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前途は洋々  作者: あさな
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05

 商店街の一番端にあるドーナツ屋。五年ほど前に出来た店で手ごねドーナツを売る。グルメ雑誌にも取り上げられたほど評判だ。広くはないがイートインスペースも確保されている。


 紫と二人、店内に入り、カウンターで俺はコーヒーを紫はミルクティを注文する。ドーナツは食べなくていいのかと尋ねれば「いらない」と素っ気ない返事。それでも俺は購入した。ココナッツミルクのパウダーがまぶされている。紫の好物でここへ来ると決まって食べる。トレイを持って席へ進む。テーブルに向かい合って座ると紅茶とドーナツを紫の前に置く。


「いらないって言ったのに」

「でも、好きだろう?」


 紫はそれには答えなかったが、おてふきの袋を破ると手を拭き始める。


「元気にしてたか」

「うん。」


 頷くとドーナツに手を伸ばす。一口サイズにちぎって頬張り咀嚼する。俺はその姿を見つめていた。

 高倉が訪ねてきた日から三日後、紫からメールがきた。五分でいいから時間を作ってもらえないか。そんな内容だった。一体何事かと思ったが、紫から会いたいと言われ断る理由はなかった。俺は二つ返事をした。だが、その前に整理しておかなければならないことがあり、ようやく今日実現した。


 一月ぶりに会う。紫は少しほっそりしたような気がする。そのせいか、大人びて見える。


「あ、そうだ。忘れないうちに先に渡しておくよ」


 紫が言う。

 それからドーナツの油がついた手を丁寧におしぼりで拭う。終わると財布を取り出した。小銭入れを開けると出したのは鍵だ。俺の部屋の合鍵。


「これ、返しそびれていたから」


 コトリ、とテーブルの上に置かれる。紫はスッと俺の方へと押した。


「もう私が持っているわけにはいかないでしょ」


 これが紫が俺を呼び出した理由らしい。

 差し出された合鍵には付けられていたはずの四つ葉のクローバーのキーフォルダーが外されている。それを見るとたちまちに息苦しさに襲われる。受け取りたくはない。これは紫のための物だ。


「あれから、色々あってな」


 俺は合鍵から紫へ視線を向けた。

 紫も俺を見ていた。


「今日は例の見合いだった」


 その帰りに会うことにした。真っ先に紫に会うと決めていた。


「そう。だから、日曜日なのにスーツなんだね」


 紫の眼差しがわずかに揺れる。それは俺の願望ではないと思う。


「話は断わった」


 続けると、今度はもっとわかりやすく大きく揺れた。


「祖父と話をして断ることにした。引き受けた以上、会わずにいるわけにいかなかったから、今日会って直接結婚は出来ないと告げてきた」

「……そんなことして大変だったんじゃないの」

「ああ、大変なことになると思っていた。祖父を落胆させるだろうと――だが、それは全部俺の思い込みだったよ」


 言いながら先日の出来事を思い出す――。




「申し訳ないです」


 畳に両手をついて頭を下げる。手のひらから汗が滲む。

 田島屋の奥座敷。見合い話を断るために祖父を訪ねていた。

 簡単に許されることではない。それでもこの話を受けられない。自覚した自分の気持ちを偽ることはもう出来なかった。結果がどうなるか予想すると鬱屈とするが己の意思だけは告げたい――だがどのように切り出せばいいのか。世話になった恩人の意に背くと述べるのは過分な緊張と神経をすり減らせる。しかし、黙ったままでいれば祖父から見合いのことを持ち出されるかもしれない。嬉しげな顔を見れば余計言い出しにくくなる。それ故、部屋に入り挨拶もせず切り出した。 

 勢いよく頭を下げたので、祖父の顔は見られない。突然謝られても混乱しているだけだろう。もっと詳細に説明しなければならない。


「両親を失い、身寄りのなくなった私を引き取ってくださったことは心から感謝してます。その恩を仇で返すような真似をしてお詫びのしようもありません――ですが、私はこの見合いを受けることは出来ません」


