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31ミニッツ・パズル

作者: 理瑠

舞台は深夜のファミリーレストラン。そこに集った、訳ありの大人たち。

ワンシチュエーションで繰り広げられる、一夜のサスペンス劇です。

短い時間ですが、登場人物たちの息詰まる31分の攻防をお楽しみいただければ幸いです。

午前1時23分

 叩きつけるような雨が、世界の輪郭を滲ませていた。

 郊外の国道沿いにぽつんと浮かぶ光の箱。24時間営業のファミリーレストラン「ダイナー・カシオペア」のネオンサインは、流れ落ちる雨粒に乱反射し、まるで星座が涙を流しているかのようだ。


「……」


 アルバイトの制服にまだ馴染めないでいる美咲みさきは、客席フロアの隅から店内を見渡していた。大学に入って初めての深夜シフト。時給の良さに惹かれただけだったが、この時間は昼間とは全く違う空気が流れていた。客はまばらで、豪雨の音が店内に満ちるBGMをかき消し、奇妙な静寂を生み出している。


 深夜のファミレスは、水槽の底に似ている、と美咲は思った。

 外の世界から切り離された人々が、それぞれの事情を抱えて束の間、身を沈めている。


 カウンター席で、大きな背中を丸めてカツカレーを食べている、不機嫌そうなトラック運転手。

 窓際のボックス席で、ノートパソコンの青白い光に顔を照らされている、疲れた表情のサラリーマン。

 その向かいの席で、スマートフォンの画面を神経質そうに何度も確認している、派手なネイルの女の人。

 そして、一番奥の席で、分厚い文庫本を広げているけれど、視線は少しも動いていない初老の男性。


 店長は、カウンターの奥で黙々とグラスを磨いている。客たちが奏でる不協和音に、気づかないふりをしているように見えた。

 美咲は、空になったウォーターピッチャーを手に、そっとフロアに出た。最初の仕事は、あの不機嫌そうなトラック運転手のグラスに水を注ぐことだ。それが少しだけ、憂鬱だった。


午前1時24分

 黒田くろだの額から、脂汗がひとすじ流れ落ちた。

 ノートパソコンの画面には、暗号化されたチャットウィンドウだけが表示されている。


『J』:追っ手は?

『KURO』:まだ来ていないはずだ。店内にはそれらしき人間はいない。ただの客だけだ。


 嘘だった。

 先ほどから、カウンター席に座るトラック運転手の視線が、何度も背中に突き刺さるのを感じていた。考えすぎか? いや、偶然にしてはタイミングが良すぎる。会社の連中が、俺の動きを掴んでいても不思議ではない。


 黒田は無意識に、スラックスのポケットに入れたUSBメモリを指先でなぞった。こんな小さなもの一つに、会社の巨大な不正を暴くデータが詰まっている。そして、自分のサラリーマン人生のすべてが。


『J』:例のものは、確かに持っているんだな?

『KURO』:ああ。約束通り、ここで渡す。


 ジャーナリストである『J』の使いが、この店に来る手はずになっている。タイムリミットは午前2時。それまでに事を済ませなければならない。だが、カウンターの男は一体何者なんだ?


 黒田はコーヒーカップを口に運ぶふりをして、男の姿を盗み見た。目が、合った。男はゆっくりと口角を歪め、まるで獲物を見つけた肉食獣のように、いやらしい笑みを浮かべた。

 全身の血が、急速に冷えていくのがわかった。


午前1時25分

「お願い、早く来て……」


 リナは誰にも聞こえない声で呟き、スマートフォンの画面を指でなぞった。メッセージアプリには、数分前に受信した『もう少しで着く』という短い文章が表示されている。

 あれから、更新はない。


 窓の外は、滝のような雨がアスファルトを叩いている。駐車場のオレンジ色の街灯が、ぼんやりと滲んでいるだけ。待ち合わせ相手の車は、まだ見えない。


 足元に置いた、ブランドショップのものではない、ただの茶色い紙袋。その重みが、リナの決意の重さだった。中には、今日"仕事"で騙し取ったばかりの現金が、そっくりそのまま入っている。300万円。これを被害者のおばあさんの孫に返して、すべてを終わりにする。明日からは、まっとうに生きるのだ。


「……」


 不意に感じた視線に、リナは顔を上げた。

 通路を挟んだ奥のテーブル。読書をしている男性と、一瞬だけ視線が絡んだ気がした。男性はすぐに本に目を落としたが、リナの胸は嫌な予感にざわついた。


 まさか。組織の人間? 私が裏切ることに気づいて……?

