2. 河川敷にて
(トランペットって、色んな音が出るんだなぁ)
悠斗は感心する。悠斗たち初心者は、先輩たちの合奏練習を見学していた。
先輩たちのトランペットは、パワフルで元気で派手なイメージのある、さすが男集団と言えるような音だった。かっこいい。心がワクワクしてくる。
(あの音を出すこともあるのかな……)
悠斗の耳には、音楽資料室で聴いた、あのトランペットの音色が強く残っていた。あの音を、できれば生で聴きたい。
先輩の音を「元気な音」と表現すれば、音楽資料室で聴いた音は「美しい音」と言った感じだろうか。ひと言で表すのは、どの言葉を選んでも微妙に外してるような、座りの悪さを感じるけど。
その後も何度か、合奏練習を見学する時間はあったけれど、悠斗がイメージする「美しい音」を先輩たちが出すことはなかった。先輩の音も、曲によって、曲の場所によって、音を変えているのだけれど、何か根本的に違うような。
◇ ◇ ◇
(あの音もあると良いと思うんだよなぁ…… でもどうすれば…… 俺がゆくゆく、そういう音を出せるようになればいいのかな……)
部活が休みの日曜日。悠斗は、駅前の楽器店に出かけた帰り、そんなことをつらつらと考えながら歩いていた。休みの日にもそんなことを考えてしまうくらいには、悠斗も部活にはまりこんでいた。
悠斗の家の近くには、川にかかる橋がある。考え事に丁度良い橋で、悠斗はかなり気に入っていた。「そういう音」を出すには、どんな風に練習すればいいのか。考えをあれこれ巡らしながら、ゆっくりと橋を渡り始める。
そのとき、悠斗は、川面を吹き抜ける風にのって、耳にそっと触れるように届く音にハッとした。
これ、トランペットの音だよな……?
トランペットに間違いない。しかも、あの時音楽資料室で聴いた、あのトランペットに近い音のように感じた。真っ直ぐで素直で軽やかで、パワーもあるけれどしなやかで、音が弧を描いて遠くまで飛んで行くような、そんな音色。フォルテッシモからピアニッシモまで自由自在で、大胆さと繊細さを合わせ持ったメロディライン。
悠斗は完全に、そのトランペットの音に吸い寄せられた。夢中になって辺りを見渡すと、橋から降りた先の堤防の階段で、トランペットを構えている高校生くらいの女の子の姿が、遠くに見えた。
悠斗の心拍数が上がる。橋を戻り、堤防の道に入り、足を早めて近づいていく。だんだん女の子の姿がはっきり見えるようになって来て、悠斗はハッと足を止めた。
トランペットを吹いていたのは、同じクラスの…… まつ……?だったかな? 制服ではないから雰囲気がちょっと違うけど、とにかくクラスメイトだった。
悠斗は、今度はゆっくりと歩き始める。クラスメイトなら少しばかり声を掛けやすい。彼女がトランペットを下げたタイミングで、
「あの……」
と、声を掛けた。
彼女が振り向く。真っ直ぐな視線を受け止め、悠斗はドギマギした。しかし有り難いことに、その子は
「あぁ!」
と笑顔になった。悠斗は密かにほっとする。その子は笑顔で続けてくれた。
「同じクラスの…… ええと、ごめん。まだ皆んなの名前覚えてなくて。しお……の?」
「塩野悠斗」
「そうそう! 塩野くん。私は松井由美」
そうだ、松井さんだ。
由美は少し、くだけた笑顔になって聞いてきた。
「こんなところで何してるの?」
それはこちらのセリフだ。でも聞かれたことには答えておこう。
「楽器屋さんに行って来た帰りでさ、家がこの橋の先なんだ」
「へぇー!私の家、このすぐ裏!」
「おぉー。じゃあ橋を挟んでご近所さんだね」
「ご…… ご近所?」
由美は可笑しそうにクスクス笑った。無理もない。トランペットを吹いていても咎められないほどの河川敷だ。橋の長さは優に500mはある。
「それよりもトランペット……」
「あ、うん。前からやっててね。好きなんだ、トランペット」
好きなんだ、トランペット、と言うときの由美の笑顔が素直な子供のようで、すごくかわいい。
「そういえば、塩野くんは吹部だよね? 長沼先生に入部届出してたから」
「うん。ほとんど成り行きで入っちゃった感じだけどね。トランペットだよ」
「そっかー。楽しい?」
「うん。楽しいと言うか、めちゃ頑張ってる。てか、こんなに頑張んないとダメな部活だとは知らなかったよ。思ってたより男多いしさー」
由美はまた可笑しそうにクスクス笑ってる。
「確かに里高の吹部は男子多めだよね」
悠斗たちの高校は下里高校といって、皆は里高と呼んでいた。
「成り行きで入っちゃった、てことは、中学の時は、やってなかったの?」
「うん。全くの初心者。長沼先生に頼まれて音楽資料室の片付けしてた時にさ、流れてた曲をそのまんま鼻歌で歌ってたら、先生に勧誘された」
「長沼先生って、そんな感じだよね。クラスの全員を勧誘してるんじゃない?」
由美はまた笑った。よく笑う子だな、と悠斗は思った。笑顔も可愛い。それに、はっきりと喋る明るい声に、悠斗は惹きつけられた。
「松井さん、そんなにトランペット上手いのに、吹部入らないの?」
由美は少し寂しそうな笑顔になって、
「うん…… 私、部活に出られない日が毎週あってね。だから、皆んなに迷惑かけちゃうから、吹部には入らないんだ」
