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前途は洋々  作者: あさな
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02

 紫とはもうずいぶん長い付き合いになる。


 町山紫。田島屋の板前である町山太一と仲居・洋子の一人娘だ。俺とは十違う。

 出会ったのは田島屋に身を寄せてほどなくだった。

 祖父は料亭の他に不動産をいくつか所有している。店の裏にあるマンションもその一つだ。そこの一部を社宅として提供しており、従業員は同じマンションの上下隣で生活をしている。職場も家も近いなど嫌ではないのかと思うが、俺の考えに反して田島屋の人々は家族のように仲がいい。それが店の雰囲気にも影響しているのがわかる。

 陽気で気のよい人たちは突然やってきた俺のこともすんなりと受け入れてくれた。その中でもとりわけ紫の人懐っこさは目を引く。

 紫は幼稚園から戻ってくると店と居住部を繋ぐ長い廊下を降りた縁側で一人遊びをする。お気に入りは泥団子作りだ。毎日飽きることなく作り続ける。夕方、日が暮れると、作った団子は元の通り地面にならす。作っては潰し、潰しては作り。何が面白いのか毎日繰り返していた。そして時折、店の人たちが廊下を通る際に声を掛けてやるとくるりと振り返り朗らかな笑みを向ける。静かに黙々と作る姿と明るく陽気な姿がアンバランスに見えた。


「ぼっちゃん。これ、あげます」


 俺が学校から帰ると紫は目ざとく駆け寄ってくる。それから作った泥団子を差し出される。そんなものいらないし、それより俺は坊ちゃんではない。店の人たちが俺を「坊ちゃん」「若」と呼ぶので(やめてほしいと抗議したが「坊ちゃんは坊ちゃんでしょう」とわけのわからない理由を述べられやめてはもらえない)紫も真似て言っているのだろう。子どもはなんでも大人の真似をする。

 一人で静かにしていたい。紫が懐いてくることを鬱陶しいとしか感じられない。だが相手にされないなど微塵も思っておらず、わくわく期待のこもった眼差しで泥団子を渡そうとしてくる。なんのてらいもない純粋な好意を無下にできるほど非情にもなれない。


「……俺の名前は蓮司だ。坊ちゃんではない」

「れんじー?」

「そうだ」

「れんじー! れんじー!」


 紫はにこにこ俺の名を繰り返した。呼び捨てだが「坊ちゃん」よりはましだ。細かいことは目を瞑り返事をしてやる。するとへへっと笑い


「れんじー、どうぞ」


 泥団子をぐいっと差し出してくる。


「あのね、これね、さいしょにつくったの。だからね、べたべたしないの」


 土に水を含ませて柔らかくして団子を作る。作ってほどなくはドロドロしているが時間が空けば水分が蒸発し手を汚さない。触っても大丈夫という意味だろう。紫なりに気遣ってくれているらしい。俺は小さな手から泥団子を受け取る。


「たべてー」


 せがまれて食べる振りをする。


「はい、どーもー」


 紫は満足し俺から団子を回収する。それはすぐに土にならす。食べ終えた物だから無くなったということだろう。案外芸が細かい。


「毎日、毎日、同じことを繰り返してつまらなくはないか。どうせ潰してしまうなら作らない方がいいだろう。意味がない」


 楽しんで遊んでいる姿に水を差すような問いかけだった。しかし非合理なことを飽くことなく繰り返す姿が不思議で仕方なかった。五つの子に言ってもまともな返事などないと思ったが聞かずにいられない。夕方になれば土くれに戻す。いくら懸命に作っても零に戻る。何も残らない。それなら作らない方がいい。


「いみー?」


 紫はやはり問われた内容がわかっていないのか首を傾げていたが、


「れんじー、あしたもたべてくれるでしょー?」


 にっこり笑って言った。

 俺が食べる振りをするから作る。いや、それは今の話であって俺がいない間も作っていたではないか。だが紫なりに精一杯考えた答えを覆すことも出来ず、


「ああ、そうだな」


 だから俺は約束をした。


 そして翌日。


 帰宅すると廊下に出る。紫がいる。


「紫。」

 

 声かけると紫は嬉しげに駆け寄ってきた。


「れんじさま!」


 昨日、ようやく「ぼっちゃん」から「れんじー」と呼び方を変えさせたのに今日は「れんじさま」になっている。おそらく両親に呼び捨てにしてはいけないと教えられたのだろう。それにしても「さま」はないだろう。せめて「さん」にしてもらいたい。俺は再び呼び方を変えるよう教えた。しかし、今度はいくら教えても「れんじさま」と言う。「れんじさん」より「れんじさま」の方が言いやすいらしい。たった一文字しか違わないのに何が違うのかさっぱりわからなかったが紫には紫のこだわりがあるようで頑固だった。

