#109 : 仮面を捨てる時 † 私はツバキとなる
静寂の中、私はぽつんと立っていた。
どこか懐かしい空気。古びた木の匂い。
黒板のチョーク跡。机のガタつき。
── 教室だ。
中学時代に通っていた、あの教室。
ふと、前を見た。
そこに、“あの子”が立っていた。
制服姿の、あの頃の私。
無表情のまま、静かに、じっとこちらを見つめている。
ツバキ(……これは夢?それとも ── 幻覚?)
息を呑んだ。だけど声が出なかった。
次の瞬間 ── 彼女はぽつりと呟いた。
ツバキ(過去)「……ほんとに、それでいいの?」
それは、私自身の声だった。
ツバキ(過去)「誰にも嫌われたくないって思ってたよね。目立たないように、空気読んで、笑って、あわせて……でも、ほんとはずっと苦しかったじゃん」
教室の窓から射す光の中で、幻影の"私"が言う。
ツバキ(過去)「……サクラとかさ、カエデとかさ。あの頃の友達がさ。ヘンで、ぶっ飛んでて、でもまっすぐで ── 羨ましかったよね。今でも覚えてる。『また“いい子ちゃん”モード入ってんな。そーゆーとこ、嫌いじゃねーけどムカつく』って、サクラに言われたの」
ツバキ(過去)「あのときのサクラの言葉、ムカついたよね。でも嬉しかったよね?一番、私を見てたのはサクラだったんだって」
私は、口を閉じたまま、言葉を返せない。
制服のポケットから、中学生の "私" が取り出したのは──ボロボロになったノートだった。
中二病まるだしの詩。落書き。
黒い羽根の落ちる妄想イラスト。
そして、その隅にサクラの走り書きがあった。
【自分で選んだなら、それでいいんじゃね?胸張ってドヤれってのw】
── それを見た瞬間、私は自分の胸に手を当てた。
かすかに、昔の記憶がよみがえる。
ツバキの母「……あんたは我慢できる子だもんね」
そう言って、母はいつも笑っていた。
褒められているはずなのに、私はなぜか泣きたくなっていた。
“我慢”が期待されるたびに、泣くことすら許されなくなった。
だから私は、笑うようになった。仮面をかぶって、演じて──
でも、ほんとは──
“演じなくても笑える自分” になりたかったんだ。
ツバキ「……私が、信じたもの……」
ツバキ(過去)「“演じること” じゃないよ。“逃げること” でもない。きっと、私は……ずっと、“本当の自分” でいたかっただけなんだよ」
その言葉が、頭に響いた。
── 過去の私は、ふっと笑って消えた。
…
残されたのは、胸の奥に宿った決意。
教室の扉が、カタンと勝手に開いた。
私は、無意識に扉の外へと歩き出していた。
……気づけば、私は礼拝堂の前に立っていた。
◇◇◇
街の広場。
カエデとローザが見守ってくれている。
信者たちのざわめき。空の蒼さ。
すべてが、現実の色をしていた。
そうか。そうだね。私は、もう──逃げない。
「私はもう、“聖女を演じる”ことはしない」
声に出した瞬間、胸の奥がスッと軽くなった。
ツバキ「……だって、“ツバキ”として、生きていたいんだ」
「誰かの理想なんていらない。私は、私のやり方で──誰かを救える人になりたい」
「だからもう、“聖女ツバキ”とは、さよならだ」
声は静かに、しかし確かに空へ響いた。
仮面を外した私は、ようやく “自分” になれた気がした。
……この胸の震えが、偽りではないことを願いながら。
(つづく)




