#090 : 世界が繋がった☆ツバキ発光
──この街に、何かが届こうとしていた。
それは、パンの香りではない。
信仰でも、巡礼でもない。
それは──“名前”。
その朝、街の外れにある小さなパン屋では、いつもより早く店主が準備を始めていた。
なぜだか分からないが、胸の奥がざわめいている。
まるで、大切な何かが起こる予感のように。
おっソロ「今日は……なんだか特別な日になりそうだね」
焼きたてのパンを袋に詰めながら、おっソロは呟いた。
カエデ「ま、まってよおっソロさん!私がやるよー!?あっ、うわっ、パン落ち──セーフッ!」
どたばたと走り寄ってくるのは、居候の女──カエデ。
頼りないけれど、まっすぐで、今日も変わらず元気だった。
一方その頃、街の入り口近くでは ──。
真剣な表情でローザが声を上げる。
ローザ「ツバキ様、この街には “導きの香り” がございます!」
空を見上げ、ツバキがゆっくりと応じる。
ツバキ「……ふむ。確かに、この波動……我が瞳に焼きつく気配……」
ローザ「つまり、神託ですね!」
ツバキ「ち、違──……いや……ああもう、そういうことにしておけ……」
マントをひるがえしながら、黒髪の少女は顔を逸らした。
頬が少しだけ赤いのは、きっと朝日に照らされていたせいだ。
その女──ツバキは、不意に足を止めた。
風が髪を揺らし、街の空気に、どこか懐かしさが混ざる。
ツバキ「……何、この感じ……」
心臓が、かすかに跳ねた。
何故かは分からない ── 予感がした。
そんな予感に導かれるように、ツバキはそっと目を向けた。
その先に ── 小さな背中があった。
袋を両手で抱えて歩く、黒髪でボサボサのショートカット。
ふわふわと漂う、草の匂い。
── カエデだった。
カエデ「……あ……」
最初に声を出したのは、カエデの方だった。
そして──
カエデ「……ツバ…キ?」
── 時間が、止まった。
ツバキがゆっくりと振り返る。その目が、見開かれる。
ツバキ「……え………?」
たったそれだけのやりとりが、ふたりの世界を揺らした。
カエデ「……うそ、なんで……?」
震え声でカエデが呟く。
ツバキ「……カ…ェ……?」
ツバキも息を詰まらせる。
足をふらつかせ、何度も、カエデの名前を出そうとしたが声が出なかった。
そして、二人はゆっくりと、ゆっくりと近づいていく。
一歩、また一歩。
信じられないものを見るように、恐る恐る。
まるで夢が壊れてしまうのを恐れるかのように。
カエデ「……どうして……どうしてここに……ツバキも……来てたの……?」
涙声でカエデが答える。
ツバキ「カエデ……」
ツバキが声を絞り出し、首をコクンと頷く。
カエデ「……ここには…私だけだって、思ってたのに…………ううん……誰かいたらいいなって……でも、まさか…ツバキが…」
涙を拭いながら、カエデが苦笑する。
ツバキ「……私も……この世界に私だけが来ちゃったんだって……ずっと、そう思ってた……」
かすれた声でツバキが呟いた。涙が頬を伝い落ちる。
カエデ「……毎日、毎日……名前、呼びたかった……」
カエデももう涙を止めることができなかった。
ツバキ「…うん…うん……」
ツバキが頷く。
カエデ「でも、名前を呼んだら……その時点で、もう戻れない気がして……ずっと……ひとりぼっちだって、確定してしまいそうで……」
カエデがそっと手を伸ばす。その指先が、ツバキの頬に触れる。
カエデ「……あったかい…ちゃんと、生きてるんだ……私……この世界に放り込まれて、毎晩……サクラやツバキの夢を見てた……寂しくて、寂しくて……でも、どうすることもできなくて……」
カエデは、涙を拭いながら、震える声で話す。
ツバキ「……うん…うん…!」
ツバキの瞳が、また揺れた。
カエデ「魔物に襲われて、飢えて、雨に打たれて……何度も、何度も死にそうになって……でもやっぱり、ここはどこにも帰れない世界で──」
カエデが苦しそうに続ける。
カエデ「でも、ツバキがいるなら……ようやく"ここ"が、本当の世界だって思える……一人じゃなかったんだって……」
カエデの声が、かすれていく。
ツバキ「……わたし、毎晩祈ってた……神様に…… "家族" に "友達" に、もう一度会わせてくださいって……でも、もう諦めかけてて……一人で死んでいくんだって……」
ツバキが、そっと額をカエデの肩に預ける。
その瞬間、堰が切れたように嗚咽が漏れた。
── そして、ふたりは膝から崩れ落ちた。もう立ってなどいられなかった。
草の香りと、涙の味と、温かな体温。
震える肩と、途切れ途切れの言葉と、生きている証拠──。
カエデ「……ずっと、ずっと……怖かった……」
ツバキ「わたしも……毎日が怖くて……」
カエデ「でも、今……やっと……」
ツバキ「うん……やっと……」
世界が崩れていくんじゃなくて──ようやく、世界が "繋がった" 気がした。
カエデ「……ツバキぃ!ツバキ!ツバキーッ!やっぱりツバキだぁ…!!!」
カエデが泣き叫んだ。
──ツバキの時間が、止まった。
まるで遠い世界から聞こえてきたように、自分の名前が耳に届く。
聞こえた。理解できた。
でも、すぐには反応できなかった。
(……呼ばれた。私の……名前を)
それだけのことが、こんなにも胸を締めつけるなんて──
──やっと、“自分”という存在が肯定された気がした。
ツバキ「……カエデ…カエデ……カエデぇっ……!!」
ツバキも、涙を溢れさせながら、何度も、何度も叫ぶ。
お互いの名前を何度も、呼び合っていた。
まるで、本当にそこにいるかを確かめるように。
── この世界で、名前を呼んでもらえる人がいるというだけで。
その人に、もう一度会えたというだけで。
こんなにも、世界は優しくなれる。
こんなにも、生きることに意味が生まれる。
こんなにも……こんなにも……
……まだ、呼ばれていない名前もあるんだな……
──この世界の、どこかに。
きっと今も、誰かが誰かの名前を探している。
きっと今も、誰かが誰かに呼ばれるのを待っている。
そして、いつか ── また、自分の名前を呼んでくれる誰かに、出会えるのかもしれない。
カエデとツバキは、もう離れることはないだろう。
ふたりで、この異世界を生き抜いていくのだ。
お互いの名前を呼び合いながら。お互いを支え合いながら。
この過酷で美しい世界で、いっしょに歩んでいくのだ。
名前を呼び合える幸せを胸に。
新しい明日に向かって──。
…
《天の声:二人が、お互いの名前を呼び合った日──天気は晴れだった。
でも、この日だけは──ほんの少しだけ、雨が似合ったのかもしれない》
◇◇◇
── そして5分後にツバキの両目からビームが出た。
シュンッ……!(空間が両目に収縮)
……ッんビーーーーーーーーーーーッ♡♡
ツバキ「前が見えねえぇええええええええ!」
カエデ「目からビーム!?なにそれかっこいい!!」
ローザ「ツバキ様が眩しいッ!!」
こうして──
世界はまた少し、優しく、そしてうるさくなった。
(つづく)




