだよ。風船の真似?」
なんとなく、少しだけからかってみたくなったから、言ってみる。
「そうじゃないけど。なんか君って現実主義者だよね。私達が出会ったのだって奇跡だとか思わないの?」
……ああ。そういうことか。やっと気づいた。女の子って結構大変だな。でも、気づかないフリをしよう。
「たまたま同じ年度で同じ国の同じ地方の割りと近い場所に生まれて育っただけだろ」
言いながら、膨らんでいる頬っぺたを指で押した。
「でも、確率的に低いのは確かだよな。それは認めるよ」
妥協案を提示してみた。嘘はよくないと思うし。
「ならいいんですけどね」
途端に未来は笑顔になった。ころころと変わる彼女の表情は素直に可愛いと思う。
二人して笑っていると、別れを告げる午後の授業の予鈴が鳴った。
残念ながら違うクラスの僕と未来は、屋上を後にすると、二階の階段で別れた。この学校は一年生の教室が三階で、学年が上がることに階数が下がる。中央階段を挟んで、僕達のクラスは左右に分かれている。
「じゃあ、また放課後」
手を振ると未来もそれに倣う。
僕達は正式な恋人ではない。まだ告白をしていないからだ。事実上そんなような存在だとしても、こういうのはキッチリとやっておきたい、と思うのは男のエゴだろうか。
教室に向かいながら考えていた。
「日曜日辺りでも、何処か行くときに、かな」
だが、そうやって考えているうちに結局何もなく終わってしまい、また次の週に先延ばしになる……それを繰り返した結果がこの有様だ。
未来は、きっと受け入れてくれると思う……けど、それは絶対ではないし、今のままの関係でもいい気がする……でも、しっかり告白したい。完璧な堂々巡りだ。
結局、その日の午後の授業は手につかなかった。もっとも、真面目に受けなくても赤点は回避できているから、問題はないとは思うけど。
「きょーうやっ! お待たせ!」
赤く染まった世界に、彼女の高い声が溶けていく。こちらに向かって未来が走ってきた。
「遅いぞ。未来」
午後五時十二分、僕達は学校の正門前にいた。そこまで広くない公立高校の正門だから、すぐ分かるし、そもそも未来を見間違うわけはない。
「十二分の遅刻だ」
僕が高校入学時に買ってもらった腕時計を指すと、彼女は息を切らしつつ、少しバツの悪そうな顔をした。
「相変わらず時間に厳しいなぁ」
「それが当たり前なんだって。……まぁいいや。帰ろうよ」
言って、僕と未来は夕暮れの中を歩き出す。影が二つ、どこまでも伸びていく。ずっとずっと。それがとても綺麗で、このまま時が止まってしまえばいいのに、と願ってしまう。
「……あの、さ。恭弥、土日どっちか空いてる?」
静寂を破り、いきなり彼女が切り出した。
「どっちも空いてるよ」
正直、僕は暇を持て余していた。バイトも部活もしていなくて、勉強熱心でもない高校生の土日なんてそんなものだ。
「じゃあ明日さ……」
未来は頬を赤らめもじもじしている。いつも元気な彼女のそんな姿を見たのは初めてだった。
「う……うちに、来ない?」
「え?」
思考がフリーズする。未来の家までは自転車で二十分ぐらい。遠くはないけど……。
「僕が? 未来の家に?」
思わず声が上ずってしまった。
「あ、嫌ならいいの。ゴメンね」
「嫌じゃないけど……」
未来と知り合ったのは去年の秋。図書室で数学の教科書を前に唸っていた彼女に、公式を教えたのが始まりだった。あんまりにもうるさいから見るに見かねて、だったけど。
そこからもう半年以上経つが、未来の家に行ったことはない。というか女の子の家に行くこと自体初めてだった。
「いいの? 家族の人とかは?」
年頃の娘の家に男が行く、なんてあまりいい顔をしないのではないか。
