病弱姫と騎士の夜
同性愛要素を含みます。
深夜である。
宵闇に沈む城下街を、鮮やかな赤いドレスが、音も無く足早に歩いていた。
今夜は雲ひとつ無く、墨の夜空に満天の星が煌めいている。月だけがほの明るく、その真っ赤なドレスと腰までもある金髪を照らしていた。ドレスは細部にまで質の良い宝石やレースが使われており、一目見てわかるほどに上等なつくりである。
地味な石造りの町並みの中では、白い紙に一滴垂らした赤い絵の具のように、その姿は浮き上がって見えた。
建物の陰を縫うように進んだ赤いドレスは、街の端、国境へと続く道の手前で立ち止まった。家並みもまばらになるここから先は、道の他にはただ手入れのされない草地があるばかりで、ほとんど誰も近付くことはない。
立ち止まった人物は、ゆっくりと背後を振り向く。
「いつまで着いて来るんだよ」
静かに声を投げ掛けた先には、一見して誰もいないようである。
しかし、ややして、建物の陰から一人の男が姿を見せた。
その男の持つ焦げ茶の髪色は、この国に住む人種の持つ一般的な特徴である。そして纏う銀の鎧は、彼がこの国の王立騎士団に所属する者であることを表していた。
男は、切れ長の目をゆっくり瞬いて、ドレスの人物を見つめた。
「…姫、かような言葉遣いははしたのうございますよ」
男の髪色に対して、ドレスの人物が持つ金の髪色は、この国においては王の血族であることを表していた。
この国に、現在、姫君は一人。「体が弱く、立ち上がることすら困難を極め、国民にも国賓にも一度もその姿を見せたことのない」、リザベラ姫である。
リザベラは、ふうと溜め息をつくと、眉を顰めて騎士を見やった。
「ごめんあそばせ、貴方はわたくしの礼儀作法の先生ではないと存じておりましたわ。それで?貴方はわたくしの言葉遣いを訂正なさるために、お城からはるばる着いていらしたのかしら?」
「…私は王立騎士団員、王族を警護するのを責務としておりますから」
「あら、それは『王がそれを命じたとき』、ですわ。――なあ、それしか言うことないなら俺、もう行くけど」
恭しい言葉遣いをやめたリザベラに歯切れよく言い返され、騎士が押し黙る。
しばし、リザベラは黙って騎士を見つめていた。騎士もまた、リザベラを見つめる。対峙する二人の姿を、月影がほのかに照らし出す。
騎士が意を決したように口を開いた。
「――姫はしばしば、部屋を抜け出していらっしゃいます。そして私はいつもその後を追っておりましたが、必ず姫に撒かれておりました。
しかし今夜、ようやくここまでついてくることが叶いました。よもや斯様な危険な場所へいらっしゃっていたとは。…人間界と魔界の狭間へと向かうこの道に、如何なる御用がおありなのですか」
大陸の西の端には、魔王が棲む。そこからしばらくの辺りに魔族が棲み、人呼んで魔界という。
リザベラの父が治めるこの国は、人間界の端、魔界との境に位置していた。
魔族と人間族は仲の良いわけではないが、顔を合わせれば殺し合うとかいうわけでもない。大陸史を紐解けばその昔は戦争をしたこともあったが、現在では互いの棲む領域に不可侵であれば、特にどうとすることもない。
だが、異質なものを受け入れ難く感じるのが人の性であり、なんとなく魔界に近いこのあたりは、国民からも忌避されているのだった。
「危険な場所、な。こんなただの草っ原が、危険に見えんのか?」
「可能性の話です。魔界に近いここよりは、城の方が安全でございましょう。さあ、姫、お供いたしますから、城へ戻りましょう」
騎士は、自らの声に知らず哀願の調子が含まれているのに気付き、口内で舌打ちした。そんな筈がないのに、なぜか今宵がこの姫の姿を見、姫と会話を交わす最後の瞬間のような気がしてならなかった。
そう思わせるのは、どこかいつもと違うような、リザベラの雰囲気であった。なにを考えているのかわからない、飄々とした様子はいつも通りなのに。華美な服装を厭う姫が豪奢なドレスを着ている、それが理由なのだろうか。
リザベラは、騎士の胸中を見透かしているかのような、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「――なぁ、おまえさ。俺の護衛に命じられてどのくらい経つっけ」
