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蘭陵王伝  小暑の記   (10)  作者: 天下井  涼
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婁皇太后の説得 

二月の政変で、楊令公の一派は一掃したものの、皇位に即けないでいた高演は、婚姻により斛律光を自派に抱き込むことに成功した。

そして、いよいよ弟の高湛を使って母である婁皇太后の説得に掛かるのであった。

九月の午後、叔父にあたる長広王高湛が、蘭陵王府を訪問した。

露台に通された高湛は、後苑の睡蓮池の周りに咲く黄色い菊の花を眺めた。狭いけれどよく手入れの行き届いた庭が、秋の名残の陽光の中で輝いて見える。


高長恭と高湛は、かつて城外への狩を装って会合し、二月の政変を実行した間柄であった。

しかし、現在の長広王高湛は、太傅(たいほ)京畿大都督(けいきんだいととく)へと栄進(えいしん)し、鄴都の行政・治安・人事を一手に握る存在である。しかし、高長恭は、甥とは言え一介の散騎侍郎(さんきじろう)であるにすぎない。


『皇位に遠い高長恭は、むしろ幸せだ・・・』

高湛は、兄と母との板挟みになっている自分に比べて、散騎侍郎の職務に邁進する長恭に羨ましささえ感じた。高湛は、秋の傾いた陽光の眩しさに目を細めた。



昨日、高湛は兄に呼ばれ常山王府に赴いた。

晋陽で北野の防衛に当たっているはずの高演が、密かに都に帰って来ていたのだ。


いつもは大人の風格を漂わせ悠然と構えている兄の高演が、いつになく苛ついている。

「何とも歯がゆい。・・・現在の斉の政は、甲冑(かっちゅう)の上から傷の手当てをしているがごとくだ。これでは時期を失い民は困窮(こんきゅう)するばかりだ」

高演は、手に持った酒杯を(あお)ると、音を立って卓に置いた。大丞相であるにも拘わらず、都から遠く離れた晋陽に住まう高演には、重要事項は知らされず、裁定された結果のみを知らされるだけであった。


冷静な兄がいつになく苛立っているため、高湛は兄の端正な顔を窺った。

「兄上、俺が母上に、太皇太后令を出してもらえるように懇願しましょう。皇帝に即位すれば、・・・兄上は思うような政ができるようになる」

高湛は、拳を胸に当てると兄を見詰めた。

高湛の瞳を覗き込むように見詰めていた高演は、二つの杯に酒を満たした。

「ああ、母上は最近、会ってくださらない。お怒りのようなのだ。そなたに頼むしかないのかもしれぬ」

高演は、困り果てた様子でかぶりを振った。二月の政変では、政治的な力を発して楊愔を殺害させた婁氏であったが、孫の高殷の廃位を許そうとしなかった。

「もし、そなたの説得で即位できたら褒美をさずけよう。・・・そうだ、そなたを皇太弟にして跡継ぎにしよう。私の大業を継ぐことができるのは、そなただけだ」

「褒美などと、・・・兄上の大業に協力できたら、これに勝る望みはありません」

婁氏所生の兄弟たちにとって、失った皇位を兄弟に取り戻し高演を皇帝に即位させることが、何よりの願いであった。

高演と高湛の兄弟は、笑顔を交わすと酒杯を打ち合わせた。



「先日、兄上の上奏を持って、母上の居所に行ったのだが、会っても下さらない」

高長恭が挨拶した後も、高湛は蘭陵王府の露台をいらいらと歩き回った。

「叔父上、・・・落ち着いてください。茶をどうぞ・・・」

長恭は椅を勧めると、向かい合って座っている卓上の炉から香りの高い清明茶を茶杯に移した。

「叔父上、上奏とはどのような?」

高湛は、何をいまさらと言うように拳で卓を叩いた。

「もちろん、譲位の上奏だ」


先日、高湛は今上帝の譲位に関わる上奏を持って婁太皇太后を訪ねたのだ。しかし、孫である高殷の廃位を望まぬ婁氏は、首を縦に振らぬばかりか怒って高湛を追い出した。

それ以降、婁氏との面会がかなわない高湛は、長恭に助けを求めてきたのである。

「斉では、君主と臣下が互いを警戒し合い一触即発の事態だ。このままでは、国が崩壊しないとも限らない。母上の秘蔵っ子のそなたの手助けが必要なのだ。母上に会えるように力を貸してほしい」