「あ、大丈夫。実はね、お父さんとお母さん、日帰りで旅行に行っちゃうんだ」
……つまり、二人きり、ということだろうか。
「ど、どうかな? 夜までいないんだけど」
未来の声は心なしか震えてる気がした。少しだけ悩んだけど、答えは変わらない。
「僕はいいけど……」
その瞬間、彼女の顔がぱあっと明るくなる。まるで、真夏のひまわりのように。
「じゃあ、晩御飯とか作るね! 買い物しなきゃ!」
「ああ。一時くらいに一旦駅前に集合して、食材とか買ってそれから行く、でいいかな?」
口が勝手に動いた。むずかゆいような気分。
「うん。……あはは、なんか嬉しいな」
小さく呟いた彼女はそれきり黙ってしまい、僕達は言葉を交わすことなく歩いていった。
僕が帰宅した後、なんとなく洋服を並べて格好をコーディネートをしたのは、別に変な意味があってのことじゃない……と思う……。
そして、土曜日が来た。
珍しく朝からシャワーを浴びて、念入りに歯磨きをして、20分も予定に余裕を持って家を出た。本当に、別にやましい気持ちがあるわけではない。……はずだ。
まぁ、休日に女の子に会うなら普通だろう、と自分自身に言い訳をしながら、それでも胸の鼓動は高まっていた。
……だけど、彼女は時間になっても来なかった。
「未来、遅いな……」
携帯を取り出すと、13:35と表示されている。勿論メールも着信もない。こちらからかけても留守番電話になってしまうし、メールは返ってこない。
確かに少々時間にルーズではあるが、三十分以上も連絡なしに遅れてきたのははじめてだった。
何度目か分からないくらいに左右を見回すが、人ごみの中に彼女らしき人物はいない。
(どうしたのかな……)
少し心配になりかけたその時。やけにサイレンがうるさい事に気づく。
「女の子が事故に遭ったって」
「結構血とか出てたよな……」
街行く人々の会話が耳に入り、なんとなくサイレンの方へ向かった。
そう。なんとなく、だ。暇つぶしだ。未来が遅いから、様子を見に行っただけだ。すれ違いになっても、そもそも向こうが悪いんだし……。
何故か頭の中が言い訳でいっぱいだった。
救急車とパトカーのサイレンと、回転灯が近くなっていく。人ごみが増えていく。
近づいていく。心臓の音がうるさい。人の波が邪魔だ。
たどり着いた先。そこで僕は見た。見てしまった。真っ白な顔をして、綺麗な髪といつもよりお洒落な服を真っ赤に染めて……未来が、そこにいたのを。
その瞬間、僕の世界は崩れていった。
未来は、一命を取り留め、次の日に意識も回復した。そう。「奇跡」的に。
「あはは。大遅刻だね。ごめん」
僕が見舞いに行くと、未来はそう言って笑っている。今日は月曜日。僕は学校に行かずに病院にいた。
「全くだよ。二日以上の遅刻だ」
減らず口を叩いたが、それでも声が震えている。未来は一命をとりとめた。意識も戻った。だけど、彼女はベッドの上だ。面会謝絶から一般病棟に移ってすぐに僕は会いに行ったのだ。
「お父さんとお母さんにも悪いことしちゃったな。旅行が台無しだよ」
なんでこんなになってまで、彼女は笑えるんだろう。なんで。
「体、平気か?」
そんなことしか言えない自分が嫌になる。もっと気の利いた言葉だってあるはずなのに、この消毒液の匂いがする部屋では、そんなものは思いつかなかった。
「うん。大丈夫」
彼女のその声は震えていた。そして。
「……けどね。もう、足は動かないと思うって 動いたら、奇跡だって」
そう続けた未来の大きな瞳から雫が落ちる。
何も言えなかった。体が固まって動かない。頭が麻痺している。口の中がカラカラだ。奇跡だと? ふざけるな! 誰だ、そんな事を言ったのは!