「間も無く一年になります」
「そっか。あのな、これまで言わなかったけどさ、いいこと教えてやるよ。それっておまえがめちゃくちゃ信頼されてるってことだぜ。俺は『体が弱く、立ち上がることすら困難を極め、国民にも国賓にも一度もその姿を見せたことのない』姫ってことになってるからな。おまえは口が固く忠誠心が強い、信頼のおける人物だって評価されてるんだ。末は団長にもなれるな」
「…一応、自負しております」
「ふふ、そっか、これは知ってたか」
騎士は、リザベラとこんなにも長く話をするのは今このときが初めてであった。身分も不相応であるし、職務と関わらないことをするのはこの真面目な騎士の潔しとするものではなかったからだ。
しかし当然、側に控えていればわかることはある。
城の奥深く、ほとんど誰も訪ねない部屋で一人、老いて盲いた世話係たちとともに暮らすこの姫が、健常そのものであるということ。すなわち、何か他の理由から、国民にも他国にも「隠されて」いるのだと。
当然、その謎に立ち入って調べようなどとしたことはないが。
「じゃあさ、これから、たぶんおまえが知らないこと、三つ、教えてやるよ」
「…」
「でも、これはおまえを信頼して言うんだ。どうかおまえの心に留め、墓場まで持って行ってほしい。頼んだぞ」
姫との間にあるこの距離を縮めて、姫を抱え、気絶させてしまいたい。
そうして城へ連れ帰りたい。
絶えずその衝動が騎士を苛んでいる。
「この国の王族は、子が生まれるとすぐに、秘密裏にある儀式をする。まあこれもおまえは知らなかったろうけど、これが本題じゃないぜ。で、その儀式とは、生まれた子の身体に、ナイフで傷をつけることだ。なんでかわかるか?」
「…いえ」
リザベラは不意にドレスの片側をたくし上げた。露わになる左脚は細く白く、騎士はつい一時目を奪われてしまい、慌てて逸らす。太腿にベルトでナイフが固定されていて、リザベラはそれを取ろうとしたのだった。
そして、取り出したナイフで、リザベラは躊躇無く、利き手と逆の手を切りつけた。
騎士が止めようとする間もなかった。深く切りつけた傷から、ぼたぼたと血が垂れる。
なにを――と駆け寄ろうとした騎士を、リザベラは反対の掌を軽く掲げて制した。
そして騎士は驚くべきものを見た。
深く切りつけられ、血を溢れさせた、確かにあった傷が、目の前で塞がって行くのである。
その様は、二つの布の口を縫い合わせていくようだった。瞬く間に傷口は閉じ、月明かりの下なのではっきりとは見えないが、痕も残っていないように見えた。
「すごいだろ?」
「…これは、どういう…」
「王家に秘密はつきもの、ってやつだな。たくさんの人間の集合である国家を永きにわたって一つに治めてるんだから、後ろ暗いことや血生臭いことの一つや二つ、無いほうが違和感があるってもんだろ?
俺も、よくは知らねえの。先祖が何かしたから、一族が受けた呪いなんだって。王族に伝わる隠語では、俺を『契約の子』って言う。100年に一度くらい、たまに生まれてくるんだ。俺みたいに、外傷を一切受け付けない子供が」
やったこたねえし聞いたこともねえけど、たぶん俺を腹から真っ二つとかにしても再生するんじゃねえかな。
などと血なまぐさいことをあっけらかんと言うリザベラに、騎士はなんとも言うことができない。
「王家の汚点はなるべく隠蔽するべきだ。国家の威信に関わるからな。だから、『契約の子』の存在は、国民にも他国にも隠してるってわけだな。
で、俺の呪いにはもう一つあってさ。不死身の身体を得た代わりに、『契約の子』は短命なんだと。歴史を見てくと、過去、『契約の子』で30年と生きた奴はいない。最短で、10歳くらいでわけもなく突然死したって奴もいる」
「…」
「ゆえに、『契約の子』は、間違っても王位や重職には就かないよう、男だろうと、姫として育てられる」
「え」
虚を衝かれた。
つい、間の抜けた声を上げると、リザベラは嬉しそうに微笑んだ。その顔は美しく、身体つきは華奢で、どう見ても少女そのものにしか見えない。
「これが二つ目。俺はこんななりしてるけど、男だ」
たしかに、初めて会ったときから言葉遣いの悪い少女だとは思っていた。
