1 エンターテインメントの成立
注意!! ダンガンロンパ作品(無印、スーパーダンガンロンパ2、ダンガンロンパV3)のネタバレがあります。未プレイでプレイ予定の方は読まない事を推奨します。
フィクションにはどこかで終わりが来る。しかし、現実は決して終わりがない。
現実における我々の終端部分はどこだろう? 死なのか。しかし、我々は自分の死を見る事はできない。ラディゲの言うように、人は「これはまだ死ではない」と言い続けながら死んでいく。彼は彼の終わりを見る事ができない。したがって、世界は常に未読の状態、開かれたままである。
我々は開かれた生を生きていく。その中で、終わりのあるフィクション作品を楽しむ。…楽しむ? エンターテインメント作品は、我々を「楽しませる」為にある。この事は、生とフィクションとの相関関係において重要な意味を持つ。
フィクションが生から自立し、自分の存在価値を主張する時、そこにはマルクス・ヘーゲル的に言えば疎外の関係がある。自己が自己を乗り越える。自己の内容物をフィクションという形に載せて、世界の空に射出する。その時、世界の夜に一条の星が輝くーーとしよう。それを「他人」が見る事は可能だ。ところが、他人が見る事が可能な作品を生み出す為には、まず自己が自己を疎外しなければならぬ。自己を滅却して、他なる物へと大いなる一歩を踏み出す必要がある。
そうして生み出された作品は「芸術」である。芸術が昔から尊ばれてきたのは、それが人々の耳目を喜ばせるからではない。そういう要素もあるが、それ以上に、それが生を、実人生を越えた現象だからこそ、腐敗する作者の肉体を越えて作品は存続してきたのだ。
ところでエンターテインメントはそうではない。確かに、作者の肉体は越えているだろう。不変の形式を刻印しはするだろう。だが、作者(や読者)の人生を越えはしない。そうした所にエンタメの本質はない。作者や読者、視聴者らの人生の「為に」エンタメは存在する。人々がエンタメ作品を持て囃すのは、これらの作品を味わう時、人々が動く必要がないからだ。自分の人生の価値を、意味を、相対化され、揺さぶりをかけられるという事はないからだ。動かないまま、傍観者として旨味だけを味わう。そうした美食的な場所にエンタメ作品はある。
エンタメが成立するには、それを玩味する人々の人生が安定的である必要がある。社会の安定、人間の安定、人生観の安定である。安定の上に戯れ、様々な好悪が入り乱れ、安定をかき乱さない程度のエンタメが人々に称揚される。自分を上回るものを褒めそやす事は難しい。自分と同じレベルのものを人は褒める。エンタメ作品は、大衆社会の在り方と合致している。そうしてそれ故の限界も共有している。