 いや、考えすぎだ。ただの客よ。そう自分に言い聞かせても、一度芽生えた疑念は、心臓に冷たい根を張り始めていた。


午前1時26分

 文庫本のページをめくる指は、止まっていた。

 探偵の郷田ごうだは、活字を追うふりをしながら、意識のすべてを店内に張り巡らせていた。特に、派手なネイルの女——リナの様子を。


 母親からの依頼は「娘を詐欺グループから抜けさせてほしい」という、涙ながらの訴えだった。調査の結果、リナが今日、最後の仕事で得た金を被害者に返すつもりであること、そしてそのために被害者の孫とここで接触しようとしていることまでは掴んでいる。


 健気な娘だ、と郷田は思う。だが、あまりにも無防備すぎる。

 彼女が抜けようとしているグループは、裏切り者を絶対に許さない。すでに組織の人間が、この近くに潜んでいる可能性は高い。


 郷田の鋭い視線が、店内を素早くスキャンする。

 窓際のサラリーマンは、何かにひどく怯えている。尋常な様子ではない。

 そして、カウンターのトラック運転手。あの男は、ただ飯を食いに来ただけではない。獲物を狙う狩人の目をしている。その視線の先にあるのは——サラリーマンの背中だ。


 状況が、読めない。

 一見、無関係な二つの緊張。だが、郷田の長年の経験が警鐘を鳴らしていた。この狭い空間で、今まさに、何かが起ころうとしている。リナを、どう守るか。郷田は思考を巡らせた。


午前1時27分

「チッ」


 馬場ばばは、わざと聞こえるように舌打ちをした。

 新人らしい若い女の店員が、おずおずと近づいてきてグラスに水を注ぐ。その怯えたような目が、馬場の苛立ちをさらに煽った。


 カツカレーは、とっくに食い終わっている。だが、まだ席を立つわけにはいかなかった。

 会社の命令は絶対だ。『黒田が持つUSBを、どんな手を使っても奪え』。

 ターゲットは、窓際の席で哀れなほど震えている、あのサラリーマンだ。


 馬場は、黒田が会社のサーバーから重要データを抜き取ったことも、それをジャーナリストに流そうとしていることも、すべて聞かされている。自分も関わった不正だ。あれが表に出れば、自分もタダでは済まない。


 いつ、やるか。

 トイレに立ったところを狙うのが一番確実か。あるいは、奴が店を出た瞬間、駐車場で——。

 思考を巡らせながら、馬場はぬるくなった水を一気に飲み干した。グラスをテーブルに叩きつけるように置くと、ガチャン、と下品な音が響いた。

 黒田の肩が、びくりと震えたのを、馬場は見逃さなかった。


午前1時28分

 ガチャン、というグラスの音に、美咲の肩が小さく震えた。

 カウンター席のトラック運転手(馬場)が、まるで苛立ちを叩きつけるように置いた音だった。美咲は、彼と目を合わせないようにしながら、空のピッチャーを持ってバックヤードに戻ろうとした。


「美咲ちゃん」


 不意に、背後から店長の声が飛んだ。振り返ると、いつもの無表情のまま、店長が顎で窓際の席を示していた。


「あの席のお客さん、コーヒーカップが空になっている。おかわり、聞いてきてくれるか」

「あ、はい」


 示されたのは、ノートパソコンのサラリーマン(黒田)の席だった。彼のテーブルは、美咲が立つ場所からカウンター席の男のちょうど死角になっている。店長は、わざと自分に行かせたのだろうか。

 考えすぎかもしれない。美咲は小さく首を振り、新しいコーヒーポットを手に、黒田の席へと向かった。


「お客様、コーヒーのおかわりはいかがですか?」


 できるだけ穏やかな声で話しかけた。

 しかし、黒田はビクッと全身を硬直させ、まるで幽霊でも見たかのような目で美咲を見つめた。顔色は土気色で、額にはびっしりと汗が浮かんでいる。


「あ……、あの……」

「大丈夫ですか? 顔色が、あまり良くないようですが……」


 思わず心配の言葉が口をついて出た。だが、黒田は美咲の声が聞こえていないかのように、ただ怯えた目でこちらを見つめるだけだった。


午前1時29分

 心臓が喉から飛び出るかと思った。

 店員(美咲)に声をかけられた瞬間、黒田は本気で会社の追っ手が来たのだと錯覚した。若い女だからと油断させておいて、テーブルの下で何かを突きつけてくる——そんな妄想が一瞬で頭を駆け巡った。


「……コーヒーの、おかわりは……」


 ようやく聞こえてきた言葉に、安堵よりも混乱が勝る。

「い、いりません。結構です」

 声を絞り出すのが精一杯だった。早く立ち去ってくれ、と心の中で叫ぶ。美咲が怪訝そうな顔をしながらも離れていくのを、黒田は目で追うことすらできなかった。


 全身から、どっと力が抜ける。

 その時、パソコンの画面のチャットウィンドウが点滅した。『J』からの新しいメッセージだ。


『J』:時間がない。使いの者の特徴を伝える。金髪に染めた、若い男だ。ショルダーバッグを持っている。彼が合図を送る。

『KURO』:金髪……わかった。


 黒田は息を飲み、改めて店内を見渡した。

 カウンターのトラック運転手。奥の席の初老の男。派手な女。幸い、金髪の若い男はいない。まだ、使いは到着していないのだ。

 わずかな安堵。だがそれは、いつ現れるかわからない脅威を待ち続けるという、新たな緊張の始まりに過ぎなかった。


午前1時30分

 郷田は、一連のやり取りを冷静に観察していた。

 若い店員(美咲)に声をかけられたサラリーマン(黒田)の、あの常軌を逸した怯え方。ただ仕事で追い詰められている人間のそれではない。彼は、命に関わるような深刻なトラブルの渦中にいる。