 俺はもう諦めた。大きくなればそのうち直るだろうと考えた。ところが――三つ子の魂百まで(紫は三つではなく五つだったが)。紫は小学生になっても、中学生、高校生となっても様付けで呼び続ける。ちょっとばかり舌足らずな、おぼつかない「れんじさま」から「蓮司さま」としっかりとした口調へ変わっても呼び方は変わらない。だが、慣れとは恐ろしいもので次第に俺も紫に「蓮司さま」と呼ばれることへ抵抗がなくなる。ごく当たり前のように感じるまで至った。

 しかし、初対面の人間が聞くと驚愕する。「何かのプレイですか?」と言われたこともある。(一体何のプレイだというのか。)そういう時はほとほと「最初が肝心」という言葉を身に染みて実感する。だが今更言っても仕方ない。もうきっと"一生"、紫は俺を「蓮司さま」と呼ぶのだろう。


「蓮司さま、大好き」


 紫がそう言うようになったのはいつからだったか。

 俺に懐き「れんじさまー」と後を追いかけてきたが、いつしか”好き”になり周囲も呆れる大胆さで俺の顔を見ると告げてくる。ただそれは一人ぽっちでつまらない日々に現れた遊び相手に懐いた気持ちの延長線上だ。色恋とは異にする。男女の好きとは違う。いずれ夢から覚める。本物の恋を知る。幼い気持ちにすぎないと思った。――しかし、紫はいつまで経っても俺を好きでいた。その気持ちはどんどん強まっているようにも感じられた。それでも俺は相手にしなかった。お前はまだ子どもだ。まだ早い。そう断り続けた。


「十しか違わないのに」

「十も違えば十分だ」

「十違えば十分。なにそれ? ダジャレ? オヤジギャグ? いいよ、オヤジギャグくらいなら気にしないよ」

「違う。そんなつまらんことは言わない。俺はオヤジと言われるほど年は食っていない」

「でっしょ~じゃあいいじゃない」


 まるで埒があかない。気が済むまで放っておくことにした。相手にしなければそのうち諦める。時に委ねるのがいいと考えた。


 やがて俺は大学生になった。

 同時に一人暮らしを始める。

 大学にほど近い場所にも祖父が所有するマンションがあり、その一室が空いたのだ。部屋は人が住んでいなければ劣化する。一人暮らしを経験するのもいいだろうと祖父の方からの提案だった。俺は特に反対する理由もなく従った。

 その頃になると、その手の衝動が抑えきれず誘惑されれば求められるまま付き合うこともあった。ただ、どの女とも長続きはしない。最後はいつも、冷たい、つまらない、と罵られ終わることが多かった。多かったというより全部だ。やるためだけに付き合ったんでしょ、とまで言われた。たが、非難されても仕方ない。実情がそうであったので強くは否定しなかった。すると更に憎まれ罵倒された。悪い評判を立てられたこともあった。

 とっかえひっかえ遊ぶつもりでいたわけではないが、結果的にそのような短いサイクルで女と関係を持つ一方、紫は相変わらず俺を好きでいつづけた。休みには戻っていたので必ず週に一度は顔を合わせたが、田島屋で暮らしていた頃のようにはいかない。だが、ほんのわずか会うだけになっても紫は何も変わらず何も移ろわず、俺を想い慕ってきた。


――俺のしていることを知ったら、紫はどう思うだろうか。


 さすがに呆れるか。或いは軽蔑されるか。

 純粋な少女の潔癖さが俺を嫌悪するかもしれない。長らく見ている夢から一挙に醒めるかもしれない。それは都合がいいのではないか。考えたが――俺は何も言わなかった。褒められない女性遍歴をわざわざ口にして傷つけるような悪趣味は持ち合わせていない。紫は素直な性格だ。俺を嫌えば、すぐに周囲はそれを知る。俺のふしだらな生活が公になる。そうなれば田島屋に戻されるかもしれない。それが嫌だった。そんな打算が働いてのことだったのだろうと思う。


 月日は更に流れ、俺は大学を卒業し社会人になった。

 卒業前に祖父から「田島屋を継ぐ気はあるか」と問われた。一人娘を失った祖父にとって田島屋が子のようなものだろう。生涯を捧げて守ってきたもの。それを継ぎ、残していくのが俺の務め。母に望んだはずのことを俺が代わりにするのが恩返しだ。

