#132 : 世界が終わった日
…
──そして。
空が、音もなく、裂けた。
それは世界が”上”から壊れていく音だった。
何かが、見下ろしていた。
無関心に。無慈悲に。
まるで実験の結果を確認するように。
希望は、この瞬間に死んだ。
愛も、祈りも、明日への願いも──すべてが無意味になった。
誰も知らない。
誰も助からない。
誰も覚えていない。
神は沈黙し、英雄は現れず、奇跡は起こらない。
ただ、終わりだけがある。
──
地上
とある都市 夕暮れの広場
夕日が建物の隙間から差し込み、石畳を黄金色に染めていた。
「おじさん、これ三つ下さい」
少女がリンゴを手に取りながら、無邪気に笑った。
「はいよ、お嬢ちゃん。今日は良いリンゴが入ったよ」
商人の男が笑顔で袋に詰める。
少女は小さな財布から硬貨を取り出そうとして──
カラン、カラン……
硬貨が地面に落ちて音を立てた瞬間、夕暮れが沈黙に変わった。
「え、なに? なんか今、空が──」
少女が空を見上げた時、指先が固くなり始めた。
まるで血管に冷たい水が流れ込むような感覚。
表情は驚きのまま──瞳の光が失われ、頬の紅みが消えていく。
小さな唇が開いたまま、石になった。
カラン……手から滑り落ちた硬貨が石畳に転がる。
「な……なんだ……?」
商人の男が呟く。
手を伸ばそうとして──その腕に灰色の斑点が浮かんだ。
「いや……いやだ……」
笑顔を浮かべていた口元が、恐怖に歪んだまま石となった。
バサバサバサ! ハトたちが慌てて舞い上がる。鳥は石にならない。
ただ、パニックを起こして飛び回っていた。
──
広場の向こう側
「おかしいな……なんだ、この霧は……」
ベンチの老人が新聞から顔を上げた。
遠くの空に、黒紫の雲がゆっくりと広がっている。
「戦争か……? また、戦争なのか……」
老人の目に、遠い記憶がよみがえる。
「いや……あれは、戦争なんてもんじゃない……」
ピチッ、ピチッ……指先の皮膚の色が変わり始めた。
「あ……ああ……これは……」
恐怖が顔に浮かんだまま、ゆっくりと石に変わっていく。
最後まで握りしめていた新聞が、風に舞い上がった。
ニャアアア!
野良猫が鳴く。
猫は石にならないが、瘴気に触れて目が赤く光っていた。
──
街角
タッタッタッ……
「ママ、なに? あの黒いのなに?」
小さな子供が母親の手を引っ張りながら走っている。
「大丈夫よ」
母親は子供を抱きしめた。
「怖いよ、ママ……」
「大丈夫、ママがいるから」
母親の声が震えていた。
それでも、子供を安心させようと必死に笑みを浮かべる。
ザアアアア……黒紫の霧が街角を包んだ。
「ママ!」
「離さないから……絶対に離さないから……」
抱き合ったまま、二人は石になった。
愛する人を守ろうとする腕の形が、永遠に刻まれた。
ワンワンワン!
飼い犬が石になった飼い主を見て吠え続けた後、隣の犬に突然飛びかかった。
血のようなよだれを垂らして。
──
獣人街区
「みんな、急いで! 何かが来る!」
狼の獣人が仲間たちに叫んだ。
獣人たちは敏感に危険を察知していたが──
ザアアア……瘴気が街区を覆った瞬間、彼らも人間と同じように石化し始めた。
「が……ぁ……」
狼の獣人が呻く。
毛皮が灰色に変わり、筋肉が固まっていく。
「隊長!」
「逃げろ……早く……」
猫の獣人の少女が駆け寄ろうとして──走る姿勢のまま、その場で石になった。
「人間も……獣人も……区別なく……」
鷹の獣人が最後に呟いた。
──
兵士詰所
ドオオオオン……遠くで爆発音が響く。
「隊長! 街の方で何かが起きています!」
兵士が血相を変えて駆け込んできた。
「何だと?」
「人が……人が石になっています! 獣人も!」
「何を馬鹿な……」
隊長が窓から外を見て、言葉を失った。
街の向こうで、人も獣人も次々と動かなくなっている。
まるで時間が止まったように。
「……全員、配置に就け」
「みんな、建物の中に! 早く!」
兵士たちが街に向かって叫んだその時、黒紫の瘴気が詰所を覆った。
兵士たちは剣を掲げたまま、石の彫像となった。
最後まで市民を守ろうとする、勇敢な表情のまま。
ガルルルル……詰所の軍用犬が唸り声を上げ、赤い目で石になった兵士たちを見つめていた。
──
教会
キイイイ……重い扉が開かれる。
「主よ、どうかこの民をお救いください……」
神父が祭壇の前で祈りを捧げていた。
教会の中に避難してきた人間と獣人が、不安そうに身を寄せ合っている。
「神父様……私たち、死ぬんでしょうか……」
狐の獣人の老婆が震え声で尋ねた。
「安心なさい。主は我々を見捨てられない」
神父の声が教会内に響く。
ステンドグラスから差し込む光が、彼の白髪を照らしていた。
ゴゴゴゴ……教会の壁が震えた。
黒い霧が隙間から侵入してくる。
「主よ……」
神父は最後まで祈り続けた。
跪いた姿勢のまま、石となった。
人間も獣人も、祈りの姿勢で石になった。
カアアア! 教会の鐘楼で烏が鳴く。
瘴気の影響で目が血のように赤い。
──
市場
ガシャン、ガチャガチャ!