宣訓宮は、長恭が幼少より育ってきた宮殿である。

そして、今では長恭は、婁氏の寵愛する孫として息子たちより親しい存在と言えた。

「叔父上、私は単なる散騎侍郎です。こんな私に何かできるというのでしょう?」

長恭は、眉を潜めて卓の向かいに座った高湛を見詰めた。

「私が母上に会えたなら、兄上の気持ちを伝えて、母上から常山王への譲位の太皇太后令をいただく。さすれば、多くの血を流さなくて済むのだ」


高湛は、高演の上奏を示しながら長恭に熱く語った『多くの血を流さなくて済む』との言葉が、長恭の心を捉えた。皇位の争いには、血生臭い騒乱が往々にして起きると歴史書が物語っている。しかし、二月の変では、あまりにも多くの血が流された。そして、青蘭に悪夢を見させるような殺戮(さつりく)を、斉の朝廷でこれ以上起こさせたくなかった。

「分かりました。叔父上の仰ることはもっともです。自分にできることがあればお手伝いします」

長恭は、高湛に薫り高い清明茶の茶を勧めると、自分でも茶杯を傾けた。

「何よりも、母上に会って,皇太后令を受けるのが重要なのだ・・・」

その日は、夕刻まで高湛と長恭の話し合いが続いた。 


          ★           ★


次の日、長恭が皇太后府に出掛けると、客房になっているかつての清輝閣に通された。そこには、すでに焦燥感をたぎらせた高湛が通されていた。

「母上は、今日も会っても下さらない」

いらいらと房内を歩き回りながら、高湛は流麗な眉を逆立てた。


高湛は、婁氏所生の皇子たちの中でも、高澄に次ぐ美丈夫であると言われていた。しかし、創生期(そうせいき)の苦労を知らず溺愛(できあい)されて育ったせいか、高演に比べて直情的であり目先の利に弱い嫌いがある。

「今朝早く来てみた。でも、母上は、譲位の話を嫌って、会ってくださらないのだ」

婁氏は娘婿に当たる楊愔を死なせた悔いが、心を暗くしていだ。ゆえに、孫に当たる高殷を廃して、息子の高演を皇帝に立てることには躊躇(ちゅうちょ)があったのである。


ほどなくして宦官が来て、長恭だけの謁見が許された。

長恭が、正殿の居房に入ってみると、憔悴(しょうすい)した婁氏が榻に座っているのが見えた。

「高長恭、御祖母様にご挨拶申し上げます」

長恭は、礼儀に(のっと)り祖母に拝礼した。

「立つがよい」

婁氏は、生気のない声で長恭を立たせた。


ほどなく、秀児が茶を運んで来た。秀児は長恭が幼少の頃より婁氏に仕えている侍女頭である。秀児は、婁氏の気持ちを引き立てるように茶を勧めながら笑顔を作った。

「長恭様、太皇太后様は、最近顔を見せないと、お嘆きでしたよ」

長恭は、清華な顔をしかめながら俯いた。


「御祖母様、申し訳ありません。勤めが何かと忙しくて」

いきなり上奏の話に持っていくのは上策ではない。

婁氏は、茶杯を引き寄せながら、長恭を見た。 

「最近は、多くの上奏文を読むのが大変で、・・・毎日の退庁も酉の刻(とりのこく)(午後六時から八時ごろ)なのです」

「皇宮では、それほど、上奏が増えたのか?」

婁氏は茶杯を持つ手を止めると、眉をしかめた。


「陛下の勅書により、政の文書は一旦大丞相の目を通してから決裁せよということになりました。しかし、・・・大丞相は晋陽にいるので、・・・鄴で審議した文書を晋陽に送り決裁を戴くために侍中府は大忙しなのです」

