ぐるぐる回る、鍋の底
「すげえ青い」
「青いべ? この辺じゃ一番青いんだ、最高級品さァ」
見知らぬおっちゃんが、にこにこと誇らしげに笑いながら俺に“それ”を渡してくる。
「はあ、どうも――」と日本人特有の曖昧な答えを返しつつも、つい受け取ってしまった。何やってんだ俺。
渡されたのは青い鍋の蓋である――もう一度言おう、青い鍋の蓋である。蓋。蓋だけ。鍋本体は無し。フタのみ。多分盾にすらならない。鍋の蓋ごときに防げるのはせいぜい熱いお出汁くらいだから、盾にしようとも思わないが。
ひくりと頬がひきつったのを感じながら、俺は完全な社交辞令でその鍋の蓋を手に取った。最高級品か……と鍋の蓋を見る。ひっくり返してもこんこんと叩いてみても、フリスビーをしてみても、やっぱりどこが最高級品なのかよく分からない。ただ、空の色をそのまま持ってきたような青さは嫌いじゃなかった。
――俺は今、よく分からん田舎に来ている。
別に田舎に来たかったわけじゃない。こんなど辺鄙な場所に来てしまったのはただの偶然――というか、睡魔のせいだ。全部睡魔のせいだ。列車に乗ったまま寝ていたら、案の定変なところに来ていたのである。終着駅までぐっすりだった一時間前の自分をぶん殴りたい。あわてて俺は列車から降り、そして膝から崩れ落ちた。人間、なかなか膝から崩れ落ちることはない。が、俺はあの瞬間、間違いなく膝から崩れ落ちていた。
何しろ、駅から見えた景色が非常識この上なかったのだから。
見渡す限り畑だった。――いや、別に畑なのはどうでもいい。
畑なんてものは田舎にはありがちだし、実際、田舎にある俺の実家はこんにゃくいも農家だ。見渡す限りこんにゃくいもが育っている。ただ、マイナーな植物であることは否めないし、下手するとこんにゃくはこんにゃくのままで存在していると思っている奴もいるから、そういう奴らには「なにこれ、白菜?」と聞かれることが多いし、俺はそれに「いや、芋」と返すことに決めている。だいたい「ああ、じゃがいもか」と納得してくれるので――日本の農業を憂えねばならないだろう。こんな不気味なじゃがいもがあってたまるかッ!
さて、俺の愛すべき実家は、得体の知れないプルプルした物体――こんにゃく――を作るのに不可欠なこんにゃくいも農家だ。
こんにゃくは根っこしか食べられないし、そもそも毒があるし、粉々にして灰を溶かした水で固めてプルプルした物体にしないと到底食べられないものなわけだが――何故こんなものを人類は――否、日本人は作ったのだろう。俺はこんにゃくいも農家の長男としてこの疑問をいつか解消せねばならないと思う。むしろそれが俺の生きる使命。そう思って生きてきた。だからこそ、こんにゃくいもの謎を解くためにわざわざ死にそうな思いまでして勉強し、薬学科に入ったというのに。
――こんにゃく以上に非常識なものが、この世にあるとは思わなかった。
俺の目の前に広がるのは畑。それはさっきもいった。
じゃあ何が非常識なのか――それは鍋である。
見渡す限り、広大な畑には鍋が生えていた。いや、育っていたと言うべきか。
