04
長時間雨に打たれたせいか、翌日の体調は最悪で体は重怠く思考も鈍かった。
しかし、仕事を休むわけにもいかず出社し業務をこなす。頭が重いはずだが仕事には集中できた。普段よりも没頭した。そして疲れ果てて帰るが夜は眠れない。不調なところへ眠れずにいれば言うまでもなくどんどん具合は悪化していった。それでも仕事はこなした。何かで忙しくしていたかった。余計なことを考えないでいられるように。
そうやって過ごしていたが、金曜の夜、ついに限界を迎え熱が出た。
家に帰りつく頃、体はますます熱くなり視界がかすむ。早く横になるのが賢明だ。風邪薬を飲みベッドに入る。あれほど眠れずにいたが、薬には睡眠効果があるのか、目を開けていられないほどの眠気に襲われ俺は意識を手放した。
ピンポーン。
ピンポン、ピンポン、ピンポン。
やかましく連打されるインターフォンが頭に響く。俺はゆっくり起きあがり時計を確認した。二時半過ぎ。それが夜中なのか昼なのか一瞬判断つかなかったが、カーテンから漏れてくる光が見えて午後二時だと理解する。昨夜帰宅したのが九時前で、あれからずっと眠っていたとしたら――ざっと十七時間眠り続けた計算だ。人間寝溜めは出来ないと言うが、そうでもないらしい。
ピンポン。ピンポン。ピンポン。
のそのそと起きあがっている間もチャイムは執拗に鳴らされ続けている。一度、或いは二度、多くて三度押して出なかったら不在だと判断して帰るのが大方だと思われるが――その行為の主は、俺が家にいるとわかっているとでも言いたげな、さながら借金取りの督促を彷彿とさせる執拗さで押し続ける。
無視したかったが出るまで帰りそうにないので仕方なく出ることにしてベッドから這いだす。
「はい」
インターフォンを押して相手を確認する。
「高倉です」
帰ってきたのは野太い男の声だ。この部屋を訪れる人間は決まっている。そのうち一人が来なくなったのだから、誰かは予想できていたが案の定の人物にため息が漏れる。
今、この男の相手をしている余裕はない。それでも追い返すわけに行かず、玄関に向かう。扉を開けると開口一番に、
「ひどい顔ですね」と笑われる。
「何の用だ」
「今日会う約束をしていたでしょう」
言われてはっとなる。完全に忘れていた。
「すまない」俺は謝罪する。高倉は呆れたように、
「時間に几帳面な貴方が約束の場所に来ない。携帯に電話しても出ない。一体何事かと紫さんに連絡してみたら『蓮司さまとは別れた』と言われました。ショックのあまりどうにかなってるのかと思って来たんですよ」
俺と紫のことを高倉だけは知っていた。付き合い始めてから一度、紫がいるときに俺の家にやってきたのだ。
「なんだかこれまでと雰囲気が違いますね」
部屋に上がってほどなくぽつりと言われた。そんな素振りは見せていないし、何も変わっていないと思うが高倉曰く何かが違うらしかった。だがそこで言葉を止めた。みなまで言うほど無粋ではないということらしい。それに対して、俺も紫も何も言わなかった。否定も肯定もどちらも。だからハッキリと付き合っていると告げたわけではない。
「……お前、まだ紫の連絡先持ってたのか」
紫が大学受験のとき、高倉が何度か家庭教師をしていたのは知っている。偶然ばったり道で会ってそのような話になったらしい。俺を介することなく二人でやりとりをしていたと知り驚いたが、それ以降は特に二人きりで会ったりしていないはずだ。それでも、あれから三年近く経つというのに紫のアドレスを残しているのか。
「ええ、年末年始の挨拶メールぐらいはやりとりしてますから」
「……そんな話、聞いていない」
言えば、高倉は肩をすくめた。それから、
「とりあえず、早まった真似はしてないみたいでほっとしました」
「紫と別れたぐらいでどうにかなったりはしない」
わざとらしく安堵する高倉に俺は憮然と言った。
「寝込んでいるのに?」
「これは風邪だ。紫は関係ない」
しかし、高倉は全く信じない。
「話は後です。部屋に入れてください。寒すぎて僕まで風邪引きますから」
半ば強引に上がり込んでくる。それに今度は俺がわざとらしくため息を吐き出した。
