深夜便
深夜便
私がタクシー運転手になって三年が経つ。
昼間の仕事が長続きしなかった私にとって、深夜の運転はなかなか私に合っていた。
午後十一時から翌朝五時まで、人の少ない街を静かに走る。
客との会話も必要最低限で済むので、気楽に仕事をすることができる。
最初に奇妙な体験をしたのは、まだ仕事を始めたばかりで慣れない頃だった。
終電後の駅のロータリーで、五十代ほどの女性を乗せた。
黒いコートを着て、疲れたような表情をしていた。
その時は雨が降り始めていて、女性の髪や肩が少し濡れていた。
「緑町三丁目十五番地まで」
女性は小さな声でそう告げた。
私は住所を確認してからアクセルを踏んだ。
深夜の住宅地は静まり返っている。
街灯の明かりだけが、静まり返った街並みを照らしている。
車内は雨粒が打ち付ける音が静かに響いていた。
女性は後部座席で黙って外を眺めていた。
時々、小さなため息をついているのが聞こえた。
私は余計な詮索をしたくない主義だったので、何も尋ねなかった。
そこまで遠くはなく、十五分ほどで目的地に着いた。
住宅地の一角で、古い民家が並んでいる地域だった。
「千二百円です」
私が振り返ると、女性は無言で料金を差し出した。
濡れた千円札と小銭だった。
お釣りを渡すと、女性は「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げた。
女性は車を降りた。
私はお金を整理しながら、バックミラーで後部座席を確認した。
女性がまだ座っていた。
同じ姿勢で、同じ方向を見つめている。
私は目をこすって、もう一度確認した。確かに女性がそこにいる。
私は慌てて声をかけようとしたが、もう一度車の外を確認していたら、後部座席は空だった。
シートには誰かが座っていた跡もない。
外を見ると、女性の姿も見当たらない。
雨に濡れた歩道には、足跡ひとつ残っていなかった。
私は首を振って、見間違いだと自分に言い聞かせた。
あの女性は私が疲れから見間違えただけで、もうどこかの家に入って帰ったのだろう。
深夜勤務は体に堪える。そう思って、その場を後にした。
しかし、それは始まりに過ぎなかった。
一週間後、また終電後の深夜、今度はご老人を乗せた。
七十代の男性で、杖をついてゆっくりと乗り込んできた。
古い背広を着て、昭和の香りがする人だった。
「中央病院まで頼む」
私は困った。中央病院は五年前に閉院している。
建物はまだあるが、もう医療機関として機能していない。
そもそも、こんな深夜では病院も空いていない。
「申し訳ございませんが、中央病院は5年前に閉院しております」
老人は首をかしげた。
「そんなはずはない。私はそこに通院しているんだ。毎週火曜日に診察を受けている」
老人が冗談を言っているようには聞こえなかった。
私は別の総合病院を提案したが、老人は首を振った。
「中央病院でなければ駄目なんだ。佐藤先生に診てもらわないと」
私は仕方なく、老人の言う通りに閉院した中央病院まで向かうことになった。
道中、老人は病気のことや、長年通院していることを話した。
まるで病院が今でも営業しているかのように。
病院には十分ほどで到着した。
建物は確かにそこにあったが、窓は全て暗く、看板も取り外されている。
「ほら、ここにまだあるじゃないか」
老人は嬉しそうに言って、料金を払った。
老人が渡してきたお金の中には古い五百円硬貨が混じっていた。
私が領収書を書いている間に、老人は車を降りた。
杖をつきながら、建物に向かって歩いていく。
お金を片付け、顔を上げ外を見ると、老人の姿はどこにもなかった。
閉ざされた病院の入り口に、誰かがいた気配もない。
私は車から降りて、辺りを見回した。
深夜の病院跡地は不気味だった。
風が吹いて、立入禁止の看板がきしんでいる。
老人はどこに消えたのか。
私は不安になり始めた。
それから似たような体験が続いた。
三日後には、若い男性を乗せた。
スーツ姿で、酒の匂いがしていた。
「桜ヶ丘団地まで」
私は知っている場所だった。
しかし、桜ヶ丘団地は二年前に取り壊されている。
今は新築マンションが建っている。
「桜ヶ丘団地は少し前に取り壊されて、今は新築マンションになっていますが」
男性は眉をひそめた。
「何を言ってるんですか。僕はそこに住んでるんです。
今日も残業で遅くなって、早く帰りたいんです、冗談はやめてください」
私は現状を説明したが、男性は納得しなかった。
結局、その場所まで送ることになった。
道中、男性は仕事の愚痴を話した。
上司のことや、終わらない業務のこと。
まるで今日も会社にいたかのように。
現場に着くと、確かに新築マンションが建っていた。
高級そうな街灯が、街を明るく照らしている。
「おかしいな」
