解答篇
二杯目の珈琲を片付けた碓氷は、重大な秘密を明かさんとする証人のようにゆっくりと語り出す。
「今回のいたずら電話事件で重要な鍵は、『誰が』『なぜ』『特定の公衆電話から』『声を変えて』『110番で』電話を掛けたのかです。この中で一番分かりやすいのは、声を変えた理由ですね。これは、犯人が素性の露呈を避けたかったからだとシンプルに考えます。蘇芳警部が説明してくれたとおり、ミステリ小説なんかで使われる常套手段です。
次に『110番で』電話を掛けた理由ですが、110番は当然、通常の電話よりも緊急性が高いと判断されます。たとえば携帯電話を何らかの理由で所持していない人が、急なトラブルに見舞われ警察へ連絡を取りたいとき。近くに公衆電話があったら大助かりですよね。公衆電話さまさまです。つまり公衆電話の価値が上がると考えていい。『110番通報のために使われることもあるのだから公衆電話が撤去されては困るだろう』と判断されたかったわけです。犯人にとってね」
「ちょっと待て。犯人は、公衆電話が利用者不足により撤去されるのを阻止するために、来る日も来る日も110番でいたずら電話を掛けていたのか」信じられん、と言いたげに首を振る蒲生に碓氷は悠然と頷く。
「あくまでも机上の空論だけどね。えっと、今の蒲生の要約により『なぜ』『特定の公衆電話から』が埋まりました。撤去の噂が流れる公衆電話ボックスを、撤去の魔の手から守りたかったから。では、いよいよ肝心の『誰が』電話を掛けたのかという謎ですが」一呼吸置いて、碓氷は小さく肩を竦める。いつもの気障っぽい仕草より控えめだ。
「突飛な発想だと思われるかもしれませんが、公衆電話の謎の男は警官が聞き込みをしたときに出会った懐中時計の女性ではないか、と僕は疑っています」
「懐中時計の女性、ですと? なかなか奇抜なお考えですな」蘇芳警部は肩を揺らしながら喉の奥で笑う。碓氷は居心地悪そうに椅子の中で尻をもじもじさせ、
「警官の話によると、女性は急ぎの用事でもあるのか、懐中時計の文字盤をちらちら見ていたということでした。蘇芳警部が印象に残ったように、僕もその話は妙に引っかかりました。今どきの人ならスマートフォンや携帯電話の類、あるいは腕時計で時間を確認しそうなものです。女性の趣味をとやかく言うつもりはありませんよ。ただ、もしかすると女性は、スマートフォンも携帯電話も、腕時計さえも所持していなかったから懐中時計を見たのではないかと思ったのです」
「持ち合わせが懐中時計しかなかったんだろう。あるいは、携帯の類を持ち歩かない珍しい女性だったのかもしれない」それがどうしたというように両肩を大きく上下させる蒲生。だが、碓氷は食い下がるように先を続ける。
「こうも考えられないかな。その女性は、携帯電話の類を所有することを許されていなかった」
「許されていなかった? 誰にさ」
「たとえば、女性の夫とか」
以心伝心で友人の思考を読み取ったかのように、蒲生はくいっと口角を持ち上げてみせる。
「お前の仮説をまとめるとこういうことだな――110番のいたずら電話を掛けた犯人は、懐中時計の女性。動機は、女性にとってのライフラインにも等しい公衆電話が撤去される事態を防ぐため。だが、俺に言わせるとお前の推理には落とし穴があるぜ」蒲生は安楽椅子探偵の男に挑戦的な視線を投げかける。
「今じゃたいがいの家庭には、固定の電話機があるじゃないか。たしかに出先では公衆電話が便利だろうが、いたずら電話のすべてが出かけ際に掛けたわけでもないだろう。しかも、黒コートに帽子なんて怪しさ満点の格好をして」
碓氷は躊躇うように口をもごもごさせると、