婁氏は、まだ子供であると思っていた長恭が、政の苦労の話を始めたので目を見張った。

「民の差し障りにならないように、侍中府の者たちは、日夜励んでいるのですが、どうもうまくいかなくて」

長恭は、思案するように小首をかしげた。

「民の障りとなっているのか・・・」

「常山王が、大丞相として晋陽にいるために色々なところに支障が出て、・・・官吏の者達も困ったと・・・」

あからさまな批判と言う言葉を使わないが、高演が帝位に就かないことによる支障を匂わせた。


「荀子の言葉に、『君主は船なり、庶人は水なり、水は(すなわ)ち船を()せ、水は則ち船を(くつがえ)す』とあります」

長恭は、顔之推に学んだ言葉を語りながら、両手で茶杯を温めるようにして婁氏を見た。

「民の声に耳を傾け、政を行うことが肝心だとの言葉であると・・・」

婁氏ほど、節約に努め民の心に寄り添おうという皇太后はかつていなかった。

「譲位についても、・・・そうであろうか」

婁氏は、誰に言うともなく呟いた。


婁氏は、肉親同志が、血で血を洗う戦いを繰り広げるのだけは何としても避けたかった。しかし、民や管理の不満が高まり、自分の決断が遅くなれば、再び皇宮で殺戮が起きないとも限らない。

「そう言えば、長広王叔父上が、清輝閣にいらっしゃるようです」

長恭が高湛との面会を促すと、婁氏は速やかに宦官を高湛の元に遣った。


長恭が居房を出るのと交代するように、高湛が入って行った。


           ★               ★


「演、高殷に帝位を譲らせないため、政のさまざまなところで不都合が起きているのだそうだな」

謁見に宣訓宮を訪れた高演を座らせると、婁氏はおもむろに切り出した。


「申し訳ありません。私の力不足です」

高演は、椅から立ち上がり跪くと頭を下げた。

「責めているのではないのだ。立つがよい。・・・分かった、民の安寧こそが第一。・・・私の我が(まま)を通すことはできぬ」

婁氏は、高演を立たせると溜息をついた。


民の障りになっているとの長恭の言葉で、譲位を許す決心を固めたのだ。しかし、それに伴う懸念もあった。

「何より心配なのは、高殷のことじゃ。十代半ばで皇帝を廃されこれから生きて行かねばならぬ。あまりに哀れなのだ」

婁氏は、そう言うと祖母としての顔を見せた。

「陛下は、年端も行かぬなれど聡明な方です。学問に励み武芸を磨けば、必ずや斉の軍神となりましょう」

高演は、高殷の成長を後押しすることにより、すまない気持ちを解消したいと思った。高一族の長として、甥を守り育てるつもりでいたのだ。

婁氏は、卓子の茶杯を手に取ると長く瞑目した。高演は、母が考えているのか、眠っているのか分からず次の言葉をしばらく待っていた。


婁氏は、やがて眼を開けると腹の奥から絞り出すような声で言った

「高殷を、・・・殺さないでほしい」

高演は、母のあまりにあからさまな言葉に戸惑った。

母の脳裏には、中山王の死が去来しているに違いない。自分は、酷薄な君主になるつもりはない。

「もちろんです。陛下の安寧を約束します。殺すなどということ、決してありません。母上」

高演は、端雅(たんが)な瞳を凝らすと母親に誓った。

「高殷を立派な廷臣に育て、命を奪いません。もし、約束を破ったら、私は無残な死を迎えるでしょう」

高演は、右手を天に向けると笑顔で誓ったのだった。





高長恭と高湛の助力により、婁皇太后との面会が叶った高演は、「廃帝高殷のを決して殺さない」との約束により、譲位の皇太后令を得ることができた。

いよいよ、高演による新しい政治が始まっていく。

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