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前途は洋々  作者: あさな
3/6

03

 紫が俺の部屋を飛び出してから一週間が経過した。

 その間、一度も連絡はなかったし、俺からもしていない。時間が経てば感情も落ち着く。三日もすれば機嫌も直り何食わぬ顔でやってくると考えていたが予想は外れた。

 さて、どうするか。もう少し待ってみるか。それとも連絡を入れるか。

 いつまでも引っ張る内容ではない。携帯電話にかけてみた。日曜日の夜七時過ぎ――普段なら俺の家にいる時間、自宅でふてくされているはずだ。

 呼び出し音が七回鳴ると留守番電話に切り替わる。

 故意に出ないのだろうか。

 怒りが静まっていないにしても無視するというのはいかがなものかと思う。そういう態度をとるなら好きにすればいい。

 携帯をテーブルに投げ出して台所へ向かう。冷蔵庫を空けるとガランとしている。

 紫が台所に立つようになってから食事のことは任せてある。毎週日曜日、考えてきた一週間分の献立の買い出しにいく。しかし、先週は来るなり見合い写真を見つけて飛び出していった。この一週間、俺は外食ですませている。料理が出来ないわけではない。自炊しても構わなかったが、紫が来たときに勝手に買い込んでいると怒り出すかと思って空けたままであった。

 唯一買い足したミネラルウォーターを取り出しコップに注いでいるとテーブルに置いた携帯がゴツゴツと振動している。並々と注いだコップを持ち上げ飲み干してから向かう。

 携帯を取り上げると画面にはメール受信の表示。開くと紫からだった。


 件名

 本文 外にいるから電話出られない。

    何か用ですか?


 いつもなら顔文字を駆使して長々と送りつけてくるのに随分と簡素な内容だ。いや、それよりも七時を過ぎているというのに外にいる。それも電話に出られない状況というのは何なのか。俺はもう一度かけた。すると今度は留守番電話に変わる前にブチっと切れた。


 件名 Re:

 本文 電話出来ないって言ってるじゃん。何?


 すぐさま、メールが来る。

 不機嫌そうだ。文面から伝わってくる。


 件名 Re:Re:

 本文 こんな時間まで家にも帰らず何をしている。今どこにいる。


 送り返す。

 五分。それから経過するが返信がこない。メールも返せない状況になったのか、無視しているのか。


 件名 

 本文 何をしている。連絡をしろ。


 送りつけると、しばしして今度は電話が鳴る。受話器あげるのボタンを押すと喧噪が耳に飛び込んでくる。騒がしい場所にいるらしい。


「もしもし」


 紫の声がするが聞き取りにくい。


「……どこにいるんだ」

「飲み会だよ。コンパ。何? 何か用事?」


 飲み会――のんきに飲み会、それもコンパに出ている。


「お手洗いに行くって席外してきたんだから、用があるなら早く言って」

「何を考えてるんだ」

「何って?」

「こんな時間まで家に帰らず、何を考えている」

「……こんな時間って、まだ七時過ぎじゃない。何をそんなに怒ってるの?」

「怒ってなどいない。呆れているんだ」


 それだけ言って電話を切った。

 プープープーと冷たい機械音が聞こえてくる。

 あれから落ち込んでいるのかと思っていたが、落ち込むどころかコンパに出ている。コンパとは親睦会のことだが使われ方としては男女が恋人を作るための会という意味合いだろう。俺が見合いをすることを非難しておきながら、自分はコンパに出席とは、どう考えても俺に対する嫌がらせ或いは当てつけなのだろう。そんな真似をするとは呆れ果てる。そこまで愚かな行動に出るとは。


――ならば、好きにすればいい。


 携帯をソファへ放り投げて寝室に向かう。クローゼットからコートとそれから鞄に入れてある財布を取り出す。紫が来たら、今日は外へ食べに行くつもりでいたが、その本人は今頃どこぞの店で楽しく過ごしている。夕飯も食べずにいたことが間抜けに感じられる。

 部屋を出てエレベーターで一階に降りる。エントランスを出て隣の公園を突っ切り十メートル程度進み右へ折れてすぐにコンビニがある。 

 蛍光灯の明るい店内。入り口の傍にあるオレンジ色の買い物カゴを手にして冷蔵コーナーに進む。五段あるうち、三段目までは総菜が密閉袋に詰められ並んでいる。四段目にはハムやスモークタン、チーズ。一番下には卵ともやし、フルーツ類がある。ざっと見渡し、ハムと鮭の切り身と卵ともやしをカゴに入れる。それから、インスタントコーナーに行きカレーやカップ麺の並びにあるレトルトの白米を買った。