 そして、カウンターの男(馬場)が、その光景を実に楽しそうに眺めていたことも、郷田は見逃さなかった。まるで蛇に睨まれた蛙がもがく様を楽しむかのように。あの二人の間には、間違いなく何かがある。


(厄介なことだ)


 自分の仕事は、あくまでリナを保護すること。他の客のトラブルに首を突っ込んでいる余裕はない。だが、この狭い空間で万が一のことが起これば、リナが巻き込まれないという保証はどこにもない。


 郷田は、着ていたジャケットの内ポケットにそっと手を入れた。指先が、冷たくて硬い感触に触れる。長年使い込まれた、オイルライターだ。

 リナの母親から「娘の説得に使ってほしい」と預かった、亡き父親の形見。

 郷田はこれを、単なる説得の道具として使うつもりはなかった。いざという時、この場を攪乱するための「切り札」だった。

彼は静かに指を離し、再び文庫本に視線を落とした。嵐の前の静けさが、肌を粟立たせる。


午前1:31

 スマートフォンの液晶が示す「01:31」の数字を、リナは睨みつけた。

 約束の時間まで、あと少し。


 ふと、雨の音が少しだけ遠くなった気がして、リナは窓の外に視線を向けた。豪雨が、普通の強い雨に変わっている。駐車場の景色が、先ほどよりはっきりと見えた。

 その時、ヘッドライトが暗闇を横切り、一台の白い軽自動車が駐車スペースに入ってくるのが見えた。


(来た!)


 心臓が大きく跳ねる。しかし、期待はすぐに失望に変わった。運転席と助手席から降りてきたのは、傘を寄せ合うようにして店に向かってくる、見知らぬ中年夫婦だった。


(違う……)


 がっくりと肩を落とした瞬間、手に持っていたスマートフォンが短く震えた。待ち人からのメッセージだった。


『ごめん、近くで警察が検問やってて、それに捕まっちゃった。少し遅れそう。でも、絶対に行くから待ってて!』


「検問……?」


 リナの顔から、すっと血の気が引いた。

 こんな土砂降りの深夜に、こんな寂れた国道で? 本当に?

 偶然か、それとも——。

 組織が、私の裏切りに気づいて、警察に手を回した? あるいは、このメッセージ自体が罠で、孫はもう捕まっている?

 疑念が黒い渦となって、リナの心をかき乱した。もう誰も信じられない。この店にいること自体が、とてつもないリスクのように思えてきた。


午前1時32分

 黒田の怯えっぷりは、最高の見世物だった。

 馬場は空になったグラスを眺めながら、ほくそ笑んでいた。そろそろ、少し揺さぶりをかけてやるか。


「……ふぅ」


 馬場はわざとらしく大きなため息をつくと、重い腰を上げた。トイレに行くふりをして、黒田のテーブルの真横を通り過ぎる。計算通り、狭い通路で黒田の椅子のすぐ脇を通過する瞬間、馬場はわざとバランスを崩した。


「おっと」


 短い声を上げ、黒田のテーブルにドン、と手をつく。その一瞬。ほんのコンマ数秒。馬場の目は、ノートパソコンの画面に映し出された文字の断片を正確に捉えていた。


『——金髪——若い男——』


 それだけで十分だった。

 馬場は「悪いな」とぶっきらぼうに言い捨て、何事もなかったかのようにトイレへと向かう。

 個室のドアを閉め、鍵をかけると、獰猛な笑みが口元に浮かんだ。


(なるほどな。黒田の野郎、ここで誰かと落ち合って、USBを渡す手筈か)


 そして、その相手は『金髪の若い男』。

 これは、使える。計画が、より面白くなってきた。馬場は、これから始まる「狩り」の筋書きを頭の中で組み立て始め、低く笑った。


午前1時33分

 バックヤードへのドアを開ける寸前、美咲は思い切って振り返り、カウンターの中にいる店長に話しかけた。

「あの、店長……。窓際のお客様、なんだかすごく様子がおかしくて。手が震えていて、顔も真っ青で……」


 事件に巻き込まれているのかもしれない、という最悪の想像が頭をよぎる。しかし、店長は磨いていたグラスから目を離すことなく、平坦な声でこう言った。

「そうかい」


 それだけだった。まるで、分かりきっていたことのように。

 美咲が言葉に詰まっていると、店長は無言でカウンターの下に屈み、何かを取り出した。古いポータブルラジオのように見える。店長がそのダイヤルに触れた瞬間、ザッ、というノイズと共に、何かを早口で話すくぐもった男の声が一瞬だけ漏れ聞こえた。


『——国道16号線沿い、ダイナー・カシオペア付近で不審車両の目撃情報。周辺の各局は——』


「え?」

 美咲が聞き返すと同時に、店長はラジオの電源を切り、元の場所にしまった。「雨の日は、電波の入りが悪い」と、独り言のように呟く。その横顔は、やはり何の感情も読み取れない。