「継ぐ気がある」――頷けば祖父は破顔し、ならば経営を学ぶためにと祖父の古い知人の会社に入社するよう命じられた。そこで五年、生の経営を学び田島屋に戻るようにと。

 その間、紫も高校生になった。そして、俺の暮らすマンションへ遊びにくるようになった。

 初めて訪れたとき、


「彼女もこの部屋にくるの?」


 室内を見まわしながら「綺麗にしてるね」と告げた後で唐突に言った。

 紫は俺に女がいると知っているのか。いや、そんな話はしたことがない。――俺もいい年だ。女の一人や二人ぐらいいてもおかしくないと口にしただけか。しかし、俺を好きだと言う割に、たやすく聞いてくるものだと不思議に思う。普通、好きな男に女がいれば動揺し傷つくのではないか。それとも実感がないのか。女がいる、という意味を正確な質量で感じられないから、たいしたことないと笑っていられるのか。紫は純粋で、悪く言えば世間知らずだ。今どきの女子高生にしては珍しいほどすれていない。よくここまで素直に育ったと感心するほど真っ直ぐだ。紫なら、そういうことになってもおかしくない気がした。


「この部屋に女は入れない」


 俺は答えた。


「じゃあ、私が初めてなんだね。私だけ特別?」

「お前は女じゃない。子どもだ」


 もう! と頬を膨らませて怒る。その仕草はどこまでも幼い。


 紫は頻繁に俺の元を訪れるようになった。

 土曜か日曜は必ず(両日来ることもある)、平日も三日と開けず来て帰りを待っている。仕事が早く終わればいいが、遅いこともしばしばある。来るときは電話かメールをしろと言っても、紫はまったくとりあわない。会えなければ会えなくていいからと笑う。


「お前が待っているかもしれないと思うと落ち着かない」

「私のこと考える時間が増えていいじゃん。嬉しい。嬉しい」

「馬鹿なことを言うな」


 だが紫はいくら諭しても聞き入れず仕方なく俺は合鍵を渡した。部屋に入って待っているようにと。それなら幾分気が休まる。八時過ぎれば家まで送るから、絶対勝手に一人で帰るなとも言った。


「いいの? やった!」


 紫は宝物でも手に入れたように喜んだ。

 これが狙いだったのかと俺は少し疑った。

 しかし――紫が合鍵を使うことはなかった。これまで通り、俺が帰るまで扉の前で待っている。何故入っていないのだと問えば、家に忘れてきたという。それは嘘だ。紫は俺の部屋の鍵をお守りのように持ち歩いている。どうしてそのような嘘をつくのか理解できなかった。


 そんな日々が日常になりつつあったが、時々、紫の訪問が止むことがある。それは俺が女と関係した日と重なる。

 社会人になってからは彼女という存在を作ることはなかった。それまでも一応彼女と呼んでいただけで、世間でいうような関わり方ではなかったが、それでも「彼女」であり、年頃の彼氏彼女ならばそういうことをしてもおかしくないとの建前があった。しかし、それもやめた。最初から後腐れないような、向こうも遊びと割り切っている女と、たまにそういう関係を持つ。溜め込むのはよくない。幸いなのかどうなのかはわからないが、誘ってくる相手がいるなら一人でするよりいい。

 だが、会うのはもっぱらホテルであり、家にそういう名残を持ち込んだことはない。紫にわかるはずがない。だが、女を抱いた翌日、或いは翌々日紫が俺の元を訪れると何かを感じるのだろう。俗にいう、女の勘というものなのか。そのときは普通ににこにこしているが、以降しばらくは来なくなる。たまたま、偶然かと最初は気にしなかったが確かにこの法則は存在する。

 ただ、紫がそのことで直接何かを言ってくることはなかった。それでも俺は無言で責められているような居心地の悪さを感じた。それはどんどん酷くなり女とホテルに向かうとシャワールームで紫の顔がよぎるまでになる。ここで一時の快楽を得れば、当面紫が来なくなる。それは願ったり叶ったりではないのか。しかし、俺の心はざわついた。来ない間、紫が傷ついて泣いているのかもしれないと思えば性的な欲求などたちまち醒めてしまう。