 家に戻りテーブルに買い物袋を乗せる。ドサリと野暮ったい音がして雪崩のように袋からもやしが滑り落ちる。手にとって袋を開けようとするが、舌打ちが出た。

 食事を作る気も、食べる気も消え失せて、ベッドになだれ込むように横になって目を閉じた。

 しばらくそうしていても、気持ちは少しも落ち着かなかった。

 苛立っている。

 頭で考えた結論に心が満足していない。

 無視しておきたかったが、俺はソファに歩み寄り放り投げた携帯電話を手に取った。液晶画面に光が戻る。コンテンツの一覧表示のみで、真新しい情報はない。紫への電話を乱暴に切り上げた。自分でした行動の大人げなさに後味の悪さがある。

 もう一度、今度は携帯を持って家を出た。気乗りしないが、行かないのも気持ちが悪い。どちらの選択も選びたくはないが、足は勝手に動く。


 田島屋の裏にあるマンションの前の路上――車を停めて携帯を出した。家を出たときと何ら変化はない。

 アドレスのマ行から町山を探し出す。紫のものではない。町山家の電話だ。時間は午後十時前。夫妻はまだ店にいる時間。かけて出るのは紫以外にいない。遠回しな方法であったが家に戻っているかわかる。流石にもう帰宅していると思われたが。

 一コール、二コール、三コール。そして四コール目に入る直前、音がとぎれる。


「はい、町山です」


 普段より少し高い余所行きの声。俺に話しかけてくるときよりぐっと落ち着いている。


「紫か。俺だ」

「……蓮司さま?」


 たちまち不審げになる。


「今、マンションの下にいる」


 降りてくるようにと続ければ紫は黙る。沈黙は緊張の表れに感じられた。

 話を断絶させるように電話を切ったことが思い出された。紫にあのような振る舞いをしたことはない。俺を恐れているのか。怖がらせるつもりはなかったが、実際そうなってしまうと嫌な汗が流れる。


「紫。」


 だが、その後が続かない。さっきは悪かったというのも違う気がした。


「すぐ行くよ」


 それから少しして、短い一言のあと電話が切れた。

 喉元に右手をあてがう。緊張――それは紫のものが移ったのか、俺のものなのかわからない。

 助手席に置いた鞄をとり後部シートへ移動させる。そして、握りしめていた携帯をフロントのカゴに入れる。携帯入れとして紫が買ってきた物だ。つき合うようになってから助手席にいろいろ小物を置き始めた。


「ここは私の席だから、いいでしょ」


 そう言って笑う。笑いながら目の奥は静かだった。そうすることで他の女が乗ったとき「彼女がいる」とアピールする。いわゆる牽制――しかし、そんなもの無意味だと俺は言った。障害がある方が燃えるなんて人間もいる。逆効果だと。


「いいの。それでも”彼女がいる”って示せたら。蓮司さまには恋人がいるんだってね」

 

 紫は妙に寂しげだった。俺はそれを不可思議に思った。


 俺との関係を周知しないとは紫が望んだことだ。付き合い始めた当初、俺を好きだとあれほど言い続けたのだから、そこらじゅうに言いふらして歩いている考えていた。だから、告白を受け入れてから初めて田島屋に戻った日は相当の覚悟をした。しかし、俺の予想に反して紫は誰にも言わずにいたのだ。


「もう大人なんだから、いちいち言わないよ。だいたい、別れたとき気まずいじゃない。みんなに気を遣わせるようなことになったら嫌だしさ」


 先々のことを考えて言わない。紫にしては驚くほど合理的であり、最もな意見だが――聞かされて俺は冷や水を浴びせられた気になった。その言葉はすなわち、紫が、俺との別れを想像したということであったから――。

 あれ以降も、結局紫は誰にも言わないままであった。紫が言わないなら、俺も言わない。俺たちが恋人同士であることなど誰も知らない。紫は相変わらず俺へ一方的に思いを寄せていると思われている。それは紫が望んだことだ。

 だが、自分が相手であるとは告げなくとも、俺に恋人がいることは示したいらしい。それを寂しげに笑って言う姿は奇妙に感じられた。だが、紫は時々わからないことをする。俺はそれほど気にしなかった。