高倉は食卓のテーブルに持っていた紙袋を置く。それから手袋とコートを脱いで椅子にかけると「昼ご飯まだでしょう」と台所に立った。持参した紙袋から箱を取り出す。餃子と焼売が入っている。それを勝手知ったると棚から皿を出し綺麗に並べレンジにかける。
今日は駅前に出来た中華店で昼飯を食べる約束をしていた。
高倉はグルメで新しい店が出来たらチェックを入れる。彼女がいる時期は彼女と出向いているようだが近頃別れたらしく俺に声がかかった。男同士で真昼間からランチなどむなしくなるが、俺を誘えば紫がついてくる。むさくるしさが回避されるという魂胆だったのだろう。
「なかなか美味しかったので、お土産に」
「……食べてきたのか」
待ち合わせは十二時だった。今は二時だ。そういうことだろう。
「予約していましたから。せっかくだし、紫さんと」
「紫はきたのか」
「ええ」
待ち合わせの時間になっても現れない俺にしびれを切らし電話したが出なかった。次に紫へ電話したら俺とは別れたと告げられて驚いた。そのまま呼び出し二人でランチを食べた。そのあと高倉はここへ来たが紫は来なかった。
一連の流れを頭の中で思い描くと苦々しく思う。
「のんきなもんだな」
「貴方は別れたショックで寝込んでいるというのにね」
俺の言葉に高倉は平然と答える。
「さっきも言ったが紫と別れたから寝込んでいるわけじゃない」
「ならそんな嫌味を言わないでください」
「嫌味など言っていない」
チン、とレンジが鳴る。
高倉は布巾で器用に皿を取り出してリビングまで運んでくる。そしてテーブルに置いた。
「割り箸でいいですか。タレもこのままかけますね」
言った通り、俺に割り箸を差し出し箱についていたタレの袋を手に取ると切込みから破り上からかけた。
「どうぞ。紫さんもさっき食べてた餃子です」
「……お前の方が余程嫌味だ」
言うと高倉は笑った。
昨日帰宅して泥のように眠り十七時間何も腹に入れていない。風邪を引いている状態でこんなむつこい物をと思ったが、強烈なニンニクとニラの匂いに負けて一口頬張る。中身は熱すぎず冷たすぎずちょうどよい塩梅に温められていた。
「どうですか。美味しいでしょう」
「ああ」
一口、二口と食べ進めるが、四つ目を口に運ぶと胃にくる。体調が弱っていた上に、空きっ腹に濃い味のものを入れれば気持ちも悪くなる。俺は立ち上がり冷蔵庫を向かう。ミネラルウォーターのボトルを手にしたところで、そういえば高倉に何も出していなかったことを思い出す。
「何か飲むか。コーヒーと紅茶があるが」
棚にあるインスタントコーヒーの粉と、隣に並ぶ紅茶の茶葉を見て告げる。俺はコーヒー専門だが、紫は苦いと好まず(たっぷりミルクを入れてカフェオレにしなければ飲めない)代わりに紅茶を買ってきた。アールグレーの茶葉だ。
「僕は結構です」
高倉は答える。遠慮するような間柄でもないので本当にいらないだろうとは思うが、俺はもう一つコップを出して水を注ぎ高倉の前に置いた。
座ると箸を取ったが、いざ手を伸ばそうとするとこれ以上食べる気にはならなかった。箸を置いて代わりにグラスを持ち水を一口飲む。ゴクリと喉が鳴る音、グラスをテーブルに戻す音、それから時計が秒を刻む音――些末なものが大きく響く。部屋が静かである証拠だ。
高倉は饒舌なタイプではないが無口なタイプでもない。つつがなく淀みなく会話が展開される。だが、今日はどういうわけか黙っている。まるで、俺が口火を切るのを待っているようだ。夫婦喧嘩は犬も食わぬ(俺と紫は夫婦ではないが)。男女間の機微について言われもしないのに口を挟むのは無粋であるということだろう。俺が同じ立場でもそうすると思うが――しかし、紫に会ったとまで言っておきながらそれ以上は何も言わないというのも意地が悪い。
「……――それで、何か言っていたか」
テーブルの皿には餃子が五つ残っている。俺が食べて空いた場所にタレが流れて溜まっている。ラー油の赤の中央に油の水玉が浮いてある。
「貴方が見合いをすると聞きました。見合いをして、その方と結婚するから別れたと。本当ですか?」
「ああ」
「そうですか」
高倉はグラスに触れた。持ち上げて、だが飲むことはなくコトリとまたすぐ置く。