体が震えた。怒りと、悲しみと、言いようのない黒い感情に。
「もう、今の高校にはいられないね。ゴメンね。恭弥」
その声は授業中に国語の教科書を読まされたときのように淡々としていた。
「僕が」
ようやく少しだけ震えが収まると、堰を切ったように言葉が溢れた。
「……僕が一生ついてるよ。学校も移る。サポートする。だから」
次の言葉は言えなかった。彼女は上半身だけ動かして僕の唇を自身のそれで塞いだからだ。
初めてのキスはレモンの味じゃなくて、塩辛かった。
「いいの。もう、言わないで。恭弥の重荷になりたくない。ありがとう。好きでした」
面会時間が終わって僕が閉め出されるまで、僕達は泣き続けた。
病院の前のベンチに僕は座っていた。
亡霊のようになって、病室を後にしてからずっとそこにいた。夕方になって、夜になっても。
「帰らなきゃ……」
自宅からの着信番号で、携帯が鳴りっぱなしだ。きっと、何処にいるか心配になったのだろう。行き先を話すべきじゃなかった。
帰宅した僕を、家族は何も言わずに迎えてくれた。それすら、気に食わない。
次の日。登校した僕を待っていたのは、クラスメートの微妙な視線だった。
何を言っていいか分からない、といった風な空気。余計なお世話だった。
ホームルームが始まって終わると、僕は担任に呼び出された。
未来が転校したこと。そして、彼の人生観からくるアドバイスをいただいた。中身は覚えていない。ありがとうございます。それからもう一つ。……くたばれ。
空っぽになった僕。その日常はそれから一変した。
何かのめり込めるものが欲しくて、僕は参考書を手にした。
未来を失った穴を埋めるものならなんでもよかった。タバコでも酒でもドラッグでも。ただ、勉強が一番費用対効果がよくて、周囲の評価も上がるからそれを選んだだけだった。もう、未来に勉強を教わることも教えることもできないから、僕はずっと一人で机に向かっていた。成績はみるみる上がったが、嬉しくともなんともなかった。喜びもなかった。
そもそも、僕はあの日以来、一度も笑った記憶がない。
感情なんて余計なものだ。喜びも期待も、あれば希望を持ってしまう。そしてどうせ、希望は絶望に変わってしまうのだろう。だから僕は感情をタンスに乱暴に詰め込み、その引き出しに鍵をかけた。重荷はいらなかった。背負うものは軽いほうがいい。
時間は順調に潰れていって、僕は進学の時期を迎える。そしてそのまま目標の国立大学の医学部に受かった。卒業までの間に未来に会うことはなかった。彼女は転校に伴って引越しをしていた。行き先は僕も知らない。聞き出すことはできたのだろうが、黙って去った、ということはきっと知られたくなかったのだろう。だから、聞かないことにした。
大学で六年間は味気ないものだった。勉学に打ち込むとあっという間に過ぎ去った。
……少しだけ、例外もあったのだけれど。
「いつも授業や勉強で頑張ってる恭弥さんが好きなんです!」
それは三年生の夏だった。学業を終えた僕が帰ろうとすると、人気のなくなった廊下でそう言われた。確か同じどこかで同じ講義を受けている女の子だ。名前は……思い出せない。
「付き合ってください!」
断る理由がなかった僕は、なんとなく、返事をしてしまった。
「ああ、いいよ」
その瞬間、女の子の顔が明るくなった。僕は前にも似た表情を見た気がする。何処でだったかは分からないけど。
「じゃ、じゃあ、明日、どこか行きませんか?」
「そうだね、駅前で待ち合わせ……」
一瞬、脳裏に何かがよぎった。とてもとても冷たくて苦しい記憶。
「……いや、やめよう。僕が家まで迎えに行くよ」
彼女は喜んでくれた。でも、何かが違う。本当は苦しかった。なんでだろう。どうして。
次の日の初デートもそうだった。終始笑顔の彼女を見ていると、胸が苦しくなる。その顔に、別の顔が重なる。
――恭弥。
誰かに呼ばれた気がして振り返るけど、そこには誰もいない。誰の声なのかも思い出せないのに、悲しくてたまらない。
「恭弥さん、どうしました?」
「いや、なんでもない……かな」
嘘だった。切ない。こんな気持ちは久しぶりだった。いや、もしかしたら、生まれて初めてだったのかもしれない。
やがて僕はその痛みで、うずくまってしまった。
「恭弥さん? ……恭弥さん!」
僕は一人暮らしをしていた彼女の家まで支えてもらいながら、なんとかたどり着いた。
「ゴメン。なんか、幻滅したかな。いきなりこんなふうになっちゃって」
淹れてくれたコーヒーを飲む。初めて入る女の子の部屋はどこか甘い香りがして、何かを思い出してしまいそうになる。きっとそれは余計な感情に違いないのに。
「大丈夫ですよ」
彼女は笑顔だった。本当に、嬉しそうで、僕はそこから目をそらす。
「ふたりっきり、ですね」
テーブルを挟んだ彼女が呟く。
「そうだね」
それしか返さない僕に、彼女はじれったそうに体を動かした。
「と、隣に行ってもいいですか?」
