32、怖い
レオとダンスを踊り終わったレジーナがアリアンヌを探してると、貴族たちの態度が微妙に変化していることに気づいた。
口元に笑みを浮かべながらも、その視線には明確な「探り」と「警戒」があった。
(アリアンヌ様はどこかなー?)
彼女はその視線をまるで香水でも纏うかのように受け流し、ゆっくりとホールを歩いた。
――そのとき、控えめな足音と共に、ひとりの少女が近づいてきた。
髪をきっちりと編み込んだ、侍女風の少女。だがその手には銀の盆と、小さな封筒。
「レジーナ・バサリサ様へ。匿名でございます」
レジーナは警戒しつつも封筒を受け取った。
封には、見覚えのない印。けれど、漆黒の封蝋にはどこか既視感があった。
人目を避け、柱の陰でそっと封を切る。
中には、短く一文だけが記されていた。
⸻
「あなたの執念が本物なら、明晩、劇場裏の赤い扉をノックして」
――“K”より
⸻
(“K”? 誰……?)
その筆跡はまるで刃物のように冷たく、整っていた。
王族ではない。けれど、ただの市民とも思えない。
それはまるで、誰かが舞台の幕を引く前に手渡す“鍵”のようだった。
何かが動き出そうとしている。
この舞踏会で得たもの――それは社交界の名声だけではない。
(私の“執念”を、誰かが見ていた)
それが敵か味方かは、まだわからない。
けれど――レジーナは笑った。確信に近い、冷ややかな笑みで。
「いいよ。“赤い扉”ね。開けてみせる。爪ででも、歯ででも」
『一方その頃』
舞踏会の終わったホールには、取り残された花の香りと、人々の視線の残骸だけが残されていた。アリアンヌ・ド・ヴアロワは窓辺の椅子に腰を下ろし、ゆっくりとワインを口に含む。視線はすでにこの空間にはなかった。思考は、『レジーナの後ろ姿』を追っている。ここで、何故アリアンヌは才色競演会の舞台の立てなかったのか説明しよう。
一つ目の理由は、アリアンヌが人見知りという点にある。強いお顔立ちをしていながらも、人一倍シャイな彼女にとって舞台に立つというのはできる限り避けたい経験だ。だがそれを言い訳にして舞台に立たないというのは自分のプライドが許さないので、舞台には立とうと思っていた。
二つ目の理由は、アリアンヌが前世で経験した、才色競演会の一ヶ月前ほどに起こった出来事を見ればわかる。
前世のアリアンヌは同じく思い出作りのために、エリザベートの歌劇をレオと共にやろうと考えていた。
そして、ルンルンで参加する旨の申請書を出したその日の放課後、ザラ侯爵令嬢に大広間に呼び出された。
(ザラ・アンティー侯爵令嬢?何故?
関わりもなかったわよね。)
そう不思議に思いながらも指定された時間に大広間へ行く。彼女は社交界で名を馳せる存在ではあったが、直接の接点はなかったはずだ。
それでも「大広間にて待つ」と記された文字は、挑発的なほどに堂々としていた。それが少しムカッとするほどに。
扉を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。
広間の中央には、少女が立っていた。
まるでこの場の主であるかのように背筋を伸ばし、彼女の視線は真っ直ぐにアリアンヌを射抜いた。
「来たのね。」
ザラ・アンティー侯爵令嬢――その声は甘やかでありながら、底に棘を含んでいた。
アリアンヌは慎重に一礼する。
「何か御用ですか?ザラ侯爵令嬢。」
「ええ。あなたに聞きたいことがあって。」
自分は王太子妃なのだから、敬語を使われるべき立場なのに、敬語を使話されてしまう。
ザラはゆっくりと階段の上段へ歩みを進め、その姿を誇示するように立った。
「才色競演会に出場する、と聞いたわ。しかも演目は……エリザベート。しかもレオ殿下と共に?」
アリアンヌは目を瞬かせ、胸の奥に小さな違和感が広がった。
(どうして……もう知っているの? 申請したばかりのはずなのに。)
ザラの唇が歪む。
「あなた、何を考えているの? あなたごときが、あの役を務めようだなんて。」
その声には、怒りでも羨望でもなく、ねっとりとした嫉妬が滲んでいた。
アリアンヌは思わず身を固くしたが、視線だけは逸らさなかった。
「私はただ……一度きりの舞台を、心に残る思い出にしたくて。」
「思い出?」
ザラの笑い声が、大広間に冷たく響いた。
「あなたの“思い出”のために、私が二番目になるとでも?」
その瞬間、アリアンヌははっきりと理解した。
――この呼び出しは、ただの確認ではない。
ザラは自分を狙っている。
燭台の炎が揺らめき、赤い影が床に伸びる。
その影の中心で、ザラの瞳は狂気めいた光を帯びていた。
(怖い)
率直にこう思った