白菜やきゃべつのように、畑から直接鍋が生えているのだ。トウモロコシのように成っている鍋もあった。最初は何かの悪ふざけかとも思ったが、大小様々な鍋が綺麗に畑に並んでいるのを見ると、悪ふざけというより宗教の儀式じみている。世の中には鍋にまつわる宗教もあるのか……と呆然としていた俺の肩を叩いたのが、よくわからないが人の良さそうなおっちゃんだったわけだ。
「オメ、見ねえ顔だな」
「あ、……っすね……」
現代の若者の例に漏れず、俺はわりあい人見知りである。にこにこと近寄ってくる見知らぬ老人は若干怖かった。……というか、鍋ばかりが並んでいる畑の前でにこやかに話しかけられたら誰だって警戒すると思う。それが人の良さそうなおっちゃんだったとしても。なんか鍋の具材にされそうで怖い。
「んだぁ? 最近の若モンは元気がねえべ。オメ、どっから来た?」
「えっと……駅の方から?」
「ちげーよ、ンなの分かってんべ。そじゃねーよ、出身どこさと聞いてんの。んで、何しにきたんだ、こんなとこによ」
出身は答えなくていいのかと一瞬考えてしまったが、田舎の老人の話は常に話し相手を置いてけぼりにするものだ。田舎暮らしだったからよく分かる。俺の母さんなんてこれに輪をかけてひどい。
例えば俺が駅で電車を待っていたとしよう。そうしたら、目の前をリニアモーターカーが通り過ぎていく。それほどの勢いでこちら側を置いてけぼりにしていくのだ。老人、恐るべし。
ちなみに、駅で待っていたら戦闘機で目の前を通り過ぎ、“付いてこいよ馬鹿やろう!”などと言い始めるのが母親だ。そもそも会話から置いてけぼりのに――ついてこいという無茶ぶりをしてのける。
「いえ、別に……」
特に何も、と繋げれば「オメ、何しに来たんだよォ」と呆れ顔で言われるが――いや、だから特に何しに来たわけでもない。
たまたま寝過ごしてたまたま行き着いたのがここだっただけで。
「ま、いいよォ」
――いいのかよ。
「暇こいてる顔してっし、ついといで、良いもん見せたるけ」
暇人じゃないんだけれども、と思いつつも断る言葉は出てこない。鍋に囲まれたまま爽やかに「いえ、遠慮します」などと言える好青年になりたかった。が、それは俺には無理なようだった。
もうすでに見るものなら見ているんだが、と思いながら、鍋畑をあるくおっちゃんについていく。わさわさと茂る鍋をかき分けかき分け歩いても、そこにあるのはやはり鍋だった。
おっちゃんはふと歩みを止め、畑の中でもひときわ大きく成っている鍋の前へと俺を誘う。空を写し取ったような透き通った青に輝く鍋は、思わず頭を垂れてしまうほど美しく、俺はこの鍋をはぐくんだ大自然に感謝をしたく――なるわけがない。
どこまでいっても鍋は鍋だ。トウモロコシのように鍋がなっていたところで、沸き上がるのは大自然の偉大さについての畏敬の念ではなく、只単に“何故ここに鍋があるのか”という疑問のみだ。
てらてらと太陽の光を照り返す鍋を目の前に、俺は立ち尽くしていた。鍋の蓋が陳列棚よろしく並んでいた光景を見たショックから未だに立ち直れていないし、そんなものをみたあとで似たような光景を見せられたところで、さらなる驚きなどやってはこない。あるのは混乱、困惑、そして混沌に至る何か――である。
「こ、これ……は」
「鍋だべ」
――見りゃわかる。そうじゃねえ。俺が聞きたいのは「何を見せたかったのか」だ!