「他に何か言っていたか」
「いいえ、それだけです。今日は無口でしたよ。話していると、ふっとした瞬間に貴方の名前を呼びそうになって、その度にはっとして黙り込む。そんなこと繰り返してましたよ。紫さんにとって貴方の話をすることは空気みたいなものだったのでしょう。無意識にこぼれそうになる。それを誤魔化してる姿に、見ているこっちが辛くなりました」
俺はチラリと高倉を見る。
息を吐き出しながら小さく笑う姿が目の端に映る。優しげな、それでいて寂しげな表情だった。
「僕は、結構好きだったんですよ。紫さんが貴方の話をするの。人の惚気話なんて聞いていてそんなに面白いものじゃないですけど、紫さんがする貴方の話だけは例外でした。人ってこんなにも人を好きになれるもんなんだなぁと思いました。でも紫さんにとってはそんなこと少しも凄いことではなくて当然みたいに思っていて――だけどあれは一種の才能です。掛け値なしに誰かを好きになるなんて、早々出来ることじゃないですから。みんな、自分のことが可愛い。好かれたり、ちやほやされたい、そういうことを考える。自分が相手を好きだって気持ちよりも、そっちの方に目がいってしまう。狡くなるものです。だけど、紫さんは真っ直ぐだった。真っ直ぐ、猪突猛進で貴方に向かって行ってましたよね」
「……それは紫が子どもだからだ」
「子ども……そうかもしれませんね。だけど、子どもで居続けることは難しい。生きていれば嫌なことがある。辛いことも、傷つくこともある。心が痛む現実を回避する方法を覚えて大人になって行く。そして、それは大事なことでもある。けれど、時にそれは弊害を生みますから。人を臆病にさせる。臆病さは大事なものを遠ざけさせる」
高倉の含んだような物言いが、ざわりと俺を嫌な気持ちにさせた。
「何が言いたい」
「本当は紫さんのこと、どう思ってたんですか」
先程までの柔らかな表情から一転、真面目な顔で問われる。遠回しはやめろと言ったのは俺だが単刀直入すぎる。間というものがない。
「見合いするから別れるって言える程度の気持ちで付き合ったんですか。あれだけ貴方を好きでいた紫さんを、その程度しか思っていないのに受け入れたんですか――いつでも切り捨てられるって思っていたんですか」
貴方の言い分が聞きたい――紫からの話だけではなく俺からの話も。高倉の考えていることはわかる。人と人の関係にはどちらか一方の話だけでは理解できないことがある。何がどこでどうすれ違い別れに至ったのか。それが誤解であるならば元に戻せないか――高倉は俺と紫が別れることに賛成ではないのだ。
「別にそんなこともうどうだっていいだろ。全部終わったことだ」
だが、俺は言った。
紫のことはもういい。今更どうしようもない。
「投げやりですね」
「投げやりじゃないさ」
「投げやりでしょう。このままじゃ、紫さんに自分の気持ちをわかってもらわないままなんですよ。誤解されたままでいいんですか」
「別に誤解なんてされていない」
「されているでしょう。紫さんは貴方に好かれてないと思ってる。自分がただ好きでいただけだと。それは誤解でしょう」
「それが事実だ」
紫は言った。――俺が紫を引き止めたのは失うことが嫌だっただけ。別に好きだからではない。改めて考えてみるとそうかもしれないと思う。紫の告白を受け入れたのも、これまで傍にあったものがなくなると怯えたにすぎない。俺は焦った。目の前からいなくなると気づけば引き止めてしまった。ただ寂しいから――それは真実である気がした。
「俺は紫の好意を利用していただけだ。それをわかっていながら紫は俺と一緒にいた。俺のさもしさを見透かされていたのかと思うとある意味では屈辱だな」
言葉にすると胸が疼く。ずっと、俺は紫にそのように見られていたかと思うと消えてしまいたかった。
「貴方、馬鹿ですか」
ところが、高倉は呆れ返ったように言った。
「確かに貴方の態度はそう誤解されても仕方ないと思いますよ――……だけど違うでしょう。そうじゃない。貴方はちゃんと紫さんを好きでいた。なのに、この期に及んでまだ隠すんですか。それとも本気でそう思ってるんですか。だったら大馬鹿ですよ。いい加減、自覚してください。素直になるべきです」
