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言霊の宮にて ー夢の中でー

作者: 小川敦人

言霊の宮にて

ー夢の中でー


五月の光が新緑を透かして、掛川の街並みに降り注いでいる。光と影が織りなす模様の中を、六人の老いた友人たちが歩いていく。本通りの寺に集まったのは日曜日の午前九時、時間という川の流れに身を任せた者たちの、静かな再会だった。

「三ヶ月が過ぎたんだな」

隆介の声には、時の重さを受け入れた者の諦観が滲んでいた。二月の両国国技館、力士たちの息遣いを間近に感じた初場所観戦以来の集まりである。

墓参りから始まったこの会も、十四年という歳月を刻んでいる。小学校の同じ教室で夢を語り合った仲間たち、この土地に根を張り、共に老いを重ねてきた友らだった。

最初は追悼の集いだった。それがいつしか低山歩きになり、やがて故人を偲ぶ食事会へと変わっていった。年に五回、六回と重ねる旅は、記憶の地図を広げる巡礼のようなものだった。

松本城では外国人観光客の多さに驚き、金太郎伝説の金時山では道に迷って遭難しかけた。柴又では迷子になった私たちを、上野の街角で見知らぬ婦人が親切に案内してくれた。新屋山神社の御神石を、仲間の一人が二度目に持ち上げた時、不思議な軽さを感じたという。その後、彼の会社に思いがけない高額買収の話が舞い込んだのも、今となっては懐かしい奇跡だ。


「隆介の記憶は、まるで時間を封じ込めた宝箱のようだ」

会計事務所を営む正雄の言葉には、長年の友情が醸し出す敬意が込められていた。

「小学三年の運動会で君が転んだ瞬間まで、鮮明に覚えているんだから」

「そんな恥ずかしい記憶まで蘇らせるなよ」

建設会社を経営する健一が苦笑いを浮かべた。

「お前は昔から女の子にちょっかいを出すのが得意だったな。覚えているか、台風で安倍川が氾濫しそうになった時のこと」

「何だったっけ?」

「川を見に行ったんだよ。お前に誘われて、俺も加藤も一緒に」

「それで?」

「河川局の人に捕まって、先生にこっぴどく叱られた」

「忘れちゃったな。六十年以上前のことだろう...」


墓前での般若心経の読経の響きが心を洗い流していく。一行は藤枝霊園へと向かった。友の眠る墓前で「讃美歌第312番 いつくしみ深き」を合唱する時、隆介の胸には万感の思いが去来していた。


昼食の場所は、掛川バイパスの取付道路沿いにある、時代に取り残されたような定食屋だった。

「明の調子はどうだろう」

元教師の文夫が心配そうに尋ねた。

「完全に断酒したそうだ。次の集まりには顔を出すと言っていた」

隆介の答えに、みんなの表情が明るくなった。

「それは良かった。仲間は一人も欠けてはいけない」

地元農協に勤める博之が、ノンアルコールビールのグラスを掲げた。

「そうだな。みんなで乾杯しよう」

六つのグラスが触れ合う音は、長い友情の証だった。

食事を終えると、会社員の敏夫が地図を広げた。

「今日は事任八幡宮に参拝しよう。言霊の神社だというじゃないか」

「『事のままに願いが叶う』と言われているところだね」

正雄が興味深そうに言った。


参道は静寂に包まれた森の中を縫って、石段が天へと続いていた。事任八幡宮の本宮は小高い山の懐に抱かれ、言葉そのものが祈りに変わる聖域のように感じられた。二百を超える石段を一歩ずつ登るたび、私たちは過ぎ去った時間と、それぞれの胸に秘めた思いを背負って昇っていく。

社務所で受け取った「ふくの紙」は薄くて柔らかく、それでいて不思議な温もりを宿していた。手のひらの白い石を包み、そっと拭う。最初の一拭きは神への感謝、二度目は共に歩んできた仲間たちへの願い、三度目は自分自身の小さな祈りのために。

石の表面に残る白さが、何かが浄化された証のように思えた。清められた石を元の場所に戻すとき、胸の奥に静かに満ちてくるものがあった。それは言葉にできない安らぎだった。


