悪魔
サイーティは特定の現象を指す言葉ではない。
純粋な悪の概念に接触した物質界そのものが汚染され、侵食され、穢されること。
外道界の悪が現世に顕現することで不可逆的な変化と霊性の破壊が起こること。
それがサイーティだ。
この規模のサイーティをオールドワールドのように地獄が近い次元で起こせば、即座に天界の介入を招き、全面的な破局を呼ぶだろう。
しかし小迷宮を含むこの世界は天界も地獄もはるかに遠い。
サイーティはほとんど何も起こすことはなかった。
意識のない物質にとってはそよ風のようなもの。
「GRYYYYYYY!!」
だが魔族、フィリフェインにとってはそうはいかなかったようだ。
「貴様は魔を名乗るに値せぬ」
我は白目をむいて転げまわるフィリフェインに冷然と告げた。
白かった皮膚がどす黒く染まり、ボロボロと崩れていく。
侵食によって魂が破壊された今のフィリフェインには獣同然の意識しかないはずだ。
しかしこの状態は我の魂にとっても非常な負担となる。悪魔騎士は本来エーテル状態が通常であるゆえだ。
悪魔騎士を含む高位エーテル生命は自由意志に乏しい。
天使も同じで、高位になるにつれその意思は最上位者の影響を強く受けて希薄なものになっていく。
我が今まで能力でははるかに勝る悪魔騎士にのっとられずにいるのはそのためだ。
だが、"ハーフ"デーモンとはいえ、魂の大きさを比べれば象とアリほどの差がある。
決して対等な相手ではない。
必要以上の危険を冒すことはなかった。
『エーテル実体化』
我は再び二本の足で立ち、フィリフェインだったものを見下ろした。
床に広がった人間の形の黒い染みが端から煙をあげて消えていく。
硫黄と火の臭いがかすかに立ち込めた。
フィリフェインは、墜ちた。
やがて染みが消えると角と短剣が残った。
ここまでしなければいけない相手ではなかった。
極度の危険を冒した実感で手の震えがとまらない。
地獄からはるかに遠いこの場所で、フィリフェインは何処に墜ちたのであろうか。
それはおそらく我がいずれ行く場所と同じであるはずだった。
フレッシュゴーレムの死体から魔石を取り出すのは少々骨がおれた。
結局頭蓋骨の中にあるのを見つけるのにかなりの時間を要した。
魔石と角と短剣を回収して玄室の外に出ると、アリスが待っていた。
泣いている。よほど不安だったようだ。
抱きついてきた。
「よかったあああああ!生きてたんですね!」
「待たせたな。それと鼻水を拭け。顔を押し付けるな」
「もう!ひどい!」
文句を言いながら顔を拭いている。
「どうなったんですか?あの子何だったんです?」
「魔族だそうだ。倒した」
「まぞく……?」
アリスは魔族に詳しくはなさそうだ。




