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6 現実へ

  

 しかし、最原達三人は生き残った。エピローグ…「みんなのコロシアイ修了式」で、彼らは生き残って、才囚学園の外に出ていこうとしている。

 

 フィクションとしての「ダンガンロンパ」が終わった後、外に出ていく。そこには「現実」が待っている。しかし、ここでも微妙なメッセージを作者は入れている。

 

 もしかしたら外もまたフィクションかもしれない。現実ではないかもしれない。外にも実は、希望ヶ峰学園や絶望の残党が本当にいるのかもしれない。フィクションの外の嘘もフィクションかもしれない。

 

 しかしそれはもう関係ない、と最原は言う。嘘か本当かは大事ではない、それをどう受け取るのかが大事だと、比較的ポジティブなメッセージを発する。これが作者の言いたかった事と単純に考えても良い。

 

 それでは彼らの出ていく世界は何なのだろう? フィクションの終わった世界の外側、我々の「現実」に出てくるのだろうか。こちらがわ、視聴者のいる生な現実に彼らは出てくるのだろうか? あるいは、作品はこう言っているのだろうか? 「フィクションに耽溺するのはやめて、現実を生きよ」 そういうオタクを説教するような話なのだろうか?

 

 もちろん答えは色々だろうが、私は違うように取りたい。現実であれ、フィクションであれ、それが何であるのか、そしてどう生きるのかが重要であるはずだ。

 

 実際の、現実を見てみよう。確かに、ダンガンロンパを取り巻く世界状況は、作品に描かれていた状態に近い。外は平和な世界であり(発売当時は特にそうだった)、人はフィクション内部のデスゲームを楽しんでいたりした。そうした状況において、安定して人はフィクションを、自分とは関係のないものとして楽しむ事ができた。人が死ぬシーンを見ても、我々はさほどショックを受けない。それを自分の死と直結しては考えないからである。

 

 しかし、V3発売から少し経った今では、どうだろう。デスゲームとまでは言えないまでも、実際に様々な闘争が起こり、世界に謎のウイルスが蔓延し、死者が多数出るというような事柄が起きている。昨日までのフィクションが今日の現実になっている。

 

 これはどういう事だろうか? …春川魔姫はほほえみながら「外もこっちと似て嘘だらけの世界なのかもね」と言う。そうだ。本質的には、傍観者である我々、この我々、安全圏にいて、色々な事を言っている我々も、ドラマの中の一人物として生きねばならない。その時、それがフィクションであるか現実であるかの区別はあるだろうか? たとえ、我々の現実とされている世界がフィクションだと暴露されても、我々はなお生きねばならない。もしフィクションだと暴露されれば、暴露された外側に向かって歩かねばならぬが、そうでない以上は内部で懸命に生きねばならぬ。

 

 生きる事は、ある世界にいて前進する事である。仮に前進そのものが神の摂理において、あるいは別のメタな領域において決められていたとしても、我々が生きる実定性に変わりはない。それは通常言われている生きる意味とは違う。人は見るものがいなくても生きる事ができる。傍観者や視聴者が見ていない世界でも生きる事ができる。それは自分で自分を見ている事だが、この場所において生きる意味を信じる為には何かを信じなければならない。それはカメラの向こうの人々を信じる事はではない。その「外側」の何かを信じる事に他ならぬ。

 

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