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最初の一行

健司は薄暗い部屋に一人座っていた。淡い午後の光が厚いカーテン越しに差し込む。風邪の重いだるさがいつも以上に体を蝕み、退屈が心をじわじわと侵食していた。机の上の彼の日記は開かれているが、今朝使い切ったばかりでページは空っぽだった。


苛立ちながら立ち上がり、兄・ソラの部屋へ向かった。新しい日記を買うまでのつなぎに、何か書き足せる紙を借りようと思ったのだ。廊下は異様な静けさに包まれ、その沈黙が耳を押しつぶすようだった。


ソラの部屋の扉を少しだけ開けると、机の上に置かれた古い日記が目に入った。先ほどの雨で濡れたはずなのに、不思議なことに時間に侵されることなく、むしろ新品のように見えた。表紙はひび割れ、冷たく粗い感触だった。好奇心に突き動かされ、彼はそっと近づいた。


中の文字は乱雑で鋭く、間違いなくソラの几帳面な字とは違った。彼は眉をひそめ、嫌悪感を覚えた。


内容を読み込まずにページをざっと流し見すると、最後のページは真っ白だった。不思議な衝動に駆られ、ペンを手に取った。


「親愛なる日記へ、[日付]、[時間]…」とゆっくり書き始めたが、その言葉は重く、まるで彼を引きずり込むかのようだった。


次の言葉を書き終える前に、母親の声が静寂を裂いた。


「健司!準備しなさい、お医者さんが待ってるわよ!」


驚いて日記を閉じ、ペンを机に置いた。背筋に冷たい何かが這い上がるのを感じたが、階段を上る足音に引き戻されるように部屋を出た。


扉が静かに閉まると、日記の白いページは微かに波打ち、まるで薄暗い光の下で息をしているかのように、墨がどこからともなくこぼれ出すささやきを放っていた。


後にソラが帰宅すると、机の上の日記は不自然なほどに輝いていた。かび臭さもなく、濡れた跡もなし。滑らかな黒革の表紙と、鮮やかに際立つ墨の文字。


キッチンから声を掛けた。


「母さん、俺の日記、どこかにやった?それか入れ替えた?」


母は落ち着いた声で答えた。


「触ってないわよ。」


背筋にぞくりと寒気が走り、ソラは机に座って日記を開いた。明らかに健司の字だった。小さく丁寧だが、以前にはなかった重みがあった。


そこには健司の医者訪問、乾いた咳の音、そして奇妙にもソラのサッカー練習が休みになったことが詳細に記されていた。


眉をひそめた。


もしかしたら健司は話を聞き漏らしていたのかもしれない。


だが次の言葉が彼の背筋を凍らせた。夕食の献立まで事細かに書かれている。母は夕食の内容を前もって話すことは決してなかった。


鳥肌が立つ。


どうやって知ったんだ?


夕食の席で、キッチンの温かな明かりが長い影を落としていた。母は冷静に食材を切り続けるリズムが静かな背景音だった。


「お兄ちゃんは医者から帰ってからずっと寝てるのよ。可哀想に、本当に具合が悪いみたい。様子を見てあげなさい。」


心の中で日記の言葉が反響した。


「でもさっき、俺の部屋で書いてたんじゃなかったのか?」


「部屋から出てないわよ」と母は鋭く言い放った。「そんなこと聞くなんて、どうしてそんな馬鹿なことを?」


「わかったよ、わかった。」ソラは喉の詰まる思いを飲み込みながら答えた。


階段を上がる音とともに、健司の部屋の静けさが破られた。


「調子はどう?」とソラは静かに尋ねた。


「良くなってきたよ。」健司は半分閉じた目を開けた。


「今日の日記は書いた?」


「書いてないよ。お前の古い日記を使ったんだ。文字が…お前のじゃなかった。あれ誰の?」


唇を固く結んだソラ。


「気にしなくていい。」


しかし、気になる気持ちは胃の奥に深く沈み込んでいた。


自分の部屋に戻ると、日記が獲物のように待っていた。古いインクの香りと金属のような何かが空気に混じる。


ペンを取り、2ページ目をめくり、慎重に書いた。


「親愛なる日記へ、[今日の日付]。」


もう少し書こうとした瞬間、背後のヒーターの音が耳についた。


部屋の空気は重く、淀んでいた。


立ち上がり、浴室へ行ってヒーターを消しに行った。


戻った瞬間、凍りついた。


自分が書いたばかりのインクが動いている。


ゆっくりと、濃く、流れるように、こぼれた油のようにページを這い、ねじれ、黒い影となって広がっていく。


息を飲み、胸が締め付けられる。


部屋は狭まり、影が深まり、まるで彼を見つめているようだった。


この日記はただの本ではない。


生きている。


そして、彼を知っている。

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