3. 良くない噂?
その日以来、悠斗は毎週日曜日、欠かさず河川敷に通うようになった。悠斗の目標とする音が、音楽資料室で聴いた音から由美の音になるまで、それほど時間はかからなかった。
由美の姿勢、由美の息遣い、口の形、音出しまでのアップの方法、練習メニュー、指の形まで。悠斗はそばで聴きながら、由美の全部を観察した。そのうち、悠斗自身もトランペットを部から借りて来て、由美と一緒に吹くようになった。
由美が言った通り、由美が河川敷に来ない日もあった。元々言われていたことだったので悠斗は気にしていなかったが、その翌日、由美は、
「ごめんごめん! 今度からはちゃんと連絡するね」
と言って、メッセージアプリのIDを悠斗と交換してくれた。
◇ ◇ ◇
由美の音に近づくこと、それ以外にも、悠斗にはやりたいことがあった。練習を休みがちになるという由美を、自分の吹奏楽部が受け入れるということだった。しかしこちらは、悠斗が想像したよりも困難だった。
先輩に話してみるのが一番だろう、と考えていた悠斗が、ある日、午後の部活のために楽器部屋に入ると、そこには晃一がいた。同じトランペットの3年生だ。
悠斗は「こんにちは」と挨拶をし、チャンスとばかりに、やや食いつき気味で話しかけた。
「神崎先輩!」
「おう、なんだ?」
晃一は軽い感じで返事をする。悠斗は勢い込んで続けた。
「俺のクラスにトランペットがすごく上手い子がいるんですよ。松井由美さんって言うんですけど、この間、たまたま練習しているところを見かけて……」
すると晃一が、由美の名前を聞いたとたん、急に固い表情になって悠斗を見たので、悠斗は言葉を飲み込んだ。
「知ってるよ。東中のトランペットだろ? 途中で辞めたよな」
「そうらしいですね。でも松井さん、すっごく音がいいと言うか、メロディラインが綺麗と言うか、とにかく凄いんです。うちの部に入ってもらえば……」
今度は晃一の方が、やや食いつき気味に答える。
「だけど練習にはあまり出られないらしいじゃないか。吹奏楽は1人でやるものじゃないんだから」
悠斗は、自分よりも晃一の方が、元から由美に詳しいことに驚いた。だったら……
「でもですよ、松井さんがうちに入部したら、すごく良いと思いませんか?」
悠斗は畳みかけた。すると晃一は、じっと悠斗を見つめて、低い声で言った。
「本人がここに来ないんだから、しょうがないだろ? お前、そんなこと気にするなら自分の音を気にしろよ。こんなとこで油売ってる場合かよ」
そう言われてしまうとぐうの音も出ない。
悠斗は口をつぐんで晃一をじっと見据え、それから目礼だけして自分の楽器を持ち出すと、練習室へ向かった。
◇ ◇ ◇
吹奏楽は1人でやるものではないから。
由美も同じことを言っていた。
1人でやるものではないから入部しない由美と、1人でやるものではないから入部させない晃一と。
ただ、同じ様に見えても、晃一は明らかに由美を拒絶していた。一体何なんだろう?
本当は入部させたいけど、練習に来れないから仕方なく入部させない、というのなら分かる。でも、そんな雰囲気ではなかった。自分の知らない由美の一面があるのだろうか。
中学でも吹奏楽部だった1年生にも聞いてみよう。そう考えて悠斗は練習室を見渡し、トロンボーンのスライドの手入れをしている翔琉に目をとめた。譜面台を倒したりしないよう、気をつけながら翔琉のそばまで移動し、声をかける。
「なぁ翔琉」
「ん?」
「東中からうちの高校に来た松井さんって知ってる?」
「知ってるよ。トランペットで辞めた人でしょ」
(やはり。松井さんって有名なのか?)