 気のせいだったのだろうか。美咲が首を傾げた、その時だった。


 カラン、と入り口のドアベルが、やけに大きな音を立てて鳴り響いた。

 びしょ濡れのフード付きジャケットを着た一人の男が、水滴を払いながら店に入ってくる。

 その男の姿を見て、美咲は息を呑んだ。

 蛍光灯の光に照らされた髪は、鮮やかな金色に染められていた。


午前1時34分

 ドアベルの音は、黒田にとってスタートの合図のように聞こえた。

 反射的に顔を上げ、入り口を見る。そこに立っていたのは、まさに『J』が言っていた通りの特徴を持つ男だった。


 金髪。若い。肩にはショルダーバッグ。


(来た……! 間違いない、『J』の使いだ!)


 全身の血が逆流するような感覚。心臓が早鐘を打ち、指先が痺れる。どうする? どうやって合図を送る? こっちから声をかけるべきか? いや、それでは目立ちすぎる。向こうからの合図を待つべきだ。


 金髪の男は、濡れた床を気にするそぶりもなく店内を見回すと、一度、黒田のほうを一瞥したように見えた。気のせいか? いや、確かに目が合った。そして、黒田から一番遠い空席に向かって、ゆっくりと歩き出す。


 黒田は男の一挙手一投足から目が離せなかった。

 あの男に、このUSBメモリを渡せば、すべてが終わる。そして、すべてが始まるのだ。

 カウンターのトラック運転手(馬場)の視線が、自分の背中と金髪の男の間を行き来していることに、黒田はまだ気づいていなかった。


午前1時35分

 トイレから出てきた馬場は、その光景を見て、思わず喉の奥で笑い声を漏らした。

『金髪の若い男』。

 こんなに早く、役者がそろうとは。


 黒田の視線が、獲物を見つけた猟犬のように金髪の男に釘付けになっている。馬鹿正直なその反応で、馬場の確信は100パーセントになった。

 面白い。面白くなってきた。


 このまま席に戻って様子を窺うのもいい。だが、少しスパイスを加えてやろう。

 馬場は自分の席には戻らず、ポケットからくしゃくしゃの伝票を取り出し、レジカウンターへと向かった。重い足音をわざと響かせながら。


「会計」


 低く、響く声で店長に告げる。

 店長は黙って頷き、レジを打ち始めた。馬場は財布から金を取り出すふりをしながら、その場に留まる。レジの前は、この店の特等席だ。ここからなら、黒田も、金髪の男も、怯えているあのリナの顔も、すべてが一望できる。


 さあ、どう動く? 黒田。

 お前が動いた瞬間が、お前の終わりだ。

 馬場は、これから始まるショーの開幕を、心待ちにしていた。


午前1:36

 カラン、というドアベルの音は、リナの耳には死刑執行の合図のように聞こえた。

 入ってきた金髪の男の姿を捉えた瞬間、リナの世界から音が消えた。


(見つかった——)


 頭が、真っ白になる。

 組織の人間だ。私が裏切ることを嗅ぎつけて、始末屋が送り込まれたんだ。

 孫からの『検問で遅れる』というメッセージは、やはり嘘だった。私をこの店に閉じ込めておくための、巧妙な罠。


 男が店内を見回し、目が合った気がした。冷たい、値踏みするような視線。リナは全身から血の気が引いていくのを感じた。

 もうダメだ。ここにいたら殺される。

 金を返すとか、まっとうに生きるとか、そんな夢みたいなことを考えていた自分が馬鹿だった。今はただ、生き延びることだけを考えなければ。


 逃げなきゃ。

 リナは足元の紙袋の紐を、指が白くなるほど強く握りしめた。震えが止まらない。

 カウンターのほうで、あのトラック運転手が会計をしている。店員の女の子も近くにいる。今なら、騒ぎを起こせば逃げられるかもしれない。

 リナは、衝動的に席を立つ寸前だった。


午前1時37分

 郷田は、一本の糸が張り詰めていくのを感じていた。

 金髪の男という異物の登場で、店内に仮初めのバランスを保っていたそれぞれの緊張が、一斉に臨界点へと向かっている。


 サラリーマン(黒田)は、あれを救世主だと思い込んでいる。

 トラック運転手(馬場)は、獲物が増えたとほくそ笑んでいる。

 そして、自分の保護対象であるリナは、あれを処刑人だと勘違いし、完全にパニックに陥っている。あの目は、追い詰められた小動物のそれだ。いつ、何をしでかすか分からない。


(まずい)


 このままでは、リナが衝動的に騒ぎを起こす。そうなれば、カウンターの男(馬場)や、あの正体不明の金髪の男がどう反応するか読めない。最悪の場合、彼女が最初の犠牲者になる。


