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2 メタ  


 「ダンガンロンパV3」(以下では「V3」とする)は当然、エンターテインメントである。しかし、同時にエンタメの終端に位置する作品でもある。「終端」というのは私が勝手に考えた事で、一般的な意味ではない。むしろ願望とでも言おうか、こうした作品をエンタメの最後と位置づける事によって一つの時代の終わり、終末を理解しようという話だ。

 

 「V3」をプレイした人は、この作品のラストがメタなオチになっているのに気づいているはずだ。私は基本的には、メタなオチというのを嫌っている。しかし、「V3」の場合は事情が違っている。メタにならなければならない必然的な理由がある。それというのは、「V3」がエンタメ作品でありながら、エンタメ作品である事をやめる、その素振り自体が作品のラストになっているからだ。

 

 構造的に言えば「V3」は最後に、この作品がフィクションである事を暴露して、作品そのものを自分で折り畳んでいく。自分で自分を折り畳み、最後には破壊、消失してしまう。この消失を担当するのがキーボというキャラクターで、彼が一瞬の笑みの後、才囚学園を破壊するのは、自分達が築き上げたフィクションそのものを崩壊し、自己破壊していっている事を表している。

 

 だが、こうしたメタ的な暴露が意味があるのは、そもそもV3がエンタメだからである。私はそう思う。だからこそ私は、このエッセイのタイトルを「エンターテインメントの『終端』としてのV3」とした。これが芸術であるならば、メタ的な仕掛けは必要ない。芸術は傍観者的に眺めるものではないからである。それは実人生に対して闘いを挑む真剣なものであるから、メタな位相に行って、あえて読者・視聴者を撹乱させる必要はない。芸術は傍観者として眺めるものではない。現代の人々には信じられぬかもしれないが、ある作品を褒めるか貶すかは、本来自分の実存全てを掛けて行われるべきものなのである。そうして評価した作品の向こうに、自分が生きて死ぬ道が透けて見えるからこそ、人は芸術を真剣に取り扱う。そこでは、傍観者に位置している視聴者を撹乱する必要は最初からない。

 

 では、エンタメ作品がメタな位相に身を置いて、自らを破壊していくとは一体どういう意味があるだろうか? それは、エンタメ作品がいる場所と関わりがある。エンタメは傍観者であり、あくまでも視聴者を動かす事なく楽しませるものである。

 

 エンタメ作品は視聴者に従属するものである。視聴者=大衆が主人であり、どれだけ売れようとも作品の方は主人の為にせっせと働く奴隷なのだ。好きな奴隷か、嫌いな奴隷かーーエンタメ作品に対する好悪は、好きな食べ物を選ぶ事によく似ている。そうした視座で作品は評価されている。

 

 しかし、奴隷が主人に反抗しようとする瞬間もあるだろう。そうした瞬間がたまたま訪れたのが、ダンガンロンパV3であろうと思う。そうしてその反抗に際しては、主人が奴隷に加えた様々な暴行(暴行と言わせてもらおう)が、鏡に照らし出されて、映される。作品内部に、現実の視聴者が映し出されてい。つまり、メタな仕掛けである。

 

 アマゾンレビューを見るとV3にはネガティブな評価が多くついている。それというのは、過去の1、2作で語られた出来事がフィクションだと暴露したのはルール違反だ、というものだ。この評価は正しいと共に間違っている。つまりエンタメ作品としての評価としては正しく、V3がエンタメ作品である事を自己破壊しようとした作品である、とする見方からすれば間違っている。要する、V3のラストはエンタメ作品である事を放棄している。しかしだからこそ、私のような天の邪鬼には、他のエンタメ作品では得られない感動が得られたのだ、と言いたい。

 

 振り返ってみれば、V3という作品のメッセージ性は、ミヒャエル・ハネケの「ファニーゲーム」のそれに近い。「ファニーゲーム」では、暴力というものをエンターテインメントとして消費する事が厳しく糾弾されていた。「ファニーゲーム」は芸術作品だが、非常に特殊な芸術作品であり、現代にしか生まれ得ないものだろうと思う。というのは、それがアンチ・エンターテインメントである限りにおいて芸術であるという特殊な様相を持っているからだ。

 

 V3も同じく、その作品のラストではアンチ・エンターテインメントに到達してしまっている。それが、この作品をメタ的に折り畳んで破壊した後に見える場所であろう。しかし、アンチ・エンタメの後にある光景とは果たしてなんだろうか。それは「現実」であろう。この現実、我々の現実が次の舞台になる。そうしてこの現実を真に写し出す作品というのはエンターテインメントではない。エンターテインメントは、現実に対して奉仕するものにすぎない。エンタメを破壊しなければ、現実に触れる事はできない。V3という作品が終わった後に見えるのは「我々」の現実である。

 

 あえて言うなら、デスゲームは、フィクションの中で行われるのではなく現実の内部で行われるようになる。そういう空間の移動がある。闘争は現実に起こりうる。我々は傍観者ではなくなり、ドラマの登場人物になる。傍観者である権利は、歴史的な必然によって破棄された。ここからは、我々の世界である。この世界・現実は、無垢な人間が何の意味もなく殺されうる世界だが、そうであるからこそ同時に、闘う意味のある世界でもあるのだ。


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