「こうして階段を登る時、不思議と心が洗われる気がする」

博之が振り返りながら言った。

「神様に近づいているからかもしれない」

敏夫が汗を拭いながら応じた。

本宮に到着すると、社務所でいただいた「ふくの紙」で白い石を「最初は神様のため、二つめはみんなのため、三つめは自分のために」と心を込めて磨いた。

隆介は三つめの石を磨きながら、静寂の中で祈りを捧げた。


神様、僕はもう七十二歳になりました。人生の終盤に向けて、もう一度挑戦したいことがあります

隆介の心の中で、願いが形を成していく。

長年システムエンジニアとして培ってきた技術と経験を活かして、もう一度システム開発に挑戦したいのです。地域の小さな企業や団体のために、使いやすいシステムを作りたい。定年後の新しい挑戦として、それが成功しますように

石を磨く手に、自然と力が込もった。

そして、奈緒子さんのことも祈らせてください

隆介の脳裏に、知性と美しさを湛えた女性の姿が浮かんだ。仕事で知り合った奈緒子さん。システム関連の会議で何度か言葉を交わすうち、彼女の聡明さと上品な立ち振る舞いに心を奪われていた。しかし、彼女には愛する夫と幸せな家庭がある。

彼女がいつまでも健康で、ご家族と幸せな日々を送れますように。そして、僕のこの想いが、彼女に迷惑をかけることなく、静かに胸の奥にしまっておけますように

石を元の場所に戻しながら、隆介は深く頭を下げた。


参拝を終えて車に戻る途中、正雄が声をかけた。

「隆介、さっきは真剣に祈っていたようだが、何か特別な願いでもあったのか」

「実は、最近考えていることがあるんだ」

隆介は立ち止まり、仲間たちを見回した。

「地域の小企業向けのシステム開発を始めたいと思っている。長年培った経験を活かして、使いやすくて手頃な価格のシステムを提供したい」

「それは素晴らしいアイデアだ」

文夫が目を輝かせた。

「君の技術力なら、きっと成功するよ」

「僕も協力する。建設業界の管理システムなど、需要があるかもしれない」

健一が熱心に言った。

「農協のシステムも古いから、何かアドバイスをもらえるかもしれない」

博之も賛同した。

「何でもサポートできることがあれば言ってくれ」

正雄が微笑んだ。

「僕も手伝うよ。地域の人脈を活かせるかもしれない」

敏夫も仲間に加わった。


車中での帰り道、話題は自然と隆介の新しい挑戦に移った。

「でも、一人でやるには大変だろう」

健一が心配そうに言った。

「実は、仕事で知り合った方がいる。奈緒子さんという、とても聡明な女性で、システム関連のことにも詳しい」

隆介の声に、微かな憧憬が滲んだ。しかし、すぐに表情を引き締めた。

「ただ、彼女は既婚者だし、仕事上の関係だから、あまり個人的なことでお世話になるのは...」

「それは心強い存在だな」

正雄が意味深な笑みを浮かべた。

「どんな人なの?」

文夫が興味深そうに尋ねた。

「システム企画の仕事をしている方だ。ご主人とお子さんがいて、とても幸せそうな家庭を築いている。会議での発言はいつも的確で、周りからの信頼も厚い女性なんだ」

隆介の表情が自然と和らいだ。

「なるほど、微妙な距離感だな」

文夫が理解を示すように頷いた。

「でも、純粋に仕事の相談として聞いてもらうことはできるんじゃないか」

「そうだね、隆介の技術なら、きっと良いシステムが作れると思う」


その夜、隆介は一人で事任八幡宮での祈りを振り返っていた。言霊の神社で捧げた願い。それは技術者としての新しい挑戦への決意と、秘めた想いを抱く女性への純粋な祈りだった。