 丁度その頃、勤めていた職場から田島屋へと戻ることになった。これまでは田島屋のことを伏せていたが、これからはそうもいかない。一人暮らしをやめて戻ってこいと言われなかったのは有難いが、今後は自由気まま、好き勝手遊ぶのは憚られる立場になる。接客業はイメージが命――老舗料亭の後継ぎとしてスキャンダラスな結果に及びそうな行為はしない方が賢明だ。一夜限りの遊びを卒業するにはいいタイミングだろう。元々性欲の強い方ではない。そこまで困ることはないとすべてを清算した。すると、紫の訪問が長期に途絶えることはなくなった。

 やはり勘付いていたのか。だが、すべては過去のこと。気にしても時間は戻せないし、どうにもならない。俺は一夜限りの関係を終わらせて、紫が滞りなく俺の家を訪ねてくるようになった。その事実だけでよしとした。


 しかし、その一年後。再び紫の来訪が途絶えた。

 何があってのことか。前触れもなく忽然と途絶えれば気にかかる。理由もなく来なくなったわけではないだろう。もう俺のことは諦めたのか。それとも体調不慮で寝込んでいるのか。紫は健康なのが取り柄だが悪い膿を出すように年に一度高熱を出す。それがやってきたのか。

 それにしたって、いくらなんでも長すぎる。二週間も床についているなんてことはこれまでなかった。第一、それならば電話かメールはある。苦しい、しんどい。と泣き言メールだ。少し良くなると、退屈だ。に変わる。だから蓮司さま会いに来てよ、と。風邪で弱っているときぐらい優しくするぐらいの度量は持ち合わせている。紫の好物を買って見舞ってやる。すると「風邪引くのも悪くないね」などと言う。それも一切ないのだ。

 連絡してみるか。――頭をよぎるが、それではまるで俺が紫の来るのを待っているようではないか。恋に恋する状態が終わりになればいいと願っていたのだ。ここは放っておくべきだ。思い直すが、やはり気になる。祖父に田島屋の月次報告を届ける必要があった。都合がいい。店の方にも顔を出すのでそれとなく紫の様子を窺ってみるかと出向いた。


 打ち合わせが終わり、祖父の部屋を出て居住部と店を繋ぐ長い廊下を歩いていればその先に知った姿。散々俺の心を煩わせた本人が待ち構えている。かつて幼子だった頃、俺にそうしていたように駆け寄ってきて抱きついてくる。


「蓮司さま! 会いたかった!」


 俺が来ていると教えられてやってきたらしい。


「……そういう割に、会いには来ないのだな」

「だって、勉強あるんだもん。言ったでしょ? 私、あんまり頭よくないし。蓮司さまのところに行く時間を勉強にあてないと、どこも受かんないから受験が終わるまで蓮司さま断ち」

「そんな話、聞いていない」

「え? 言ってなかった?」

「ああ」


 返事をすると何故か紫の方がむっとした顔になる。


「じゃあ今言う。これから一年、勉強頑張るから蓮司さまのところには行かない」


 ぶっきらぼうに言い放つ。どうして俺がそんな態度をとられなければならないのか。怒るなら俺の方ではないのか。

 だいたい、好きな相手に会えずにいれば寂しいとか切ないとかそういう気持ちにはならないのか。たまには息抜きに会いに行く。それで充電するよ。とかそういう可愛い発想はないのか。まったく一年間来ないという。紫は妙に意思の強いところがあり、そう俺に言ったのなら守る。きっちり一年は来ない。


「蓮司さまって冷たい」


 堪えようとしたが堪えきれず出たという感じで紫が言う。そして、じっとりとした眼差しで俺の顔を見つめてくる。

 先程から一体何が気に食わないのか。


「どういう意味だ」

「だって、私が行かなくなった理由、知らなかったんでしょ。それなのに今日まで連絡もくれないってことは、私が行かなくなっても平気ってことじゃない。……そりゃさぁ、相手にされてないのは知ってるけど、こんなに行かなかったことないじゃん。少しぐらいは気にして連絡くれてもいいのに」


