逃げ足のガルドが、最後に一度だけ前へ走った日
「帰り道を、先に確かめろ」
ガルドがそう言うと、新人の少年は露骨に顔をしかめた。
「またそれかよ、おっさん。俺たちは魔物を倒しに行くんだぜ。帰り道なんて、倒してから考えりゃいいだろ」
ハルンの町の冒険者ギルドの、昼下がりの酒場だった。暖炉の前の長卓で、ガルドは古い地図を広げていた。
少年の名はリオ。十六歳。先月、銅級の札をもらったばかりの剣士だ。安物の剣を、いつも自慢げに腰に下げている。
「倒してから考えるやつは、だいたい帰ってこない」
ガルドは地図の上の小さな印を指で叩いた。
「ここが森の入り口。ここが沢。沢の向こうに、狩人の小屋がある。帰りに日が暮れたら、ここに逃げこめ。道は、行きに一度、自分の足で踏んでおけ」
「逃げこめ、って」
リオは、隣に座っていた少女に肩をすくめてみせた。
「聞いたかよ、ミナ。さすが『逃げ足のガルド』だ」
ミナと呼ばれた少女は、困ったように笑った。十七歳の治癒術師で、リオとは同じ村の出だという。
「リオ、失礼だよ。ガルドさんは、二十年も冒険者をやってるんだから」
「二十年やって、銅級のままだろ」
ガルドは怒らなかった。
その通りだったからだ。
ガルド、四十二歳。二十二年前、冒険者になってからずっと、首に下げた札は銅のまま変わっていない。
どんな依頼でも、危ないと思えば真っ先に撤退を決める。魔物の首を持ち帰ったことは、数えるほどしかない。そのかわり、組んだ仲間を死なせたことも、この二十年、一度もなかった。
ギルドの誰もが、ガルドのことを「逃げ足のガルド」と呼ぶ。
ガルドは、その渾名が嫌いではなかった。
「いいか。冒険者に要るのは、三つだけだ」
ガルドは太い指を三本立てた。
「一つ。帰り道を、先に確かめろ。
二つ。撤退の合図を、先に決めろ。
三つ。英雄の真似は、するな」
リオはあくびをした。ミナだけが、小さな帳面に三つを書き写していた。
ガルドは、それで十分だと思った。一人が覚えていれば、いざというとき、もう一人の腕を引っぱれる。
* * *
ガルドが「英雄の真似をするな」と言うのには、わけがある。
二十年前、まだ駆け出しだったガルドは、一度だけ銀級の一行に斥候として加わったことがある。
頭はヴァルターという男だった。豪快で、腕が立って、よく笑う。若いガルドは、あの男に憧れていた。
北の山で、飛竜に出くわした日のことだ。
予定よりずっと大きな個体で、一行の誰が見ても、勝てる相手ではなかった。撤退すべきだった。ガルドは、そう言った。
ヴァルターは笑った。
「怖気づくなよ、ガルド。見ろ、この空を」
雲ひとつない、冬の青空だった。
「今日は、死ぬには良い日だ」
そう言って、ヴァルターは剣を抜いて飛竜に向かっていった。仲間たちも、それに続いた。
ガルドだけが、足が動かなかった。
そして、ガルドだけが、生きて帰った。
ヴァルターの言葉は、あの日から、ガルドの耳の底にこびりついている。
――死ぬには良い日だ。
ガルドは、その言葉が大嫌いだった。
良い日なものか。あの日、死ななくていい人間が五人死んだ。かっこいい言葉ひとつで、誰も帰らなかった。
だからガルドは、逃げることにした。
二十年、ずっと。
* * *
その報せが届いたのは、真冬の朝だった。
「北のロウ村から、救援要請です!」
ギルドの受付のベルタ婆さんが、珍しく声を張り上げた。
「霜狼の群れが、山から下りてきてる。それも、尋常な数じゃない。村の猟師が見ただけで、百は下らないって」
酒場がざわめいた。