「お前こそ、何を勘ぐっているか知らんが、俺は充分素直だ」
「そうですか。ならどうして、僕が紫さんに連絡してることに腹を立てたんですか?」
「何の話だ」
「とぼけないでください。さっき、玄関で、僕が紫さんへ連絡して昼を食べたって言ったら、貴方は真っ先に何を気にしました? 僕が紫さんの連絡先をまだ持ってると不機嫌になった。自分の預かり知らぬところで僕と紫さんがやりとりしてるかもしれないって嫉妬したんでしょう。不愉快そうな顔して独占欲丸出しで、それで好きじゃないなんてよく言いいますね」
「恋人が別の男と連絡しているのはマナー違反だろう。紫もお前もな。だから不快に思った。それだけの話だ」
「マナー違反ですか。では、三年前はどうです。偶然ばったり紫さんに会って家庭教師をすることになった。その頃、貴方はかなり多忙だった。紫さん、言ってましたよ。平日は残業続きで遅くなるから家に行っても会えないことが多いし、休日も疲れているから顔だけ見てすぐ帰ってくる。本当は勉強でわからないところがあるから教えてもらいたいけど、会いに行くだけでも迷惑がられてるのに、そんなこと言ったらきっと出入り禁止にされる。当分、行くのも控えようかなぁって考えてると。それを見ていると可哀想になって、せめて僕が勉強を見ましょうと提案しました――だけど、それからすぐ家庭教師はお役ごめんになった。貴方がすることになったから」
「ああ、紫のことでお前に迷惑はかけられないからな」
「ですが、あの頃はまだ貴方と紫さんは恋人同士でもなんでもなかった」
「恋人ではなかったが、紫は昔から知る妹みたいなものだからな」
「違う。そうじゃない。紫さんは自分のものだから他の者に気を許していると知って我慢できなくなった。貴方は紫さんを好きでいて、とても大切に思っている。誰にも渡したくないと行動しただけです」
「それはお前の妄想だ」
「違います。貴方は紫さんが好きなんですよ。だから時間を作り紫さんに付き合った。ただ自分本位な気持ちで好意を利用しているだけならそんな真似はしない。大変な時期にあれこれ言ってこなくなれば助かると思うだけです。そしてまた、自分に余裕ができて寂しくなれば言い寄っていく。でも、貴方はそうじゃなかった。自分以外の男は近づけさせたくなかったんですよ。それがわかって、僕は安堵した。来る者拒まず、去るもの追わず。こと色恋に関しては誰のことも好きにならない寂しくて残酷な人だと思っていましたけど、紫さんに対しては違う。貴方が人並みにそういう気持ちを持っていることを喜んだ」
人から自分がどのように見られているか。それを知る機会はあまりない。しかし、ここのところ連続して聞かせられている。紫からも言われたし、高倉からも。そしてそれはどちらも俺を揺さぶる。
「馬鹿らしい」
しかし、口から出たのは吐き捨てるような台詞だ。
「……何が馬鹿らしいんですか」
「仮にその話が事実だとして、それがなんだ。俺が紫を好きでいたとしてもどうしようもない。俺は見合いをして結婚する。もうこれは決まったことだ」
「ええ『決まったこと』です。貴方が『決めた』ことじゃない。結婚し将来を共にする。そんな重要な決断を貴方は自分では何一つ決めずにいる。誰の人生ですか」
「世の中、自分の意思だけで決められることばかりじゃない。仕方ないだろう」
「仕方ない、ですか。……ええ、そうかもしれません。仕方のないことはたくさんある。どうにもならないことは山ほどあります」
高倉の言葉はいつになく重たく響く。
仕方ないことを身に染みて知っている。育った環境というどうにもならない理不尽さに誰よりも苦しんできた。その上っ面ではない芯から発する強さが俺を捉える。
「ですが、少なくともこれはどうにもならないことではない。思う相手が心にいるのに別の相手と結婚など出来ないと家を出る人間もいる。たとえそれで傷つく人間がいようとも」
それでも、俺は頷くことは出来ない。
「……そうだ。俺の両親のようにな。そして若くして不慮の事故で死亡し、残された子どもは勝手をして飛び出した家に引き取られた。それなのにまた俺が同じことを繰り返すわけにはいかない。そんな真似が出来るはずがないだろう!」