 そうなる前に、動くしかない。


 郷田は読んでいた文庫本をパタン、と静かに閉じた。

 そして、ゆっくりと、しかし一切の迷いがない足取りで、席を立つ。

 向かう先は、絶望に顔をこわばらせ、今にも駆け出しそうになっているリナのテーブルだった。


午前1時38分

 郷田は、パニック寸前のリナが座るテーブルの前に、音もなく立った。

「お嬢さん」

できるだけ穏やかな声で話しかける。

「少し、よろしいかな」


「なっ……!」

 リナは、椅子を蹴るようにして立ち上がりかけた。その目は恐怖と敵意に満ちている。

「なによ! あなたもあの男の仲間なの!? 私をどうするつもり!?」

声は震えていたが、その叫びは店内に響き渡る寸前だった。


「静かに」

 郷田は低い声で制し、リナ以外の客に気づかれぬよう、素早くジャケットの内ポケットに手を入れた。その年季の入った指の動きには、一切の無駄がない。そして、一つの物体を取り出し、テーブルの上にそっと置く。

 カチャリ、と乾いた小さな音がした。


 それは、長年使い込まれて黒光りしている、古いオイルライターだった。


「君のお母さんから、預かってきた」

 郷田は、リナの目を見てはっきりと告げた。その年輪を刻んだ瞳は、リナの恐怖を見透かし、そして揺るがなかった。

「亡くなった、君のお父さんの形見だそうだ。信じてもらえないなら、それでも構わん」


「え……」

 リナの言葉が、凍りついた。彼女の視線が、テーブルの上のライターに釘付けになる。見間違えるはずがない。幼い頃、いつも父の大きな手が握っていた、傷だらけのライター。なぜ、この男がこれを。


「どうして……これを……」

 混乱と驚きで、リナの敵意が急速にしぼんでいく。郷田はその隙を見逃さなかった。

「話は後だ。今は騒ぎを起こすな。よく聞け、君が警戒しているあの金髪の男は、君の敵じゃない。少なくとも、君が考えているような人間ではない。だから、落ち着け」

 力強い声だった。リナは、なす術もなく、ゆっくりと椅子に座り込んだ。


午前1時39分

 渦巻く緊張の中心にいるとは露知らず、金髪の若い男——健太けんたは、指定された一番奥のテーブル席に着くと、大きく伸びをした。

 深夜バスで東京に着き、乗り換えの始発まで時間を潰せる場所を探してたどり着いたのが、このファミレスだった。外の土砂降りを思えば、天国のように感じられる。


「さて、と」

 健太はメニューを開くと、鮮やかな色彩のデザートページに目を輝かせた。長旅の疲れには、甘いものが一番だ。

 彼はすぐに決断すると、近くを通りかかった店員の女の子(美咲)に、屈託のない笑顔で声をかけた。

「すいませーん! クリームソーダと、フライドポテトの大盛り、お願いします!」


 その場違いなほど明るい声は、深夜のファミレスの重苦しい空気を一瞬だけ、奇妙にかき乱した。

 注文を終えた健太は、ショルダーバッグからスマートフォンと充電器を取り出すと、夢中になっていたパズルゲームの続きを始めた。ピコピコという軽快な電子音が、彼の周りにだけ平和な空間を作り出していた。


午前1時40分

 レジの前でその光景を見ていた馬場は、思わず眉をひそめた。

「クリームソーダだぁ?」

 あの金髪の小僧、本当にただの客か? 黒田の奴を油断させるための芝居か?

 いや、それにしては堂に入りすぎている。


 その一方で、奥の席ではあのジジイ(郷田)がリナを丸め込んでいる。何やら小さなものをテーブルに置いていた。仲間割れか、それとも取引か。

 状況がどんどん複雑になっていく。このままでは、いつ黒田がUSBを渡してしまうか分からない。


(もう、待ってられねえ)


 馬場は腹を括った。

 会計を済ませると、釣り銭をポケットにねじ込み、店長に背を向ける。そして、再びトイレに行くような、ゆっくりとした足取りでフロアに戻った。

 だが、その目的地はトイレではない。

 今度こそ、実力行使でケリをつける。馬場は、黒田の席へと、じりじりと距離を詰めていった。


午前1時41分

 クリームソーダ。

 その単語が、黒田の頭の中で意味もなく反響した。合図なのか? 何かの暗号? それとも、本当に、本当に人違いなのか?

 思考がまとまらない。もし人違いだったら、自分は今、絶望的な状況でたった一人、敵の巣窟に取り残されていることになる。


 パニックに陥りかけた黒田の視界の端に、新たな動きが映った。

 さっきの初老の男(郷田)が、派手なリナに何かを渡している。仲間割れか? それとも、あの二人もグルで、女を尋問しているのか?