 コンコンと窓を叩く音。

 見ると紫が来ていた。助手席の扉が開き乗り込んでくる。


「何? 夜の遅い時間に外出するのはいけないんじゃなかったの?」


 最初の一音は白い吐息とともに出た。今夜はやけに冷える。

 紫は俺の方をチラリと見たが、助手席のシートに体を預けフロントガラスに顔が向いた。紫は常に俺を見てくる。車に乗っているときも、道を歩くときも、俺の顔を見上げてくる。それは昔からの癖だった。人にじろじろ見られるのは嫌なものだが、紫のそれを不快に感じたことはない。おそらく慣れだろう。ずっとそうされてきたのだ。だが今は、俺のことを少しも見ない。


「俺と会うのと、コンパとは同じか」


 シートベルトを外し俺の方が紫へ身体を傾ける。紫はまだ前を見たままだ。いつもとは逆の状態に何故か落ち着かなくなる。じくじくとした些末であるが痛みだとわかる感覚がある。

 紫は感情を抑えるためか唇を噛んだ。俺はその姿へ向け言葉を続ける。


「俺には見合いするなと言いながら、自分はコンパか。手前勝手な言動だな」 


 紫がようやく俺を見る。顔だけではなく背もたれから離れて身体ごと俺を向く。眼差しには猛々しい感情が宿っていた。


「あの時と今は違う」

「何が違う」

「違うじゃない。私たちは恋人じゃなくなった」


 告げられた言葉に洩れたのは笑いだ。すると、俺の態度が紫を刺激したようで、すっと顔色が変わる。怒りが溢れた。その怒りは激情とは違う。凍りつくような真っ青な怒りだ。


「おかしい?」

「おかしいだろう。別れ話もせず別れたとは。いつ、そんな話になった」

「私がもういいって言ったら、蓮司さまは引き留めなかったじゃない」

「引き留めなかったらそれで終わりか。お前の考える『付き合う』とは簡単に終わるものなのだな」


 俺は告げた。紫は何も言わず俺を見つめていた。いつもとは違う様子が今度は俺を刺激する。


「一度、言ったことはなかったことには出来ない。言葉は考えてから言え。俺がここで『そうか』と言えば終わるぞ。お前はそれで本当にいいのか」


 自分が言っていることがどのような結末を引き寄せるものなのか。わからせるつもりで脅した。


「うん、いいよ。だいたい最初から付き合っていたかもわからない感じだったし。もう、いい。終わりにしよう。きれいさっぱり、これでおしまい」


 ところが、これだけ言っても紫は態度を改めない。頑固なところがあるのは知っていたが、可愛げがない。


「付き合っていたかどうかもわからないなど、随分なことを言う」

「そう? でも事実でしょ。蓮司さまは一度も私を好きだと言ってくれたことない。デートだってそうだよ。私がデートしたいってお願いして、頼み込んで、それでやっと一緒に出かけてくれる。一回も、蓮司さまから誘ってくれたことないじゃない。付き合う前と、付き合ってからと、蓮司さまは少しも変わらなかった。子ども扱いされてた頃と何も。恋人って呼ぶようになっただけ。それで付き合ってるって言える?」


 紫の言うことは事実だ。俺の態度は変わらない。だが、それを不満に思っているなら言えばよかった。紫は俺に文句をつけることはなかった。

 こういうことはよくある。その場、その場で問題を解決させず蓄積させて、こらえきれなくなったら大噴火するマグマのように、何もかもをいっしょくたにして非難し始める。特に女性に多いと聞く。ため込んでいたものが出てしまえば気持ちもスッキリする。女のヒステリーには下手なことを言わず、エネルギーを放出させるのが賢いとも。


「だけど私は、それでもいいって思ってた。別に蓮司さまが私のこと好きじゃなくても、傍にいられたらそれでいい。元々、うまくいきっこないってわかってたし、先のない恋だと知ってたもの。それが――本当なら、二十歳の誕生日に告白して終わるはずだったのに思いもよらず恋人になれて夢みたいだった。すごく嬉しかった。ずっと長いこと好きでいたご褒美なんだって思った。だから、全然、よかった。よかったけど、やっぱり寂しかったよ。それに、いつまでもこんなこと続くわけじゃないってちゃんと知ってたし。苦しかった。夢みたいって浮かれながら、早く覚めればいいとも思ってた。蓮司さまの恋人でいることは、私にはとても贅沢で、そして残酷な夢だったんだよ」


