↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

逃げ足のガルドが、最後に一度だけ前へ走った日

作者: SYO
掲載日:2026/11/01

「帰り道を、先に確かめろ」


 ガルドがそう言うと、新人の少年は露骨に顔をしかめた。


「またそれかよ、おっさん。俺たちは魔物を倒しに行くんだぜ。帰り道なんて、倒してから考えりゃいいだろ」


 ハルンの町の冒険者ギルドの、昼下がりの酒場だった。暖炉の前の長卓で、ガルドは古い地図を広げていた。


 少年の名はリオ。十六歳。先月、銅級の札をもらったばかりの剣士だ。安物の剣を、いつも自慢げに腰に下げている。


「倒してから考えるやつは、だいたい帰ってこない」


 ガルドは地図の上の小さな印を指で叩いた。


「ここが森の入り口。ここが沢。沢の向こうに、狩人の小屋がある。帰りに日が暮れたら、ここに逃げこめ。道は、行きに一度、自分の足で踏んでおけ」


「逃げこめ、って」


 リオは、隣に座っていた少女に肩をすくめてみせた。


「聞いたかよ、ミナ。さすが『逃げ足のガルド』だ」


 ミナと呼ばれた少女は、困ったように笑った。十七歳の治癒術師で、リオとは同じ村の出だという。


「リオ、失礼だよ。ガルドさんは、二十年も冒険者をやってるんだから」


「二十年やって、銅級のままだろ」


 ガルドは怒らなかった。


 その通りだったからだ。


 ガルド、四十二歳。二十二年前、冒険者になってからずっと、首に下げた札は銅のまま変わっていない。


 どんな依頼でも、危ないと思えば真っ先に撤退を決める。魔物の首を持ち帰ったことは、数えるほどしかない。そのかわり、組んだ仲間を死なせたことも、この二十年、一度もなかった。