 そして——絶望が、黒田の背後から迫っていた。

 カウンターにいた、あのトラック運転手(馬場)が、ゆっくりと、しかし確実にこちらに近づいてくる。その目には、もはや隠そうともしない明確な殺意が宿っていた。


 もうダメだ。

 包囲されている。

 黒田は、生存本能に突き動かされるように、ノートパソコンを乱暴に閉じた。ガシャン、と大きな音が立つ。椅子を蹴るようにして、立ち上がった。

 逃げなければ。どこでもいい、ここから。


午前1時42分

「クリームソーダとポテトですね。少々お待ちください」

 健太の注文を受け、キッチンへ向かおうとした美咲は、フロアで同時に巻き起こった異様な光景に、思わず足を止めた。


 奥の席では、さっきまで読書をしていた初老の男性が、泣きそうな顔の女性のテーブルの前に、なぜか立ちはだかっている。

 窓際の席では、顔面蒼白のサラリーマンが、ノートパソコンを閉じていきなり立ち上がった。

 そして、そのサラリーマンに向かって、カウンターにいた、あの威圧的なトラック運転手の男性が、獲物を追い詰めるように、ゆっくりと歩みを進めている。


 空気が、張り詰めている。

 これは、普通じゃない。

 美咲の頭の中で、危険信号が鳴り響いた。どうしよう。警察? でも、何を伝えれば?


「て、店長っ!」


 次の瞬間、美咲は自分でも驚くような大きな声で、カウンターの奥に向かって叫んでいた。

 それは助けを求める、悲鳴に近かった。


 その声に、店内にいた全員——立ち上がった黒田も、手を伸ばしかけていた馬場も、リナを諭していた郷田も、そしてパズルゲームに興じていた健太さえも——が、まるで時間が止まったかのように、一斉に動きを止め、美咲のほうを見た。


午前1時43分

 店内に響き渡った美咲の悲鳴は、すべての音を飲み込んだ。

 一瞬の静寂。

 その静寂を最初に破ったのは、カウンターの奥にいた店長だった。


「騒ぐな」


 地を這うような、しかし不思議とよく通る声だった。店長は、磨いていたグラスを静かに置くと、ゆっくりとした動作でカウンターから出てくる。その手には、ずしりと重そうな金属製の懐中電灯が握られていた。護身用にしては、あまりにも物々しい。


 店長の視線は、誰に向けられるでもなく、店内全体を睥睨していた。その目に射竦められたかのように、誰も動けない。

 黒田を追い詰めようとしていた馬場も、思わず足を止める。逃げ出そうとしていた黒田も、金縛りにあったようにその場に立ち尽くす。


 その膠着状態を、再び破ったのは意外な人物だった。

「わっ! なに!? なんかあったんすか!?」


 パズルゲームに夢中になっていた健太が、ようやく事態の異常さに気づき、素っ頓狂な声を上げたのだ。そのあまりにも場違いな声が、張り詰めていた空気をわずかに弛緩させた。


午前1:44

 郷田は、その一瞬の隙を逃さなかった。

「立て。行くぞ」

 彼は呆然としているリナの腕を掴むと、半ば強引に立ち上がらせた。

「え、でも……」

「いいから来い! ここは危ない!」


 郷田は、リナの体を自分の影に隠すようにしながら、最短距離で出口へと向かう。彼の頭の中では、すでに最悪のシナリオが組み立てられていた。

 サラリーマン(黒田)とトラック運転手(馬場)の対立。そこに割って入る店長。そして、何も知らない金髪の若者(健太)。

 この状況で、最も危険なのは予測不能な行動を取る人間だ。郷田は、あの店長がただ者ではないと直感していた。


「待て」

 背後から、馬場の低い声が飛んだ。だが、郷田は足を止めない。

「お前ら、何者だ。そいつの仲間か?」

 馬場の疑念は、郷田とリナに向けられていた。


午前1時45分

「ち、違う! 俺は関係ない!」

 馬場に疑いの目を向けられたと勘違いしたのか、黒田が裏返った声で叫んだ。

「俺は、ただ……」

 その言葉は、続かなかった。


 なぜなら、店の入り口のドアベルが、再びけたたましく鳴り響いたからだ。

 カラン、カラン!

 今度は、一人ではない。

 開いたドアから、アスファルトの匂いを乗せた冷たい風が吹き込み、店内の淀んだ空気をかき混ぜた。

 黒いスーツを着た、体格の良い二人の男が、まるでなだれ込むように店に入ってきたのだ。そのうちの一人が、雨で濡れた床に足を取られて、派手な音を立てて転んだ。


「いってぇ!」

「何やってんだ、マヌケ!」


 滑稽なやり取りとは裏腹に、男たちの目つきは鋭く、明らかに一般人ではない空気をまとっていた。

 そして、転ばなかったほうの男が、店の中を素早く見回し——その視線が、立ち尽くす黒田の姿を捉えた瞬間、ニヤリと口の端を吊り上げた。


「いたいた。黒田さんよぉ。会社に戻る時間だぜ」


 終わった。

 黒田の全身から、力が抜けていく。ついに、会社の追っ手に捕まったのだ。


午前1時46分

「うわ、マジか。ヤクザじゃん……」

 健太が、小さな声で呟いた。さすがにこの状況は、パズルゲームのようにはいかない。彼はそっとスマートフォンの画面を伏せると、できるだけ気配を消して、固唾を飲んで成り行きを見守った。


 黒田を追い詰めていた馬場は、突然現れたスーツの男たちを見て、顔をしかめた。

(会社の連中か……。余計な手出しをしやがって)

