3
走る。
とにかく私は走っていた。
いろんなものがうるさい。
テンポの悪い呼吸音。
ドラムロールみたいな速すぎる心拍音。
軽やかさのかけらもない重い足音。
爽快さのかけらもない鈍い打球音。
そんな音を奏でる私の体は、まるで一個の安物のシンセサイザーにでもなったみたいだ。
「はぁっ……はぁっ……」
試合の状況は、おおよそ考えられる限り最悪だった。
いや、一ポイントも取れずに負けたとか、チームメイトの誰かさんのために、私が実は替え玉を用意していて、それがバレて失格になったとか、そういうのではない。
むしろ、それならどれだけよかったことだろう。
『試合が終わる』なら、それはどれだけ幸福なことか。
「はっ……はっ……!」
まるで夜、餌を持って家に帰ってきた主人を見る犬のごとく、私は荒い口呼吸を連発する。
試合開始から十五分。
現在試合の得点状況はどうなっているかというと、そりゃあ15分も経ったのだから、比較的スピード感のあるテニスという競技のことだ。それはもう得点の方も、互いのチームでもかなりの量が増えた。
ええ、増えましたとも。
なんとびっくり――1ポイントも。
……そう。現在の二チーム合計の得点数は上乃宮チームから見て1対ゼロ。テニス風に言えばヒフティーンラブ。
つまり試合開始から15分が経過した現在も未だに2ポイント目ってことだった。
……おいおいどうなってんだよ。いつの間にか私は光並みの速度で運動しちまってたってことなのかい。どういうことだよアインシュタイン先生よ。
が、当然、人類如きが特殊相対性理論の壁をぶち破れるなんてことがあるはずもない。その原因は特殊だ一般だなどと議論する以前にはっきりしていた。
光ではなく闇、いや、より正確を期すなら、腹黒というべきか。
そう――
「そーれっ」
「っ……!」
そんな風に銀貨三十枚でキリストを売った時のユダみたいな笑顔と声で打ってくる、決して速くはないが、ベースラインぎりぎりに落ちてくる上乃宮の打球を、私は上司に土下座しにいく部下みたいな足取りで追いかけ、何とかふにゃふにゃなボールで打ち返した。
そう――原因はもちろんあのアンポンタンクソバカマヌケ女だった(疲労により語彙力が低下しておりますご了承ください)。
試合開始後、奴は小手調べとばかりに私、西条の順で、数球、ロブにもなっていないへなちょこサーブを打ってきた。
しかし、案の定というかなんというか、西条はそれさえ返球できず、ラケットで空気斬り。もはや見事なほどに弱点を惜しみなく晒してくれた。
が、しかし、そこから、普通の人間であれば西条を集中狙いして勝利をもぎとろうとするはずなのだが、流石、アンポンタンry)は違った。
なんと次の2ポイント目から、ひたすら私だけに、私でもぎりぎり返せるような打球を集め始めたのだ。
おそらく、せっかくなら私をいたぶって遊ぼうとかおそらくそういう魂胆なんだろう。くそったれが。本当にユダみてぇな下衆野郎だ。髪色も丁度ユダが着てた服と同色みたいだしな。ああ、ちなみに同系統の西条の髪色は夜闇に浮かぶ満月みたいな鮮やかな金色です。月とすっぽんってやつだ。
「っ……!」
都合約20度目のラリー。ついに私はボールをネットにかけてしまった。
バイトを何個も掛け持ちしているように、体力にはそこそこ自信のある私だが、まともに立っていられず、ラケットを杖代わりにして呼吸を整える。
対して上乃宮は余裕綽々の態度で、私のオマエシネヨ視線に気が付いたのか、口パクでオツカレとかほざきやがる。オマエシネヨ。
「ちょ、獅子ヶ谷さん、大丈夫?」
慌てて西条が駆けつけてくれる。おお、ありがてぇ。まるでキリストそのものみたいな声だ。が、西条には申し訳ないが、大丈夫ではない。これが大丈夫なら蛇に睨まれた蛙でも笑顔でVサインを作るだろう。西条は保育園で先生が子供相手にするように膝を曲げて私と目を合わせると、
「なんだったら、このゲームをあきらめよう。俺がポジションチェンジしてわざとミスるから。それに次のゲームはサーブ権あるし。そこで流れ変えよう」