 そこまで言うと、紫は右手で鼻をつまみ視線を外しフロントガラスを向いた。涙を堪えているのだとわかる。


「紫。」――口出しせず言わせたいだけ言わせるつもりが名を呼んでしまう。いい加減にしないかと言いたい。それを寸でのところで堪える。頑なになっている相手に怒っても余計に意固地になるだけだ。もうこの件でこれ以上長引かせる気はない。苛立ちは飲み込んだ。


「何をそんなに意地になる。見合いをすると言ったのがそれほど嫌だったのか。本当に結婚するわけじゃない。先方にどうしても会ってくれと頭を下げられた。店のお得意様にそこまでされて、顔を潰すわけにいかない。仕方なかった。それぐらいわかるだろう?」


 諭すように言った。子どもではない。自分を大人だと主張するならばわかるだろうと。紫は背けていた顔を俺に向けた。射抜くような強い眼差しが返ってくる。


「うん、わかるよ。とてもよくわかる。蓮司さまのことずっと見てきたもの、いっつもそう。いっつも全部『仕方ない』。蓮司さまは仕方ないに弱い。私と付き合ったのもそうでしょ。私がずっと好きだ好きだって言い続けたから、仕方ないなぁって付き合う気持ちになった。私、ちゃんと知ってるよ。だから、今度だってそう。仕方なくお見合いして、そしたら今度は仕方なく結婚することになる。そして、その仕方ないに私は勝てない」


 一息に言ったが静かな声だった。先程からずっとそうだ。紫は喜怒哀楽が素直に出る。ところが今は感情が見えない。怒りに任せてとか、悲しみが堪えきれずまくし立てたという雰囲気はなく、静かで淡々とした声音。わーわーと騒ぐと少しはしおらしくできないのかと思うこともあったが、見慣れた態度から遠い姿に俺は躊躇いを覚えた。言われた内容も酷いものだ。


「それもまた随分な解釈だ」


 それでもかろうじて返す。動揺を悟らせるわけにはいかない。いい年をして無様な真似は出来ない。


「でも本当のことだよ。私、頭は悪いけど、蓮司さまのことはちゃんとわかるよ。蓮司さまが何を考えているか、わかる。ご隠居の薦める人と結婚して、田島屋を継ぐ。本当なら、蓮司さまのお母さんがしていたことを、蓮司さまが代わりにする。それが恩返しで、自分がするべきことだって思ってる。そうでしょ? だから蓮司さまはこのお見合いを受け入れる」


 紫は熱を持たないまま続ける。

 俺は言い返すことも出来ず、真っ直ぐな視線の前に居心地の悪さと心許なさを感じていた。

 紫の言うことは半分事実だ。俺は祖父が母に望んだことする。俺を産んでくれた母の罪は、子である俺が返さなければならない。だから田島屋を継ぐと決めた。それが育ててもらった恩にもなると考えてきた。だが結婚のことまでは――祖父からはこれまでこの手の話をされたことはなかった。今回初めて見合いを持ち込まれたのだ。どうするか考えねばならなくなった。だが、会ったからといって必ず結婚するわけではない。先方も実際に会って話してみればイメージではなかったと、俺を気に入らないと言うかもしれない。ひとまず会ってから考えればよいと思った。


「家を継ぐのと、結婚は別だろう。いくら祖父に言われたところで、俺の意思もある。言われるままに結婚など」「しないって言えるの?」


 言い終える前に紫が言葉を重ねた。


「無理でしょ、そんなこと。蓮司さまは義理堅い。そんな蓮司さまに恩のあるご隠居がお見合いを持ってきた。それを断われる? 無理だよ。絶対。他にどうしても一緒になりたい相手でもいれば別だろうけど。でも、蓮司さまにそんな人はいない。だって蓮司さまは自分で何かを掴みに行くことはしないもの。自分からは何も欲しがらない。失うのが怖いから、最初から望まない。そうでしょ。断る理由がないならお見合いを受ける。でも、そしたら私とは別れなくちゃいけない。だけど、蓮司さま私を突き放すことも、それはそれで出来ない。自分から掴みに行くことは出来ないし、何かを拒絶することもできない。でもそれじゃ、困るでしょ。だから私から別れるって言ったの。それなのに蓮司さまは私が簡単に言ったって笑う。酷い人だと思った。それだけじゃないよ。私が傍にいればお見合いの邪魔になるのに、離れると言えば今度は私に『蓮司さまの傍にいたい』って言わせようとしてる。きっと耐えられないんだね。蓮司さまは何かを失うことがとても嫌だから。だから、目先の苦しみを紛らわせるために私を引き止めようとする。でも、それは私を好きなわけじゃない。喪失を恐れる心がそうさしているだけ。そして、そのことに無自覚でいる。本当に残酷だ」