 もう一度はっきりと言葉にした。罵声が飛んでくる覚悟もしたが、


「何を言うとるんじゃ」


 返ってきたのはおどけたような物言いだった。

 怒りを通り越して、或いは受け入れがたいことを聞かされとぼけてのことかと思いながら俺はゆっくりと顔をあげる。


「恩を仇で返すとか大層な。乗り気じゃないなら断ればよいと、端から言っておいたじゃろ」


 しかし、告げる言葉とそれから表情も濁った感情は見あたらない。


「……ですが、それは建前で――事実上これは決定の話ではないのですか」


 それでも注意深く尋ね返す。母に結婚を薦めたように、俺にも祖父の眼鏡にかなった相手を薦めた。この見合いはそういうことではないのかと。


「お前、そんな風に思とったのか」


 呆れた、と祖父は続ける。


「儂は同じ轍は踏まん。美智子……お前の母親は儂の決めた相手との結婚を嫌がった。じゃが儂はそれが美智子のためになると信じとったから、どうしても結婚させたかった。儂も若かったんじゃな。結局は美智子は家を出ていった。年若い二人が駆け落ちなど、すぐ泣き帰ってくると高を括っとった。じゃが、そのまま――後悔してもしきれんかった。それとまた同じことをするなど儂はそこまで愚かな人間じゃないつもりじゃ」

「では、何故、私に見合いを」

「何故も何も、女っ気がないから心配してのことじゃ、それ以外に理由などないわ」


 聞かされて、俺はいよいよ絶句した。

 散々思い悩んだことは何であったのか。これほどあっけなく済むことだったのか。それを俺は勝手に深読みして、祖父の望みであると思った。祖父は娘を失った悲しみを乗り越え、俺の自由と幸せを願ってくれていたというのに俺はそんなこともわからず、祖父の願いを履き違え大きな誤ちを犯すところだった。

 俺はほとほと子どもであったと笑うしかない。己の幼い思いこみを真実であると信じ切り、疑うこともなかったのだ。なんと愚かだったのか。事なきを得て安堵するより間抜けさにクラクラとした。





「人は話してみなければわからないものとはよく言ったな」


 笑い話にもならないが、と付け足せば


「そっか。ご隠居と仲違いしなかったなら、よかった」


 紫は言うとティーカップを持ちあげて口に含んだ。

 俺のことを今もまだ気にかけてくれていることがたまらない気持ちにさせる。同時に、俺の望みにかすかな光が見える。


「仲違いはしなかったが、俺に女っけがないことは心配されている」

「そう」

「ああ」


 俺もカップを手に取る。コーヒーを口に含む。苦味が広がっていくが心は落ち着く。

 今日、紫に会いに来たのは見合いの結果を報告するためではない。いや、それもあるがその先を。しかし――正直、これまで自分の気持ちを伝えることなどしてこなかったので、どう話せばいいかわからない。とにかく告げてしまえば良いのか、タイミングを見計らった方が良いのか、そんなこともわからなかった。

 奇妙な沈黙。紫はチラリと腕時計を見る。


「……何かこの後、予定でもあるのか」


 紫が俺といるとき時間を気にすることはなかった。どちらかといえば俺の方が気にしていた。あまり遅くならないよう家に帰さなければならない。俺が切り出さなければいつまでも紫はいたがる。


「うん、六時に待ち合わせしてるから、もう少ししたら行かなきゃ」

「デートか」


 口にするとズキリと痛みが走る。


「うん。」


 紫はあっさり肯定する。


「近頃デートに明け暮れているらしいな」


 俺と別れてから、飲み会に参加しまくっているらしい。ここしばらく紫とは連絡をとっていなかったが、気になってそれとなく店の人から情報を得ていた。俺たちが付き合っていたことなど知らず、一方的に紫が俺を追いかけていると思われているせいか、紫がコンパに出るようになったことを「紫ちゃんも、ようやく現実的な恋に目覚めたってところでしょうねぇ。若もなんだかんだいって寂しいんじゃないですか」などとからかわれる。寂しいどころではなく気が気ではなかった。それほど早々好きな相手が出てくるとは思えないが、しかし、失恋の後に大恋愛が待ち受けていたという話もある。人の出会いなど何処でどうなるかわからない。紫にはすでにもう次の相手がいるのではないかと。


