それから
ばあちゃんがいなくなってからも当然なんだけど月日は過ぎていって、私は大学生になっていた。
就活のために実家に帰省した夏休み、アパートに帰る前にふと思い立ち、私は大川の土手に上がっていた。
そういえば、ばあちゃんが倒れていたというのはこの辺りだったんだろうか、そんなことを取り留めもなく思いながら川風に当たる。
少し離れた柵に、大柄な白いTシャツ姿が川を向いて立っているのが見えた。
遠くを眺めている、その姿にはっとなった。
こめかみから髪の中に伸びる傷、あれは
「生田さん!」
大声で呼ぶと、驚いたようにこちらを向いて、初めは目を細めていたがすぐにその目はまん丸になった。
「川上……モエさん?」
髪は少し伸びていた。相変わらずプロレスラーじみたガタイの良さで、ごつごつした手で髪を搔いている。
でも何かが全然違う気がして、私は目をしばたかせた。
そうだ、サングラスをしていないんだ。
生田さんの目はけっこう可愛かった。まつ毛も可愛い。
「モエさん、今大学生ですか」
「そう、2年です」
「すっかりいい娘さんになって。地元の大学で?」
「いえ、愛知の。もう戻るんですけど」
「そうなんだ」
川上さんが柔らかく笑う。ついでのように対岸に指を伸ばし、こう教えてくれた。
「ここから、川上さんがやっていたお店が見えるんですよ、ご存知でしたか?」
「えっ、お店? 喫茶店のことですか」
ばあちゃんが大昔、喫茶店を経営していたのは父さんから聞いて知っていた。
父さんが小学校に上がる前、引っ越しのために店をたたんだとのことだった。
「そう、建物はまだあるんです、見えるのは屋根だけなんですが」
教えてもらって青っぽい瓦葺の屋根が分かった。
デイでそんな話もしていたんだろうか? そんなことを思いながらしばらくそこを眺めているうちに、そうだ! と思わず大声になった。生田さんがびくりと肩をすくめる。
「生田さんちょっと待っててくれません? ばあちゃんが生田さんにお手紙書いていて」
「えっ?」生田さんの目がまたまん丸になった。
手紙を見つけた日から、私は開封せずにずっと持ち続けていたのだ。
もしかしたら、またどこかで会えるかもしれない、そんな思いでもなく、でもなぜかずっと、近い場所に持ち歩いていたのだった。
「車の中の荷物に、入っているんです、生田様、って」
「封筒ですか? 宛名が?」
「はい、生田様、って」
「生田……名前は」
「ありません、ちょっと待ってて」
土手を駆け下りて、空き地に駐めた車に戻り、ボストンバッグのポケットに保険証やらなにやらと一緒になっているポーチを取り出し、封筒を引っ張り出した。
また土手を駆け上がって生田さんに差し出した時には、息がかなり上がっていた。
無言で差し出した封筒を受け取り、生田さんはそれをじっと眺め、裏返し、少しばかり透かすように川面に向かって差し上げたりしていたが、ようやくかすかに口の端に笑みをみせ、また、返してよこした。
「これは私宛ではありません」
「そうなんですか?? でも、でも」
口をぱくぱくさせている私を少しいたわるように眺めていた生田さんは、きらめく川面に目をやった。
「じゃあたまたま同じ苗字の人に? でもなんでわかるんですか?」
実は、私も少し思ったのだ。まず、字に震えがみられない、それに封筒の端が、やや黄ばんでいた。亡くなる近々のものではなさそうだった。
生田さんは川面の向こう、対岸を眺めている。
何から話そうか、迷っているようだ。
あちら側をみたまま、静かにこう言った。
「それは契約書なんです」
「けいやくしょ?」私の声はたぶん、小学生みたいに無防備だったのだろう。
生田さんがこちらを向いた。
「あの、デイの契約書ですか?」
「いや違うんです……なんというか、多分私の母と姐さん……いや、川上さんとの」
「生田さんの? お母さん?」
「母は生保の営業をやっていて、川上さんからご契約を頂いていたんですよ、ずっと昔ですが」
初耳だった。しかしその後のことばに更にことばを失った。
「私の母は、正直言うと……死神だったんです」
強い風が川面と、岸の長い芦を激しく揺らした。
「じゃあ」
ようやく、からからになったのどから声が出た。
「ばあちゃんは、生田さんのお母さんと……死神と契約していて、それで死んでしまった……?」
ということは、生田さん自身も死神の仲間、ということなのだろうか?