「松井さん、うちに入部したらいいと思うんだけど、神崎先輩に言ったら、なんか拒否られたよ」
「ああ? そりゃおまえ、神崎先輩にそれ言っちゃあダメだろ」
「なんで? 松井さんが入った方がうちの部のためだと思うんだけどなぁ。練習は出られるときに出る、っていうんじゃダメなのかな」
「吹奏楽は1人でやるもんじゃねぇしな」
翔琉まで同じことを言う。吹奏楽部界隈の合言葉なのだろうか。"皆んなは1人のために、1人は皆んなのために" みたいな。
「でも、あの音は、絶対うちにあった方がいいと思うんだよなぁ」
すると翔琉は呆れたように悠斗を見やって、
「そりゃそうかも知れんけど…… って、そうか、悠斗は吹部1年生だもんな。分からんか。」
と、なんだか突き放したようなことを言う。
確かに自分は吹奏楽部初心者ではあるけど、上手い人を仲間に入れたいというのは、どの部だって同じなのではないだろうか。悠斗は少しむっとして、
「なんだよ? 松井さんってそんなに問題ある人なのか?」
と言い返した。しかし翔琉は、もうこの話は終わりにしたい、というオーラを出しまくりながら、
「分かってねぇな……」
と小さく言って、トロンボーンを構え、音を出し始めた。
全然分からなかった。確かに練習は休みがちになるのかもしれないけど、あれだけ吹ける人なら部にいた方がいい。何より、今のトランペットパートには無い音が、彼女にはあった。それでも拒む理由とは何だろう?
晃一にしても翔琉にしても、決して気難しい人ではない。晃一は頼れる先輩で、いつも丁寧に教えてくれるし、悠斗のことを後輩として可愛がってくれている。翔琉は、悠斗が吹奏楽部で最初に仲良くなった同級生だ。部活帰りには、お互いに冗談を飛ばし合いながら夜道を歩く仲だ。
そんな2人が由美のことを避けるのは、どういうことなんだろう?
悠斗はいつもの由美を思い描いてみる。河川敷でトランペットを吹く由美、笑顔で色んなことを話してくれる由美、真剣な面持ちで授業を受ける由美、休み時間に友達と笑い合う由美、悠斗とふざける由美。
どう思い浮かべても、避けられる理由が由美にあるとは思えない。それとも、悠斗は好感を持って由美に出会ったので、どうしても贔屓目に見てしまうのだろうか。
しかし、もしそうだとしたら、翔琉なら「悠斗は気づいてないかもしれないけれど、実は、松井さんはヤバい奴なんだぞ」くらいのことは言うはずだ。
晃一も翔琉も、由美とは違う中学校なのに、由美のことを知っていた。そして思い返してみれば、翔琉は由美を拒否するというよりは、由美の話題には触れたくない、という雰囲気だった。中学時代の由美に、何があったのだろう。
◇ ◇ ◇
その日の練習を、悠斗は悶々として過ごした。練習はきっちりこなしたけれども、気分が晴れない。由美が入部するのは論外なのだろうか。
(同じ東中出身の人はどう思ってるんだろ……?)