ドンっと右手でテーブルを叩いた。威嚇するような行為をとるつもりはなかったのに押さえきれず体が動いた。
空気がひんやりと凍る。
高倉は俺の態度に怯むことはなかった。
「ご両親のことはお気の毒に思います。それで貴方がどれほど傷ついたのかは僕の想像も及ばないことです。ですが、それは事故です。罪の制裁でもなんでもない。不幸な事故だった。そのことで貴方が罪悪感を感じることはないし、自分を犠牲にすることはない。そんなこと、貴方のご両親だって望んでないでしょう。月並みの言い回しですが、親は子どもが幸せならそれが一番だというのは真実だと思います。貴方が本当に大事な物を誤魔化すのはやめてください。無駄だなんて思わずに掴みに行ってください。たとえぶつかることになっても。でないと、結局は誰も幸せになんてなれない――それぐらい本当はわかってるんでしょう」
それからしばらく高倉は黙って座っていたが、俺が何も言わないでいると、
――あとは自分で考えることですね。
一言、そう告げて帰って行った。
一人きりになった部屋はやけに広くそして冷たく感じられた。
ガランとした風景。この部屋はこれほど暗いものだっただろうか。まるで見知らぬ場所のように感じられる。大学から十年以上も暮らしている部屋だというのに酷く他人行儀なものに思えて仕方ない。
何がそうさせているのか――俺はそれを知りたくはなかった。だからこの一週間、帰宅してもリビングに長居することはやめていた。気付いてしまえば、嘘をつけなくなる。そうなれば辛くなる。知らないでいる方がいい。だがそれを許さないとえぐられた気分だった。
リビングのソファに腰掛け、両肘を背もたれに置いてゆっくりと後ろへ身体を倒し目を閉じる。真っ暗になった視界がやがてぼんやりと白く揺れて浮かび上がってくるのは懐かしい記憶。
『れんじさま~。』
舌足らずでイントネーションも独特であるから紫が俺を呼ぶ声はどこにいてもわかった。大きな声で俺の名を呼び続けるものだからいつも慌てた。店の迷惑になると黙らせようと近寄る。しかし、紫の顔を見ると毒気を抜かれてしまい怒れなくなる。
駆け寄ってくるので抱き上げると小柄な体だがずしりと重い。体温も高くぎゅっと首に抱きつかれると不思議とほっとする。紫は俺の傍でころころ笑い、わんわん泣き、きりきり怒り、そして朗らかに喜びにぎやかだった。一人百面相のように忙しい紫がいると俺も忙しい。ふさぎ込んでいる暇などなかった。命が俺の手の内ではしゃいでいるように思えて切ない気持ちになった。一人で静かにしていた。そう思っていたはずが、学校から帰れば紫と過ごすのが当たり前になり、時が流れ続けた。
俺を照らしてくれる紫の明るさが寂しさの頼りになっていく。最初。始まりは間違いなくそうだった。俺に懐き一心に追いかけてくる好意がくたびれた心を和やかにしてくれた。
だが、それだけでは終わらない。紫の存在は次第に別の趣を見せるようになる。
時が移ろい、幾重も季節が巡り、少しずつ、育まれていくもの。一度は真っ黒に塗られた世界が再び色をつけはじめる。あまりにも自然であったからまばゆいと抵抗することなく、大事だと自覚することもなく、しかし確実に俺の世界を変わっていった。それはもう寂しさを紛らわせるとか、一時の慰めに身を委ねているなどいう刹那的な儚いものではなくて、もっと強靭で鮮やかな。
『蓮司さま。』
今もありありと聞こえてくる声。
何もいらないと誓いながら、気づかぬうちに心が求め確かなものになっていく。抗うことも出来ず、どうしようもなく大切になってしまっていた。
だが、俺はそれを素直に受け入れることが出来なかった。
繰り返される日常の当たり前のように与えられる微笑みに応えずにいる自分が、本当は何よりもはがゆくてたまらず、それでもどうしても言えなかった。あの朗らかな笑顔に、言いたかったことは何一つとして告げなかった。怖かったから。失うことが恐ろしかった。もう二度と辛い思いをしたくない。だから俺は自分の心に生じた変化をやりすごそうとした。そうしていても柔らかな温もりは俺の傍にあり続けた。