ばあちゃんが死んでしまったのは、死神のせいなのだろうか?
だからここを、生田さんが知っていたんだろうか?
でもなぜ?
私の表情が強張ったのに気づいたのだろう、生田さんが目を伏せた。
「ひとつだけ、誤解があるといけませんので弁解させていただきます、母は、まだ死神をやっていなかったずいぶん若い頃、たまたま飛び込んだ喫茶店で命を助けられました。そこが姐さん、すみません、川上さんのお店だったのです。川上さんは命の恩人でした」
明日の暮らしもままならない身で街を彷徨っていた生田真知子は、あまりの空腹に耐えかね、現金を盗ろうと路地裏の喫茶店にふらりと立ち寄った。
そこでホットサンドとブレンド珈琲を注文し、それにサービスにケーキまでつけてもらった。もちろん、一文無しで。
お勘定の時にレジ近くに寄ってさりげなく機会を――店主を襲う機会をうかがっていた。
そこに、まだ若かったばあちゃんが言ったのだそうだ。
『お代はけっこう。またお金ができたらで。それよか毎日、この時間に寄ってくれれば同じものを出すから』
真知子は耳を疑ったそうだ。店主は続けて言った。
『アンタ、追い詰められた目をしてるからすぐ判るよ、それに刺されでもしたら、ウチも離婚してる上に子どもが小さいから食うに困っちまう。お代は出世払いでまとめていただくから』
通い続けるうちに、真知子は店主の彼女からいろいろなことを教えてもらった。
珈琲の入れ方、美味しいサクランボパイの焼き方、小銭を残す方法……
真知子は結局、喫茶店の二階に居候を始めた。そして店主の小さな息子を世話することで少ないながら給金を受け取り、ようやく一人暮らしのアパートに移ることになった。
その時、店主から勧められた仕事が
『死神』
だったのだと言う。
「アンタ、この仕事は確実に貯金ができるよ、将来結婚して家庭を持ちたい? じゃあ今のうちにちゃんと稼げる仕事につくことだ。生保レディみたいなもんだからさ」
ばあちゃん、どこからそんな知識を得ていたんだろう?
そして死神として一番初めに契約したのが、店主、つまりうちのばあちゃんだったんだって。
「契約書は既に満期修了していますので、そちらで処分していただいて構いません」
しかし、と生田さんはまっすぐに私を見た。
死神の仲間にしては、目が澄んでいるんだな、なんて私は全然別のことを思っていたけど。
「母から、姐さんについてはくれぐれもよろしく、ずっとよくしてやってくれ、と言われていました。とにかくワタシの命の恩人なんだから、できる限りでいいから、契約の拡大解釈で、あと、法が許す範囲で何とか、って」
風が凪いで、空が染まるに従い川にも茜色が射してきた。
桃色に染まる空気の中、私は封筒を開けた。
確かに、『契約書』とある。
甲には『川上イク江』、乙には『死神・生田真知子』とあった。そして、箇条書きの中にこうあった。
・甲は満79歳の寿命まで、息子をはじめ家族に恵まれ、幸せに暮らすこと
・甲は認知症が発現した場合は、すみやかに適切な施設に通所でき、その場で安らかに楽しい時間を過ごせること
・甲は自身の最期の場と死因とを自身で選択でき、苦痛や心労が一切ないこと
・乙が死亡、あるいは契約履行に支障をきたした場合には、代理を立てて契約満了まで責任をもって履行を果たすこと
「代理でしたが、私も弟……運転手やってたアイツですが、本当に楽しく過ごさせていただきました。昔の母の話をしていただいたり、家族のお話をしてくださったり、散歩に出たり……この場所も姐さんから教えていただいたんです。お店の屋根が見えるんだよ、って」
「……ばあちゃん、幸せだったのかな」
契約書の文字がにじんだ。
「もちろん」
生田さんの声は、力強い。
「毎日がとても楽しい、と。ここまでがんばって良かった、といつも」
私は紙の束を風に泳がせる。
茜色に染まった紙片がぽ、と燃え上がり、それはいっしゅんの輝きをみせてから黒い消し墨となって次々と川面に舞い降りていった。
生田さんにはそれから、一度も出あっていない。
父さんにも母さんにも、結局何も話さなかった。
でも過去ってのはずっと、現在とその先につながっているんだろう。
少しだけ私も、そのあたりを意識できるようになったかな。
まだまだでしょうね、と生田さんの控えめな低い声と、ばあちゃんのからっとした笑い声が、どこかから聞こえたような気がした。
〈了〉