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今年は梅雨入りが早かったらしい。
外ではノアの箱舟を稼働させんとばかりに天が涙を流している。
ついでに言うなら私も内心、涙を流すというか、号泣していた。
あれから翌日。いつもの朝のホームルーム前。
昨日のアレを見て家に帰った私は結局、年甲斐もなく号泣するだけで、あれが実際何だったのか、どうすればこの悲しみは解消されるのか、全く分からず、こうして朝を迎えてしまった。
ちなみに号泣したのは本当で、昨日の夜は親におねしょをしたと間違われてしまった。
枕を濡らしすぎて、それが敷布団まで到達してしまったのだ。そのせいでまた号泣しおねしょに間違われるという人類史上類を見ない最悪な悪循環に陥ってしまった。なんと無様。
とにかくそんなこんなで現在の私は、昨日のアレの正体とその理由を考えては分からなくなり、また考えては分からなくなりを繰り返しているというわけだ。
いや、本当のことを言えば結論自体は出ているのだ。でなきゃおねしょに間違えられるぐらい枕を濡らしてない。
その結論が認められるものではないから、目をつぶっているだけなのだ。
そして逃げているわけではなく、目をつぶっているということは、それ自体は常に目の前にあるわけであって、だからまたしても、目を開けば、次のような結論と、結論を導き出すまでの過程を考えてしまう。
問1 あれは友達ではなかったのか。
回答 私の見知っている範囲であいつに女友達はいない。そもそも友達であってもホテルに行くのはダメだろ馬鹿か。
問2 あの女は編集さんではなかったのか。
回答 西条が編集さんは26歳の女性だと言っていた。違う。そもそも編集さんであってもホテルに(ry。
問3 だったら親戚だろう。きっとそうだ。
回答 じゃあ何であいつは放課後は姉の看病があるとか嘘ついたんだ。やましいことがあるから隠したんだろう。というかそもそも親戚だからってホテ(ry。
結論 あいつは既に女子中学生の彼女がいて、昨日私の誘いに嘘をついて断ったのも、その子とやましいことをするというのを言い出せなかったから。
……髪の毛ひっつかんで頭を抱える。
終わった……!何度やっても同じ結論にしかならない。しかも馬鹿な私にしては珍しく理論に隙がないため尚更性が悪い。
いや、けど、実際、そんなことがあるのか?高校生が、女子中学生と、ホテル?
確かああいうところって、未成年は入っちゃダメなんじゃなかったっけ?
ああ、でも、ああいうところって顧客情報の秘匿性を維持するため、受付も無人な所が多いって聞いたことある(この前読んだ西条の小説でそんなことを言っていた。何余計な知識植え付けてくれてんだあの変態)。店の内情さえ知っていれば入るのは容易いのか。いや、それに何よりも。何よりも重要なのは……!
「女子中学生って、かわいいしなぁ……」
「なんか朝っぱらから条例違反になりそうなこと言ってる女子いるー」
「のわぁ!?」
いつの間にか私の顔を覗き込んできていた日輪に驚き、椅子ごとのけぞる。
盛大に椅子をずらしたせいでその音が響きわたり、またしてもクラスメイトの皆さんが大繩の八の字跳びをミスった女子を見つめるような視線を浴びせてき……と思ったらもう既に皆さん慣れてしまわれたのか、誰一人こっちを向いていなかった。……なんか逆にこっちの反応の方が辛いのは気のせいだろうか。
「ななせ……あなた……」
「ち、違う!」
何やらとんでもない誤解を受けていそうなので、夏に手をうちわ代わりにする時異常の速度で私は、目を細めてくる麗優に向けて右手を交互に動かす。つーかなんてタイミングで来てんだよこいつら。あと麗優、あんただけにはそんな目で見られる資格はないと思うんだけど。というかまたしても一緒に登校とは。ほんと仲がよろしいこって。
流石に冗談だったのか、女王様……じゃなかった、麗優お嬢様は勇者に世界の半分をくれてやると告げる魔王のように微笑む。が、やがて苦笑を浮かべると肩を竦め、
「じゃあ、今度はいったいどうしたの?昨日も急に帰って連絡もなかったし。何かあったの?」
「あ、えっと……」
「もしかして、西条君がらみ?」
「…………」
頷いたものの、何も答えられなかった。
というのも、昨日、友人である麗優と日輪に相談しようとは思ったのだ。
けど好きな人が女子とホテルに入っていくところを見た。それも女子中学生と。なんて言えるわけもなかった。事実だとしても安易には言いづらいし、もし間違っていたら西条を傷つけてしまうなんてどころじゃなく、今後の人生にさえ悪影響を及ぼしてしまうかもしれない。だから結局誰にも相談できず、ただ私は悩むしかできなかった。
そしてその西条はといえば、今日もまだ学校に来ていない。
昨日の放課後までは姉の看病があったんだなと思えていたけれど、今はもっと別の理由を想像してしまう。
「ということは、昨日言っていた用事っていうのは嘘で、西条君を発見して飛び出していったのね」
あらかたの事情を察したのか、麗優の表情が私を思いやるものへと変わる。
流石優等生。いや、どっちかって言うと名探偵かな。西条なんかに紹介すればさぞ喜ばれそうな人材だ。
が、流石に優等生と言えどもその先、つまりはこれからどうしたらいいかの考えまでは思い浮かばなかったらしい。腕をこまぬいて、打開策を探すように、目を閉じている。
万策尽きたように思えた。が、しかしそこで思わぬ助け船が入った。
「っていうかさー。悩んでるなら、本人に直接訊けばいいんじゃねー?訊きにくいことならそれとなく匂わせる感じでさー」
目から鱗どころかメガバンクの金庫の扉が落ちた思いだった。
そうだ。その手があった!