 ギルドの誰もが、ガルドのことを「逃げ足のガルド」と呼ぶ。


 ガルドは、その渾名が嫌いではなかった。


「いいか。冒険者に要るのは、三つだけだ」


 ガルドは太い指を三本立てた。


「一つ。帰り道を、先に確かめろ。

 二つ。撤退の合図を、先に決めろ。

 三つ。英雄の真似は、するな」


 リオはあくびをした。ミナだけが、小さな帳面に三つを書き写していた。


 ガルドは、それで十分だと思った。一人が覚えていれば、いざというとき、もう一人の腕を引っぱれる。


* * *


 ガルドが「英雄の真似をするな」と言うのには、わけがある。


 二十年前、まだ駆け出しだったガルドは、一度だけ銀級の一行に斥候として加わったことがある。


 頭はヴァルターという男だった。豪快で、腕が立って、よく笑う。若いガルドは、あの男に憧れていた。


 北の山で、飛竜に出くわした日のことだ。


 予定よりずっと大きな個体で、一行の誰が見ても、勝てる相手ではなかった。撤退すべきだった。ガルドは、そう言った。


 ヴァルターは笑った。


「怖気づくなよ、ガルド。見ろ、この空を」


 雲ひとつない、冬の青空だった。


「今日は、死ぬには良い日だ」


 そう言って、ヴァルターは剣を抜いて飛竜に向かっていった。仲間たちも、それに続いた。


 ガルドだけが、足が動かなかった。


 そして、ガルドだけが、生きて帰った。


 ヴァルターの言葉は、あの日から、ガルドの耳の底にこびりついている。


 ――死ぬには良い日だ。


 ガルドは、その言葉が大嫌いだった。


 良い日なものか。あの日、死ななくていい人間が五人死んだ。かっこいい言葉ひとつで、誰も帰らなかった。


 だからガルドは、逃げることにした。


 二十年、ずっと。


* * *


 その報せが届いたのは、真冬の朝だった。


「北のロウ村から、救援要請です!」


 ギルドの受付のベルタ婆さんが、珍しく声を張り上げた。


「霜狼の群れが、山から下りてきてる。それも、尋常な数じゃない。村の猟師が見ただけで、百は下らないって」


 酒場がざわめいた。


 霜狼。冬の山に棲む、白い大狼だ。一頭なら銅級でも何とかなる。だが、群れで来たら、話がまるで違う。


「村の人間は四十人。年寄りと子どもが半分。今日のうちに村を捨てて、ハルンまで逃がさなきゃならない。護衛を、出せるだけ出しておくれ」


 ギルドにいた冒険者は、ちょうど出払っていた。銀級の一行は、南の街道の盗賊退治に出ている。


 残っていたのは、銅級の何人かと、ガルドと、リオとミナだけだった。


「行く」


 最初に立ち上がったのは、リオだった。


「霜狼百匹だろ。俺がまとめて叩っ斬ってやる」


 ガルドは黙って地図を丸め、外套を羽織った。


「おっさんも来るのかよ」


「撤退の仕事だ。俺の得意分野だ」


* * *


 ロウ村に着いたのは、昼前だった。


 村人たちは、もう荷をまとめていた。背負える分だけの毛布と、食べ物と、子どもたち。腰の曲がった老人を、若い男が背負っている。


 村長の老人が、ガルドに頭を下げた。


「狼どもは、山の中腹まで来ております。日が落ちる前には、ここに」


 ガルドは地図を広げた。


 ハルンまでの道は、二つある。


 一つは、ミレ湖をぐるりと回る街道。安全だが、年寄りと子どもの足では、二日かかる。


 もう一つは、凍ったミレ湖を、まっすぐ渡る道。半日で向こう岸に着く。


「湖を渡る」


 ガルドが言うと、村長が目を見開いた。


「氷が、もちますか」


「この冬は冷えた。真ん中の一か所を除けば、荷車が乗っても割れん」


 ガルドは、地図の湖の真ん中に、小さく丸をつけた。


「ここだけは、湖の底から湧き水が出ている。氷が薄い。ここは避けて、東寄りを大きく回って渡る」


 リオが、目を丸くしてガルドを見た。


「……なんで、そんなこと知ってるんだよ」


「毎年、冬に一度、自分の足で歩いて確かめてる。帰り道だからな」


 リオは何も言い返さなかった。


* * *


 村を出て、湖の岸に着いたとき、空はきれいに晴れていた。


 雲ひとつない、冬の青空だった。


 凍った湖面に陽が反射して、目が痛いほど白い。四十人の村人が、東寄りに弧を描くようにして氷の上を歩きだした。先頭にミナ。真ん中に、銅級の冒険者たち。しんがりに、ガルドとリオ。


 ガルドは、外套の内側の革袋を、手のひらで確かめた。


 爆裂石が、一つ入っている。


 鉱山で岩を割るのに使う、拳ほどの魔石だ。ガルドは、二十年、どの依頼にもこれを一つだけ持っていく。洞窟の入り口を崩して追っ手を塞いだり、倒木を吹き飛ばして逃げ道を作ったりするためだ。


