ちょっとした失念
結城秋定は、友達の多い方ではなかった。
父も居ない、母も居ない。話題は祖母との食卓でのものだけであった。
その祖母も、昼間から夕方にかけてパートに向かう。
夕方、学校から帰ってきた秋定を迎えてくれる人は居なかった。
テレビを見たり、本を読んだり、絵を書いたり。
学校の図書室や、街の図書館に足を運ぶことも少なくはなかった。
中学に入ってからは部活動に所属する。
同時に、家に帰りパートから帰った祖母を助けるために、夕方遅くなり、朝練習のある運動部は避けた。
夕食後、祖母との団らんを増やすために食器の洗い片付けを手伝うようになったのが小学生の頃。
中学に上がる頃には、祖母のために御茶を煎れ、裁縫で自分でボタンやほつれを直すようになった。
そうした小さなやり取りから祖母との話題を広げ、料理を習うようにもなった。
裕福ではないけれど、飢えてもない。祖母が少しずつ老いていくのが秋定の一番の心配事だった。
自分のために無理をさせてしまっているのはないか。
自分が居なければ祖母にも好きなことや、やりたい事があったのではないか。
そんな事を考えながら、祖母の好きなものを、自分も共有していきたい気持ちが芽生えた。
「アキや。お前は好きなことはないのかい?私の事はいいから、好きなことをおやり。」
何時の頃からか、それが祖母の口癖になっていた。
その言葉を聞いて、同じ言葉をそのまま返すのがいつもの会話になっていた。
そうしてお互いが笑う。秋定はそんな空気が好きだった。
中学も三年を迎えた時、秋定は祖母と約束をした。それは進路を決める三者面談の時の事だった。
「アキ。私はアキぐらいの頃、仕方なく家を手伝って、畑に入った。親が決めてくれた相手、お前のお爺ちゃんと結婚をした。それからお前のお母さんが生まれて、孫のお前も生まれた。」
「うん。」
「私は、残念だけれどお前と結婚する相手を見つけてきたり、手伝わせるような畑も持ってない。」
「うん。」
「私と同じことをしていても、アキは私の様に幸せにしてやれない。それが心配なんだよ。だからアキは、自分で自分を幸せにしなきゃいけない。やりたい事も、好きな事も、自分で見つけなきゃいけない。」
そうして、秋定は自分で行きたい高校を決めるように言われた。
秋定は担任教師と、祖母と話し合いつつ、自分の成績と、学費を考慮して、精一杯の背伸びをして決めた。
それがこの高校だった。そして幸いにも、受験に失敗することもなく、進学することができた。
「失敗、だったかな。」
何度目かのチャイムに、何度かのうたた寝から明けて。秋定は教室に掛けられた時計に目をやる。
時間は10時50分を示している。そろそろ、誰かやってくる頃だろうかと考える。
彼は?と秋定はその方向に目をやる。
「起きたか。」
青年は頰を腕で突いて秋定を見ていた。前に微睡みから浮き上がった時は変わらず、並べた机に寝そべっていた。いつの間に起きていたのだろう。気づかない程に深く寝入っていただろうか。
秋定は制服の袖で口元を拭う。居眠りの間によだれがにじみ出ていた。
「そろそろ起こしてやるつもりだった。机を戻すから手伝え。」
彼が寝そべっていた机と椅子はそのままだった。秋定は席を立ち、乱れた机に手をかける。
「どうせ昼飯も持ってきていないだろう。終わったら少し付き合え。学食に案内してやる。」
まるで新入生らしくない青年の素振りの理由を、秋定はぼんやりと考えていた。
確かに秋定は、入学式が午後からだと思わず、午前中の内に初日を終えるだろうと考え、昼食のことは失念をしていた。と、いうより、どうしようかとこの2時間程の間、考えていた所であった。
青年の行動には余裕があった。
自分と同じ様に、入学式の時間を大きく間違えて、それで教室に居たのにも関わらず。
秋定は青年を、自分よりもずっと大人な人種なのだと感じていた。
机と椅子を正し終えるなり、青年は教室の戸を開け、廊下へと踏み出していく。
秋定はかばんを抱え、慌てて後を追う。
案内するといいつつも、彼の歩幅は秋定の歩き寄りも早く、迷いがなかった。
辺りは静まり返っている。先程のチャイムは、授業開始の合図だったようだ。
彼の後を追いながら階段を降りていく秋定の耳に、教員の授業の声らしきものが薄っすらと届く。
会話もないまま、青年の後を追い、1階の渡り廊下へとたどり着く。
秋定の目に、奥に職員室・特別室がある教員棟、そしてそのさらに奥に校庭と体育館が見えた。
青年は迷わず、渡り廊下を進んでいく。その道中にある建物を秋定はきょろきょろと見回して歩く。
暫く歩くと、青年は向きを変える。そこには視界から隠れるように大きめの2階建ての建物があった。
秋定はそこには覚えがあった。昨年の夏、学校見学会に来た際に通された場所だ。
中に人影や、自動販売機の背中が見える。件の学食とはそこの1階の事の様子だった。
青年はそこへと迷わず進んでいく。
秋定は彼の背中を追って、建物の入口をくぐった。