由美が部活を辞めたときに、同じ中学で吹奏楽部にいた人なら、もう少し納得のいく話が聞けるかもしれない。
小休憩のときに部員名簿を見たら、由美と同じ東中出身の部員の名前が1つあった。2年生オーボエ半沢瑠奈。
悠斗は、瑠奈とは面と向かって話をしたことはなかった。しかし、挨拶をするといつも笑顔で返してくれる。あの先輩なら、何か教えてくれるかもしれない。悠斗はそう考えた。
部活が終わって、楽器部屋へ向かっている瑠奈を、悠斗はそっと呼び止めた。
「瑠奈先輩……」
上の名と下の名のどちらで呼ぶかは、周りの人がどう呼んでいるかで大体決まる。
「あら塩野くん。珍しいわね、私に用事なんて。どうしたの?」
「あの、瑠奈先輩は東中出身ですよね。トランペットの松井さんって、何があったのかな、と思いまして……」
「あぁ!由美のことね!……じゃあ、帰りながらちょっと話そうか。自転車置き場までだけど」
晃一と翔琉の反応から、由美のことはタブーに近いのかと思って、出来る限り小さな声で呼びかけたのに、瑠奈はあっけらかんと大きな声で応える。
◇ ◇ ◇
「塩野くんは高校から吹部だよね。由美に興味持つなんて、何かあったの?」
校舎を出て、自転車置き場へ向かって歩きながら、瑠奈が屈託のない笑顔で聞いてくる。悠斗はこれまでにあったことを洗いざらい話した。由美の音に出会ったこと、毎週のように聴きに行ってること、晃一や翔琉のこと、全部。
悠斗が話し終えた時には、すでに自転車置き場に着いていたけれど、瑠奈は自分の自転車の籠に荷物を入れて、そのまま立ち話をしてくれた。
「なるほどねー。それで、由美が辞めた理由を知りたくなったって訳ね」
瑠奈はちらっと悠斗を見て、少し視線を合わせた後に続けた。
「それは気になるわよね…… そうね、簡単に言うとね、由美が、練習は休みがちだったのに、トランペットは抜群に上手だったからだよ」
「チームワークを乱す的な?」
悠斗は、由美がサッカーに例えた話を思い出していた。
「先輩に目をつけられてね。ソロはどうしても上手な子になるじゃない? 後輩が先輩を差し置いて、ってなるのよ。練習に来ないくせに、って」
「でもそれって、トランペット上手くなるために、レッスンに通ってたからなんですよね?」
「そうね。かえってそれが、嫉妬の的になったりするし。あとは、顧問や音楽指導の先生に贔屓されてると思われちゃったのもあるかな」
悠斗は入部して以来初めて、吹奏楽部って意外と面倒くさいところがあるかも、と思った。
「私は、由美が辞めることはない、って思ってたんだけどね。でも由美自身は、いたたまれない気持ちになったと思うよ」
「神崎先輩も、松井さんにソロ取られるとか思ってるんでしょうか」
「んー、そこは分かんないけど、ひょっとしたらそうかもね。あと、他の学校の人には、由美のことあんまり良くない噂で伝わってるかも。トラブル起こして辞めた、みたいな。由美のこと快く思ってない上級生が発信源だもん、きっと」
「他校にまで噂になるんですか」
「由美はとても上手だから目立ってたのよね。運動部だって、そこは同じでしょ?」
「確かに。でも松井さん、普通にいい人なのにな……」
「でしょー?なんでこうなっちゃうのかなぁ」
いつも笑顔な瑠奈が、この時ばかりは悔しそうに顔をしかめた。しかしすぐに表情を和らげると、体を悠斗に近づけて、声を落として言った。
「本当は私も、由美にはうちの部に来て欲しいんだよね。塩野くん頑張って!」
◇ ◇ ◇
瑠奈の話を聞いて、悠斗は納得したわけではなかった。ただ、「吹奏楽は1人でやるものじゃない」という言葉から受ける感覚というか、感情というか、そういったものが、以前とは少し変わったような気がした。決して理想論的な美しい合言葉などではなく、実に人間臭くてどろどろした生々しい言葉のようだ。
ソロを後輩に取られたくない、という気持ちは、悠斗には理解が今ひとつ届かない。理解できない、というより、理解が届かない、という感覚だった。そしてそれは、悠斗がまだまだ駆け出しで、ソロを吹く自分をイメージできるほどにはなっていないからかも知れなかった。
自分も先輩たちのように上手くなれば、また分かることなのかも知れない。悠斗はそう思った。
この先、どう頑張れば良いのだろう。悠斗は悩んだ。晃一のように由美を拒絶する先輩がいたら、由美はこの部でも、いたたまれなくなってしまうのではないか。そもそも、もう気持ちの整理はついていると言う由美は、入部したがるだろうか。
しかし。
「もう気持ちの整理がついている」ということは、気持ちに整理をつけなければならなかった、ということだ。
そして、「もう」ということは、気持ちの整理に時間がかかった、ということだ。