「明け暮れてるって……まぁ、普通に。飲み会に行って、好意を持ってくれた人とはデートしてみることにしてるだけだよ。これまでずっと蓮司さまのことばっかりだったからさ、全然他のこと知らないし。もっといろんな人を見て、いろんな人を知るべきだって思ったの。そしたらそのうち私に合う人が出てくるかもしれないじゃない? 今はまだすぐにって気持ちにはなれないけど、その準備期間。だから、とりあえず誘われたら行ってる」


 紫は前を向いて進んでいる。俺のように辛いことがあったからと心を閉ざす真似はしない。紫の強さだと思う。

 しかし、俺は素直に喜べない。話し方から特定の相手はいないようでそこについては安堵するが――いろんな相手とデートしているとはそれそれで面白い状況ではない。


「ほとんど毎日出かけていると聞いたが、そんなに相手がいるのか」

「……まぁね、私、これでも結構モテるんだよ」 


 へへっと笑って茶化すように告げる。


「そうだろうな。明るいし、気立てもよい。お前を好く男は大勢いるだろう」


 俺は正直に言ったつもりだったが聞いている紫の顔が曇る。不愉快そうに眉間に皺を寄せる。


「……私のこと振った相手にそんなこと言われても嫌味にしか聞こえない」

「俺は振ってなどいない、別れたいと言ったのはお前だろう」

「言ったのは私でも、そうさせたのは……ってもういいよ。この話は終わったことでしょ。またそれを蒸し返すの?」

「先に蒸し返したのはお前だろ」

「ああ、そうですね。全部私が悪い。私のせいだよ。用も済んだし帰る」


 言い捨てて紫は立ち上がる。俺は慌てた。


「待ってくれ。違う。喧嘩をしたかったわけじゃないんだ。悪かった」


 紫は立ち上がったまま俺を見てくる。視線が合う。小柄な紫に見上げられることは多いが見下ろされることは滅多とない。あまり見られない角度からの表情は新鮮だったが、のんきに堪能している場合ではない。


「紫。まだ終わってない。俺からも話したいことがある。座ってくれ」


 言えば、紫は憮然としたままだが席に座ってくれた。

 また、微妙な沈黙。

 紫の朗らかな笑顔と、陽気なおしゃべりがないと落ち着かない。だが、それを失わせたのは俺自身だ。


「それでデートだが……好意を持たれたらデートをするのか」


 俺はもう一度、話を戻す。

 紫はまだその話を続けるのかと不審げに、


「……そうだね。よっぽど嫌な相手じゃなければ一度はしてみる」

「そうか」

「うん。そう」

「なら、俺ともしてくれるか」


 言った瞬間、どっと力が抜け緊張していたことを知る。

 しかし、休まったと思ったらすぐにまた次の緊張がやってくる。

 デートを申し込んだ。それに対する答えを受けなければならない。一つ安堵したら次の緊張。こんなことを繰り返していればそのうち体はおかしくなるのだろう。

 動揺する心とは裏腹に冷めた目で自分を見る俺がいる。そいつはやけに辛辣で、やり直して欲しい――と言いたかったのに口を出たのが「デートしてほしい」だったことを情けないと詰ってくる。だが、それを言うのもやっとだった。人を求めることの難しさを生まれて初めて実感する。紫はこれをけして愛想の良いとは言えない俺にしてくれていたのかと思えば、自分の態度のそげなさと、紫が俺に好かれていないと不満を抱いたのも当然だと思う。


「なんでそんな話になるの?」


 たっぷりした空白ののち、紫のいぶかしむ声がする。


「好意を持たれたらデートすると聞いたからだが」

「……って、そうじゃなくて」

「欲しいと思うものは掴みにいけとも言ったな。そうだろう?」

「確かに、言ったけど」

「だからそうしている。俺ともデートをしてほしい」

「なにそれ」


 紫はますますしかめっ面になる。そんな顔されると気弱さが顔を出す。だが、ここで怯むわけにはいかない。


「お前に好意がある。俺とデートしてほしい」


 もう一度言った。

 今度は先程より明白に伝えられたと思う。


「い、いつからそんなことになったの?」


 紫はしかめっ面ではなくなったが今度は焦ったような、困ったような顔になり聞かれる。

 だから、俺は言った。


「最初から」


 最初から。田島屋で出会ったときから。――両親を失い絶望しきった俺に光をもたらしてくれたのは誰でもない紫だ。紫の人懐っこさに、明るさに、朗らかさに、俺を慕ってくる姿に、とても救われていた。