どもりながら、消え失せそうな声でそう言った。
「……お好きにどうぞ」
僕の横にちょこん、と座る彼女。その肩は細くて体は華奢で、抱きしめたら折れてしまいそうで。でも、不思議とそうしたいとは思わなかった。
「あの……恭弥さん、私って魅力、無いですか?」
「そんなことないと思うけど」
僕は素直にそう返す。嘘じゃなかった。彼女は学校でも話題になるくらいにルックスは良かったし、性格も悪くないと思う。
「じゃあ……今、ドキドキしてますか?」
彼女の手が僕のそれに重なった。柔らかくて小さくて、少し冷たい手。
「まぁ、そうだね」
それも嘘じゃない。でも、違う。何かが違う。
彼女は僕の手を取り、それを自分の胸へと誘導した。服越しでも分かる、大きくて、柔らかい感触。
「私の鼓動、聴こえますか? なんだか、もう、破裂しちゃいそうなんです」
それから恥ずかしそうに、誰にもこんなことするわけじゃないんですよ、と付け加える。
僕は確かに興奮してはいた。自分の中の下劣な感情が吹き出しそうになるの抑えていた。でも……それでも、何か違う。
不意に視界が歪む。気づいた時は僕は泣いていた。
「きょ、恭弥さん?」
不安そうに彼女がこちらを向いた。
「違うんだ……ゴメン。けど、違うんだ……」
何が違うのだろうか。何に謝っているのだろうか。それすら分からずに僕は泣き続ける。
涙が止まらない。悲しいのか、苦しいのか、辛いのか、怒っているのか、もうそれすらも分からない。
ほどなくして、僕と彼女の短い付き合いは、終わった。
この頃になると、感情というものが本当に存在するのかどうかすら分からなくなった。彼女の前で流した涙まで、嘘ではないかと思ってしまう。もっともそれは文学部哲学科に任せればいいのであって、医学部に籍を置く僕には関係のないことだったので、忘れてしまったが。
やがて僕は国試に受かり、専攻を決めるにあたってふと、一体、何故医学の道を志したのだろう、と考えた。いや、思い出した、という方が正しいのかもしれない。
勉強の結果を出したかった、というのもある。だが、もっと根底の何かがあった気がする。それは……なんだったのか。思い出せない。
気づけば僕の専攻は神経系となっていた。そうして僕は、医者になった。
手先の器用さに自信は無かったが、いつの間にか名医、と言われるようになっていた。他の医師に見捨てられた人達の腕や足をまた動かせるようにしてきた。もっとも、僕は神様じゃない。失敗したり、どうしようもないことだって少なくなかった。そういった人達やその家族、親しい中の人物は僕を恨んだだろう。それでもよかった。それで、少しでも気持ちが楽になるのなら、僕はいくらでも恨まれてもよかった。笑顔と、泣き顔と。毎日のように僕はその両方に直面することになる。
ただ……満たされなかった。飢えていた。渇いていた。
砂漠に水を一滴垂らしたところでどうにもならないように、何をしてもどんな難しい手術に成功しても、僕の中には響かなかった。まるで液晶を通したテレビ越しで見ているように、全てがフィクションのようで、実感がわかなかった。足りなかった。そして何が足りないのかも分からないまま、僕は年齢を重ねていった。
いつの間にか二十代も後半になっていた。ある日、僕が住んでいる世間一般で高級マンションと呼ばれる住宅のポストに、一枚のハガキが投函されていた。ダイレクトメールの類かと思って捨てる直前、それが高校の時の同窓会の知らせであると気づく。
(高校、か……)
脳裏に未来の顔が一瞬だけ、浮かんで消えた。
ほぼ無意識に「ご出席」の「ご」に斜線を入れ、「出席」に〇をする。
自分でもなんでそうしたのかは分からなかった。ただ、息が荒くなっていた。忘れたはずの感情が戻りそうだった。家の近くの郵便箱にそれを投函するまで、僕の手はずっと震え通しだった。
そして同窓会の当日。
会場で僕は自分のクラスの集まりから離れ、未来のクラスの集まりへと向かった。もしかしたら、彼女がいるかもしれない。そんな淡い期待を胸に抱いていた。今更会ってどうするのだろう。僕は何が言えるだろうか。彼女は何と言うだろうか。
だが、人ごみをかき分けても、いくら探しても未来は何処にもいなかった。
それはそうだろう。事故で転校してしまった高校の同窓会になど、来ないだろう。そんなのは分かっていた。分かりきっていたのに。希望は絶望にしかならないと知っていたはずなのに。
何故、こんなに胸が痛いのだろう。
僕は同窓会を「急用」とやらをでっち上げて早退し、家で一人、滅多に飲まないアルコールを浴びるように飲んだ。
帰りがけに見た光景が目に焼き付いて離れない。それは、家族。父親と母親に手を繋がれて笑っている男の子。どこにでもあるその風景が消えない。
「僕は……何をやってるんだ……?」
そういう生き方だってあったはずだ。どうして僕はいまこうしている? なんで満たされないんだ?
