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「なるほどねぇー」
スパーという擬音が聞こえてきそうなほど、先輩は気持ちよさそうに口から煙を吹き上げる。
空気砲みたいな煙の塊は抵抗をものともせず、一直線に前へ。そして思いっきり前に座る私の顔面にクリーンヒットしてから二手に分かれて、文字通り雲散霧消した。
……いや、先輩は四月生まれで成人しているし、休憩室は喫煙OKだから私としてはあまり文句は言えないのだけど、未成年が目の前にいるのに、今時珍しい紙煙草をお吸いになるのはいかがなものだろうか(しかも見たことも聞いたこともないメーカーのものだ)。
そしてその煙の空気砲を後輩の顔面に容赦なくぶつけるって。ここはアメリカのギャングの基地かなんかなのだろうか。あと、どう高く見積もっても高一くらいにしか見えない先輩が煙草をふかしている姿は正直違和感しかない。ロリ巨乳でパンキッシュで喫煙者とか、属性のバーゲンセール過ぎる。何個かギャリック砲で吹き飛ばしたい。
午後8時15分。休憩時間に入ってから私は早速水面先輩にこれまでの西条とのいざこざの経緯を語った。そして聞き終えた先輩は先程のように一言呟き、例の煙草砲弾を私にぶつけてきたという展開だ。アレ?やっぱり私、煙ぶつけられる必要性なかったくね?
「…………」
先輩はただひたすら煙草を咥えたまま、愛らしい童顔で私を観察するように見つめてくる。見た目犯罪的なのだが、そのギャップがなんというか、ものすごく可愛い。犯罪的に可愛い。これで更に「コロンブスの卵ですよ」とか言われてしまえば悶え死にするかもしれない。だから何を言ってるんだ私は。
「ま、半々って感じかな」
「え?」
などと、西条と喧嘩したことでとうとう悲しみでいかれちまった、中也的に言えばいかれちまった悲しみになのかと、またしてもおセンチな気分を振り払うべく馬鹿なことを考えていたところ、時間停止から解除されたように、先輩がどっと勢いよく背もたれにもたれかかり、そう呟いたことで、私はようやく我を取り戻した。
……半々?
「そ。半々。多分だけど、西条君も悪いし、ななせちゃんも半分悪い。ごめんね。私は所謂女子特有の肯定してあげる前提のあのくっだらない相談相手にはなれないんだよ」
皮肉気な笑みを浮かべ、再度先輩は煙草をふかした(今度はちゃんと横を向いて)。いや、女子の間で確かにそういう傾向があるのは否定できないけれど、そこまで言わんでも。過去に何かあったのだろうか。闇が深い。
……しかしそれにしても、半々、か。
先輩は灰皿で煙草をもみ消し、頬杖をついてから、
「うん。確かに西条君が嘘をついているのは悪いことかもしれないよ。私は西条君じゃないからほんとのことは分からないけれど、女子中学生とホテルに行ったのなら、それもまごうことなく悪いことだ。悪いことってか犯罪だね。だけど、こうは思わない?西条君が、ななせちゃんを思ってあえて嘘をついているっていうのは」
「……それは――」
それは、考えなかった訳じゃない。いや、むしろ今でも少し、そうなんじゃないかって思ってる。
けど、
「けど、そんな理由が、ありますか?女子中学生とホテルに行ったことを隠すことで私のためになるようなことが」
くどいようだが、なんせJCとホテルだ。流石に直接「昨日女子中学生とホテルに行ったよね?」とは聞いていないが、数時間前に遠まわしに問い詰めたことで、あっちもあらかた私が何か察していることは気付いているはずだ。なのに対話は難しいにしてもラインにさえ一報も入れず、ただ誤魔化したとあっては、もう私に採れる選択肢は疑うことしかない。
「そうだね。だから真実を言ってくれるのを待つか、言わせるしかない」
「どうやってですか」
「そんなの一つしかないでしょ」
先輩は言った。
何のためらいもなく。
「あの時一緒にホテルに行ったJC浮気女は誰だー!って訊くんだよ」
「…………」
静寂が、休憩室を支配した。
……分かってる。それさえ言えば問題は解決する、かどうかは分からないけれど、とりあえず先に進むことはできるんだってことは。
だけど、私にはそれをどうしても言えない理由がある。
いや、倫理観だけが理由じゃない。
だって、それは……。
「なぁんてね」
ふっと相好を崩し、先輩は再度背もたれに背中を預けた。
え?
