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水のないプール

作者: 松永日枇木

 雨の降り出しそうな六月の空は、時折不安とときめきの感情を混ぜ合わせた色に染まって見える。他人は遅い五月病だと言うが、思えば幼い頃からこの季節は不思議な感覚に囚われていたような気がする。

 夏はそこまで来ているのに肌寒い、中途半端な気候。一度降れば雨はなかなか降り止まない。色を増していく若葉と、暖まった土が醸し出す雨の匂い。その中で、すっぽりと自分だけがこの世から抜け落ちているような気分になるのは、なぜなのだろう。

 そんな気分の時は、体が妙に軽かった。背伸びしただけで宙にさえ浮きそうだった。

 誰も自分のことを知らない。見えない。気にしない。そして自分も他人の目を感じずにすむ気がした。かつては学校を、今では会社を休むのも、こんな時だった。


 その美術館を初めて訪れたのも、そんな気分の時だった。丁度いわさきちひろの展覧会だった。絵を見て回るとともに、そのすき間にある三つの休憩室も、順にどんな様子か立ち寄った。

 休憩室・C。狭い階段を上がると、華奢な黒い椅子が三脚ほどあるばかりのごく小さな矩形の部屋があった。誰もいなかったし、誰も来なかった。

 そこは他の休憩室と同じように大きな窓ガラスが嵌り、日の光が十二分に差し込んではいたものの、そのガラスの向こう側はまるで水のない水槽だった。灰色の御影石が立方体の深々とした空間を作り、右手には細い階段が設けられていた。

 【プールみたいだ】

 そう思った瞬間、子供たちが泳ぐ様が見えた。

 深い水底から見上げた角度で、その脚はしなやかに伸びた。長いリボンのようにその身を翻して、自在に水中を舞う少女。象牙色のシルエットが目の前をよぎる。磨いた大理石のような肩の線、音もなく、重い水の揺らめきがその足元から軌跡を描く。

 光に充ちた華やかな想像。

 だが、ふと現実に返った途端、また何も無い、空っぽの、冷たい、虚ろな空間に戻ってしまった。まるで、柩のように。


 ――空虚だ。


 あの休憩室を、自分自身の心のように思っていた。

 こんな感覚は、全て自分の灰汁のような部分なのだと、半ば絶望的に理解していた。灰汁とはまさに“悪”だった。自分の中に閉じこもりつつ、満たされないものを埋めてくれる“何か”を、貪欲に欲していた。けれども、その“何か”を、自分の理性は認めたくなかった。日々溜まっていく、澱のような心の灰汁を、怒りや不安や嫉妬や、様々な欲望の残骸を、あの空間に投影することによって自分の精神を保つなど愚かな事だと。あの場所が自分にとって汚れた部分を捨てるための、一種の『墓場』なのだ、などと言うことなど。


 何によって人の心は満たされるというのか。

 どういった状態を指して人は満たされているというのか。

 心には元々、空間があるのではないか。あの休憩室のように。

 

 ……心というものは、例えるなら雲のようなものだ。気ままに形を変え、色を変えて、湧き上がり流れ消えていく。きっと誰しも同じことだ。


 偶然を待っていたかった。ある時ふと見渡すと、ガラスも壁もなくなっていることを。誰かがここから連れ出してくれることを。誰かの手が、この手を掴んでくれる事を。

 ――自分以外の“手”の存在があるならば。

 だが、誰が繋いでくれようものか。

 もはやこの手は、長梅雨の中腐り落ちんばかりだというのに。


 そして今日も美術館で一人きり、休憩室に篭る。

 いつしか浄化も昇華も望めなくなった精神の墓場を出る。

 木々のざわめきが、絵の具で描かれているかのように止まって見える。空の色も、人間も、地面の固ささえ。


 この世のすべてが何かにとっぷりと浸かり込んでしまった。


 この身は薄い透明な膜で覆われている。



 歩き出す。

 地面は足がつく前に奇妙に浮き上がり、腕を前後に振るたび辺りの景色がやんわりと歪んだ。顔に当たる風はぐにゃりとした弾力を持っていた。どこにも行くあてがなかった。部屋に帰るしかなかった。他にどうしようもなかった。悲しくはなかった。


 ふと、鼻の奥で水の匂いが、した。


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