「いや、私たちはそうでも、周りが許さないでしょ」
呼吸を整えつつ、周囲を見渡す。
観客は学校の生徒だけじゃない。決勝ということで、どうせテニスのルールもほとんど知らないくせして、したり顔でうんうん頷いている担任だったり、とりわけ体育教師も見ている。そりゃあ西条が全てのボールを打てば試合は会社員の休日並みの速度で無慈悲に終わりを告げるだろうが、わざと試合を放棄するような真似をして、西条の成績低下に繋がることは極力したくない。無論私もだ。
「ちょっとー。早く構えてよー。ポイント間の自由時間は25秒じゃなかったっけー?ですよねー甲斐先生ー」
わざわざ上乃宮が遠くで見ていた体育教師の甲斐に大声で確認を取りやがる。甲斐も「おーそうだーよく知ってるなー」とか野太い声で返すせいで観客に笑いが生まれて上乃宮さんオモシロイガンバッテ♪みたいな空気が生み出される。上乃宮さんシラジラシイガンバンニアタマブツケテシネ♪
が、そんなほろびのうたを奏でたところで奴が三ターン目に死ぬわけではない。仕方なく持ち場に戻る。
「おーりゃ!」
訳の分からないぶりっ子な掛け声とともに、上乃宮のサーブが西条に打ち出される。さっき私にも出されたヘロヘロなサーブよりもさらにとろいサーブ。
西条が不格好なフォームながらなんとか打ち返す。が、安堵したのも束の間、またしても打球は私に集中し始めた。
「っ……!ハッ……!」
シャトルラン120回付近で線を踏む男子生徒みたいに体のリーチの限界を駆使することでかろうじて私はボールに喰らいついていく。ちなみにあのイケメンの男子生徒の方にも時々返球してはいるのだが、キイロクチキムシみたいな髪色をしてる女に言いくるめられているのか、あいつも私の方にしか返球してこない。くそったれ、あのくそ虫が。何か、何かこの状況を打破するような名案はないのか。名案はなくとも奴から明暗を奪ってしまうくらいの何かは。たしか某テニスマンガにそんな技があったはずだ。
「……っ!?」
とかまたしても頭フラワーパークみたいなことを考えていたのがいけなかったのだろう。
これまでは左右に振り回してきていた上乃宮のボールが今度は前側、つまりネットにかかるかかからないか際々の、絶妙なドロップショットが落ちてきた。
余計なことを考えていた私は、当然走り出すのが遅れる。
「ぐ、おっ……!」
選挙期間中だけは頑張って、後は何もしない政治家並みに情けない謎の声を上げたおかげか、なんとか、ぎりぎり、かろうじて、ボールはラケットのフレームに引っかかり、浮かせるだけの返球には成功する。しかし、
「の、わ!?」
バランスを崩した私は、よく言えば四つん這い、悪く言えば、栄養失調で倒れた後ろ脚だけ長い仔馬か小鹿みたいな姿勢ですっころんでしまう。
そしてこのコート内には、そんな、怪我した馬鹿な小動物のような生物を見れば、さっさと冥界へと運ぼうとしてしまおうとするような化け物がいるわけで――
「よけないと、ケガするよ?」
「……っ!」
――浮いたボール。そしてボールではなく、もっと『別のもの』を叩こうと、デスサイズみたいに見えるラケットを振り下ろす死神が――嗤っていた。
「ッ……!ア……ッ―――――!」
――上乃宮によって放たれたスマッシュは、直で私の右背面部にめり込んだ。
「獅子ヶ谷さん!」
たまらず臥せって、左手で背を抑えるなんとも間抜けなポーズをお披露目する私を心配してか、すぐに西条が衆人環視の状況であるにも関わらず、大声を張り上げて駆けつけて来てくれる。
「あ、ごめん!ななせ。大丈夫!?」
そしてその西条が到着する間際、当てた張本人である上乃宮も、やけに大声でそんな殊勝なことを言ってきた。しかし、その私を見下ろす顔を見上げれば、その顔には爛爛と興奮に満ちた目と、口元にはいやらしい、ひな鳥の卵を前にした蛇のような舌がちょろついていた。この顔も、この口もお客さんには、見えていないことだろう。この野郎……!