「分かるよ。訊くのが気まずいって言うのもあるけれど、それ以上にななせちゃんは、西条君を傷つけたくないんだよね。もしも真実を告げてしまったら、西条君がせっかくななせちゃんを気遣ったのが、無駄になっちゃうから。だからななせちゃんは、訊けないんだ。ななせちゃんはままだ、西条君を信じてるんだよね」
「……!」
顕微鏡で観察される玉ねぎの細胞の気分だった。
何で。何で分かるんだ。
しかし、そう。それは一言一句当たっていた。
それが、私が西条に訊けない理由。
西条はやましいことがあるから私に嘘をついているんじゃなくて、私のために嘘をついているんだとしたら。
仮にそうだとしたら、私が本気で問い詰めればあいつの苦労を全て奪い去ってしまうことになる。
だから私は訊くに訊けなかった。
あいつが、少しでも傷つくのがいやだったから。
しかし、私の気持ちを汲んでくれた先輩には悪いけれど、理解してもらっただけではどうにもならない。純粋に嬉しくはあるけれど、今の私に必要なものはもっと別の――
「私さ、よく海外に行くじゃん」
「え?」
――とまたしても無駄なモノローグに入りかけた直後、先輩は、私の知らないところで勝手に、現実という動画のシークバーのスライダーを勝手に進めたのではと疑いたくなってしまうくらい、いきなり話をぶっ飛ばした。いや、いくら私がSNS好きだからと言って流石にそれにはついていけない。
しかし、私の気持ちなど伊勢志摩ライナーの通過駅のように放っておいて、先輩はあくまで自分のレールを走り続ける。
「それはさ、私が将来、世界から戦争をなくすために、全ての国が他国の力を借りずに自力で生活できるようにサポートしたいから、その実地調査もかねて行ってるんだ。世界から平和的に戦争をなくすためには、私はそれしかないと思うから」
驚きで声も出ない私を置き去りに、あくまで気だるげに、先輩はものすごいことを天井と目線を合わせながら続ける。
「それでさ、だから大抵、私が行く国ってやっぱりそういう自立しきれてない国ばっかりになっちゃって、どこもものすごく治安が悪いんだよ。具体例を列挙してたら多分ピッチドロップ実験が終わるくらいの長さになっちゃうからあえて一つだけに絞ると、そうだね。盗みだけを生活の糧にしている子供だけの村があったこととかかな」
突如語られ始めた先輩の人生に、私は語る言葉一つ持たなかった。あまりにも現実味がなさすぎて、どこかの宗教秘話や言い伝えを聞いているような気分だ。
が、言い伝えではなくとも、先輩の言いたいことならだんだんと分かってきた。
先輩は要するに、私を励まそうとしてくれているのだ。世界中には、こんなにも不幸な子達で溢れている。そんな子達に比べれば、私の悩みなどちっぽけなものだ。だからがんばれと、先輩はそう励ましてくれているんだろう。
……でも、それでも私の心に光が差し込むことはなかった。
残念ながら、私は聖人君子ではない。彼らはもっと酷い目に遭っているんだから、私なんかがくよくよしてなんていられない、なんて高尚な事は思えない。こんな自分に嫌気がさすけれど、けど、私はそういう人間だ。自分が幸せにならないと他人を幸せになんてできないなんて、そんな言い訳を本気で信じてしまうような人間なのだ。
だから、先輩のその意見には賛同できない。
そう、思っていたのだけれど、
「ああ、ごめんね。私が言いたいのは別にそういう、あいつらはもっと頑張ってるんだから、お前もがんばれ的なことじゃないよ。それは、親が子供に、「お前らは良いよな。遊んでるだけで飯が食えて」なんて言うのと同じくらいの暴論だからね」
「え?」
またしても、心の口に対する読唇術でも使ったように、先輩に内心を言い当てられ、瞠目する私。そんな私を置き去りに先輩は、今度はもたれたままライターで煙草に着火してから吸い始める。つまらなげに窓の外の夜闇を眺めながら、それをまるで覆い隠すように煙をぶちまける。
「私が話したいのは、そう。さっきの子供たちの村の話だよ。その村はね、全員が身寄りのない子供たち、親に見捨てられた子供たち、もしくは売られてそこから逃げてきた子供たちからできている村なんだ。文字通りの子供会ってやつだね。でさ、そこが意外にもしっかりしたところでね。きちんと役割が分担されているんだ。盗んでくる者。盗んできた物資を守る者。盗んできた物を活用する者。全員にちゃんと仕事が割り振られてるんだ。でもね、一人だけ、本当に一人だけ、村の隅の方でただぽつんと一人、誰とも群れずに座ってる10才くらいの女の子がいたんだよ。わが子を殺した仇敵を見つめるチーターみたいな目をした女の子だった。私はその子に訊いたんだ。「君は、何もしないの?」って。そしたらその子なんて言ったと思う?」
なんて、言ったんだろう。
「『私は、人から盗んだ物で生活するような、そんな人間にはなりたくない。盗まれた人がかわいそう』ってさ」
「…………」
「ななせちゃんはこれ訊いてどう思う?その子の盗みをしたくない、っていう意思は、確かに高潔なものだと私は思うよ。誇りに思うと言ってもいい。だけどさ、当然のことながら、彼女はこの村では働いていないから、ほとんど何ももらえないんだ。もらえるのは、先進国の囚人より酷い、ぎりぎり生きていけるような、最低限の食事だけ。かと言って、他のところに行って、生きていけるようなそんな優しい国でもなかった。その反面、盗みさえ、もしくは村の中で何かしら役割を果たせば、村の皆が助けてくれるし、食べ物だってもらえる。友達だってできるかもしれない。あるいは、お金を貯めて大きくなったらどこか遠くへ行くことだって叶うかもしれない」
そうか。
やっと。やっと、分かった。先輩が私に伝えたいことがなんなのか、私は理解した。
つまり、
「その子は結局、私がその国で多少生活に余裕のあって、人間的にも大丈夫そうな人を探して、探し続けて、なんとか養子にしてもらうことで事なきを得たんだけど、でもさ、この言い方は自慢みたいになって嫌なんだけど、私が何もしてなかったら、その子はどうなってたと思う?私はさ、なんていうか、まぁ、あれ」
報われないな。
そう思うよ。
先輩はそう言って、煙草をふかした。中空に煙と、それ以外の何かを吹き出すように。
私が『決断』を下すのに、残りの休憩時間では多いくらいだった。
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