「最初からなんてそんなわけないじゃん!」

「そんなことある。ただ、気づいたのが最近なだけだ」


 そう。俺は気づかなかった。気づかなくてもよかった。紫の方が俺に寄り添ってきてくれたから。それを相応と思い怠慢に過ごしてきた。

 だが――振り返ってみれば俺は紫が離れていかないよう行動してきた。口では拒否することを言いながら行動は真逆だった。大学生になり、せっかく一人暮らしを始めたというのに必ず週末は田島屋に戻っていたのも紫に会うためだった。その証拠に、紫が俺の家を訪れ始めると週末に帰ることをやめた。一夜の遊びのあと紫が来なくなると気づいたときも、田島屋の看板を汚すわけにいかないからとの理由をつけてやめにしたが、実際のところは紫が来なくなるからやめたにすぎない。大学受験のために一年行かないと言われたときなど、勉強を教えてやるとの名目で俺の方から会いに行った。

 そんなことをしながら、よくまぁその気はないなど思えていたものと今となったら呆れる。

 結局俺は、紫に会えなくなることは絶対にしなかった。自覚することを避けてきたが行動が物語っている。俺はずっと紫を思ってきた。紫が俺の人生からいなくなるような選択はしてこなかった。その背後にあった気持ちが何であったか――ようやく言葉になった。


「もっと、詳しく知りたいなら、俺とデートすれば教える」

「なにそれ。交換条件?」

「ああ、そうだ。知りたいだろう?」


 紫は知りたいと思うはずだ。きっと。

 じっと俺を見てくる。何かを探るような疑うような視線。そんな風に見られるのも初めてのことだった。これまで紫が俺に向けてくれていたのは信頼だった。


「それとも、もう俺はデートしてもらえないほど嫌な男になっているのか」


 俺は紫の眼差しを真っ直ぐに受けて告げた。そうだ――と言われてもおかしくない振る舞いをしてきたが、ここで引いてはいけないと頼りない胸中を奮い立たせて見つめ返す。


「わかった。……考えとく」


 しばらくするとぶっきら棒ではあったが返事がある。拒絶ではなかった――しかし期待したものでもない。


「考えるだけか。好意を持たれたらデートすると言ったのはお前だろう」


 嫌と言われなかっただけ感謝するべきかもしれないが、それでも俺は更に続けた。悠長に構えてはいられない。そうしている間に、誰か別の男がひょっこり現れるかもしれない。紫はもう一途に俺だけ思ってくれているわけではないのだ。強気な態度を不遜ととられる可能性もあったがそれでも言った。


「俺とデートしてほしい」


 執拗に言えば紫は顔を顰める。俺の真意を掴みかねているらしい。そして、


「……わかったよ。そんなに言うならしてあげてもいいよ。でも今の言い方じゃダメ。好意があるじゃ、どういう好意かわかんないし。もう一回ちゃんと好きって言ってくれたら、してあげる」


 確かに好意という言葉は男女としてのそれなのか、人としての気持ちなのか曖昧だ。きちんとした形の告白を求められる。酷く不愉快げな口ぶりでそこを誤魔化すなと。手厳しいが、言われると最もだった。

 俺はたたずまいを直す。正確に思いを伝えたい。しかし、改まると余計緊張が増していく。これまでしてはこなかったことをする。どう口火を切ればいいか躊躇いは強くあった。それでも、紫の顔を見ているとこみ上げてくるものがある。


「好きだ」


 音にしてしまえばそれまであった緊張が嘘のようにすーっと消えてしまう。ああ、俺は、これを言いたかったのだと感じられて無性に泣きたい気持ちになる。悲しみからでも辛さからでもない。嬉し泣きというものは存在するのだ。人は満たされると泣きたくなる。紫から色よい返事が聞けたわけでもないのに、何を浮かれているのだと笑われてもいい。俺が紫を好きでいる。その気持ちに安堵していた。それを言葉にできたことが途方もなく嬉しかった。