「獅子ヶ谷さん、大丈夫?立てる?」
「獅子ヶ谷、大丈夫か?」
一応試合は真面目に見ていたらしい、結構全力で走ってきたのか、西条のすぐ後に到着した、僅かに息切れを起こした体育教師の甲斐が、西条の手を借りて立ち上がった私を不安気に見つめてくる。無意識だったかもしれないが、上乃宮の冗談に乗るような奴だから、てっきりゴミ野郎なのかと思っていたが、存外そうでもないらしい。
私が「大丈夫です。かすっただけなんで」と答えると、「……そうか」とだけ小さく言って甲斐はコートを離れていく。納得している風ではなかったが、私が女子生徒というのもあって無理矢理保健室に連れていくのもはばかられるのと、本人がいいと言っている以上、それを無下にすることはできなかったのだろう。
「獅子ヶ谷さん、まだやるの?」
流石にこれ以上は、と言わんばかりの目で西条は私のお腹越しに背中を見つめる。
「うん。大丈夫。心配かけてごめんね」
そうは言ったものの、正直全く以て大丈夫ではない。なんかさっきから患部がどくんどくん言ってるし。なんだよ、ギア上がっちまったか?もしそうなら今すぐ真後ろの女にジェットピストルを食らわせるのだが。
「あ。そうだ。ちょっと待って」
「?」
私がせめてアメリカあたりから普通のピストルを輸入して奴を始末できないかと画策していると、西条はいきなりジャージのポケットをいじくり始めた。なんだ、ポケットをまさぐって。空気砲でも出してくれるってのかい。もしくはピストル持ったの●太君でも出してくれれば最高なんだが。さすればきっと秒速で奴をこの世から葬り去ってくれるだろう。
が、当然未来のハイテク青狸ではないこいつのポケットからそんなものが出てくるはずもなく、私の頭の中限定で、やけに高い声で紹介されて出てきたそれは――
「……何でこんなん持ってるわけ?」
――湿布だった。一枚の、まだフィルムどころか、包装が開封されてもいない状態の新品未開封の湿布。
私が問うと、西条は三者面談後に見かけた、日輪のお母さん以上に暗い顔を浮かべて、
「いや、ほら、俺、運動神経悪いから……普段からよく怪我するから、常備を……」
「ああ、なるほど……」
悲しい理由だった。
怪我しているのは私なのに、こっちがいたたまれなくなる。やめろよ。気遣ってくれつつ傷つけてくるなよ。
が、まぁそれを抜きして言えば、今はそのいたたまれなさ(?)が逆にありがたかった。
流石に怪我人相手に制限時間のルールを適用しようとは上乃宮も思わないのか、何も言ってこないのでこのまま湿布を貼らせてもうことにする(後でネットで調べたら、メディカルタイムアウトという、競技中に選手が怪我をした時、治療をするための時間を与えられることを規定したルールがあることが分かった。奴はそれを知っていたから、自分の無知を晒すのが嫌で制限時間を指摘しなかったわけだ。とことんクズだった)。が、場所が場所だけに患部に貼りづらい。
「ああ、俺が貼ろうか?」
「うん。よろしく。助かる……ってふぁ!?」
こいつ今なんつった!?貼る!?湿布を!?西条が!?私の背中に!?
が、私が動揺しているうちに西条は私の背中に回ると、なんと何のためらいもなく、私のジャージを持ち上げ患部を見つけ出しまった。そしてフィルムをはがして素手で私の背中にぺたりと……ってどうなってんだこいつの神経回路は!ちょやめろ!ブラ紐見えんだろうが!
「ちょ!自分!自分でやるから離せ馬鹿!」
「?そう?あ、患部は肩甲骨真下あたりのハート型になってるほくろらへん――」
「きもいわ!」
「ぐっはぁ!」
一瞬、痛みを全て忘れて私は目の前の無神経男の顔面をぶん殴った。一回バウンドしてから再度背中を地面に打ち付ける西条。
こ、こ、こいつは、ほんとに無神経すぎる!いったいどこまで厚顔無恥なんだ!まぁ、その顔も、今や私の拳型に変形してしまっているわけですが!ごめんなさい!