ところが、光は再び遠くへ消える。
臆病風に吹かれているうちに、時間切れだと灯りは吹き消された。
――行くな。
たった一言が言えないまま、それどころか俺はまだ現実を直視せず、事実から顔を背けた。言い寄ってくるから都合よく扱っていただけと、それが真実であると思い込もうとした。このまま時が過ぎて何もかもが遠くへ流れて行けばいい。取り返しがつかなくなるほど手の届かないものになれば、諦めるしか他にどうしようもなくなれば、背を向けて生きて行くことは出来る。俺はその方法をよく知っている。そうして何もかもを飲み込んでしまえばいいと。だが、本当は。
――紫。
大切だった。何より大事だった。かけがえのない――紫は俺の世界だった。
それを、そんな重要なことを、どうしてこれまで。
熱い。身体中が熱くて仕方ない。熱は喉を焼く。飢えて干からびたようにカラカラと鳴る。水分を求めてさまよう砂漠の旅人のように欲し、漏れ出る嗚咽が更なる飢えを引き起こす。一方で、目頭の熱さは涙を促す。欲しいところに与えられず、欲しくないところに巡る。そんな皮肉を思いながら、視界を膜のように覆い風景を歪ませる涙によってガラス破片のように細切れに分けられていく世界。それが瞬きをするたびにぼろぼろと崩れ落ちはがれていく。痛みと苦しさと悔しさと、そして、見えてくるのは真実だ。同時に押し寄せてくる己の卑怯さと狡さ。
結局、俺は逃げてきたのだ。すべてから。
失った衝撃にばかり目を向けて少しずつ大切なものができていたことを認めず逃げてきた。
紫のことも、それから――田島屋のことも。
祖父には恩がある。俺を引き取ってくれた。勝手して家を飛び出した母。祖父を裏切った母。その子である俺を憎まず恨まず育ててくれた。その恩を返さなければと、それが俺の役割であると思ってきた。――でもそうではない。本当は恩や義理なんかではない。祖父もまた、俺にとってかけがえのない家族となっていた。田島屋は俺の家だ。それを守りたかった。だから後を継ぐことにした。俺が。この手で。ただ、それだけのことだった。
紫も田島屋も、どちらも大切で――だが俺はそう思う心を、懐いてくるだけと、恩であるからと、そんな言い訳をしてきた。どちらも必要としていたのに、欲しいとも言わず、そのための努力もせず、そのくせどちらも手に入れたいと、手に入れられるのではないかと自惚れていた。このままこうしていれば、田島屋を継いで紫と結婚することになると。だが、その前に祖父が見合い話をもってきた。紫か、田島屋か。どちらかを選ばなければならなくなった。
俺は慌てた。泡を食った。どうすればいいか。
だが、俺は考えることをまた先に延ばそうとした。そうしている間に、先に紫が結論を出した。俺はそれに呆然として腹を立てふてくされ、ならば好きにすればいいと子どものような態度に出た。紫が決めたのだからそうするとまた狡い言い訳で自分を誤魔化そうとした。
だが、本当は俺は。俺は、
――紫に、会いたい。
もう手遅れかもしれない。愛想を尽かされて今更なのかもしれない。それでも会いたい。ただ、会いたくてたまらない。顔が見たい。傍に行きたい。言わずにいた言葉を伝えたい。このまま、誤解されたままで、何も言わずにいられない。
――紫だけは、失えない。失いたくない。
浮かんだ言葉はストンと心に落ちてくる。パズルのピースがあるべきところへ納まるように、少しの違和感もなく、居心地の悪さもなく、ピタリと。そしてそれは、俺に欠けていたすべてを蘇らせてくれる気がした。
願いを抱くこと、それを叶えるために立ち向かうこと、自分の人生を生きること――たとえそれで周囲の人を傷つけたとしても、誰かの期待に添うことができなくとも。それを自分に許したいと思った。本当は他の誰でもなく、俺自身が自分に許してやりたかった。
目を開ける。握りしめた拳が震える。かつて、この手に誓った願い。今度はそれとは反対の思いを抱くことが滑稽にも思える。それでも願う。強く。強く。
読んでくださりありがとうございました。
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