宇宙降霊術
宇宙。それはあまりにも広大で、人間の知覚をはるかに越えた闇と光に満ちている。果てを知る者はおらず、真理に触れられる者はさらに少ない。
しかし、その無限にも等しい空間のどこかで、ひとつの儚い命が散った──その事実は、少年の人生を大きく変えてしまうことになった。
アレクサンダー・M・ロビンソンが、母セレステを失ったのはまだ幼い頃だった。
セレステは宇宙飛行士として、NASAの重要ミッションに参加していた。青い地球を見下ろしながら送ってきた最後の通信は、たった一言、息子への愛を伝える言葉。それを耳にした少年は、幼心にただ母に会いたいと泣き叫んだ。
やがて、ニュース番組が淡々と報じる。ミッション中の事故、船外作業で起きた突発的トラブル。回収されたのは損傷した宇宙船の一部のみで、セレステの遺体は見つからなかった。
それ以来、少年アレクサンダーの胸中には、「母の魂は宇宙を漂っている」という漠然とした確信が宿った。
誰にも否定はできなかった。なぜなら、その祈りだけが、彼の生きる支えになっていたからだ。
夜な夜な星空を見上げるとき、彼は母の面影を追い求めた。無数の光点のどこかに、母の魂が宿っているのではないか──そんな幻想めいた思いが、いつしか彼の全存在を支配するようになっていった。
数十年の時が流れた。少年だったアレクサンダーは、今やアメリカ合衆国大統領の座に就いている。
幼い頃に抱いた『母の魂を宇宙から呼び戻す』という願いは、政治家としての彼の行動原理にまで昇華された。膨大な予算を宇宙開発へと注ぎ込み、NASAのみならず世界各国の宇宙機関と協力体制を築く。
そうした中、アレクサンダーは一つの異常な計画を立ち上げた。
その名も「宇宙降霊術」計画。
簡潔にいえば、宇宙空間で降霊を行い、そこで亡き母の魂を呼び戻すという途方もない構想である。
大統領が公然と打ち出したこの計画に、賛同する者は決して多くはなかったが、彼の求心力と権力はあまりにも大きく、周囲は渋々ながらも準備を進めることとなった。
NASAとJAXA(日本の宇宙航空研究開発機構)は、国際宇宙ステーション(ISS)内にサイレンス・モジュールという独立区画を設置する。これは完全防音かつ真空に近い環境を整え、地上の雑音や電磁波を可能な限り遮断することで、霊との接触を試みる部屋だった。
もちろん、宇宙空間で霊を呼ぶなどという前例は一切ない。気休めにすらならない未知の領域を、アレクサンダーは突き進もうとしていた。
日本・鹿児島。
枕崎から少し内陸に入ったところに、古ぼけた一軒家があった。そこで独り暮らすのが杜山正子だ。
彼女は、いわゆるイタコとして名を馳せている。イタコの仕事はもともと青森県の津軽地方が有名だが、正子の場合は生まれ故郷の鹿児島で独自に修行を積み、亡霊や生霊を呼び寄せる術を習得したとされていた。
その評判は陰陽師や霊能力者を欲する者たちの間で広く知れ渡り、いつしかアメリカ政府関係者の耳にも届く。そうして『宇宙降霊術』の要である霊媒師として杜山正子が抜擢された。
彼女は金銭に執着があることで有名だった。アレクサンダーが提示した高額報酬を前に、正子は即座に承諾する。
とはいえ、正子自身にも矛盾する思いが渦巻いていた。イタコとしての自分の力が本物だという証を求めている。金のためとはいえ、宇宙での降霊術を成功させることで、自分がただの詐欺師ではないことを証明してみせたい。それが彼女の内なる執念でもあった。
かくして正子は、短期間の訓練を受けた後、史上初の『霊媒宇宙飛行士』として国際宇宙ステーションへ飛びたった。
ISSに到着した正子は、サイレンス・モジュールへ案内される。その区画は人間が入るにはあまりにも狭く、壁面には様々な計測器が取り付けられていた。