 涙こそ流れていないが泣き顔だった。

 冷たい、薄情――そんな台詞、覚えていないくらい言われてきたが紫から告げられると落ち着かなくなる。日頃が陽気なだけに落差が悲しみを強調させている。

 紫は大きくため息を吐いた。


「じゃあ、行くよ」


 言って背を向けて去ろうとする。もういいと落胆しきった寂しげな後ろ姿は哀れさを誘う。焦燥を感じさせた。


「そんなに成績が悪いのか」


 思わず引きとめてしまう。


「うん。予備校の先生にも見放されそう」


 紫は足を止め振り返り答える。

 そんな堂々と言葉にすることでもないだろうと思いながら、


「……なら、空いている時間、俺も見てやる」


 更にそんな提案までしたが、


「えーいいよ。蓮司さまスパルタだし怖いもん」


 紫は拒否する。

 以前に幾度か教えたときのことを言っているのだろう。無駄口が多いから厳しくしたのは事実だがすべては紫のためだ。

 それにしても申し出を断られるとは……俺は紫のこういうところが理解できない。俺をあれほど好いていると言いながら、一緒にいられる時間を作ると言っても断る。連絡しなかったことを拗ねて意地を張っているのだろうか。


「それに、家庭教師はもういるし。高倉くんがね、してくれるって」

「高倉が?」


 高倉とは俺の友人だ。知り合ったのは中学の頃になる。

 高倉は貧しい家に生まれ、かなり厳しい暮らしを送っていた。父親が暴力を振るうらしく度々痣を作ってくる。一度それで警察沙汰にもなった。酔って暴れ刃物を振り回す騒動になり、近所の住民が通報したが間に合わず、高倉は母親を庇うために間に入り顔に深い傷を負ってしまう。それを幼稚な連中が馬鹿にする。「そんな親の血を引くなんてろくでもない」と詰る。まったく理不尽ないじめであった。しかし、未熟さとは辛辣なもので、馬鹿にされ続ける様子を見ていると、本当にその人間が嫌なものに見えてくるという心理が存在するらしく、直接いじめる連中だけではなく他のクラスメイトたちも高倉から距離を置いていた。あんな子と親しくしてはいけない――父兄の中にまでそう助言する者もいたようだ。結果、特別親しい相手のいない俺と、孤立している高倉がグループ学習のときなど何かあると組むことになり、自然と一緒にいる時間が増えていった。

 話してみると高倉は気のいい男だった。何よりとても義理堅い。いじめられる高倉の力になりたい――そんな気持ちがあったわけでもなく、たまたま関わりを持つようになっただけの俺に対して強い感謝と信頼を寄せてくるようになった。そして俺も、広く浅く当たり障りのない対人関係だったが、高倉には心を許すようになる。それは今日までずっと続いている。きっかけは偶然であり、自分たちの意思などなかったはずが、俺と高倉は馬が合ったということだろう。

 高倉は田島屋にも独り暮らしの部屋にも来たことがある。幾度か紫とも会っている。人懐っこい紫と人当たりの良い高倉はすぐに親しくなった。年上であるのに紫は高倉を「高倉くん」と呼び、高倉は紫を「紫さん」と言う。しかし、個人的なやりとりをしているとは聞いていない。


「何故そんな話になっている」

「こないだ偶然会ったんだよ。それでね、勉強がわからなくて大変だって言ったら、時間がある時に教えてあげようかって言ってくれたの。高倉くん、家庭教師のアルバイト経験があるらしくて教えるのとっても上手なんだよ。優しいし」


 上手なんだよ、ということはすでに何度か教えてもらっているということだ。


「高倉だって忙しいんだ。迷惑をかけるな」


 言うと紫はもっとむくれる。


「だって、高倉くん、教えてくれるっていったもん。今週の土曜日も来てくれるって」

「今週の土曜なら俺も空いている。高倉には断りの電話を入れろ。……いや、いい。電話は俺からしておく」

「そんな勝手な!」

「勝手ではない。お前のことで迷惑をかけるわけにいかない。これは決定だ」


 語調を強め言い切ると、紫はむくれたままだがしぶしぶ頷いた。


「でも、電話は私からしておくよ。ちゃんと自分で断る」

「そうか、なら今かけろ」

「今ぁー? なんで? 後でちゃんとかけておくよ」

「なんだ、俺の前ではかけられないのか」

「……そうじゃないけど。蓮司さま時間いいの? 急いでるんじゃないの?」


 ふてくされた表情に、今度は恨みがましげな眼差しも加わる。祖父のところへ月次報告へ来ても長居はしない。夕食をともにどうかと皆に引きとめられるが用が終わればすぐ帰る。紫はいつも名残惜しげに引きとめてくるが応えたことはない。月初は色々片付ける業務が多いのだ。仕事をおろそかにはできない。