私が何で悩んでるかって言うと、事実が分からないから悩んでるんだ!だったら西条に訊けばいい話じゃないか!流石に昨日ホテルに行ったよね、なんて直接的なことは聞けないけれど、昨日、女子中学生と歩いてるところ見たんだけど、あれは何だったの、ぐらいは訊くことができる。なんで思いつかなかったんだ私の馬鹿!靴裏にへばりついたガム!そしてサンキュー!日輪!愛してる!
「たしかに、そうかも。ありがと。麗優。日輪」
「ええ」
「宿題100年分でいいよんー」
「宿題にそんな単位はない」
せいぜい三日分くらいだあほんだら。
「……!」
とか考えていたら、早速本人登場だ。
なにやらお疲れなのか、普段よりも背筋が1センチ程丸まっているような歩き方で自席に着く。そして席に着くなり頬杖をついてうっすら隈が浮かんだ目で窓の外を見つめ始めた。
心がざわつく。なんだよそのアンニュイな姿は。お盛んだった昨夜を思い出しておセンチってか。
……いやいや、訊きもしていないのに邪推するだけで相手を評するのは人間として最低の行為だ。いけないけない落ち着け私。まだ焦るような時間じゃない。
私はカラオケのバイトで柄の悪い客を受付した後と同じくらいの量の深呼吸と、同じくバイトでスマイルくださいとのたまってきたキモおじに隠れて作る爪が食い込むほどの握り拳を作る。そして、平静を装って西条のつむじあたりに声を浴びせた。あくまで冷静に冷静に。普段通りに挨拶を……。
「よっはーっ西条」
「え、何?そのぶっとんだ挨拶」
しくじったあああああああああああああああああああああああ!平静を装い、あくまで軽いノリで挨拶しようと思ったら「よっ」と「おっはー」が混じってしまったあああああああああああああああああああ!
何もない空間を見つめ続ける猫のような目でこっち見つめてくる西条。コホン。ダメだダメだ。落ち着け私。頑張れ私!
「ごめん。何でもない。忘れて」
「いや、一生忘れられそうもない挨拶だったんだけど……えと、大丈夫?」
西条はクラス対抗別リレーで最下位でゴールしたアンカーを見るような目で私を見てくる。体調が悪そうなやつに憐れまれるのってなんだかそこはかとない辛さがあるな。いや、しかし、これは好機だ。この話題を逆手に取らせてもらう。
「うん。大丈夫。てか西条こそ、大丈夫?最近学校来るの遅いじゃん。前までは決まった時間に家からベルトコンベアで運ばれてんのかと思うくらいだったのに」
西条は一瞬眼球を端の方へと転がすと、
「なにその例え。けど、うん。大丈夫。看病でちょっと寝不足なだけだから」
嘘だ。私は確信する。何故かって放課後看病なんてしてないのは知っているから。
しかし、西条が隠そうとしている以上、この点を掘り下げてもあまり意味がないだろう。録画して証拠を残しているわけでもないため、のらりくらりと誤魔化されるのがオチだ。
私は必死に顔面に微笑を張り付かせて、
「そっか。ならよかった。いや、寝不足なのはよくないけど。あ、そうだ。昨日も言ったかもしれないけどさ、やっぱり一回くらい球技大会の練習しとかない?もうあと十日後だし。私もやるなら勝ちたいしさ。忙しいのは知ってるんだけど、何とか時間作れない?」
とりあえず昨日のアレの事実の究明は後回しにして、まずは二人になれる時間を作ることにする。
こういう衆人環視の場所だと西条がほんとのことを話しにくいのもあるだろうし、それに何より、やるならできるだけ勝ちたいというのもまた事実だ。
西条も、さっき私に大丈夫と言った手前、これ以上断るのは難しいだろう。
断るにしても、昨日のアレを考えると、私の誘いを断ったこと、私に嘘をついたことに多少なりとも罪悪感を感じていれば、一考ぐらいするか、代替案を提示するぐらいのことはするはずだ。
そう、思っていたのだけど、
「ごめん、球技大会の日まで時間は作れそうにないや」
「……え?」
僅かな間隙も残さずそう返された瞬間、私の中で何かが切れる音がした。
ぷつって。
……ああ、そうか。
――堪忍袋の尾って、切れたらこんな音がするんだ。
「何で?何で時間作れないの?」
「え……何でって、言ったじゃん。看病があるんだよ。だから行けないんだ」
私のいろんな物が引いていくような気がした。
笑顔。
声。
血の気。
そして、こいつへの、気持ち。
引いていく。どんどんどんどん、遠くなっていく。
「そか」
それだけ言って、私は背を向け、自分の席に座った。
今はとにかく、こいつの顔を見たくなかった。
「分かった。これから『は』、ちゃんとお姉さんの看病してあげてね」
「え?」
横から、突如ヨタ波に襲われた釣り人みたいな、そんな西条の声が聞こえてくる。
が、それに対する私の返事はない。
当然だ。波は既に引いてしまっているのだから。
左斜め前の窓へと視線を走らせる。
気が付くと、雨脚は苛烈さを増していた。
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