無重力空間に漂いながら、正子は息を整える。宇宙空間とは、どこか彼女にとって懐かしい感覚を伴う場所だった。
重力の束縛から解放され地球から離れたその静寂は、まるで魂の奥底に届くほど透き通っている。
──ここならば、本当に何かが来るかもしれない
正子は微かに期待を抱いた。
NASAとJAXAの専門チームは、これから行われる降霊術を逐一監視する。生命維持装置や通信機器の不具合があってはならない。世界中のメディアが、宇宙での前代未聞の儀式の結果を固唾を飲んで見守っていた。
ホワイトハウスからアレクサンダー大統領が中継を通して儀式の様子を監督している。その瞳には焦燥が滲んでいた。どこか、子どものように母を待ち焦がれる表情が垣間見える。それを見た側近たちはもはや止める術はなかった。
サイレンス・モジュールに入り、正子は独特の口寄せの儀式を始めた。宇宙空間に合わせたアレンジを加え、彼女なりに考案したやり方だ。
ヘッドセットから流れる微弱なトーンだけが、振動となって耳を打つ。目を閉じ、長く息を吐きながら、霊的な存在に向けて意識を飛ばしていく。
「もし、どこかにあなたがいるのなら、どうか私に降りてきてください」
最初は何も起こらなかった。宇宙空間を飛ぶ外部のノイズが、無数のかすかな音となって心に広がるのみ。静謐は、正子の意識を浮かび上がらせるようでもあった。
ふと、彼女の全身に寒気のようなものが走る。まるで視界の裏側を誰かがえぐるような感覚。頭痛、吐き気、そして鋭い閃光。
瞬間、正子の意識は闇の深淵に沈み、再び浮かび上がったときには、彼女は既に『別の何か』と接触していた。
アレクサンダーの母である宇宙飛行士セレステの魂ではなかった。
正子に憑依した者は星々を渡り歩く膨大な情報思念としか呼びようのない存在だった。
ノイズがモジュール内に充満している。人間の感覚では到底理解しえない、圧倒的な知識の奔流が正子に押し寄せ、彼女を一瞬で飲み込んでいく。
「ああっ!」
と、正子の口から微かな声が洩れた。その声は切なげでありながら、どこか狂気にも似た響きを伴っている。ホワイトハウスのモニター越しにそれを見ているアレクサンダー大統領だけは期待に瞳を輝かせていた。
何もかももう遅かった。正子は完全に思念体に憑依され、彼女自身の精神は押し出されるように深く沈み込んでしまったのだ。
奇しくも、宇宙飛行士セレステの魂の行方が分からないように、正子の魂も宇宙に吸い込まれてしまった。
宇宙からの帰還は世界的な関心を集める一大イベントとなった。国際宇宙ステーションでの降霊術が成功したか否か──その結論を、メディアは固唾を飲んで待っていた。
ISSから地球へ戻った杜山正子は、わずかに面影は変わらないものの、その瞳は生気を失ったかのように虚ろだった。周囲の質問にもほとんど応えず、地上の医療スタッフが診断しても、身体自体は健康ながら、感情が抜け落ちてしまったかのようであった。
アレクサンダー大統領は大々的なトークショーを企画し、全世界へ向けて宇宙降霊術の成果を発表する場を設けた。自分の母が帰還したのだ、と信じたい一心で。
やがて迎えたその日。アメリカ全土、そして世界各国のメディアが生中継を行う中、アレクサンダー大統領と正子が壇上に現れた。
薄暗い照明のステージ。静まり返ったホールには、無数の視線が二人に注がれている。アレクサンダーは深く息をつき、正子の姿を見つめた。
「マサコ、私たちは手を取り合えるのだろうか?」
アレクサンダー大統領は再び、母を感じることを求めた。
しかし、正子は動かない。彼女の瞳には何の表情もない。
