死に続ける人々
"深淵の人々"の中で最初に衝突に気づいたのは誰だったか。
彼らが無論鈍いはずもなく、だが軍勢への浸食は思惑を遙かに超えて速かった。
「犬どもがかなり食い荒らされておるぞ。助けるか?」
集中して思念を読み取っていた者が年長者に尋ねた。
「無用」
答えは端的だった。
「しかしあまり無策なのも面白くなかろ」
別の者が蒼古たる自らの兜のひさしを軽く持ち上げた。
この兜は彼らの祖先から伝わる防具の一つで、強い支配の呪力を持っている。
こめかみの上当たりに突き出した巨大な鼓を打ち鳴らすと、配下の人間族に対する精神汚染を忠誠で上書きするのだ。
彼の手が音もなく鼓を叩くと、目に見えて軍勢の動揺が静まった。
弱小な悪魔や、幾らかの天人すら反撃を受けて手傷を負う。
だが。
「今のでこちらを見つけたな」
年長者が面白くもなさそうに言った。
「今さらじゃろうが。まだこちらに来ぬのは、もったいをつけておるだけじゃ」
兜を鳴らした者は巨大の戦槌を持ち上げて獰猛な笑みを見せた。
六本の腕と昆虫のような頭を持った大型の悪魔がバッタのように跳ねながら"深淵の人々"に近づいていた。
「すぐ総攻撃できます」
「すぐ殺せます」
「待て」
「はい。ハイデンベルク様」
「はい。ヨーハン様」
南部連合軍……この戦争の見届け人たちはまだ一部すら到着せず。
「これは本隊じゃあないぞ」
嫌になるほど多種多様な悪魔、一見して個々の見分けすらつかぬ天人、生き物かどうかすら定かでない混沌の野獣からなる攻撃を二度押し戻した後、"深淵の人々"の誰かが忌々しげに吐き捨てた。
「わかっとる!本隊はあそこだ」
山脈の陰に巨大な気配がある。それも三つ。隠してすらいない。
なんという自信。
なんという倨傲。
「遊んでいるのか」
「いっそこっちから何人か行くか?」
「やめておけ。底が見えぬ」
「誰……いや何なんじゃ……」
見えている敵も既存の知識にない者ばかりだった。
大陸北部を鉄の手で支配する"深淵の人々"の心に今ようやく寒々しい思いが吹き込んで来ていた。
「あ」
ヴァンダリは戦場をふらふらと歩いている自分を見いだした。
自慢の大剣は手から離れ、具足すらなく、地面に広がる得体の知れない粘液を素足で踏んでいる。
ぼんやりと見回すが、あたりには生きている者の姿も、敵すらもいなかった。
俺は、逃げたのか。
実は精神支配に無意識に抵抗した挙げ句むやみに走り出しただけなのだが、グラーク族の勇者としてのヴァンダリの矜持はひどく傷つけられていた。
どこかから非人間的な怒号が遠く聞こえる。
"深淵の人々"だ。
武器をどこかで調達して、再び戦って見せなければ。
ヴァンダリは重い体を引きずって戦場に向かおうと考えた。
「「やめておけ」」
誰だ。
声がする。
"深淵の人々"によく似て、もっと古い声だ。
ヴァンダリは突然理解する。
"最初の母"が語りかけているのだと。
彼はひざまづこうとするが、バランスを崩し、泥濘の中に倒れてしまう。
「「眠れ。我らは負けるが、汝にはやってもらうことが残っておる」」
抵抗は無益。