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3

 ふと甘い香りが鼻につく。

 色とりどりに咲き乱れる花の香りと甘いお菓子の香りが風に乗って運ばれてきたのだ。


 それでもウィリアムは塞ぐ胸の内から顔を上げることができなかった。


 うずくまったまま動かないウィリアムは頭の片隅でこれが夢だと気がついていた。

 いつもより短い手足。遠くに響いている子どもたちの声。

 いつか昔に体験した茶会の記憶。


「……君、具合悪い?」


 声に顔を上げる。


 そこに夜明け前の星を映す湖のように煌めく青紫の瞳をした少年が立っていた。

 少年のウィリアムが天使のように儚くも愛らしい美の化身とするなら、彼はまさしく凛々しく高貴な王子様を体現するような存在だった。


「大丈夫? 気分が悪いなら大人を呼ぶよ」


 幼さの抜けない少年の高い声は明らかにウィリアムを案じていた。

 真っ直ぐと自分を見つめる少年をウィリアムは呆然と見つめ返す。


 そんな少年のウィリアムの中にいる大人のウィリアムは苦々しく思う。

 自分の記憶の中にいるあの男はこんなにも頼もしく、美しく輝いている。


 そんな夢見る自分の胸中など知らず、記憶の再現でしかない少年のウィリアムは彼に無言で首を振って見せた。


「……そっか、じゃあ人に疲れちゃったかな。さっきはたくさん大人の人に挨拶していたもんね」

「………僕を知っているの?」

「もちろん。ベルフェゴル公爵家のウィリアム様だろう?」


 彼の言葉に驚いて目を見開いて、それから慌てて驚きを悟られないように視線を背ける。


「………よく覚えてるね。普通はみんな、父上や兄上にしか興味を持たないのに。それとも僕に父上や兄上を紹介してほしいの?」

「どうしてそうなるの。俺はただ君がこんな場所でひっそりうずくまってるから具合が悪いのかなって心配になっただけなのに」

「心配? なんで? する必要なんてないよ、僕なんて」

「するよ。こんなに寂しそうにしている子を放っておけるもんか」


 言い切る少年にハッと顔を上げる。

 彼の青紫の瞳は真っ直ぐと自分を射抜くように見つめていた。

 自分だけを映す瞳に見惚れるように見つめ返し、ウィリアムはややあって口を開く。


「………僕は、犬を、飼ってたんだ」


 ぽつりぽつりと話し始めるウィリアムに少年は寄り添うように隣に腰掛けて、続きを促す。


「……すごく大きくて賢い犬。大人しすぎてちっとも吠えやしない番犬だったけど、いつも僕と一緒にいてくれて……でも」


 たどたどしく言葉にすれば、その分まざまざとその姿が蘇る。

 子供の自分よりも大きな体の犬を思い出して言葉が詰まる。

 隣に腰掛ける少年は無言のままウィリアムが話し出すのを待ってくれている。


「…………しょぶん、されちゃった……」


 その言葉を出すのに声が震えた。

 隣の少年の喉がひゅ、と鳴った。

 ウィリアムの心中を慮るように、処分された犬を悼むように眉を下げて彼は言葉を探すように口を開いて、でも何も言葉を出せずにそっとウィリアムの背中をさすった。


 小さな手のひらはあたたかい。

 だからその温もりに押されるようにウィリアムは言葉を吐く。懺悔のように。


「……僕が、いけないんだ。勝手に拾ってきたから。父上は獣が嫌いなのに、ちょっと考えれば生き物を飼えないってわかるのに」


 少年が無言でウィリアムの背中をさする。

 労わってくれる優しい心遣いに涙腺が緩みそうになる。


 涙を堪えるウィリアムに彼は「泣いていいんだよ」と囁いた。

 その声に堪えていた涙が溢れてしまう。

 声を殺して泣くウィリアムの背中を少年がずっとさすってくれる。


 その優しい温もりが隙間風に凍えるような心を癒してくれる。

 気持ちがホッと安らげば今まで溢れさせることのできなかった感情が滂沱の涙となって次から次にこぼれ落ちた。


 少年の温もりはウィリアムが泣き止むまでずっと寄り添っていてくれた。

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