「実はね、蒲生。ついさっき思い出したんだけど、110番などの緊急通報は、たとえ非通知設定で掛けても発信源を特定されることがあるんだよ」
「え、ちょっとストップ。だって蘇芳おじさん」蒲生は隣で二人の会話にじっと耳を傾けていた蘇芳警部に援護を求めるような表情を向ける。
「蘇芳警部はもちろんご存知ですよね。あなたは、そのことを知っていてわざと僕たちの会話を訂正しなかった」碓氷は探るような目で蘇芳警部を見る。「僕たちを試していたのですか」
「おやおや、人聞きが悪い。うっかり忘れていただけですよ」お偉いさまは気を悪くしたふうもなく、寛容な笑みとともに碓氷の言葉をかわす。蒲生は唇を歪めながら警部から碓氷に視線を戻すと、
「まだあるぜ。そもそも、いたずら電話の目的は公衆電話の撤去を阻止するため。犯人にとって、公衆電話が唯一ともいえる連絡手段だったから。じゃあ結局、犯人である懐中時計の女の家には電話機器類が一切なかったってことなのか? あったとすれば、そもそも公衆電話を使う必要もないんだから根本が崩れるぜ」
「蒲生は、女性が携帯の類を持っていなかったとして、その理由をどう考える?」
「そ、そうだな。携帯の所持を夫が禁じたのなら、不倫でも疑っていたのか? それで、不倫相手と携帯で連絡できないようにするために――あっ」蒲生は不意に鋭い声を出して両目をぱちくりさせる。碓氷はしたり顔になると、
「気付いたかな。携帯であろうと家の固定電話であろうと、通話記録が残ってしまうんだ。もし懐中時計の女性に愛人がいるのなら、家の電話を使うことも携帯電話で連絡を取ることも叶わなかったのさ。だから近所の公衆電話はまさに蒲生が言ったように、彼女にとってのライフラインだった。ちなみに蘇芳警部」
「何でしょう」
「警官は、女性が懐中時計を見たときに、時計をどちらの手にもっていたか記憶していましたか」
「さあ。そこまでは聞き及んでいませんな」
「そうですか。残念ですね、もし女性が左手で時計を持っていたのなら、謎の男が懐中時計の女性の変装姿である仮説を補強できたのですが」
「どういう意味だよ。男は右手に受話器を持って話していたんだろう。だったら懐中時計の女は右利きなんじゃ」蒲生が素早く疑問をはさむ。
「一般的に、人が電話をするときは利き手とは逆の手に受話器を持つものなんだ。電話番号をプッシュしたり、電話の途中でメモを取ったりするときには、利き手が空いているほうが楽だからね。とすると、謎の男は右手で受話器を持っていたわけだから、利き手は左の可能性が高い」
「最後に私からも。電話を掛ける時間帯が、夕方の六時から七時の間であった理由は何なのでしょう」
数々の試練を乗り越えてきた勇者の前に立ちはだかる最終関門のごとく威厳たっぷりの声で問いかける蘇芳警部に、碓氷は落ち着いた微笑みを返す。
「その時間帯は終業している人も多いでしょう。女性の愛しい人も、仕事終わりで彼女と連絡がつく時間だったのかもしれません――これですべての謎が回収できましたか?」
のちに蒲生が碓氷に語った後日談によると、蘇芳警部が公衆電話を管理している大手通信事業会社に問い合わせたところ、いたずら電話事件の発端である公衆電話は「第一種公衆電話」といって、利用頻度の多少に関わらず一定箇所に設置しなければならないものだったらしい。公衆電話撤去は住民の間だけで空中浮遊していた話だったのである。
今回の事件を受けて、蘇芳警部は件の公衆電話のドアに『この公衆電話は、今後も住民の安全と利便のために設置を続けて参ります』との粋な張り紙を残した。以来、その公衆電話から110番のいたずら電話は掛かってきていない。「あのいたずら電話がこなくなって、最近妙に暇でね」と、蘇芳警部はどこか淋しげな面持ちで煙草をくゆらせていたという。