 逃げ道を作るための石だった。


 湖の半ばを過ぎ、向こう岸が見えてきたころ、背後で遠吠えが上がった。


 一つ。二つ。それから、数えきれないほど。


 振り返ると、さっきまでいた岸の上に、白い影がずらりと並んでいた。


 霜狼だった。


 百どころではない。岸の雪原が、白く波打って見えるほどだった。その真ん中に、ひときわ大きな影がいる。馬ほどもある、群れの長だ。


「走れ!」


 ガルドは、腹の底から叫んだ。


「止まるな! 東寄りに、そのまま向こう岸まで走れ!」


 村人たちが悲鳴を上げて駆けだした。子どもを抱えた母親が、氷に足を取られて転ぶ。若い男が、それを引き起こす。


 霜狼の群れが、湖に下りてきた。


 速い。


 氷の上を、あいつらは滑るように走る。人の足とは、まるで比べものにならない。


 ガルドは走りながら、頭の中で数を数えた。


 向こう岸まで、あとわずか。だが、年寄りと子どもの足では、どうしても最後の一押しが足りない。


 群れが追いつくまで、どれだけかかる。


 何度数えても、答えは同じだった。


 ――間に合わない。


 岸に上がる直前で、群れは村人たちの背中に追いつく。冒険者が五人いたところで、百を超える霜狼は止められない。


 ガルドは、湖の真ん中のほうを見た。


 東寄りを走る村人たちの列から少し離れた場所に、ガルドが地図に丸をつけた場所がある。


 湧き水の上の、薄い氷。


 あそこに群れを誘いこみ、爆裂石を割れば。


 氷が砕ける。群れの真ん中が、冬の湖に沈む。


 ただし、あの石は、投げて届く距離では役に立たない。氷を割るには、誰かが囮になって群れを中央へ引きつけ、薄い場所の真上で、じかに叩きつけなければならない。


 群れの、ど真ん中で。


 ガルドは足を止めた。


* * *


「おっさん! 何やってんだ、走れよ!」


 リオが引き返してきた。


 ガルドは、外套の内側から使い古した帳面を出して、リオの胸に押しつけた。


「これを持っていけ」


「なんだよ、これ」


「帰り道だ。この辺りの森も、沢も、洞窟も、二十年分、全部書いてある。俺が自分の足で確かめた道だ」


 リオの顔から、血の気が引いた。


 ガルドの手に、爆裂石が握られているのを見たからだ。


「……何する気だよ」


「群れを真ん中に釣り出して、氷を割る。あいつらを沈める」


「だったら、俺も行く! 俺だって戦える!」


 リオが剣の柄を握った。


 ガルドは、その手を上から強く押さえた。


「三つ目は、何だった」


 リオの唇が震えた。


「……英雄の、真似は、するな」


「そうだ」


 ガルドは、少しだけ笑った。


「お前は、まだ英雄の真似をする歳じゃない。村の人間を、全員、向こう岸まで連れていけ。それが、お前の仕事だ」


 遠くで、ミナが叫んでいた。ガルドの名前を呼んでいた。


 ガルドは腰の笛を外して、リオの手に握らせた。撤退の合図の笛だ。


「向こう岸に着いたら、これを三回吹け。全員が渡りきった合図だ。……俺は、それを聞いてから割る」


「おっさん、嫌だ、俺、まだ、何にも」


「行け、リオ」


 ガルドは、少年の背中を向こう岸のほうへ突き飛ばした。


「帰り道を、間違えるなよ」


 リオは、泣きながら走っていった。


* * *


 ガルドは、村人たちの列から離れ、湖の真ん中へ向かって走った。


 腰の剣を抜き、走りながら氷の地面を強く叩いて火花を散らす。肺の中の空気をすべて吐き出すように、大声で口笛を吹いた。


 東寄りの村人たちへ向かいかけた白い群れが、ガルドの異様な気配に気づいて向きを変えた。氷を蹴る無数の爪の音が、地鳴りのように足の裏に響く。


 湧き水の手前で、ガルドは立ち止まり、振り返った。


 すぐ背後に、ほかの場所より少しだけ青く、透きとおった氷が広がっている。


 群れの長が、ガルドの正面で低く唸り、足を止めた。ただ一人、逃げずに剣を構えて立ち塞がる男を、値踏みするように睨みつけている。百を超える白い牙が、ガルドひとりを遠巻きに包囲した。


 ガルドは、空を見上げた。


 雲ひとつない、冬の青空だった。


 二十年前と、同じ空だった。


 ――今日は、死ぬには良い日だ。


 耳の底の声が、また聞こえた。


 ガルドは、ずっとあの言葉が嫌いだった。かっこいい言葉ひとつで、五人が死んだ。誰も帰らなかった。


 けれど。


 ガルドは、視線の端で、遠く向こう岸のほうを見た。


 四十人の村人の列が、岸の雪原へと次々に駆け上がっていく。先頭で、ミナが子どもの手を引いている。しんがりで、リオが、転んだ老人を背中に担ぎ上げ、最後のひとりを岸へ押し上げている。