「好きだ」


 そして、繰り返す。

 これから、何度だって。


「お前が、好きだ」


 ずっと。紫が俺を思ってくれていた年月と同じだけ。そして今も。とても――とても好きでいる。







 日曜日。田島屋の勝手口の傍に立っていると中から会話が聞こえる。


「紫、それはいいから早く支度しなさい。若をお待たせするんじゃありません」


 紫の母・洋子さんだ。


「どうしてよ。いつもは手伝ったなら最後までしなさいって言うじゃない。約束の時間にはまだ早いの。勝手に先に来て待ってるんだから、待たせておけばいいじゃん」


 それに憤る紫の声。以前であれば言わなかったようなことを言う。


「そんなこと言って、愛想つかされても知らないからね」


 筒抜けのやりとりに苦笑いが浮かぶ。

 あの告白の後、元鞘に戻れるのではないかとひそやかに楽観したがそんなにうまくはいかなかった。せめて合鍵は持っていてほしいと言ったが(付き合うことになる以前から持ってくれていたわけだし)それも拒否される。俺は泣く泣く持ち帰った。

 そして、現在――紫の恋人候補の一人としてアプローチ中の立場にいる。俺はそのことを周知させた。これまでのようにこそこそするのではなく、俺がいかに真剣な気持ちかを伝えるためにとしたことだが――みな、驚いた。紫が俺を追いかけていると思われていたから、いつのまに立場が逆転してしまったのかと興味津々に聞かれた。俺は話しても構わなかったが怒り狂う紫に止められる。


「余計なこと言わないでよ!」

「別に隠すことはないだろう」

「べらべら話したら、みんなにいろいろ言われて、付き合わないわけにいかなくなるじゃん!」

「それなら付き合えばいいだろう」

「イヤ。今度はちゃんとじっくりいろんな人を見て、自分に合う人と付き合うって決めてるんだから」


 紫を意固地にさせる結果に終わった。

 だが、それもよくよく考えれば頷ける。紫は俺とのことを誰にも言わなかった。周りを巻き込んで味方をしてもらう――そうしたいと思いながら実行に移さなかったと言っていたが俺はそれをした。禁じ手を犯してしまったのだと言ってから気付いたが文字通り後の祭りだ。誠実さを示すためだと思ったが真逆の効果になるとは。

 しかし、そうは言うが紫は毎週末俺と会ってくれている。他の男とデートしている様子はない。


「もう、わかったよ。行くよ。行けばいいんでしょ。夕食前には戻るから。行ってきます」


 紫と洋子さんのやりとりは洋子さんに軍配があがったらしい(俺としては両親が後押ししてくれるのはありがたい限りだ)。少しして、紫が勝手口から出てくる。 


「紫」俺は名を呼ぶ。


 時間より早く出てきてくれたのはいいが、あまり嬉しくないことも聞かされた。


「夕食も一緒に食べるのではないのか」

「昼食を一緒に食べるんだから、夕食は食べないよ」


 デートで二度も食事はしないものなんだよ――とそれはどこで仕入れた情報なのか告げられる。昼を食べて、映画を見て、その後、家でのんびりして夕食を食べようと思っていたのに、その前に帰ると言われると寂しく感じられた。


「夕食に紫の手料理が食べたい」

「どうして私が手料理を作らなくちゃいけないのよ! 付き合ってるわけでもないのに」


 すぐさま紫の反論がある。

 知っている。手料理を作るのは紫にとって恋人への振る舞いだ。


「久々に、お前の手料理が食べたい」

 

 だが、俺は懲りもせず繰り返す。

 紫の目を見る。紫もまた俺を見上げてくる。不機嫌そうな顔ではあるが、紫が俺を見ている。その事実は嬉しいものであった。

 しばし、そうして黙ったまま見つめ合っていたが、やがて紫の方が大きなため息を吐き出す。それから、踵を返す。俺の言ったことが気にくわず帰るのかと一瞬どきりとしたが、勝手口に顔だけを覗かせると、


「お母さーん、やっぱり今日、遅くなるから夕食はいらない!」


 と大きな声で告げた。


読んでくださりありがとうございました。


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