 自分の獲物を横取りされるようで、面白くない。だが、会社の命令で動いている以上、彼らに逆らうことはできない。馬場は、忌々しげに舌打ちをすると、ゆっくりと壁際まで後ずさった。


 店内は、新たな緊張関係で再構築された。

 会社の追っ手であるスーツの男たち。

 絶望に打ちひしがれる黒田。

 状況を静観する馬場。

 リナを庇いながら出口へ向かおうとして、足を止めざるを得なくなった郷田。

 そして、そのすべての中心で、金属製の懐中電灯を握りしめたまま、氷のような目で男たちを見つめる店長。

 床に落ちたフォークが、誰の目にも留まらぬまま、乾いた金属音を響かせた。


 美咲は、カウンターの陰に隠れ、ただ震えていることしかできなかった。


午前1時47分

「さあ、行きましょうか、黒田さん」

 スーツの男が、黒田に向かって一歩、足を踏み出した。その時だった。


「お客様」

 凛とした、しかし有無を言わせぬ声が響いた。

 声の主は、店長だった。

「お会計がお済みでないようです」


 スーツの男は、鼻で笑った。

「あ? 金なら後でいくらでも払ってやるよ。こいつのツケも全部な。だから、そこをどけ、ジジイ」

「それはできかねます」

 店長は、懐中電灯を握る手に力を込めた。

「当店では、すべてのお客様に、公平にサービスを提供しております。お食事をされたのなら、代金をお支払いいただく。誰であろうと、それがこの店のルールですので」


 一触即発。

 スーツの男の顔から、笑みが消える。その手が、ゆっくりとジャケットの内側に伸びていく。

 その瞬間、それまで黙って成り行きを見ていた郷田が、動いた。


「まあまあ、そういきり立つな、若い衆」


 彼はリナを自分の後ろに庇ったまま、スーツの男たちと店長の間に、割って入るように立った。

「ここの店長の言う通りだ。食い逃げはよくない。それに」

 郷田は、スーツの男の目を真っ直ぐに見据えた。

「あんたたち、こんなところで騒ぎを起こして、本当にいいのかい?」

 その声には、奇妙な説得力があった。


午前1時48分

 郷田は、スーツの男たちと店長の間に立つと、わざとらしく大きなため息をついてみせた。

「あんたたち、本当にここでやるつもりかい?」

「部外者はすっこんでろ」スーツの男が、ジャケットの内側に伸ばした手をちらつかせる。


「いやいや、そうもいかんのでね」郷田は全く動じなかった。「さっきから、店の外をパトカーがうろついている。妙だとは思わんかね? こんな土砂降りの深夜に、こんな場所を。どうやら、この近くで何か事件があったらしい。ここで騒ぎを起こして、職務質問でもされたら……あんたたち、その懐の中身、どう説明するんだい?」


 それは完全なブラフだった。だが、店長が気にしていたラジオの音と、リナが聞いた「検問」という言葉を組み合わせた、説得力のある嘘だった。

 案の定、スーツの男たちの顔に、一瞬だけ動揺が走る。そのわずかな隙を、郷田は見逃さなかった。彼はリナにだけ聞こえる声で「動くぞ」と告げ、出口への最短ルートを頭の中でなぞった。


午前1時49分

 郷田の言葉が、男たちを確かに躊躇させていた。リナは、今度こそ本当に逃げられるかもしれないと、固唾を飲んだ。

 その、刹那だった。


 暗闇を切り裂き、二つの鋭い光が窓に飛び込んできた。

 一台の黒いワンボックスカーが、滑るような動きで駐車場に入ってくる。そのスピードは、尋常ではなかった。駐車スペースに律儀に停める気など、さらさらない。


(来た……!)


 リナは、それが孫の車ではないことを瞬時に悟った。あれは、組織の、"回収役"が使う車だ。

 希望が、一瞬で絶望に塗りつ潰される。

 車は、雨に濡れたアスファルトの上をドリフトするように向きを変えると、店の入り口に向かって、一直線に突っ込んできた。


午前1時50分

「危ないっ!」


 叫んだのは、健太だった。

 轟音と共に、ワンボックスカーは店の入り口前の駐車ブロックに激突し、派手な音を立てて急停車した。ガシャン、という金属の軋む音。エンジンだけが、獣の唸り声のように、不気味に響き続けている。


 店内の全員が、魔法にかかったように動きを止め、窓の外の異常事態に釘付けになった。

「なんだ、ありゃ……」

 黒田を確保寸前だったスーツの男たちも、標的のことを忘れ、驚きの声を上げる。

 誰もが、窓の外で次に何が起こるのかを、息を詰めて見守っていた。


午前1時51分

 その混沌の渦の中で、ただ一人、冷静に状況を見ている男がいた。馬場だった。

(チャンスだ)