霜狼。冬の山に棲む、白い大狼だ。一頭なら銅級でも何とかなる。だが、群れで来たら、話がまるで違う。
「村の人間は四十人。年寄りと子どもが半分。今日のうちに村を捨てて、ハルンまで逃がさなきゃならない。護衛を、出せるだけ出しておくれ」
ギルドにいた冒険者は、ちょうど出払っていた。銀級の一行は、南の街道の盗賊退治に出ている。
残っていたのは、銅級の何人かと、ガルドと、リオとミナだけだった。
「行く」
最初に立ち上がったのは、リオだった。
「霜狼百匹だろ。俺がまとめて叩っ斬ってやる」
ガルドは黙って地図を丸め、外套を羽織った。
「おっさんも来るのかよ」
「撤退の仕事だ。俺の得意分野だ」
* * *
ロウ村に着いたのは、昼前だった。
村人たちは、もう荷をまとめていた。背負える分だけの毛布と、食べ物と、子どもたち。腰の曲がった老人を、若い男が背負っている。
村長の老人が、ガルドに頭を下げた。
「狼どもは、山の中腹まで来ております。日が落ちる前には、ここに」
ガルドは地図を広げた。
ハルンまでの道は、二つある。
一つは、ミレ湖をぐるりと回る街道。安全だが、年寄りと子どもの足では、二日かかる。
もう一つは、凍ったミレ湖を、まっすぐ渡る道。半日で向こう岸に着く。
「湖を渡る」
ガルドが言うと、村長が目を見開いた。
「氷が、もちますか」
「この冬は冷えた。真ん中の一か所を除けば、荷車が乗っても割れん」
ガルドは、地図の湖の真ん中に、小さく丸をつけた。
「ここだけは、湖の底から湧き水が出ている。氷が薄い。ここは避けて、東寄りを大きく回って渡る」
リオが、目を丸くしてガルドを見た。
「……なんで、そんなこと知ってるんだよ」
「毎年、冬に一度、自分の足で歩いて確かめてる。帰り道だからな」
リオは何も言い返さなかった。
* * *
村を出て、湖の岸に着いたとき、空はきれいに晴れていた。
雲ひとつない、冬の青空だった。
凍った湖面に陽が反射して、目が痛いほど白い。四十人の村人が、東寄りに弧を描くようにして氷の上を歩きだした。先頭にミナ。真ん中に、銅級の冒険者たち。しんがりに、ガルドとリオ。
ガルドは、外套の内側の革袋を、手のひらで確かめた。
爆裂石が、一つ入っている。
鉱山で岩を割るのに使う、拳ほどの魔石だ。ガルドは、二十年、どの依頼にもこれを一つだけ持っていく。洞窟の入り口を崩して追っ手を塞いだり、倒木を吹き飛ばして逃げ道を作ったりするためだ。
逃げ道を作るための石だった。
湖の半ばを過ぎ、向こう岸が見えてきたころ、背後で遠吠えが上がった。
一つ。二つ。それから、数えきれないほど。
振り返ると、さっきまでいた岸の上に、白い影がずらりと並んでいた。
霜狼だった。
百どころではない。岸の雪原が、白く波打って見えるほどだった。その真ん中に、ひときわ大きな影がいる。馬ほどもある、群れの長だ。
「走れ!」
ガルドは、腹の底から叫んだ。
「止まるな! 東寄りに、そのまま向こう岸まで走れ!」
村人たちが悲鳴を上げて駆けだした。子どもを抱えた母親が、氷に足を取られて転ぶ。若い男が、それを引き起こす。
霜狼の群れが、湖に下りてきた。
速い。
氷の上を、あいつらは滑るように走る。人の足とは、まるで比べものにならない。
ガルドは走りながら、頭の中で数を数えた。
向こう岸まで、あとわずか。だが、年寄りと子どもの足では、どうしても最後の一押しが足りない。
群れが追いつくまで、どれだけかかる。
何度数えても、答えは同じだった。
――間に合わない。
