刹那の後悔
秋定たちの入学式は卒なく終わった。
「少し早めに」式場に入ったものの、既にチラホラと先客が見えたのが、秋定にとって安心感となった。
入学式を終え、担任教師に引率され「来た道を戻る」。
渡り廊下を歩いている秋定は、辺りを見つつも、クラスメイトたちを目で追う。
少し前をやや長身の島田夏樹が歩いている。その様子を自然と目で追ってしまう。
夏樹は周囲に特に興味も無さげに歩いている。
他のクラスメイトたちが首を振り辺りを気にしているのに対して、秋定にはそれが対照的に見える。
教室棟に入り、階段を登る。4階のあの教室へ「戻る」のだ。
秋定はそこに、ちょっとした不安が過る。
綺麗に並べられていたはずの机の配列が一度崩されていること。それを、秋定と夏樹で取り繕ったこと。
その原因が夏樹の暴挙だったとしても、秋定にはそれに加担したような連帯感があった。
だが幸い、その不安は杞憂に終わる。
教室では氏名順の席割当のプリントが配布され、秋定は「本当の自分の席」を知る。
周囲のクラスメイトも、慣れない感じと緊張感からか、まだ口をつぐんでいる。
秋定のココロに、ほんの少し余裕のようなものがあるのは、この数時間の出来事があるからだろう。
秋定は、離れた場所に座る島田夏樹に目を向ける。
そこに、落ち着きのさらに先にある、無気力のようなものを感じるのは気のせいだろうか。
担任教師が黒板に何やら書き始めるのをみて、秋定は慌てて目を正面に向ける。
「ここに書いた通り、明日一日、それと明後日の午前中は生徒会の運営によるオリエンテーションと学校案内が行われる。その間にクラスメイトと交流を深めてほしい。」
黒板には明日以降のスケジュールが書かれている。
秋定はメモ帳とペンを取り出すと、それを書き留める。今度こそ間違えないように。
会田誠司と名乗った担任教師はそれだけ告げると、椅子に腰掛ける。
会田は初老に差し掛かったと言った感じの年輩の教師だった。同学年の体育の教師も受け持つらしい。
秋定は、会田の名前と教科を走り書きにメモに記す。そして周囲をみる。
「今日は自己紹介をして終わりだ。席順に名前と挨拶を。以上だ。」
自己紹介が始まり、秋定はメモをしまう。一人ひとりの顔を覚えていかねばならない。
それはきっと、クラスメイト全員の共通項であろう。秋定はそう考える。
一人目が名前を名乗り、挨拶を終える。自己紹介のようなものは交えず、挨拶だけ。
それに続いて、一人、また一人と、名乗りと挨拶を続ける。秋定は内心、ホッとしていた。
自己紹介と言われれば、何を述べたらいいかわからない不安があった。
『お前、何処から来たんだ。』
今朝言われたセリフを、ふと思い出す。あの時の様に、失敗をするかも知れないと感じたのだ。
同時に、入学式の間、同じ失敗をしないように頭でシュミレーションも重ねていた。
それが無駄になったことは、残念というより、安心が先に出た。
「島田、夏樹。よろしく。」
秋定のココロが少しだけ揺れ動く。その名前と顔を既に知っている、安心感がある。
その自己紹介の直後、担任の会田が咳払いする。
秋定はその「妙」を逃さなかった。会田は、夏樹の事をなにか知っているのだろうか。
その咳払いはたまたまであったのか、何らかの意味があるものなのか。
きっと何かあるのだろう。秋定はそう思うことにした。
ずっと考えていたのだ。島田夏樹には何かある。秋定はそう確信している。
詮索をするつもりもないが、共に過ごした僅かな時間が、興味を沸かせている。
名乗りと挨拶が続いていく。
名乗った相手の顔、声、名前、それを確認すると、その度に秋定は夏樹と、会田に目を向ける。
夏樹の名乗り以降、会田は咳払いをすることもない。夏樹は興味なさげにしているように見える。
そうしている内に、自分の前のクラスメイトが席を立ち、名前を名乗る。
秋定はそこで、慌てて次が自分であることを思い出す。
相手の着席を待って、秋定は椅子を引き、立ち上がる。
「結城、秋定です。宜しくお願いします。」
辺りを見回し、一礼し、着席する。
視界の端に、それまで無関心かに見えた島田夏樹が、自分を見ていたことに着席後気がついた。
だがそれは一瞬の事で、秋定はその表情まで捉えることはできていなかった。
秋定のココロにはまた別の感情が込み上げていたからだ。
秋定は、自分の名前や、自人称を言うことに違和感と不慣れ、苦手意識を持っている。
主語がない。
そう言われることが多かった。自己主張の欠如、そう、中学の担任には指摘もされた。
指摘をされ、意識的に「それ」を曲げることは覚えたが、矯正はできずにいる。
祖母は、それでいいといつも言ってくれる。
父母を亡くし、それがココロに影を落としている、といった類の事を説明してくれる。
秋定自身にもそれが「良くはないことだろう」とは理解ができているが、
克服や解決を率先する機会を得ず、ここまできている。
そんなココロの葛藤が、後になってから秋定の記憶にほんの少し、後悔を生んだ。