それはこの屈折した生い立ちが理由だろうと騎士は思っていたのだが、そうではなく、本来の性に準拠したものだったということになる。
度重なる衝撃で木偶の坊のように突っ立っていることしかできない騎士だったが、しかし、彼は覚えていた。姫は――いや、王子ということになろうか――騎士の知らないことを三つ教える、と言ったのだ。
「ところでさ、おまえ、なんで今日に限って俺のあと着いてこられたかってわかってる?」
「…はい。姫が、あえて、私についてこさせたからです」
リザベラは頷いた。
「それは正解でもあり間違いでもある。
だって考えてもみろよ、ずっと城の隠し部屋で暮らしてる女みてーにひょろい奴がさ、日々鍛錬してる騎士様を撒けるわけないだろ?今日、俺は、初めて自分の足でここまで来たんだ。だからおまえがついて来られたってわけ。
つまり、いつもは、俺の力じゃない『力』で、おまえを撒いてたってこと。…なあ、もう出て来ていいぜ」
リザベラが、何者かに呼び掛けるようにそう言った瞬間だった。
突如、突風が巻き起こる。
砂埃が舞い、騎士の身体を強か打ち付けた。油断すれば吹き飛ばされそうな強風だ。咄嗟に身構え、堪える。
リザベラは、と見やると、その姿が、ゆっくりと宙に浮かび上がるところだった。見る間に騎士の手の届かない高さまで上昇したリザベラは、ぴたりと中空に止まった。地上では変わらず騎士を豪風が襲うが、リザベラには微風たりとも吹かない様子で、赤いドレスもレース一つ揺れていない。
そしてその傍らに、忽然と人影が姿を見せた。
「もういいのか?」
「うん、待たせて悪かったな」
リザベラは、傍らの人物に微笑んだ。姿形は背の高い人間の男のようであったが、恐ろしく整った顔立ちをして、その額からは円錐状の角が生やしている。
見たことがないわけではない。一目見てわかった。魔族だ。
騎士は強風を堪えながら、なんとか剣を構えた。姫を連れ去ろうとする者であれば、自らの敵に違いないからだ。だが、歯を食いしばっているため口を開けず、誰何を問うことすらできない。
辛うじて見える視界の中、リザベラがこちらを見ているのがわかった。
「…おまえが護衛に付く前、城を抜け出して街を歩いてたら、こいつと出会ってさ。話してたら、じゃあ魔界に来るか、って。魔界なら、ゾンビみたいな俺も自然に溶け込めるぞって。
俺さ、先が短いとわかってる人生を、城の中でグズグズ終わらせんの、やだったんだよ。自分のせいじゃねーのに隠れてるのも嫌だったし、あとまあ、女でもないし、しかも誰に見せるでもねーのにドレス着てるのも嫌だった。
ずっと、自由になりたいと思ってた」
「…姫、…っ」
なんとか絞り出した声は届いただろうか。それとも、この風の唸る音に掻き消されてしまっただろうか。
今や、どうしようもなく騎士は理解していた。これが最後の時だと。もはや自分に為す術はなく、姫との別れは確定で、しかもその時は目前まで迫っていると。
ならば――ならば、どうしても伝えたい言葉があった。
身分不相応だと思い、生涯口にする気は無かった。だが、これが最後なら、どうしても。
しかしリザベラは、騎士に背を向けてしまった。
「じゃあな。くれぐれも、俺が言ったことは口外しないでくれよ。これ、姫としての俺の、最後の命令な。
よし、行こうぜ、連れてってくれ」
「わかった。瞬間転移と飛んでくのとどっちがいい?」
「…じゃ、飛んでってくれ。最後に国を見ながら行くことにする」
「わかった」
風が一際強まって、遂に騎士を地に転がした。
ガシャンガシャンと鎧が鳴る。うまく受け身をとれず呻きながら顔を上げると、先程の一陣の強風を最後に、風はずいぶん弱まっていた。
先程までの場所に、リザベラと魔族の姿は既になかった。見上げると、遥か上空、人間ではどうあっても届かない場所に、赤いドレスが、点のように見えた。
「……姫!!」
おそらくもう、声は届かない。
「私は!あなたを…愛していました!!」
しかし、これ以上ないほどの、ほとんど絶叫というべきほどの大声で、騎士は夜空に叫んだ。
当然、返事はない。
墨色の中にすっかり赤い点が飲み込まれてしまうのを見届けて、騎士は地に伏し、慟哭した。
「…知ってたよ」
「何か言ったか」
「いや?なんでもねーよ」