「……馬鹿なことを」

「何が馬鹿なことなの?」

「俺が何も欲しがらない? 失うのが怖いから最初から望まない? 精神科医にでもなったつもりか」

「精神科医じゃなくても、見ていればわかる。蓮司さまは、手に入れたものを失うことが怖い。奪われることが恐ろしいって考えてる」

「わかった風なことをいうな」

「わかった風なことじゃないよ。わかってることだ」


 紫の真っ直ぐな強い眼差しに濁った感情が浮かんだ。傷つき果てた色だ。俺には見せたことのなかった。だが、ずっと紫は傷ついてきた。


「『どうせ潰してしまうなら作らない方がいい。意味がない』でしょ?」

「なんだそれは」

「蓮司さまが言った言葉だよ。覚えてない? 蓮司さまが田島屋に来てすぐくらい。私が庭で泥団子作りをしてたら、蓮司さま、私に言ったのよ――『どうせ潰してしまうなら作らない方がいいだろう。意味がない』って。聞いたときは『この人、何言ってるんだろう』って思った。だけど、妙に忘れられなくて時々思い出すの。どうして忘れられないんだろうって考えてたけど、ある日気づいた。それが蓮司さまの世界なんだって。蓮司さまは失ってしまうならいらないって思ってる。それは蓮司さまが失ってしまったからでしょ。奪われてしまったから。家族を。もうあんな悲しい想いはしたくない。奪われるくらいなら最初からいらないって考えてる。そう思ったら妙に納得した。蓮司さまの態度のすべてが腑に落ちた。ああ、そうか。だったら私は、――私が、そうじゃないものになろうと思った。どこにもいかない、ずっと傍にいる。それを信じてもらえたら、そしたら蓮司さまの悲しみが少なくなるんじゃないかって。自分の手でもう一度何かを掴もうって思うんじゃないかって。……だけど、結局ダメだ。私じゃダメだった。そんなことできっこなかった」


 紫はまた視線を外した。涙は、意地でも見せないつもりらしい。そして、その態度から何かを、俺と話し合おうとか、わかってほしいとか、そういうつもりで話をしているのではないとわかる。ただ、心に秘めていたこと、考えてきたことを告げている。もっと言うならば、話すつもりはなかったこと、話さずにいられればよかったこと、話してしまえば終わってしまうこと――言葉にすれば取り返しがつかなくなると理解しながら、その上で、今、俺に、告げている。

 紫が俺を見る。少し前にはあった感情がなくなり澄んだ目で俺を。


「蓮司さまのことが好きだった。本当に好きだった。もしかしたらこのままずっと一緒にいられるかも、なんて思ったこともあった。ひょっとして、みんなに言いふらして既成事実を作ったらうまくいくんじゃないかって考えたこともある。でも、それじゃ意味ない。私が無理やり押してうまくいったとしても、私が望んだから一緒にいてくれるだけじゃ、きっと私の心は寂しいままだ。今と一緒。私は蓮司さまに好かれたかった。だけど、蓮司さまは変わらない。自分からは動かない。私を選んでくれることはない。でも、それでも、私は望みを捨てられなかった。だけど、蓮司さまはお見合いを決めた。会うだけって言うけど、そんなの嘘。絶対断れなくなる。もし、断るなら会わずに断ってる。だって、相手からのお願いでお見合いするんだもの。相手は蓮司さまと結婚したいって思ってる人だよ。そんな人と会えば、尚更断りづらくなる。でも断らなかった。それはこのお見合いを受けるって意味なんだよ。それだけじゃない。蓮司さま『俺が見合いするのがそんなに嫌だったのか?』って言った。そんなの嫌に決まってるじゃない。自分の好きな人が、他の人と会う。そんな場所へ行くって想像しただけでも悲しくなる。それを、嫌だったのか? って。そんな風に言えるのは結局私のことをたいして好きじゃないからでしょ。蓮司さまは私が他の人と会っても平気だから、自分がそれをしても大丈夫って思えた。そういうことでしょ。あんな風に無造作にお見合い写真を置いとけるのも、私は信じられなかった。隠そうともしないなんて。だから私との関係はここでおしまい。もっと辛くなる前に別れる。蓮司さまも寂しいからって私を追いかけるのはやめて。そうじゃないと、蓮司さまが困ることになる。そうでしょ。それが全部だよ」