男性は困惑していた。しかし、料金は払ってくれた。
車を降りて、マンションの方に歩いていく。
私がレシートを整理していると、男性の姿が見えなくなっていた。
マンションの中にも入っていない。
以前の不思議な客と同じ様に、空気に溶けるように消えていた。
私は震えた。これで三回目だった。
偶然ではない。何かが起きている。
翌週、私は他のタクシー運転手に相談してみた。
休憩所で顔見知りの田村という男に話を振ってみた。
田村は夜勤歴十年のベテランだった。
「田村さん、変な客に遭遇したことありませんか」
田村は曖昧に微笑んだ。
「夜勤やってりゃ、そういうこともあるよ」
「どういうことですか」
「深夜には色んな人が乗る。生きてる人間だけじゃないってことさ」
田村は詳しくは教えてくれなかった。
ただ、「慣れるよ」とだけ言った。
他の運転手たちも同じような反応だった。
皆、何かを知っているようだったが、具体的な話はしたがらない。
まるで暗黙の了解があるかのように。
私は気になって、客が告げた住所を調べ始めた。
緑町三丁目十五番地は確かに存在したが、そこは更地になっていた。
三年前に古い家屋が取り壊されたという。
市役所で調べると、そこには八十年間、古い木造住宅が建っていた。
最後の住人は高齢の女性だったらしい。
中央病院の跡地も確認した。
建物はまだあるが、窓は全て板で塞がれ、入り口には「立入禁止」の看板が立っている。
近所の病院の関係者に聞くと、佐藤という医師は確かにいたという。
循環器科の名医だったが、病院と一緒に医者の職も引退したそうだ。
桜ヶ丘団地についても調べた。
築六十年の団地で、老朽化のため取り壊された。
最後まで住んでいた住人の中に、サラリーマンも多かったと話を聞いた。
私は一つのパターンに気づいた。
これらの客は皆、もう存在しない場所を目的地にしていた。
そして、決まって姿を消す。彼らが語る内容は、すべて過去のものだった。
確信は持てなかったが、私なりの仮説があった。
彼らは何らかの理由で、もうこの世にいない人たちなのではないか。
生前の記憶を頼りに、タクシーを利用している。
最後に向かった場所、最後に住んでいた場所に帰ろうとしている。
しかし、それを証明する手段はなかった。
料金は確実に受け取っているし、手渡しで触れることもできた。彼らの体温も感じる。
それなのに、目的地で姿を消してしまう。
私は恐怖よりも、奇妙な慣れを感じるようになった。
深夜のタクシーには、そういう客も乗るものだと受け入れた。
料金はきちんと支払ってくれるし、特にトラブルを起こすわけでもない。
むしろ、生きている客の方が面倒なことが多い。
酔っぱらって車内で吐く客。料金を踏み倒そうとする客。運転手に暴言を吐く客。
そういう人たちに比べれば、彼らは礼儀正しい客だった。
それでも、時々不安になることがあった。
ある雨の夜、また奇妙な体験をした。
駅前で中年の女性を乗せた。最初に乗せた女性によく似ていた。
同じ黒いコートを着て、同じように疲れた表情をしている。
「緑町三丁目十五番地まで」
同じ住所だった。私は心臓がはね上がるのを感じた。
「以前もその住所にお送りしたことがあります」
女性は振り返った。
その顔を見て、私は息を呑んだ。確かに同じ女性だった。三か月前に乗せた、あの女性だった。
「そうでしたか。でも、私は初めて乗ります」
女性は穏やかに答えた。記憶にないようだった。
私は黙って車を発進させた。
道中、女性は前回と同じように外を眺めていた。
同じように、小さなため息をついていた。
目的地に着くと、女性は料金を払って降りた。
私は今度はバックミラーを確認しなかった。
確認するのが怖かったのだ。
翌日、私はその住所を再び訪れた。
更地のままだった。
そこにいた近所の人に聞いてみると、興味深い話を聞いた。
「ここに住んでた田中さんという女性がいてね。
三年前に亡くなったんだけど、亡くなる前に癌で入院しててね、
よく言ってたのよ。『タクシーを呼んで、家に帰らせて。』って。
ずっと、病院から家に帰りたかったのね。」
その女性は入院中に亡くなったという。
最期まで自宅に帰ることを望んでいたそうだ。
私は背筋が寒くなった。
彼女は今でも、タクシーで家に帰ろうとしているのかもしれない。何度でも、何度でも。
その後の三年間、私は似たような体験を重ねてきた。
最初の頃の驚きはもうない。
ただ淡々と、彼らを目的地まで送り届ける。
彼らにとって、私は最後の願いを叶えてくれる運転手なのかもしれない。
しかし、最近になって新たな不安が生まれた。
私自身に変化が起きているのを感じるのだ。
最初に気づいたのは、食事の味がしなくなったことだった。
何を食べても味がない。コーヒーも水のように感じる。
医者に行ったが、特に異常はないと言われた。