「いや、今日は食事をしてから帰る。お前の学力を確かめておきたいしな」

「ホント?」


 紫はまだ不機嫌そうな声であったが表情は嬉しげなものへ変わる。素直と言うか、単純と言うか、現金と言うか。


「それより、電話をしろ」


 俺は再度告げた。紫は携帯電話と取りだし掛け始める。

 しばらくコール音が続き繋がる。


「あ、高倉先生? 今、いいですか?」


 何が高倉「先生」なのか。紫が俺を様付で呼ぶのを「何かのプレイですか」とからかってきたのは他でもない高倉だった。ならば自分はさしずめ「教師と生徒プレイか」全く冗談ではない。


「違う、違う。質問じゃなくて、あのね、土曜日の件なんだけど、蓮司さまがね、教えてくれることになったの。……うん、そう、高倉先生に迷惑かけちゃいけないって。……ええー。そんな嬉しいことでもないよ。蓮司さまのことは好きだけど、教え方厳しいんだもん。高倉先生の方がいい。……うん、…うん、頑張る。勝手言ってごめんなさい。うん、合格したら連絡します。ありがとう」


 紫はよくしゃべる。俺が無口だから代わりに話すわけではなく誰相手でもべらべらとしゃべる。おかげで高倉の声は聞こえなくとも話の内容は筒抜けだ。よく懐いている様子までも。

 それにしても、俺の教え方はそれほど厳しいものなのか。高倉の方がいいなど堂々と言われるといささか不愉快だ。


「かけたよ」


 電話を切ると紫は言った。


「そうか、なら時間が惜しい。さっそく始める」


 勉強道具を取りに行かせて俺の部屋(一人暮らしを始めてからもいつでも使えるよう掃除されている)で開始する。

 見せてきたのは数学だった。紫は文系で大学入試には必要ない科目のはずだが、大学入試の前に高校卒業のために必要らしい。物理は赤点確実で追試を受けるので、せめて数学は及第点を取っておきたい。一科目だけならどうにか追試を乗り切れるからと聞かせられる。話が低次元過ぎる。そもそも文系の人間は大方が生物を選択するはずがよりにもよってどうして物理を選んだのか。紫の話によると間違って取ったと言うが何をどうしたら間違えるのやら理解に苦しむ。

 ひとまずどの程度わかっているのか探るために問題集から適当な問いを選ぶ。基礎から応用へと素直な筋道で解けるものがいい。どこで躓いているか明瞭になる。


「……蓮司さま、わかんない」

 

 紫はすぐに音を上げる。


「俺のことは先生と呼ばないのか」

「え? ……ああ、呼んで欲しいの?」

「そうではないが、高倉のことは先生と呼んでいただろう」


 先程電話で。どのような流れで呼ぶようになったのか気にかかるところではある。


「うん、そっちの方が気持ちが引き締まるでしょ。先生って響きが嫌な感じで」


 随分楽しげに呼んでいるように見えたが嫌な感じなのか。紫の感覚はよくわからない。


「じゃあ、改めまして、笹山先生。全然わかりませーん」

「名前ではないのか」

「だって蓮司先生じゃ、幼稚園の先生みたいじゃない?」

「お前は幼稚園児より手がかかるから丁度いいだろう」

「ひっどーい。どうせ私は子どもですよ。ふーんだ」


 いーっと言いながらくしゃりと顔を潰す。酷い表情だが不思議と不快ではない。ただ幼い仕草だとは思う。紫はまだまだ子どもなのだ。


「拗ねるな。勉強するんだろう。真面目にやらないなら教えないぞ」


 紫の右頬を軽くつねり引っ張る。すべすべと手触りのよい滑らかな肌だ。それもまた赤子のようだった。


「いたいー。離してよ! 私はちゃんとやってるじゃない。蓮司さまが先生と呼べとか、どうして名字なんだとか色々言って邪魔してくるんでしょ」


 言われると確かにちゃちゃを入れたのは俺のような気もする。何を拘っているのだろうか。


「いいから、解け。もっとねばって考えてみろ」


 しかし、謝罪はせずにつねっていた手を離し促した。紫は「勝手なんだから」とぶつぶつ言いながら取り組みはじめる。その様子から、俺に会いに来る時間を惜しんでまで勉強しなければならない状況なのは本当らしいと納得した。


 それから、紫の受験が終わるまで仕事が早く終わる日や休日は田島屋で過ごした。大学時代の生活に戻ったようだった。

 紫の頑張り(俺の休息日をすべて費やしたのだからそうであってもらわねば困るが)の賜か、無事に大学に合格できると、再び紫の方が俺の部屋を訪れる日々に戻る。これでようやく本当に生活の流れを取り戻せると思った。


