61、月の光
コヌルは執務室を出ると、廊下に漂う空気の冷たさを感じた。
昼間はざわつく王城も、夜に近づくと不気味なほど静まり返る。
(……誰がどこまで関与しているのかわからない)
歩きながら考えるが、明確な答えは出ない。
その時だった。
「コヌル補佐官、少しよろしいですか。」
声をかけてきたのは、宰相の書記官。
いつもは目立たない存在だが、今は妙に緊張していた。
「どうしかしましたか?」
「き、昨日から記録庫の出入りが増えていまして……」
書記官は周囲を気にしながら小声で続ける。
「“噂の紙”に使われた文言が、どこかの古い文書に似ていると言う者がいて……
一部の者が勝手に調べ始めているのです。」
「古い文書?」
「はい。数十年前にあった“民衆扇動事件”の記録です。」
コヌルの眉が跳ね上がる。
(まさか……過去の事件の記録を元にして書いている?)
「書記官様、その話、どこで聞きましたか?」
「こ、ここだけの話にしてください。
どうやら――宰相様にもまだ届いていないようで……」
言い終える前に、廊下の向こうから足音が響いた。
「そこで何を話している。」
宰相直属の護衛官だ。
目つきが鋭く、そして“監視している”ことを隠そうともしない。
書記官はびくりと肩を震わせた。
「雑務の確認です。すぐ終わります。」
「ならいい。……あまり不用意に城内を歩くな。」
護衛官が去っていく。
コヌルは心の中で舌打ちした。
(妙だ。
宰相の護衛が、ここまで動く必要はないはず。
まるで――誰かを近づけたくないみたいだ。)
書記官の手が震えている。
「……続きは後で私が聞きます。今は戻ってください。」
「は、はい!」
書記官が逃げるように去っていく。
コヌルはしばらく廊下に立ち尽くし、考えた。
(子供たちの噂。
過去の扇動事件の文言。
宰相に届かない情報。
そして、護衛の不自然な動き……)
「私が過労死するのも時間の問題だな。」
その頃、宰相グラビスは執務室でまだ資料を眺めていた。
机の上には、コヌルが剥がしてきた噂の紙が散らばっている。
「……“真実は沈黙を恐れる者の手で潰される”か。」
その呟きには苛立ちだけでなく、微かな諦めが混ざっていた。
ドアをノックする音。
「どうぞ。」
入ってきたのは、先ほど廊下でコヌルと書記官を睨みつけた護衛官だった。
「宰相様。例の件、処理を進めています。」
「……そうか。」
「噂の出どころについては、まだ誰にも知らせておりません。」
グラビスは眉をひそめて護衛官を見た。
「……“誰にも”、とは?」
その問いに、護衛官は一拍置き、まるで当然のように答えた。
「もちろん……コヌル補佐官にも、です。」
静寂。
宰相の目が細くなる。
「……なぜだ?」
「申し訳ありません。上からの指示でして。」
「……上?」
あらゆる予測が宰相の脳裏を駆け巡った。
(王妃陛下……か?
いや、あの方はそんな命令を出す前に私に知らせるはず。
では――“王家の中の別の勢力”?
あるいは……)
護衛官は深く頭を下げた。
「今は“内密に動け”としか。
宰相様へのご報告も、慎重にとのことです。」
宰相は息を呑んだ。
「まさか……私が“疑われている”とでも?」
護衛官は沈黙した。
だが、その沈黙こそ答えだった。
◇
一方その頃、コヌルは城の裏門から街の掲示板へと急いでいた。
子供たちが噂を広げることのできる理由を調べるために。
夜風が長い外套を揺らす。
(……絶対に何かがある。
出ないと辻褄が合わない。)
アリアンヌの名前は明かされぬまま、
噂はじわり、じわりと城の内部にも浸透し始めていた。
コヌルは拳を握る。
月の光だけが街へ向かう道を照らしていた。