岸に上がる直前で、群れは村人たちの背中に追いつく。冒険者が五人いたところで、百を超える霜狼は止められない。
ガルドは、湖の真ん中のほうを見た。
東寄りを走る村人たちの列から少し離れた場所に、ガルドが地図に丸をつけた場所がある。
湧き水の上の、薄い氷。
あそこに群れを誘いこみ、爆裂石を割れば。
氷が砕ける。群れの真ん中が、冬の湖に沈む。
ただし、あの石は、投げて届く距離では役に立たない。氷を割るには、誰かが囮になって群れを中央へ引きつけ、薄い場所の真上で、じかに叩きつけなければならない。
群れの、ど真ん中で。
ガルドは足を止めた。
* * *
「おっさん! 何やってんだ、走れよ!」
リオが引き返してきた。
ガルドは、外套の内側から使い古した帳面を出して、リオの胸に押しつけた。
「これを持っていけ」
「なんだよ、これ」
「帰り道だ。この辺りの森も、沢も、洞窟も、二十年分、全部書いてある。俺が自分の足で確かめた道だ」
リオの顔から、血の気が引いた。
ガルドの手に、爆裂石が握られているのを見たからだ。
「……何する気だよ」
「群れを真ん中に釣り出して、氷を割る。あいつらを沈める」
「だったら、俺も行く! 俺だって戦える!」
リオが剣の柄を握った。
ガルドは、その手を上から強く押さえた。
「三つ目は、何だった」
リオの唇が震えた。
「……英雄の、真似は、するな」
「そうだ」
ガルドは、少しだけ笑った。
「お前は、まだ英雄の真似をする歳じゃない。村の人間を、全員、向こう岸まで連れていけ。それが、お前の仕事だ」
遠くで、ミナが叫んでいた。ガルドの名前を呼んでいた。
ガルドは腰の笛を外して、リオの手に握らせた。撤退の合図の笛だ。
「向こう岸に着いたら、これを三回吹け。全員が渡りきった合図だ。……俺は、それを聞いてから割る」
「おっさん、嫌だ、俺、まだ、何にも」
「行け、リオ」
ガルドは、少年の背中を向こう岸のほうへ突き飛ばした。
「帰り道を、間違えるなよ」
リオは、泣きながら走っていった。
* * *
ガルドは、村人たちの列から離れ、湖の真ん中へ向かって走った。
腰の剣を抜き、走りながら氷の地面を強く叩いて火花を散らす。肺の中の空気をすべて吐き出すように、大声で口笛を吹いた。
東寄りの村人たちへ向かいかけた白い群れが、ガルドの異様な気配に気づいて向きを変えた。氷を蹴る無数の爪の音が、地鳴りのように足の裏に響く。
湧き水の手前で、ガルドは立ち止まり、振り返った。
すぐ背後に、ほかの場所より少しだけ青く、透きとおった氷が広がっている。
群れの長が、ガルドの正面で低く唸り、足を止めた。ただ一人、逃げずに剣を構えて立ち塞がる男を、値踏みするように睨みつけている。百を超える白い牙が、ガルドひとりを遠巻きに包囲した。
ガルドは、空を見上げた。
雲ひとつない、冬の青空だった。
二十年前と、同じ空だった。
――今日は、死ぬには良い日だ。
耳の底の声が、また聞こえた。
ガルドは、ずっとあの言葉が嫌いだった。かっこいい言葉ひとつで、五人が死んだ。誰も帰らなかった。
けれど。
ガルドは、視線の端で、遠く向こう岸のほうを見た。
四十人の村人の列が、岸の雪原へと次々に駆け上がっていく。先頭で、ミナが子どもの手を引いている。しんがりで、リオが、転んだ老人を背中に担ぎ上げ、最後のひとりを岸へ押し上げている。
あいつ、ちゃんと仕事をしてやがる。
ガルドは、少しだけ笑った。
群れの長が、我慢の限界とばかりに身を沈め、牙を剥いた。
そのとき、向こう岸から、笛の音が聞こえた。
一回。
二回。