 スーツの男たちも、ジジイも、全員が車に気を取られている。今しかない。

 馬場の目は、もはや獲物以外の何物でもない、黒田とその手にあるノートパソコンの入ったバッグだけを捉えていた。


「うぉっ!」

 獣のような雄叫びを上げ、馬場は壁際から一気に飛び出した。

 放心状態の黒田は、反応することすらできない。バッグのストラップが肩に食い込む痛みも感じないまま、黒田の手からいとも簡単にバッグがひったくられる。

 声にならない声が、黒田の喉から漏れた。違う、それだけは。脳内で絶叫が木霊する。家族の未来、自らの正義、人生を賭けたすべてが、今、目の前を通り過ぎていく。

「もらったぜ!」


 USBメモリは、その中にある。

 会社の未来も、黒田の人生も、そして馬場自身の運命も。すべてが、今、その手の中にあった。


午前1時52分

「しまった!」

 郷田が馬場の動きに気づいた時には、すべてが終わっていた。

 だが、彼に振り返る暇はなかった。

 なぜなら、駐車場に突っ込んできたワンボックスカーのドアがスライドし、複数の男たちが棍棒のようなものを手に、ぞろぞろと降りてきたからだ。


「リナーッ! てめえ、どこにいる!」

「裏切り者が! 出てこい!」


 孫からの連絡は、やはりリナをこの場所に誘い込むための、残酷な罠だったのだ。

 店内には会社の追っ手。店外には詐欺グループの始末屋。

 リナは、完全に包囲された。その顔から表情が消え、糸が切れた人形のように崩れ落ちそうになる。


「まだだ。まだ終わらん」

 郷田は、リナの腕を強く掴み、彼女の瞳を覗き込んだ。

「俺を信じろ」

 そして、彼は決断した。この閉鎖された盤上を、根底からひっくり返す、最後の一手を。

 郷田はジャケットの内ポケットから、あの古いオイルライターを取り出すと、その蓋をカチリと開けた。


午前1時53分

 バッグを奪った馬場は、店の裏口へと猛然とダッシュした。すぐにスーツの男の一人が我に返り、「待て、貴様!」とその後を追う。

 駐車場では、詐欺グループの男たちが、店のガラスドアを棍棒で叩き割り始めた。けたたましい破壊音が響き渡る。鋭く尖った破片が店内にまで飛び散り、美咲の頬をかすめた。


 店内は、完全な地獄絵図と化した。

「きゃあああ!」

 美咲はカウンターの陰で腰を抜かし、健太は身を守るようにテーブルの下に滑り込んだ。空気はガラスの粉塵と男たちの怒号で満たされている。

 黒田は、すべてを失った絶望から、その場にへたり込んで動けなかった。


 パズルのピースは、すべて出揃った。

 そして、最悪の形で組み合わさろうとしていた。


午前1時54分

「行くぞ!」

 郷田は、リナの手を引き、馬場やスーツの男たちとは逆の、厨房を抜ける従業員用の通用口へと向かった。

 雨が降りしきる外へ出ると、郷田はリナに叫んだ。

「少しの間、目を閉じてろ!」


 彼は駐車場の端に停めてあった一台の車に駆け寄った。馬場が乗ってきたトラックではない。追っ手が乗ってきた、黒塗りの高級セダンだった。

 郷田は躊躇なく、ポケットからハンカチを取り出してセダンの給油口にねじ込むと、オイルライターの火を、その先端に灯した。


 炎は、雨の中でも消えることなく、導火線のようにハンカチを伝っていく。

 郷田はそれを確認すると、リナを庇いながら、その場を離れた。


 数秒の沈黙。


 次の瞬間、夜の闇を引き裂いて、巨大な火柱が上がった。

 ガソリンに引火したセダンが、轟音と共に爆発、炎上したのだ。


01:54


 灼熱の光と衝撃波が、すべてを飲み込んだ。

 店の窓ガラスがビリビリと震え、破壊を試みていた詐欺グループの男たちも、馬場を追っていたスーツの男も、店内に残された人々も、全員が本能的な恐怖に動きを止め、燃え盛る炎に釘付けになった。熱風がダイナーの中にまで吹き込み、テーブルの紙ナプキンを宙に舞わせた。


 その完璧な混乱の中、誰にも気づかれることなく、郷田はリナの手を引いて、国道の闇の中へと姿を消していった。

 遠くから、無数のサイレンの音が、急速に近づいてくるのが聞こえていた。



 燃え盛る車の炎が、店内にいた者たちの顔を赤く照らし出す。誰もが言葉を失い、非現実的な光景に立ち尽くしていた。

 美咲は、カウンターの陰から恐る恐る顔を上げた。すぐそばで、店長が静かに佇んでいる。その瞳には、恐怖も驚きもない。ただ、燃え上がる炎が、小さな点として映り込んでいるだけだった。やがて店長は、何事もなかったかのように床に落ちたグラスの破片を一つ、拾い上げた。まるで、日常の続きのように。

 近づいてくるサイレンの音が、叩きつける雨の音に混じり合い、ダイナー・カシオペアの長い夜を終わらせようとしていた。外では、ネオンサインが一度、大きく明滅した。まるで涙を流し終えた星座が、静かに瞬きをしたかのように。

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