数秒、あるいは数分にさえ感じられる沈黙が流れる。誰一人として、息をすることさえはばかられるような静けさの中、正子の右手がゆっくりと、しかし確実にアレクサンダーの首元へ伸びていった。
その瞬間、世界は凍りついたように見えた。まさか、という声なき声が会場を覆う。
「母さんじゃないの?」
アレクサンダー大統領がそう呟いた時には、既に正子の手は彼の首を掴んでいる。
力を込められた指先が、静かに大統領の喉を締めつける。その間、正子の顔はまるで感情を持たない人形のように動かない。
「僕はただもう一度母さんにっ‥‥‥」
アレクサンダーの視界が暗転し、最後に見たのは、母ではなく星々を漂う思念を宿した、無機質な正子の目だった。
生放送の電波を通じて、歴史的とも言える瞬間が全世界に刻まれる。
アメリカ大統領暗殺。しかも、それは世界中が見つめる公式の場で、霊媒によって成された。
その衝撃は、刹那にして世界の秩序を崩壊させるほど大きかった。
トークショー会場は一瞬で大混乱に陥った。警備が駆け寄る頃には、アレクサンダー・M・ロビンソンは事切れていた。
正子を取り押さえようとした者たちは、奇妙な衝撃波に弾き飛ばされ壁に叩きつけられる。
正子は細い身体をすっと立ち上がらせ、誰もいない虚空を見つめながら、ゆっくりと舞台裏へと歩み去る。それを止める者はいなかった。人間離れした威圧感がそこにいる全員を封じ込めていたのである。
その日を境に、アメリカ政界は混迷を極めた。大統領が殺害されたにもかかわらず、正子を指名手配するどころか、その名を語ることさえ躊躇う空気が生まれたのだ。
やがて、情報網を握る軍や政治家までもが、正子の何かに支配され始める。それが霊的なものなのか、洗脳なのか、あるいはもっと根源的な支配の力なのかは分からない。
ただ、彼女の意志が全てを動かしているかのように、世界の力関係は静かに塗り替えられていった。
正子は星々を漂う情報思念体として、さらなる力を蓄えはじめている。
それは人類史上類を見ないほどの規模の侵蝕ともいえる現象だった。
アレクサンダー大統領の暗殺から一年。
正子の何かによって支配されたアメリカは『幽霊ミサイル』という新兵器を世界の主要都市に向けて数万発も発射した。
実体を持たない幽霊ミサイルを迎撃することは不可能であった。
この日を境にアメリカの混乱は世界各地にも拡大してゆく。
太平洋を隔てた日本では、古くから伝わる霊術の家系『天変一族』の者たちが、不穏な空気を感じ取っていた。
天変一族の若い夫婦は、数千発の幽霊ミサイルが襲来した際、自らの命を犠牲にして日本列島に『鎖国結界』張った。
日本を外部との接触を禁ずるこの秘術は、幽霊ミサイルをすべて防ぎきった。
天変一族の若い夫婦は産まれて間もない双子の姉弟を思いながらこう託す。
──地異ちゃん、地災くん‥‥‥こんな世界でも優しく生きて。
鎖国結界に守られた日本は、外界との繋がりをほぼ断たれ、ひっそりと時を過ごしている。だが、内側に潜む闇までもが消え去ったわけではなかった。
空から不意に落ちてくる怪異、あるいは満ちすぎた霊気が顕現させる都市伝説──それらがどれほど荒唐無稽に聞こえようとも、いまや人々はあらゆる超常を否定できなくなっている。
国家の中枢は、かろうじて日本を護る術を模索しながら、秘密裏にとある対オカルト兵器を開発していた。
その名も、巨大除霊用ボット『フリップオーバー』
科学と霊術が融合したこの兵器は、いずれ日本を襲うであろうさらなる脅威に対抗すべく、その運命を背負わされていた。
──世界がもう一度ひっくり返る瞬間を待ち受けながら
オカルトフリップオーバー前日譚。いつか長編にしたいんやけどなあ