「おい、早くしろ!」
人間と獣人の商人たちが慌てて店じまいをしていた。
「家族の元に帰らなきゃ……」
若い商人が荷物を抱えて走り出そうとした時──
ザアアアア……瘴気が市場を覆った。
荷物を運ぶ途中で、人間も獣人も全員が石になった。
ブルルル……市場の馬たちが嘶く。
馬は石にならないが、瘴気で錯乱状態になり、蹄で地面を叩いて暴れ回っている。
──
街の外れの宿屋
ガタガタガタ……窓が震えている。
まるで地震のように宿屋全体が揺れていた。
ギャルルルル……外から獣の唸り声が聞こえる。
「……か、かかか、カエデええええええッ!?!?なんかモンスター来てるし!変な霧来てるし!どうしよう!どうしよう!」
ツバキが絶叫する。
窓にへばりついて外を見ていたが、迫り来る黒紫の霧と、凶暴化したモンスターたちに完全にパニック状態だった。
「え!?なに!?世界終わるの!?なんかこれヤバい気しかしないんだけど!?」
ツバキの声が裏返る。
ガオオオオ!
巨大な熊のようなモンスターが宿屋の近くで暴れている。
瘴気で目が赤く光り、泡を吹いて錯乱していた。
「ツバキ!? 落ち着いて! ローザさん! ローザさんどうしよう!?」
カエデもつられて慌てる。
普段はのほほんとしているカエデも、この異常事態には動揺を隠せなかった。
窓の外で街の明かりが一つ、また一つと消えていく。
「祈りましょう……」
ローザだけは、静かに目を閉じた。
三人の中で、彼女だけが諦めに近い平静を保っていた。
──その時。
「あ……」
カエデが窓の向こうを見て、言葉を失った。
街の人々と獣人たちが、まるで時間が止まったように動かなくなっている。
「嘘……嘘でしょ……?」
まるで巨大な彫刻庭園のようになった街。
人と獣人だけが石になっている。
鳥は飛び回り、犬は吠え、馬は暴れているが──すべて瘴気で凶暴化している。
ギャオオオ!ガルルル!ヒヒーン!
動物たちの鳴き声だけが響く、狂気の世界。
「あ……ああ……」
カエデは、世界が”狂った”音を聞いた気がした。
人の声は消えたが、凶暴化した動物たちの叫び声が街を支配していた。
──
ザアアアアア……ついに、黒紫の瘴気が三人の居る宿屋を包んだ。
「きゃああああああ!」
ツバキが目を閉じて身を縮こまらせる。
「ツバキ!」
カエデがツバキの手を握った。
「……神様……」
ローザが最後の祈りを捧げる。
──その瞬間。
何かが起きた。
キイイイン……三人の体が、ほのかに光ったのだ。
まるで見えないバリアが張られたように、瘴気が三人を素通りしていく。
「え……?」
ツバキが恐る恐る目を開けた。
自分の手を見つめる。石になっていない。
まだ温かい。
「なんで……?」
「私たち……大丈夫なの……?」
カエデも困惑していた。
「……ツバキ様が……守ってくださったのかも……」
ローザが静かに呟いた。
「え”!?私何もしてないッ!?………でも、あの光は…まるで、“何かに選ばれた”みたいだった」
ツバキが慌てて言った。
「うん…」
カエデが頷いた。
──
三人は窓から外を見つめた。
石になった人と獣人たち。
凶暴化して暴れ回る動物とモンスターたち。
ガオオオ!ギャルルル!
街には獣の咆哮だけが響いている。
人の声は、もうない。
笑い声も、泣き声も、歌声も。
足音も、話し声も、祈りの声も。
すべてが消えた世界で、狂った獣たちだけが叫び続けている。
風も止まり、雲も動かない。
だが、生き物だけは動いている──狂気に支配されて。
「……サクラ……」
カエデが、遠い記憶に向かって呟いた。
もう二度と会えない──……それでも。
「ねえ……助けてよ……サクラの”だいじょうぶ”ってさ……本当に、大丈夫になれたんだよ……」
「うわぁぁぁぁあああああ! 絶対無理!世界終わったぁ!!」
ツバキが泣き叫びながら、壁に頭を打ちつけていた。
「……でも」
ローザがゆっくりと目を開ける。
「私たちは……生きている」
──それだけが、唯一の希望だった。
ギャオオオ!
遠くで巨大なモンスターが咆哮を上げた。
── 知らない。
彼女たちは知らなかった。
彼女たちの親友が、とっくにその”戦場の中”にいたことを。
── そして、そのサクラも、もう倒れていることを。
彼女たちは、まだ知らない。
世界は、とっくに──終わっていた。
…
空から見下ろせば、都市は石の彫像で埋め尽くされていた。
無数の人と獣人たちが、最後の瞬間の姿のまま固まっている。
遠くで、誰かが叫んだ。
「──!」
母親の、必死な声だった。
…
その都市から、“音”が消えた。
…
── そして、世界は静かに止まった。
人も獣も、祈りも愛も、すべてが”石”に変わった。
動物たちの凶暴な叫びだけが、死んだ都市に響いていた。
(つづく)