とはいえ、見知らぬおっちゃんにそんな口を利けるほど俺は礼儀知らずではない。吐き出したい心の声をまろやかなフィルターにかけ、至って普通の純朴な青年の口調で話しかけた。
「すみませんが、あなたは俺に何を見せたかったのでしょうか……」
――おおっと、これは慇懃無礼すぎたか。いや、しかし鍋が生えるというこの現象の前でならなんだって許される気がする。
「都会の人間はせっかちだなァ。ほれ、これじゃこれ」
成っていた鍋をわしりと掴み、おっちゃんは俺に鍋の蓋を渡した。――そして、冒頭に至るわけである。ちなみに、ここから冒頭に戻ってまたこの文を読み、そうしてまた冒頭に戻る――ということを繰り返すと一生楽しめることだろう。俺は試してみようとは思わないが。せっかちな都会の人間は先を急ぐのだ。
――そして鍋の蓋で遊んでいた俺に、おっちゃんは「何してんだ?」と訝しげな目を向けた。
「いえ、渡された鍋の蓋をどうしようかと」
「都会の人間は蓋で遊べるけ?」
「まあ……その、やろうと思えば?」
「変わってんなァ~!」
「ここの畑ほどでは」
正直で嘘偽りない気持ちだ。生まれてこれほどまでに正直になったことがあるだろうか? ――いや、ない。
思わず反語表現を使ってしまうほどに正直になってしまった。
都会は変わってんなァ、とまたも繰り返し笑うおっちゃんは、俺に「ほれ」と鍋を――蓋を取った方の鍋を見せてくる。どうせ空だろとたかをくくっていた俺の目の前には、鍋一杯のきらきらした何かが広がった。
氷――にしては、この暑さでもとけないのだから、氷ではないのだろう。かといってガラス――にしては、曇っている。
まさか!
「ダイヤモンドっ!?」
ダイヤの原石を見たことがあるだろうか。あれは川や海に落ちている、角の取れた磨り硝子にそっくりだ。つまり曇っている。
なんだこの鍋すげえじゃん! と一人で盛り上がっていた俺に、「ダイヤモンドじゃねえよ」とおっちゃんはあっさりそれを否定した。ですよねー。
「場合によっちゃ、ダイヤモンドより高値がつくさなァ」
「えっ」
「これ、氷砂糖な。ほれ」
ぺいっと、てのひらに落とされたのは――確かにダイヤモンドによく似ているが、全く違う氷砂糖だ。似ても焼いても食えないダイヤモンド。かたやそのままで糖分補給が出来る氷砂糖。食糧難に陥ったりすれば、ダイヤモンドより価値は上がるだろう。
からころと口の中で氷砂糖を転がす。どこかひんやりした何かが口の中を支配していった。
「……なんか、冷たいっすね」
「“氷”砂糖だかんなァ」
ふぇふぇふぇ、とおっちゃんは愉快そうに笑っていたが――。
俺の意識は徐々に遠のいていく。おかしい、そう思ったときには視界は暗転、状況は後転。俺の脳内を支配するのは――。
麻薬は通常、白い粉として流通しているが――それは「粉」だから「白い」のだ。塩の塊を見たことがある人なら分かるだろうが、粒子が小さいからこそ白いものは、その粒が大きければ透明に近くなる。たとえば、氷砂糖のように。
物質の結晶化をうながしたいのなら、結晶化させたい物質を沸騰した水などにとかし完全にとけ込ませ、そこからじわじわと温度を低くしていけば――やがて大きな結晶ができあがることだろう。例えば、熱の下がりにくい鍋なんかに入れて放置しておけば――。
俺の脳内におっちゃんの笑い声がこだましていく。そうだ、やっぱり、鍋が生えてるなんておかしかったんだ――。
***
「……はっ」
がたん、ごとん、とのどかな音とともに、ゆったりと列車は進んでいく。なんだか妙な夢を見たなと思いつつ、俺は長旅のお供にと持ってきていた氷砂糖を口に放り込んだ。一瞬だけひやりとした糖の塊は、それから熱にほぐされるように甘く口の中に広がっていく。小さい頃から好きだったこの味は、忘れられそうにない。まるで麻薬のような常習性が――って、この例え方は薬学科としてはあまり良くないな。
ところで、ここはどこだろうか。
里帰りするつもりだったのだが、うっかり寝過ごしてしまったかも――と俺が車内を見渡せば、人っ子一人そこにはいない。おや、と焦った俺の耳に、やる気のなさそうな車掌のアナウンス。
「――終点、しゅうてぇん……」
げっ、と思わず声を上げてしまう。ひとまず外に出てからここがどこなのか確認しよう、そう思って列車から飛び出た俺の目の前には――。
――見渡す限りの、鍋畑。




