おそるべきもの
グラーク族のヴァンダリは屈託のない男であった。
それは彼がグラーク族で最も強いという事実によって裏付けられていたが、単純な彼はもしそうでなくても思い悩むことはあまりしなかったであろう。
戦い、殺し、奪い、焼く。
それは彼の日常で、たまに反対の立場になったとしても"深淵の人々"に導かれる北方諸部族は嘆きさえしないものだ。
だから"深淵の人々"が長き禁を破り、南の諸国……ヤワな奴らの国に侵攻を決めても何の驚きもなかった。
"深淵の人々"がわざわざ軍勢に同行すると主張した時は多少困惑したものの、軍監としてならばその昔の侵攻時にもそのためしはあったと古老が語り、そういうものかとヴァンダリは納得した。
「でもちょっと多くねえかな」
南との境にあたる山脈の麓の半農半猟の村を通過のついでに焼き払いながら彼は一人ごちた。
複数の"深淵の人々"が同時に姿を見せることはまずない。
彼らを直視すること自体、無礼であるとされているので確かに数えられはしないものの、雲つくような巨人はちょっとした部隊ほどもいるように思えた。
「「急げ」」
遠雷のようにとどろく彼らの声は、こころなしか焦っているように聞こえた。
ヴァンダリは略奪を止めさせ、部族のものどもを駆り立てる……。
「のろい!本当に犬どもなど必要なのか?」
"深淵の人々"の中でも比較的年若い者が言う。
統制がとれず、勝手に隊列を乱し、略奪を始める配下の人間を見る目には軽蔑しかない。
「最大の戦力で、との託宣があった。犬が二十万、我らが十八たり。祖先の防具まで持ち出した」
最も年かさの者が返す。
「それがさ」
若者は重ねた。
「トカゲめだの、鬼だの相手に大げさではないのか。そりゃ竜のやつは強いが、しょせん独りじゃ」
「竜めはくたばったそうだ。なぜかは知らん」
「なに?ではわしらはなんで犬どもと同道などしておるのだ。何ならわしが空を飛んで先手に入寇してやるが」
「ならん。最大の戦力で当たれ。さもなくば滅ぶと"最初の母"は言われた。最早遅いかもしれぬが、とも。」
若者は鋼のような髪をぐしゃぐしゃとかき乱した。
「解せぬ」
「言うことが聞けぬか」
「……"最初の母"の申されることに逆らいはせぬ」
「是。では歩け」
しかし、彼らの歩みは若者の嘆きほど長く続かなかった。
山脈を最初に越えていたのは悪魔の先鋒だった。
悪魔は個体差が大きいので一部の翼あるものが先行していたのだ。
彼らは狡猾な笑みを浮かべ、魅了や迷いの効果を持つ呪文を素早く唱えた。
たちまち北方人の一部に混乱が起きる。
もちろん部族の呪術師によって解除されてしまうこともあったが、むしろそれを幸いに悪魔は陰に潜み、魔法を使うものや指揮を執ろうとするものを毒のある爪で傷つけて行く。
悪魔の爪の毒は彼らをときに麻痺させ、ときに狂乱させて存分にその威力を発揮した。
そして混乱に追い打ちをかけるように天人が戦場に殺到してくる。
彼らはまったく姿を隠してはいないが、その背に負う光は人間の目を蝕み、戦意を折る。
不可解なピッチ音と共に天人の手から光の槍が放たれ、それに貫かれたものは一瞬で皺ばんだミイラじみた死体に変貌した。
「なんだ?何が起こっている?」
ヴァンダリは前線から敗走してくる臆病者を殴りつけ、答えさせようとしたが空しかった。
その北方人はすでに半ば死んでいたからである。
落ちくぼんだ目、歯が残らず失われた口をしたその男は何かを答えようとしたが、細切れになった自身の舌をはき出すに止まった。
「ン?」
その時、ヴァンダリが口の中から突き出された細長い剣を避けられたのはくぐった死地の数ゆえであったろう。
反射的に薙いだ大剣が不気味な男を両断し、男の上半身はずるりと落ちた。
ともに体を断たれた悪魔は悔しげに卑猥な仕草をし、黒い霧のように消え果てた。
実に、これが悪魔、天人通じて初の死者であったことは言っておかねばなるまい。
しかし。
「なんだ?何が起こっている?」
初の戦果をあげた男はそう繰り返すばかりであった。
最前線ではついに大型の悪魔と混沌の野獣が死をむさぼりはじめていた。