 そこで紫は言葉を切った。気を張ったような強い口調がふわりと緩む。


「私、ホントは今日、少しだけ期待してたの。会いに来てくれたって知って、追いかけてきてくれたのかもって。蓮司さまが私を好きだって言ってくれるんじゃないかって。でも、そうじゃなかった。私に『別れていいのか』と言っただけ。蓮司さまの意思じゃなくて私の気持ちを聞いただけ。それで私が嫌だって言えば仕方なく付き合ってくれるんでしょ。先は全然なくてもギリギリまで付き合ってくれる。私が望むから、そして離れていかれるのは寂しいから、そうしてやってもいいって。蓮司さまがしようとしてるのはそういうことなんだよ。だから、ああ、やっぱり駄目だと思った。蓮司さまは変わらない」


 落胆した眼差しには裏切られる寂しさが巡る。しかし、それもすぐに鎮まる。人は相手に少しでも期待する気持ちがあれば荒々しい感情が出る。だが、紫にはそういう感情は宿っていない。諦めてしまった人間の静けさと、そしてなんともいえない柔らかさがあった。


「でもね、私は後悔してないよ。悲しいばかりじゃなかったから。それまでにあった嬉しいことや楽しいことまでなくなるわけじゃないでしょ。ねぇ、蓮司さま、奪われるばかりが人生じゃないよ。手にできるものだってあるんだから。それをちゃんと掴んで幸せになって。いつか、蓮司さまも、失うとかそんなこと考えず、欲しいって掴みに行くものに出会えること祈ってる。……私が言いたいのはそれだけ。じゃあ、」


 バイバイ――紫が車を降りて行く。いつもであれば、俺が先に中へ入れと言っても聞かず見送ってくれる。バックミラー越しにいつまでも手を振る紫の姿があった。だが今は躊躇うことなく歩いて行く。思えば俺は紫の後姿を見たことがなかった。初めて目にする。それは終わりを意味した。

 そして、紫は一度も振り返ることなくマンションの中へ消えた。




 帰り道のことはあまり覚えていない。気づけば駐車場にいた。

 車を降りると雨が。音もない霧雨だ。駐車場からマンションまで徒歩五分はかかる。俺は歩調を早めることも、走り出すこともせず歩く。雨粒に打たれている感覚はないが髪や指先が濡れていく。肩を払うと水滴がはじかれた。


 どうしてこんなことになったのか。


 見合いをする。決められた場所で、決められた相手と会う。ただ、それだけの話だったはずだ。――いや、そう自分に言い聞かせたが本当はただそれだけでは済まないことを俺もわかっていた。

 紫が言うように、見合いをするということはその気があるとみなされても文句は言えない。最初から断る気ならば会うべきではない。相手にも妙な期待を持たせないで済む。しかし、俺は祖父に話を持ち込まれて否を言わなかった。会うことにした。会えば、結婚することになる可能性は高い。それでも会うことに。

 母は祖父の決めた結婚を厭い、父と駆け落ちをした。母が祖父にした仕打ちを、また俺がするわけにいかない。祖父を同じことで二度も悲しませるわけにいかない。それが育ててもらった恩である。俺はそう信じ、正しいことであると思った。だから見合いを。

 ならば、紫とは別れる必要がある。いずれはその話をしなければならなかった。その前に紫は自ら別れを切り出してくれた。厄介なことにならずにすんでよかった。

 そうであるのに、心は晴れない。俺は紫とこんな終わりを迎えたいわけではなかった。


――では、どうしたかったというのか。


 わからない。ただ、紫が別れを納得するとは思っていなかった。絶対に引きとめるだろうと考えていた。だから俺は会いに行った。紫の言い分を聞くため。――ところが、俺の予想したこととは真逆を言った。俺とは別れる。そうでなければ俺が困ることになるだろうと別れを受け入れた。俺はそのことに少なからず衝撃を受けた。そんな簡単に別れきれるものなのかと信じられなかった。本音は違うだろうと疑った。真実を言わせようとした。しかし、――酷い人。紫は俺に言った。