 あいつ、ちゃんと仕事をしてやがる。


 ガルドは、少しだけ笑った。


 群れの長が、我慢の限界とばかりに身を沈め、牙を剥いた。


 そのとき、向こう岸から、笛の音が聞こえた。


 一回。


 二回。


 ――三回。


 全員が、渡りきった合図だった。


「……ああ」


 ガルドは、剣を捨て、爆裂石を強く握り直した。


「なるほどな、ヴァルター。あんたの言ってたこと、二十年かかって、やっと分かった」


 あんたは、自分のために言った。

 俺は、違う。


 誰も死ななくていい日に、俺ひとりで済む日。


 全員が、帰り道を帰れる日。


 そういう日なら。


 ガルドは低く身を沈めた。


 二十年、ずっと後ろへ走ってきた足だった。

 逃げ足のガルドの、自慢の足だった。


 その足で、ガルドは、最後に一度だけ、前へ走った。


 飛びかかってくる群れの長の懐へ、透きとおった青い氷のど真ん中へ、誰よりも速く、まっすぐに駆けこんだ。


「――死ぬには、良い日だ」


 爆裂石が、青い氷に叩きつけられた。


* * *


 向こう岸で、リオは、その音を聞いた。


 腹の底を殴られたような、低い轟きだった。


 振り返ると、湖の真ん中に、白い水柱が上がっていた。その下で、氷が、大きな皿が割れるように砕けていく。霜狼の群れの真ん中が、悲鳴ごと、黒い水の中へ吸いこまれていく。


 群れの長も、その中に消えた。


 残った霜狼たちは、砕けた氷の縁で立ちすくみ、やがて、尻尾を巻いて、もと来た岸のほうへ逃げていった。


 湖の真ん中には、黒い水の穴だけが残った。


 その上に、雲ひとつない冬の空が、青く、静かに広がっていた。


 リオは、雪の上に膝をついた。胸に抱えた帳面が、ぐしゃりと鳴った。


 隣で、ミナが声を上げて泣いていた。村人たちが、ひとり、またひとりと、湖に向かって頭を下げた。


 四十人。


 一人も、欠けていなかった。


* * *


 それから、十年が経った。


 ハルンの町の冒険者ギルドの、昼下がりの酒場。暖炉の前の長卓で、二十六歳になったリオは、古い帳面を広げていた。


 表紙は擦り切れ、ところどころ水に濡れた跡がある。中には、太い字で、森と、沢と、洞窟と、帰り道が、びっしりと書きこまれている。最後の頁には、リオの字で、新しい道が書き足されていた。


「帰り道を、先に確かめろ」


 リオがそう言うと、新人の少年が、露骨に顔をしかめた。


「またそれっすか、先輩。俺たちは魔物を倒しに行くんですよ」


「倒してから考えるやつは、だいたい帰ってこない」


 リオは、太い指を三本立てた。


「一つ。帰り道を、先に確かめろ。

 二つ。撤退の合図を、先に決めろ。

 三つ。英雄の真似は、するな」


 少年はあくびをした。その隣の少女だけが、小さな帳面に三つを書き写していた。


 リオは、それで十分だと思った。


「さすが、『逃げ足のリオ』っすね」


 少年が、にやにやと笑った。


 リオは怒らなかった。


 札は銀に変わったが、リオは今でも、どんな依頼でも真っ先に撤退を決める。組んだ仲間を、この十年、一度も死なせていない。


 その渾名は、リオの自慢だった。


「先輩。じゃあ、もし、どうしても逃げられない日が来たら、どうするんすか」


 少年の問いに、リオは、帳面の表紙をそっと撫でた。


 窓の外に、冬の青空が見えた。雲ひとつなかった。


「そういう日はな」


 リオは、少し考えてから、言った。


「一生に一度でいいんだ。……そんで、俺たちの分は、もう、ある人が使ってくれた」


「は?」


「だから、お前らは毎日、生きて帰れ。今日は、死ぬには悪い日だ。明日も、明後日も、ずっとだ」


 少年は、わけが分からないという顔をした。


 隣の少女だけが、帳面に、四つ目を書き足していた。


 ――今日は、死ぬには悪い日だ。


(了)


――――――――――

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

評価・ブックマークで応援いただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。