 ところが――また問題が起きる。


 それは、紫の二十歳の誕生日のこと。

 誕生日は共に過ごす。俺が田島屋へ引き取られてからずっとそうしてきた。一人暮らしを始めても「私の誕生日は必ず戻ってきてね」と催促され、戻らなければ呪われそうで恐ろしく不本意ながら祝いに行く。やがて紫が俺の部屋を訪れるようになると、自分からケーキをもって乗り込んできた。流石にそれはどうかと思う。ケーキぐらい買ってやると言えば、紫は大きな目をこれでもかと見開いたのを覚えている。その驚きように俺はそこまで甲斐性なしではないし、薄情でもないとむっとしたが、そのように思っている相手をよく諦めもせず好きだと言い続けるものだと感嘆した。

 今年も祝ってくれと押し掛けてくるだろう。運がいいのか悪いのか誕生日は日曜日と重なっている。朝からくるはずだ。どこかへ連れて行ってくれと言われるかもしれない。俺は相当の覚悟をしていた。だが――紫はこなかった。昼になっても姿を見せない。


――おかしい。


 何かあったのか。一瞬心配が過るが、それよりもたどり着いたのは別の結論。紫は友人が多い。いつも前後に誕生日会を開いてもらっている。今回は休みの日と重なったし、せっかくだから当日にしようと言われ断りきれなかったとか。昼間は友人と過ごし夜に俺の元へ来るつもりではないか。ありえる。おそらくそうなのだろう。夜になればくる。

 身構えていた分、拍子抜けしたが読みたい本があった。俺としてもそちらの方が都合が良い。

 そして夜。七時過ぎ。しかし、紫は来ない。

 もう今年は来ないのだろうか。いや、そもそも約束をしていたわけではないから、来なくとも咎めることは出来ない。だが、毎年恒例行事のように俺に祝えと言っていたのだ。来ないなら来ないで今年は行かないと一言あってもよい気もする。

 テーブルに置いてある携帯電話を取った。画面は七時三十一分を表示してある。受信箱と着信履歴を確認するが本日付けのものはない。

 紫の番号を表示させる。勢いにまかせてかけてしまえばよかったが、万一にと、連絡が入っていないか確認してしまったことが思考を留めさせる。誕生日に文句をつけるのも無粋だ。明日にした方がいいか。まとまらない考えをまとめようと携帯画面を見つめているとデジタル表示が七時三十三分へと切り替わる。

「ピンポーン」同時にチャイムが鳴る。

 俺の家を訪れる人間は限られている。ドアフォンで相手の確認もせず玄関へ向かい扉を開けると立っていたのは紫だ。

 真っ白なダッフルコートに同じく真っ白なマフラーをぐるぐると巻き付けている。「蓮司さまは黒い服を好んで着るから、私は白を着るの。黒と白で一対みたいでしょ」といつだったかそんなことを言った。そうでなくとも長身の俺と小柄な紫は一緒に歩くと妙に目を引く。そこへ黒と白となれば尚更だ。一対というより対照的といえる。しかし、紫はそれを一対だと喜ぶので好きにさせていた。

 

「あ、ごめんなさい」


 口元を覆うマフラーを手で下げながら謝罪する。こんな時間まで訪れなかったことへの謝罪かと思ったが


「何か忙しくしてた? ごめんなさい」

「別に忙しくはしていないが」


 何故そんなことを言うのか不思議だった。


「あ、そうなの。なんだか顔が険しいから、何か重要な仕事でもしていたのに途中でチャイムが鳴ったから慌てて出てきたのかと思ったんだけど」

「今日は日曜日だ。のんびりしていた」


 紫が来るかと思っていた。そしたらのんびりは出来ないだろうと考えていた。だが来なかったからのんびりしていた。全部を言葉にするならそうなるが、手短に告げた。


「そっか。じゃ、いいんだけど」


 紫はほっと息をつく。

 先程まで文句の一言を言うか言うまいか悩んでいたが、本人を目の前にするとどうでもよくなった。

 扉の外から冷たい風が吹き込む。


「入れ」

「その前に、話があるの」

「話なら中で聞く」


 どう考えても順番は先に中に入ることだろう。玄関で立ち話など落ち着かない。


「ここでいいの。ここがいいの」


 しかし、紫は言い切る。

 紫はときどき理解できないことをする。紫なりに理屈があるのだろうが、俺には不可解にしか思えない。だが、ここで押し問答をするのはそれこそ時間の無駄だ。俺は黙った。話を聞くための沈黙だ。紫は俺の顔を見る。眼力というものが存在するが紫のそれは強い。