『目先の苦しみを紛らわせるために私を引き止めようとする。でも、それは私を好きなわけじゃない。喪失を恐れる心がそうさしているだけ』


 紫は俺が会いに行ったことをそう受け止めた。


――違う。


 俺はそんな狡い真似はしない。寂しいからと引きとめたわけではない。


『蓮司さまは失ってしまうことが怖い。それは奪われてしまったからでしょ。家族を。そう考えたら蓮司さまの態度のすべてが腑に落ちた』


 だが紫は更に続けた。聞かされて何と勝手な解釈をするのかと思った。ここまでくると呆れる。俺はうんざりした。だが、言葉はじりじりと俺の内側を揺らしはじめる。それは霧雨が雨粒の痛さを感じさせず、しかし確実に体を濡らし、水気を含ませていくのに似ている。気づけば俺は捕らえられ反論も出来なくなっていた。 


 自宅のあるマンションが見えてくる。その隣の小さな公園の前で足を止めた。入り口の傍、右側に一本だけ桜の木が植えられている。大樹ではなく、開花の時期もうっかりすると見過ごしてしまう。まして、冬の裸木では気にとめることなどないが今日は別だ。


 昔、暮らしていた家の近所には大きな公園があり春には親子三人で花見に行く。幼い頃から続けてきたが、中学生にもなれば両親と出かけるのは妙に気恥ずかしくなる。その年も誘われたが、俺は拒んだ。それでも母は執拗だった。母に甘い父も肩を持ち結局俺は頷いた。来週の日曜日に三人で出かけることで決まった。

 だが、約束は果たされなかった。

 両親が交通事故に遭った。二人とも即死だった。

 あれほど乗り気ではなかった花見の約束が、もう叶わないとなるとたちまち深い意味を持ち始める。

 本来ならば、家族三人で行くはずだった公園へ一人きりで赴いた。桜の花びらを見上げながら、ああ、もう、両親とはここへ来れないのだと思えば心が空っぽになっていく。

 失った。

 奪われた。

 何もかもがなくなった。

 あの感覚を今も言葉にすることは出来ない。ただ、堅く握りしめすぎて震え出す拳に俺は祈った。


 もう二度とこんな気持ちにはなりたくない――。


 何もいらない。

 何も欲しくない。

 どうせまた、奪われるなら。


――ああ、そうだ。確かに俺はそう思った。


 それほど、両親の死が俺にもたらした衝撃はすさまじかった。世界が崩壊したのだ。俺の世界はあのとき壊れた。

 だが、人はいつまでも同じ場所に留まってはいられない。残った者は生き続けなければならない。次第に、両親のことを考える時間は少なくなった。月日は流れ続け、両親と共に暮らした日々と同じだけの時間が経過した。俺は変わった。今度こそ大人になった。

 しかし、そうではなかった。自分では無自覚のまま、この十五年、消えた世界の中で嘆き続けてきた。いつまでもあの場所から動かずに、一歩も動けずにいたのだと。――違う。そんなことあるはずがない。俺はそんなに弱くないし、情緒的でもないし、子どもでもない。紫の勝手な解釈だ。

 すべては幻想。――そんな話を読んだことがある。年若い娘にはありがちな思い込み。孤独で哀れな男を自分の愛情で変えてみせる。母性というものがそのような気持ちを芽生えさせる。紫もまた夢物語を描いたのだろう。だが俺は、少女趣味な幻想に出てくる男ではない。


 俺のことを理解している? 見ていればわかる? 冗談ではない。十も年下の子どもに何がわかる。ふざけたことを言うな。


 腹が立つ。腹が立って仕方ない。このまま一方的に言われて、黙っていることは出来ない。今すぐ紫の家に乗り込み、撤回を求めたい。そう思う反面で体からは力が抜けていく。歩くのもやっとで、ふらふらする。泣きたい。泣き出してしまえたら楽になれる気がして、喚き散らしたい。静けさと激しさが交互に押し寄せてくる。目まぐるしく流れ続けるそれらについて行くことが出来ず、混乱は少しずつ俺を不安定にさせる。 

 わからない。何もかもが。

 俺は、本当は何を感じ、何を思っているのか。何が正しくて、何が真実であるのか。

 桜の木を仰ぎ見る。佇む姿が立ち尽くす自分と重なる。雨は、相変わらず音も鳴らさず降りしきる。霧雨が、ただ静かに、俺を打ち続けた。

読んでくださりありがとうございました。


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