問いは虚空へと、漆黒の空へと消えていく。残るのは燻った悲しみの欠片だけ。
そして、数日後。僕は家で文庫本を読みふけっていると、マンションの廊下から人が転ぶような音が聴こえた。
普段の僕だったら無視していたかもしれない。だけど何故か今回は放っておけない。そんな気分になった。
ここは二階の角部屋。階段に近いのも手伝って、僕はドアを開けた。
階段の手すりに掴まりながら、体を重そうに支えているその影は、下手をすると老人のそれにも似ていた。だけど違う。その格好には、どこか見覚えがある。そう、それは……。
頭の中でピースが集まって、パズルが完成する。嘘だと思う気持ちと、間違いないという声が脳内に響き渡る。
そして後者が勝った時、僕の口は勝手に動いていた。
「……未来!」
年齢を重ねていてもわかる。長い綺麗な黒髪は少しくたびれていたし、背中には荷物を背負い、服はところどころ転んだ跡がついていた。それでも間違いない。
「恭弥、久しぶり。同窓会、私と入れ替わりだったみたいだね もうちょっと待ってくれればよかったのに」
言いながら、頭を上げた未来。顔には成長の面影と疲れが見える。それでも綺麗だった。
彼女は手すりに手をかけながら、階段を登っていた。一段一段、ゆっくりと。常人の何倍もの時間をかけて。
「未来、そこで待ってろ! すぐ支えて……」
「来ちゃダメ!」
僕の言葉を途中で遮り、未来が叫ぶ。
「……来ちゃ、ダメ。私が一人でやらなきゃ意味がないんだもん」
そう言って力なく笑う彼女。その笑顔は、全くと言っていいほどあの頃と変わってなかった。けれど、それ以外の全てで未来は変わった。
少し夢見がちで、どこかふわふわした雰囲気で、成績はあまり良くなくて。そんな彼女は、もう世界のどこにもいない。
彼女は、強くなったんだ。とても、とても。
「なら、待ってる。いつまでも待ってる!」
僕もそう叫んだ。近所迷惑? 知ったことか。 年齢を考えろ? うるさい。
彼女がどれだけ辛いリハビリや経験をしたのか僕は想像もつかない。けれど、現にいま彼女は歩けている。ゆっくりと手すりを使って、それでも歩いている。
「待ってて、そこに行くから」
十数メートルの距離が永遠に感じられる。だけど僕は待つ。いつまでも。本当は永遠なんてないことを知っているから。
どれほどの時間が流れただろう。彼女は階段を登りきると、壁に手をつきながら僕のもとへとやってくる。
「恭弥、もうちょっと。もうちょっとで着くから。待たせてゴメンね」
「そうだな。十年以上の遅刻だ」
あの日止まったはずの僕の時間が再び、動き出す。
最初から何も望まなければ、何も失わない。そうやって凍りつかせた感情が溶けていく。
僕は本当は絶望なんてしていなかった。
勉強を必死にしたのは、医者になりたかったから。なって、少しでも未来の力になれればいいと思っていたから。
神経を専攻にしたのだってそうだ。彼女の足がまた動くなら、なんでもするつもりだった。
同窓会に行ったのも、未来がいるかもしれないと、思っていたから。
ずっと未来が好きだった。
頬を涙が伝うのが分かった。後3メートル、2メートル……そして、僕の元にたどり着いた未来を抱きしめる。
彼女の体は暖かくて柔らかくて、昔と同じ匂いがした。
「やっと恭弥に追いついた」
荒い息でそう言う未来。でも、そうじゃない。
「違うよ未来。僕が追いついたんだ。僕は、やっとスタート地点に立てた」
未来を壊さないように気をつけて、それでもできる限り強く抱きしめた。
「ねぇ。夕飯、作ろっか」
気づけば彼女が背負っていたリュックは少し空いていて、そこから食材が見えた。
あの日の約束が今、やっと、果たされようとしていた。
「そうだな。今なら家に誰もいない。場所がそっちの家じゃなくなったけどな」
僕は笑っている。未来は泣いている。二人で泣きながら、笑っている。
彼女の足が動くのは、0じゃない確率と、血のにじむような努力の結果。
僕達がお互いをずっと想っていたのは、単なる偶然。
今があるのは、昨日までの積み重ね。全てに理由がある。
僕達には、奇跡なんて必要ない。そんなものがなくたって、僕らは前へ進める。頑張れる。運命と戦える。……そして、それに打ち勝つことができる。そうなんだ。だから。
――だから僕は、奇跡を信じない。
(了)
ここまで読んでいただきありがとうございました。
初投稿になります。
以前賞に出した小説に大幅な加筆修正を加えた作品です。
ご意見、ご感想などお待ちしております。
二色