「あのね、今日、私、誕生日なの。」


 知っている。毎年、あれほどアピールされれば否応なく覚えてしまう。かれこれそれが十五年続いているのだ。


「今日でね、二十歳になったの。」


 それが話しておきたいことではないだろう。先がある。紫の表情が告げている。本題はこれからだ。


「二十歳ってね。もう大人だよ。もう子どもじゃないよ。もうね、私はきっちり二十歳だからね。私、七時三十三分に生まれたんだけど、それも過ぎたから、きっちり大人だよ。まだ生まれてないとか細かいこと言って逃げられないようにね、待ってたんだから」


 確かに七時三十三分は過ぎている。三十三分になったと同時にチャイムが鳴ったのだ。携帯の表示が切り替わる瞬間を見ていたから間違いない。紫は部屋の前で待ちかまえていたらしい。


「私、二十歳になったんだよ。」


 紫はそればかりを繰り返す。本当に言いたいことを言い淀んでいる。


「お前が二十歳になったのはわかった。それで、それがどうかしたのか」


 何度も繰り返すので俺は先を促す。いや、紫が言い出そうとしていることは薄々わかっている。聞かされて俺は困ることになるだろう。そうであるのに聞きたいと思う。 


「だから、あの、その……」

 

 紫は大きく深呼吸する。緊張を緩和させるためにしているのだろうが、吐き出すほど紫の周囲は緊張の色が濃くなる。息を吐き切る頃には張りつめすぎて見ている俺も息苦しい。


「蓮司さまのことが好きです。私を蓮司さまの恋人にしてください。」


 もう一度大きく息を吸い込み、そして一息に言った。言い終えると紫の唇はわずかに震えていた。寒さと緊張は極限を迎えている。それでもまっすぐ俺の目を見て告げる。その眼差しは真剣だった。


「いっつもまだ子どもだってまともにとりあってくれないけど、今日はちゃんと答えて。私を恋人にしてくれないなら、もうここへはこない。蓮司さまのことは今日限りきっぱり諦める」


 紫は右のポケットに手を突っ込む。取り出したのは鍵だ。俺の部屋の合鍵。


「私、二十歳になったよ。大人になった。子どもだからってはぐらかさないで答えて。ダメならダメって、子どもだからじゃなくて、私のことを好きになれないって言って。そしたら諦める。もう追いかけたりしない。恨んだりしないから、はっきり言って欲しい。そうじゃないと私、いつまでも先に進めないよ。おしまいは、大人としてちゃんと振られたい。ずっとこれまで蓮司さまを好きでいたことを少しでも認めてくれるなら、蓮司さまがけじめをつけて。お願いします」


 紫は持っていた合鍵をぐっと俺の前に差し出してきた。渡しはしたが一度も使われなかった合鍵だ。しかし、それは紫の物だ。紫が付けた四つ葉のクローバーのキーフォルダーがそう主張している。

 これを受け取り「お前の気持ちには答えられない」と言えば紫は俺を諦める。言葉に嘘偽りはないだろう。紫が俺を見る目の真剣さは本物だ。恐怖を感じ辛そうにも見えるが、けして俺から目線を逸らさない。わずかも逸らすことはない。どんな結果でも――それが望まぬ結末でも納得すると覚悟している。いや、口振りから到底うまくいくなど思っていない。ここには振られにやってきた。けじめをつけたい。こういうときの紫は本気だ。本気で腹を決めている。


「蓮司さま」

 

 紫が口を開くと振動が伝い持っているキーフォルダーが揺れる。幸運の象徴とされるクローバーが頼りなく揺れている。


 二十歳になったからといってすぐに大人になるわけではない。大人ならこのような振る舞いはしない。もっと自分が傷つかないような方法をとるのではないだろうか。こんなむき出しの告白はしない。それともこれは性格の問題か。


「やっぱり答えてくれない?」


 黙り込む俺に、紫は笑った。諦めきった寂しげな――これまで見せたことのない表情で笑う。それを見て俺はひやりとした。行ってしまう。紫が、行ってしまう。


「部屋に入れ」気づけば告げていた。


 その日から、俺と紫の関係は変わった。だが、実質の変化はない。俺の方には。ただ、紫が――それまでけして使わなかった合鍵を使うようになった。それから、台所に立ち料理を作るようになった。父親仕込みの腕前を披露してくれる。それが紫にとっての恋人への振る舞いであるらしかった。 

読んでくださりありがとうございました。


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