#144 : 奈落に咲く桜
──1週間後。
……冷たい。
まぶたにぽつりと雫が落ちた。
その感覚が、沈んでいた意識を現実へと引き戻していく。
乾いたスポンジみたいに抜けてカラカラになっている全身。
そこへ、たった一滴の水分が沁み渡る。
(……雨?)
目を開けると、岩の隙間から細い糸のように水が垂れていた。
地上から何百メートルも下の奈落。
雨なんて届くはずがない。
だけど、この水はたしかに「ここ」にあった。
岩肌を舐めるようにして水滴を集める。
この一滴一滴が、命そのものだ。
喉が焼けるように渇いていた。
飲み込むたびに、胃が、心が、細胞が歓喜の声を捻り出す。
鉄のような味。おそらく岩の成分が溶け出している。
温泉みたいなもの?
でもその苦味さえ、今の私には極上の甘露だった。
夢の中では、実家…おばあちゃんの家にいた。
縁側で差し込む午後の光、膝枕のぬくもり、
どこからか漂う味噌汁の匂い。
手を握られて、何度も「大丈夫」と笑ってくれた、あの温もり。
あんなにも当たり前だった、優しい日常。
でも、まぶたに触れた水滴の冷たさが、容赦なく現実を突きつけてくる。
「……おぉ? まだ生きてたか、しぶといね。私」
ぼそっと呟き、全身のダメージを確かめる。
腕も足もバキバキだし、腹には魔神族にもらった痛みが残る。
折れていた右腕は治りかけてはいるようだが、
肘から先の感覚が鈍い。
服(着物)は魔王の間にあったものだからか自己修復をしている。
「……凄いな…ノリで選んだ着物…」
(※伝説の着物だと本人は知りません。バカだから)
腹部の傷は塞がっているが、触るとまだズキリと痛む。
魔神族の爪は毒でもあったのか、傷跡は妙に紫がかっている。
──どれくらい経ったのか分からない。
奈落の底じゃ昼も夜も無意味だ。
ただ、体が少し癒えていることで「時間が経った」と気付くのみ。
ずっと私は冬眠スキルで仮死みたいに眠っていた。
人は孤独で壊れるって言うけれど、ここまで一人になると逆に不思議な静けさが心を満たす。
怖くないわけじゃない。
ただ、静かだった──。
水音と空気の流れる音、そして私の呼吸音だけの世界。
「っはは…ここまでぼっちなのは、人生初かもな……」
思わず笑いが漏れる。自嘲、強がり
でも、それでいい。それがいい。自分を誤魔化す。
誰もいない。敵も味方も救いの手もない。
頼れるのは自分の生存本能だけだ。
膝を立ててみる。
「お、動ける。」
全力疾走は無理だが立ち上がれるくらいには回復している。
冬眠スキルの恩恵か、想像以上に体の修復は早かった。
「……あー、そうだ。魔神族、倒したんだっけ」
ステータスウインドウを開く。
\\ ぺった…ん…… //
(※ステータス画面が開く効果音)
「効果音元気無いな!って私の体調に比例すんの!?今は励ませよ!」
淡い青白い光が、暗闇を僅かに照らす。久しぶりに見る「光」だ。
──レベル:500。
「うわ、マジか。魔神族一体でレベル200近くも爆上がり?
バランスぶっ壊れてんな……まあ、私ももう “普通” じゃないしな」
どうやって倒したっけ?あの時は本能だけで動いていた。
……辰夫…
私を救ってくれた辰夫を思い出す。
あの時の“辰夫”が居なきゃ、今ごろ私、死んでたな…
「辰夫…ありがとう…」
ただ「生き延びれた」ことだけが、今は何よりの救いだった。
「──死ななきゃこんな怪我も状況も安いもんだよね。生きてるだけで丸儲けってね。」
さて、感傷タイムからの現状確認タイム。
ステータスウインドウをじっくり見る。
数値の変化、新しいスキル、体の状態。
いつもは適当に確認してたが、
ここで生き残るには自分のスペック把握は必須だ。
新しいスキルがひとつ光っている。
《鬼の胃袋(NEW)》
“ありとあらゆるものを消化・吸収できる鬼の特性。ただし、超・太りやすい体質に進化。”
「……副作用! 太るとかやめてくれ!!
ほんと毎回、気持ちよくパワーアップさせてくれないなこの世界は…
でも、これ、暴食スキルと超絶相性いいじゃん!?」
暗闇に響く愚痴。
だけど頭はすでに色々考えていた。
これさえあれば、食糧問題は解決だ。
太るリスクなんて、まずは生き残ってから考える。
──さて、腹は限界を超えてる。
最後に何か食べたのはいつだっけ?
魔神族との戦闘前だから、しばらく口にしてない。
ふと、目の前の岩に目が行く。
「まさか…いけるんか…?絵的に女子の尊厳とか…まぁいいか」
ダメ元でひとかじり──ガリッ。
歯ごたえ……というか、普通なら歯が折れる感触。
なのに、不思議と砕けて飲み込める。
無味だと思ったら、噛むうちに微かにミネラルの甘み。
体がじんわりと温まる。胃が喜んでる。
ピコン、とウインドウが光る。
《暴食》の効果が発動しました。
新スキル【鉱物化】を習得しました。
「……いやいやいや、体温調節出来て、光合成できて、鉱物化も出来る?
半分冗談で言っていた 究極生命体 に近づいている…
岩にもなれるから考えるのをやめることができますね…っと…」
右手に意識を集中してみる。
すると、皮膚がゴツゴツとした鉱石みたいに硬化した。
「おお…凶器…」
ちょっと感動する。
これ、殴ったら壁だってぶち抜ける。
さらに、冬眠・体温調節・光合成の熟練度もアップ。
光合成はもはや微かな発光苔からでもエネルギーを得る。
冬眠は傷の自己修復まで追加され、体温調節も極限に。
この体、地獄適応力だけは誰にも負ける気がしない。
「いやこれ、地味にサバイバルでは無敵…でも副作用で…太る……
いずれ体型維持スキル覚えてやるからな?」
…
一歩、また一歩。歩く。
脚に力を込める。
自分の足音に警戒する。
心を強く保てと言い聞かせる。
岩を踏みしめる音、衣服が擦れる音──全てに集中する。
どこまでも続く暗闇。
その先に何があるかなんて分からない。
出口か、さらなる地獄か。
でも立ち止まれば終わりだ。
歩き続ける限り、可能性はゼロじゃない。
「──この地獄で生き残るのは、誰でもない、この私だ」
声に出す。
暗闇に私の声が飲み込まれていく。
私は私の名を刻む。
地獄…そのど真ん中に。
今度は私が、お前を喰い破ってやる。
……ふん。
何度でも立ち上がるよ。
しぶとさだけは誇ってやる。
足を前に、また前に。
暗闇の中で、私の心はまだ折れない。
「なんせ世界一タフな性格なもんで。」
この心が折れるその瞬間まで──私は絶対に、くたばらない。
いつか、この世界で「あいつらと笑ってご飯を食べられる日」が来るまで。
「っしゃー!行くぞ地上!」
(つづく)