「あ、そうだ、獅子ヶ谷さん」
背中の痛みと闘いながら湿布を貼っていると、むくりという擬音がぴったりな起き方で起き上がってきた西条が土を払いながらそう声をかけてくる。何だよ。交番なら校門出て東に徒歩十分だぜ。
「俺を警察に突き出す前提で話進めないで。そうじゃなくて、ポリスじゃなくてテニスの話」
「何?」
「次のゲームのサーブ権、俺に譲ってくれない?」
「……は?」
驚きすぎて指が滑って患部に爪が刺さってしまった。が、痛みはまるで感じない。おい、こいつ、今なんて?サーブを、こいつに、譲る?
「えっと、ごめん。私、そんなに強く殴っちゃった?」
「いや、殴られて頭狂ったわけじゃないから。俺はいつでも正常だよ」
いや、その持論には議論の余地があるというか、ギロチンで斬首したいというか。
「ねー。そろそろ始めちゃっていいー?」
西条の行動の意味を図りかねていると、流石に待ち時間に耐えかねたのか、上乃宮がネットに体重を預けながらムカつく角度に首をかしげてそう尋ねてくる。うっせぇな。誰のせいだと思ってんだ。ギロチンで斬首すんぞ。
「じゃあ、そういうわけで、よろしく」
「え?あ、ちょっと!」
慌てて制止するも、西条は言うことを聞かず持ち場に戻っていく。
おいおい……嘘だろ。流石にお前にサーブは無理があるって。
が、それを説得しようにも今は試合中。制限時間がある以上、無慈悲にも試合は再開される。が、もちろん、背中の痛みもあり、試合にならない。
四ポイント目は、私がリターンをミスってあっさり終了した。一ゲーム目が終了したので、サーブ権がこちらに移る。上乃宮の乱暴な送球を受け取り、先ほど言っていたように西条がサーブポジションに入った。それを見た上乃宮と、コート外でこちらを見る観客数名からの嘲笑が聞こえる。
「………」
これは、あれだ。
いつかも言った、万策尽きたー、というやつだ。あのアニメでは尽きなかったわけだが、おそらく私たちの場合ではそうはならないだろう。なにせ、西条の運動神経が尽きている。
知っての通り、西条のソレは異常だ。
それはあいつがボールを打つ時だけラケットからガットが消えているんじゃないかと思うほど。
そんなあいつが、サーブを打つのだ。
しかもただでさえ、初心者には垣根の高いテニスというスポーツ。それも、中でもトップクラスに難しいサーブというショット。これはもう自殺行為と言って差し支えあるまい。サービスエースどころか相手にとってサービスになってしまいかねない試合だ。
……いや、待てよ。
あの何も考えてないようで、考えている。けどやっぱり考えていないように見える西条だ(それは考えていないのでは)。何か勝利するための策、とまでは言わないにしても、少なからず何か考えてそんな奇策を提案してきたとしか思えない。
……例えば。
例えばあいつは、私の怪我を考慮して、わざと試合を早く終わらせようとしている、とか。
テニスはサーブが入らなければ始まらないスポーツだ。
それはつまり、サーブをミスり続ければすぐに試合は終わってしまうということ。
だから自分が醜態を晒してでも、サーブを一刻も早く終わらせ、私を保健室に担ぎ込むつもりなんじゃないだろうか。
あの辞書にお人好しという言葉しか載っていなさそうな野郎だ。可能性は十分ある。
そしてもし、
もし、そうなら……。
止めなければ!
「ちょ、西条待っ――」
「よっ!」
私がそう呼び止めるのと、西条がそんな軽い掛け声とともにサーブを打ち出すのは同時のことだった。
そして――
「………え?」
まず、聞こえてきたのは、上乃宮とその隣のイケメン君のそんな間の抜けた声。
「………え?」
そして次に聞こえてきたのは、距離にしてゼロメートル、つまりは私の口から発せられた、本人の学業成績という意味も加味した間抜けた声。
そして――
「「えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」」
という、麗優と日輪も含めた、観客からの割れんばかりの歓声、というより、どよめきだった。
西条が――サービスエースを決めていた。
ご一読ありがとうございました!続きもよろしければご覧ください!