次に、睡眠時間が極端に短くなった。
一日二時間も眠れば十分になった。疲れも感じなく、寝ようとしても眠くならなくなった。
これも医者に相談したが、体に異常はないという。
そして、鏡の件があった。
休憩で車を停めて、バックミラーで自分の顔を確認する時がある。
疲れた表情をした三十四歳の男が映っている。
髪は薄くなり、目の下にはクマができている。
しかし、時々だが、鏡に自分の顔が映らない瞬間があるように見えることがある。
最初は見間違いだと思った。
疲れて見間違えたか、鏡の汚れのせいだろうと。
しかし、その頻度が増している。
昨夜も、コンビニの駐車場で休憩中に、ふとバックミラーを見ると、運転席には誰も座っていなかった。
私は慌てて角度を変えた。すると、いつも通りの疲れた顔が映った。
しかし、その顔はどこか透けて見えるような気がした。
家に帰って洗面台の鏡を見ても、同じことが起きる。
時々、自分の姿が薄くなる。まるで消えかけているかのように。
私は恐ろしい可能性を考え始めた。
もしかすると、私も彼らの仲間に加わりつつあるのかもしれない。
いつからだろうか。いつから私は、生者と死者の境界線を曖昧にしてしまったのだろうか。
毎晩のように彼らを乗せ続けているうちに、私自身がその世界に引き込まれているのかもしれない。
三年間、深夜の街で様々な客を乗せてきた。
生きている客と、そうでない客を。
その境界線が、だんだん曖昧になってきている。
私は今夜も車を走らせる。街角で手を挙げる人を探しながら。
そして時々、バックミラーで自分の存在を確認しながら。
昨夜、特に印象深い体験をした。
終電後の駅前で、若い女性を乗せた。
二十代半ばで、白いノースリーブのワンピースを着ていた。
今は冬で寒く、季節外れの服装だった。
「私、もう帰れないんです」
女性は小さな声でそうつぶやいた。
「どちらまでお送りしましょうか」
「分からないんです。家がどこにあったか、思い出せなくて」
私は困った。住所が分からなければ、送り届けることができない。
「何か、わかりやすい外見などはありませんか」
女性は首を振った。涙を流している。
「私、どうして死んじゃったんでしょう」
その言葉に、私は言葉を失った。
彼女は自分の状況を理解していた。初めてのことだった。
これまでの客は、皆自分が生きていると思っていた。
「覚えていないのではないでしょうか」
私は正直に答えた。
「そうですよね。私も覚えていないんです。気がついたら、ここにいて。でも家に帰りたくて」
私たちは一時間ほど、街を巡回した。
女性が何かを思い出すかもしれないと思ったからだ。
しかし、結局何も思い出せなかった。
「すみません。やっぱり分からないです」
女性は諦めたように言った。
料金を払おうとしたが、私は受け取らなかった。
「お気になさらず」
女性は「ありがとうございました」と言って、車を降りた。
そして、夜の闇に消えていった。文字通り、闇に溶けるように。
私はその場に長い間居座っていた。
彼女の言葉が頭から離れなかった。「私、どうして死んじゃったんでしょう」
もしかすると、私もいつか同じ言葉を口にするのかもしれない。
今朝、家に帰る途中で交通事故現場を通りかかった。
救急車とパトカーが数台停まっていて、大きな事故のようだった。
野次馬が集まって、騒然としている。
私はいつものように素通りするつもりだった。
しかし、なぜかなんとなく気になり、車を停めて現場を見に行った。
事故を起こした車を見て、私は愕然とした。
それは私のタクシーと同じ車種、同じ色だった。
ナンバープレートも同じだ。
フロントガラスは割れ、ボンネットは大きくへこんでいた。
「運転手はどうなったんですか」
近くにいた警察官に尋ねた。
「残念ながら…。深夜勤務のタクシー運転手だったようです、お知り合いでしょうか?」
私は震えた。もしかすると、あれは私の車だったのかもしれない。
私が事故を起こして、死んでしまったのかもしれない。
でも、私はここにいる。生きている。
両足で地面に立ち、会話もしている。そうだろう?
家に帰って、鏡を見た。自分の顔が映らなかった。
何度見直しても、そこには誰もいない。
私は混乱した。私は生きているのか、死んでいるのか。もう分からない。
何も考えず、今夜も私は車を走らせる。
深夜の街で、手を挙げる人を探しながら。
生きている人も、死んでいる人も関係ない。私はただ、彼らを目的地まで送り届ける。
もし私の顔が完全に映らなくなった時、私はどこへ向かうのだろうか。
そして、誰が私を目的地まで送ってくれるのだろうか。
その答えは、まだ分からない。
でも、きっとそう遠くないうちに、私は知ることになるだろう。
今、私は街角で手を挙げている。タクシーを待ちながら。