――三回。
全員が、渡りきった合図だった。
「……ああ」
ガルドは、剣を捨て、爆裂石を強く握り直した。
「なるほどな、ヴァルター。あんたの言ってたこと、二十年かかって、やっと分かった」
あんたは、自分のために言った。
俺は、違う。
誰も死ななくていい日に、俺ひとりで済む日。
全員が、帰り道を帰れる日。
そういう日なら。
ガルドは低く身を沈めた。
二十年、ずっと後ろへ走ってきた足だった。
逃げ足のガルドの、自慢の足だった。
その足で、ガルドは、最後に一度だけ、前へ走った。
飛びかかってくる群れの長の懐へ、透きとおった青い氷のど真ん中へ、誰よりも速く、まっすぐに駆けこんだ。
「――死ぬには、良い日だ」
爆裂石が、青い氷に叩きつけられた。
* * *
向こう岸で、リオは、その音を聞いた。
腹の底を殴られたような、低い轟きだった。
振り返ると、湖の真ん中に、白い水柱が上がっていた。その下で、氷が、大きな皿が割れるように砕けていく。霜狼の群れの真ん中が、悲鳴ごと、黒い水の中へ吸いこまれていく。
群れの長も、その中に消えた。
残った霜狼たちは、砕けた氷の縁で立ちすくみ、やがて、尻尾を巻いて、もと来た岸のほうへ逃げていった。
湖の真ん中には、黒い水の穴だけが残った。
その上に、雲ひとつない冬の空が、青く、静かに広がっていた。
リオは、雪の上に膝をついた。胸に抱えた帳面が、ぐしゃりと鳴った。
隣で、ミナが声を上げて泣いていた。村人たちが、ひとり、またひとりと、湖に向かって頭を下げた。
四十人。
一人も、欠けていなかった。
* * *
それから、十年が経った。
ハルンの町の冒険者ギルドの、昼下がりの酒場。暖炉の前の長卓で、二十六歳になったリオは、古い帳面を広げていた。
表紙は擦り切れ、ところどころ水に濡れた跡がある。中には、太い字で、森と、沢と、洞窟と、帰り道が、びっしりと書きこまれている。最後の頁には、リオの字で、新しい道が書き足されていた。
「帰り道を、先に確かめろ」
リオがそう言うと、新人の少年が、露骨に顔をしかめた。
「またそれっすか、先輩。俺たちは魔物を倒しに行くんですよ」
「倒してから考えるやつは、だいたい帰ってこない」
リオは、太い指を三本立てた。
「一つ。帰り道を、先に確かめろ。
二つ。撤退の合図を、先に決めろ。
三つ。英雄の真似は、するな」
少年はあくびをした。その隣の少女だけが、小さな帳面に三つを書き写していた。
リオは、それで十分だと思った。
「さすが、『逃げ足のリオ』っすね」
少年が、にやにやと笑った。
リオは怒らなかった。
札は銀に変わったが、リオは今でも、どんな依頼でも真っ先に撤退を決める。組んだ仲間を、この十年、一度も死なせていない。
その渾名は、リオの自慢だった。
「先輩。じゃあ、もし、どうしても逃げられない日が来たら、どうするんすか」
少年の問いに、リオは、帳面の表紙をそっと撫でた。
窓の外に、冬の青空が見えた。雲ひとつなかった。
「そういう日はな」
リオは、少し考えてから、言った。
「一生に一度でいいんだ。……そんで、俺たちの分は、もう、ある人が使ってくれた」
「は?」
「だから、お前らは毎日、生きて帰れ。今日は、死ぬには悪い日だ。明日も、明後日も、ずっとだ」
少年は、わけが分からないという顔をした。
隣の少女だけが、帳面に、四つ目を書き足していた。
――今日は、死ぬには悪い日だ。
(了)
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