「え、でも、そんに上手いんなら、少しくらい練習に出られなくたって……」
練習に出なくても上手い、という状態があり得ることが、悠斗にはいまひとつ想像できなかったが。
由美は、ほんの微かに苦しそうな顔になって、
「うーん、そこは難しいところなんだけど、上手だったらいいって訳にはね。吹部は皆でやるものだから」
「皆でやるものだから……?」
言葉は理解できるのだが、その心が分からない、悠斗はそんな気持ちになった。
由美は自分に言い聞かせるように言う。
「皆んなで毎日頑張って、努力して、そうやって目標に辿り着くものだから」
「練習出ない人が、最後の美味しいところだけ取っていくのはダメみたいな?」
「そうね。例えばさ、サッカーとかだったら、パスの練習とか毎日して、チームとしての動きを作り上げていくでしょ? それが、試合当日になって、今まで練習に出ていなかった人が入って、その人がどんなに上手でも、チームワークは取れないじゃない?」
お!それなら分かりやすいかも。
「松井さん、サッカーにも詳しいの?」
「ううん。友達にサッカー部の子がいたから、受け売り」
由美は、今度はいたずらっ子のような笑顔になった。
「そっかー。でも、週に1日って、逆に考えれば、練習出られる日の方が多いんだよね?」
「そうね。でも、曜日が決まってる訳じゃないし、週に1日じゃなくて、2日とか3日とかになっちゃうこともあるし」
「あの……」
ほとんど初めての会話なのに、立ち入ったことを聞いてしまっては嫌われるだろうか。でも悠斗は聞かずにはいられなくなった。
「あの、体のどこかが悪くて病院に通ってるとか……?」
すると由美は意外そうな顔をして、それから笑顔に戻り、
「あぁ!ごめん、そんなんじゃないよ。」
と笑った。悠斗はほっとする。
「トランペットの先生のレッスン受けてるの。先生、プロのオーケストラの方だから、スケジュールがまちまちでね。あとは私のコンクールが近くなると、集中的にレッスンが入ったりとか」
練習に出なくても上手い、というのはそういうことか。悠斗は納得した。それにしても。
「すごいな。なんか、余計に吹部に来て欲しくなっちゃう」
「ふふ。ありがと。でもこればかりはね。私、中学では吹部だったんだけど、練習出られないから途中で辞めたの」
「そうなんだ……。里高吹部は違う、ってならないかなー」
由美は明るい表情のまま、口をきゅっと一文字に結ぶ。そして、
「うーーん、難しいんじゃないかな。私は私で、吹部辞めたときもその後もいっぱい考えて、もう気持ちの整理はついてるから、いいんだよ?」
と、悠斗に笑顔を向けた。
「そうか……」
もう気持ちの整理はついてる、なんて言われたら、なんだかこれ以上は立ち入ることが出来ない気がする。悠斗は残念な気持ちになって、由美のトランペットを見つめた。
由美はそんな悠斗の気持ちを察してか、
「塩野くんは、中学のときは何部だったの?」
と、別の話題を振ってきた。
そのあとは、悠斗と由美は色んな話題で盛り上がった。
お互いの中学時代の話、長沼先生のノリの軽さの話、英語の課題がキツすぎるという話、英語の話から勉強の話、勉強の話から下里高校を選んだ理由の話、下里高校の話から受験の思い出話、受験の話から家族の話、家族の話から好きな夕飯の話、夕飯の話から苦手なものの話、というふうに。
悠斗は、
(松井さんと話してると時間を忘れるなぁ)
と、心をわくわくと躍らせながら思う。しかし、時間に思い当たった瞬間にハッとして、少し大きな声を出した。
「あぁ! ごめん松井さん! すっかり練習の邪魔をしちゃってる!」
それを聞いた由美は えっ? というような顔をした後、笑顔に戻り、手をぶんぶんと横に振りながら言った。
「いいのいいの! ここで吹いてる時は練習というより、トランペットで遊んでるようなものだから。基礎練やったり、いま練習中の曲も吹いたりするけど、思いつくまま吹きたいように吹く、っていう時間が欲しくてね」
そうは言っても、由美も悠斗も堤防の階段に座り込むほどに時間が経っていた。そろそろ由美を邪魔するのは、いい加減にしないといけない頃だろう。
「それにしたって、ほんとごめん! 楽しくなっちゃって」
そう言いながら立ち上がる。それでも名残惜しさを感じた悠斗は、少しだけ勇気を出した。
「松井さん」
「ん?」
「俺、橋の上で松井さんのトランペットが聞こえて、それで、居ても立っても居られなくなったんだ。松井さんの音、すごく好き。また聴きに来てもいい?」
嬉しいことに、由美はにっこりと笑って言った。
「いいよ。塩野くんが居てくれた方が張り合いあるし。日曜のこの時間は大抵吹いてるかな。たまに居ないけどね」
「うん。ありがと。あの、松井さん?」
「うん?」
「色々話してくれて、ありがとう」
由美は親しげな笑顔になった。
「私の方こそ、声かけてくれてありがとだよ。吹部の練習、頑張ってね」
「うん。また明日学校で」
「また明日ね!」
ひょっとしたら、この日だけで数ヶ月分くらい話したのかも知れない。最初は名前もあやふやだった由美が、今ではクラスの中で一番近いくらいに感じる。
それは由美も同じだったのか、翌朝登校すると、
「おはよー!」
「あ!おはよー」
と、笑顔で手を振り合うくらいにはなっていた。