数週間後、隆介は勇気を出して、仕事の打ち合わせの後に奈緒子さんに相談を持ちかけた。

「奈緒子さん、実は個人的な相談があります。地域の小企業向けのシステム開発を始めたいと思っているのですが、市場のニーズについてアドバイスをいただけませんか」

奈緒子さんは少し驚いたような表情を見せたが、すぐに興味深そうに応じた。

「それは素晴らしいアイデアですね。確かに、中小企業では使いやすいシステムを求めているところが多いです。お役に立てることがあれば、喜んでアドバイスさせていただきます」

隆介の胸が温かくなった。彼女の優しさが、また新たな想いを育むことになるとも知らずに。


それから数か月後、隆介の「地域密着型システム開発サービス」が正式にスタートした。仲間たちも積極的に協力し、健一の建設会社、博之の農協、正雄の会計事務所など、地域の様々な企業から依頼が舞い込んだ。

秋の終わりには、隆介が開発した在庫管理システムが地域の商工会議所で話題になった。システムの使いやすさと、地域に根ざしたサポート体制が高く評価されたのだった。

「本当に素晴らしいシステムですね」

多くの経営者から感謝の言葉が寄せられた。

「次はうちの会社でもお願いしたいです」

関心を示す人も多かった。

奈緒子さんも喜びの声をあげてくれた。

「隆介さん、良かったですね。最初にご相談を受けた時から、きっと成功すると思っていました」

彼女の笑顔に、隆介の心は高鳴った。しかし、彼女の左手の結婚指輪が、現実という名の境界線を静かに示していた。


その後、隆介と奈緒子さんは静かなカフェで振り返りの時間を持った。

「今日は本当にありがとうございました。奈緒子さんのアドバイスがなければ、ここまでの成果は出せませんでした」

隆介が心から感謝を込めて言った。

「私は少しお手伝いしただけです。隆介さんの技術力と努力の結晶ですよ」

奈緒子さんの瞳に、慈しみ深い光が宿った。

「これからも、お仕事でご一緒できることがあれば、ぜひ声をかけてください」

「はい、ありがとうございます」

隆介は微笑んだが、胸の奥では切ない想いが渦巻いていた。彼女の優しさが、かえって想いを募らせてしまう。しかし、それは決して表に出してはいけない感情だった。

次の日曜日、いつものメンバーが再び集まった。今度は隆介の成功を祝う会だった。

「隆介、本当におめでとう。君のシステム開発事業が地域新聞にも取り上げられたんだってね」

正雄が嬉しそうに言った。

「みんなのおかげだよ。一人では絶対にできなかった」

隆介が謙遜した。

「でも、一番助けになったのは奈緒子さんのアドバイスだったんじゃないか」

健一が慎重に言った。

「そうだね。彼女は本当に優秀な人だ」

隆介の表情に、複雑な感情が過った。

「ただ、彼女は既婚者だから、あくまで仕事上のお付き合いだけど」

「そうか...それは複雑だな」

文夫が理解を示すように頷いた。


十一

冬の終わり、隆介は再び事任八幡宮を訪れた。今度は一人だった。

システム開発事業は順調に軌道に乗り、地域からの信頼も厚くなっていた。しかし、心の中には相変わらず、奈緒子さんへの想いが静かに燃え続けていた。

石段を登りながら、隆介は自分の気持ちと向き合った。彼女は既婚者で、幸せな家庭を築いている。自分の想いは、決して実ることのない、一方通行の恋だった。

本宮で石を磨きながら、隆介は新たな祈りを捧げた。

「神様、奈緒子さんが末永くご家族と幸せでありますように。そして、僕のこの想いが、彼女や彼女の家族に迷惑をかけることがありませんように。どうか、この気持ちを静かに胸の奥にしまい続ける強さをお与えください」

石を元の場所に戻しながら、隆介は深く頭を下げた。

言霊の宮に響く祈りは、きっと神様に届いている。そして、この秘めた想いを、美しい思い出として心に留めておく強さを与えてくれることだろう。

麓に降りる石段を、隆介は一人静かに下りていった。新緑の季節が、もうすぐそこまで来ていた。人生の終盤に見つけた新しい挑戦と、決して実らない美しい想い。それらすべてが、隆介の人生を豊かに彩っていた。

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