シュレーディンガーの猫(小説による思考実験)
「ねぇ、あそこにいるのは猫それとも犬」
オープンデッキのカフェで二人でお茶をしていたら、彼女が通りの反対側の黒い物体を指さして、そう訊いた。
「猫だろう」
「そうね。猫ね。あなたが視たから猫になったわ」
「どういうこと?」
「それより、チョコレートは?」
「はい?!」
「今日はバレンタインデーでしょ? まさかバレンタインデーに私に会うのに、チョコレートを用意してこなかったってわけ?」
「だって……君は女性だろう」
「どうして私が女性だと決めつけるの?」
彼女が女であることはよく知っている。だが僕は彼女の名前も知らない。
☆ ☆ ☆
彼女との出会いはひと月ほど前に遡る。千代田区の半蔵門にあるとある読書バーで開かれていた哲学カフェというイベントで出会った。そのバーではお互いをハンドルネームで呼び合う。もちろん名刺交換もしない。だから参加者のことは「ぽんぽこりんさん」とか「ぶんぶく茶釜さん」とかいう名でしか知らない。
その時の哲学カフェのテーマは『恋愛は本能か理性か』だった。つまり種の保存のための本能の衝動にすぎないのか、それと別のものがあるのかという議論だ。
彼女は、全身黒ずくめの格好をして、黒い眼帯をしていた。まるでアニメキャラのコスプレだ。
皆が活発に議論して盛り上がるなか、彼女は何も発言せず、ただ赤ワインを長いピンクの舌でチロチロと舐めていた。
その会がお開きになり店を出ると、彼女と帰る方向が一緒だった。店からは麹町駅、半蔵門駅、永田町駅の3駅にアクセスできたが、それぞれ方向が違う。彼女と僕だけが永田町駅方面に向かっていた。
「せっかく参加したのだから、何か発言すればよかったのに」
僕は横を歩く彼女に言った。
「間違えちゃったの」
「え?」
「量子力学を語る会に来るつもりだったの」
それは来月のテーマだ。
「なんだ。だから何も発言しなかったんだ」
「それだけじゃないわ」
「それだけじゃないって?」
「ねぇ、知りたい?」
彼女は黒い眼帯越しに僕を覗き視た。眼帯をしていても普通に歩いているので、布越しに透けて見えるのだろう。
「ああ」
「哲学は語るものだけど、愛は沈黙するものだからよ」
正直言って僕は意味が良く分からなかった。
「もっと知りたい?」
僕は少しだけ頷く素振りをして不完全な同意を示した。
「なら飲もう」
「でも、店はもう閉まっているよ」
平河町の界隈は飲食店は数えるほどしかなく、しかも閉店する時間だった。
「坂を降りて赤坂見附までゆけばいくらでもお店は開いているよ」
その言葉通り赤坂に行くと、まるで昼間のように明るく人で賑わっていた。
僕ら飲み直し、そのあと、ホテルで一夜を明かした。
彼女の言う通りだった。
愛し合うのに言葉はいらなかった。
☆ ☆ ☆
「待てよ、君は男じゃない」
彼女が男でないことは僕が一番よく知っている。
だが彼女は謎の微笑を浮かべるだけだ。
そう言えば、彼女の本名もまだ知らない。
ミリアルデというLINEのアカウントだけが僕が有している連絡手段であり、彼女の個人情報だ。もちろんミリアルデは彼女の本名ではない。
そんな関係であるにもかかわらず、彼女の存在は今の僕にとって限りなく大きいものになっている。
「分かった。君は男で、僕は女だ。これからチョコレートを買いに行こう」
「嘘つき」
その言葉に絶句して戸惑う僕の腕に彼女は腕をからめて乳房を押し付けてきた。
(嗚呼、もう語るのは止めだ)
僕のポンコツ理性が白旗を掲げた。
『愛は沈黙する』
幻聴のように脳内に鳴り響いた言葉は、天使の告知のようだった。
ネタバレを含みます。
この小説は単なる大人の男女のワンナイトラブからの恋愛劇とも読めます。
しかし、一人称の語り手なので、その人物の視点のバイアスがかかっており、しかも本当のことを言っているとは限りません。しかも、彼女と出会った読書バーでは、参加者は本名を名乗らずに現実の姿と違うペルソナをつけています。
実は『量子ねじれ』もしくは『シュレディンガー猫』の思考実験を、小説で試みたものです。
つまり僕と彼女の、生物的性別と、心の性別と、性的趣向は決まっておらず、観察者(読者)が、ノーマルな男女と思えばそうなるし、ゲイ同士の話と思えばそうなるし、外は女性だけど心は男性の彼女と外側は男性だけど心は女性の僕との話と思えばそうなるという話です。そんな設定を想定した上で二人の会話をもう一度読むとまた違う世界が開けます。