『ジャカランダの空』
―これは、とあるアフリカの国の実話を基にした創作です―
澄み渡った青紫の空に、赤紫色の坂道が溶け込んでしまうように見えました。小さな丘のジャカランダの林は、赤紫色の花をすっかり落としてしまって、まるで逆さの箒の束のようです。そのお蔭で、坂道には綺麗な花の絨緞が敷き詰められていました。
牛車はママとぼくを荷台に乗せて、ガタンゴトンガタンゴトンと、ゆっくりとその坂道を上っていきます。ママは鮮やかな紫の風景に、少し眩暈をしてしまっているようです。けれどももう一度、力を出して、しっかりとぼくを抱き上げてくれました。
「坊や・・・」
話し掛けるママの声にも、ぼくには何も答える事が出来ませんでした。じっと目を閉じて、小さく息をするのが精一杯だったのです。
ママはぼくをジャカランダ林の中の病院に連れて行ってくれるのです。ママも病院に行くのは生まれて初めてでした。だから、とってもとっても不安そうに、丘の上の病院を見上げていました。
ぼくは一週間前に、村の小さな草葺き屋根の家に生まれました。でもその時から泣く事が出来ませんでした。じっと眠ったままで、目を覚ます事が出来ません。
「おかしいな。坊やはどうして泣かないのだろう・・・」
ママは他の赤ちゃんと違うぼくを心配していました。でもまだ十四歳のママには、それ以上どうしたらいいか解らなかったのです。
パパが、病院に行くことを許してくれた時、ママも初めて行くので、とても心細くなってしましました。だからパパが一緒に来てくれたらいいな、と思っていました。けれど今の季節には、パパはトウモロコシを植えなきゃいけない。家族が一年間、ご飯を食べていく為に。ママが身籠って畑仕事を手伝えなくなったのを不満に思っていて、不機嫌になっているのも解かっていました。だからママは勇気を振り絞って、ぼくとたった二人で病院にやって来てくれたのです。
病院の白い壁は、土埃で茶色に汚れていました。灯りもあちこちで切れていたから、中は薄暗かったのです。ママはそれだけでますます身体を小さくしてしまいました。黙って下を向いたまま、看護師さんに連れられて、診察室に這入って行きました。
『ドクター』と呼ばれる人は、怖い顔をしてぼくを診察してくれました。暫く考え込むと、また怖い顔付きでママに幾つか質問をしました。ママはドクターと床を交互に見るばかりで、黙ってしまっています。ドクターは看護師さんに早口で何か言うと、もう一度ママとぼくをジロリと見て、首を振りながら診察室を出て行ってしまいました。看護師さんは戸惑った顔をしてぼく達を見比べていましたが、ぼくをそっと小さなベッドに寝かせると、そそくさと出て行ってしまったのです。
薄暗い診察室の中には、ママとぼくの二人きりになってしまいました。かさかさとしながら、重い空気が漂っています。ママは暗い顔をしたままで、ずっとずっとぼくの身体を擦っていてくれていました。でも、ぼくの身体はだんだんと、だんだんと冷たくなっていってしまったのでした。ママも頭の中が冷たく重くなり、ぼうっとしてしまっています。手が止まり、小さな窓から射す夕方の光をじっと見つめていました。
少しの間、静かな時間が流れました。ママは色々な事を思い出していました。ぼくを身籠った時、とっても、とっても嬉しかった事。畑仕事が出来なくなってパパが不機嫌になった事。何度も喧嘩した事。泣いた事。生まれても泣き声を出さないぼくを見ていた、家族達の険しい顔、顔、顔・・・。
ママは陽の光が頭の中まで満たしてしまったようで、ずっと無表情になっていました。ゆっくりと立ち上がると、ふらふらと部屋を出て行きました。
少しして戻って来ると、ジャカランダの花を二つ、ぼくの枕元に置いてくれました。
「ジャカランダ・・・」
そう言うと、ずっとぼくの額を撫でていてくれています。
だんだんと空気が透き通っていくようでした。
周りの色が無くなっていきました。
ママは苦しそうな顔のまま、目を背けて、トボトボと去って行ってしまったのです。
暫くしてドクターや看護師さん達がやって来て、慌てて何かしていました。けれども直ぐにまた、ドクターは首を振りながら部屋を出て行ってしまいました。看護師さん達は、お互いを見ないようにしていましたが、一人去りまた一人去り、最後に残った若い看護師さんは、とっても困った顔をしてぼくを見ていました。
意を決したように、彼女はぼくを布で包みました。そして黒いビニール袋に入れると、診察台の上にそっと置いて、下を向いたまま出て行ってしまいました。
ぼくは独りぼっちになりました。
すると不思議と、身体がすうっと軽くなりました。暫くすると、どんどん上にあがって行くのです。どんどん、どんどん上がって行くと、オレンジ色の地面に広がる、赤紫の絨緞が見えて来ました。それもだんだん小さくなって、とうとう紫色の点になり、白い雲の向こうに消えて行ってしまいました。雲の上には青紫の空が広がっているのでした。
独りでいくのは淋しかったけど、仕方が無い事も解かっていました。パパがトウモロコシを植えなきゃ家族が食べていけないことも、お葬式をだすお金なんかないから、ママが帰ってしまったことも・・・。
最後のママの声を懐かしく思い出しました。
「パパ、ママ、ありがとう。
『ジャカランダ』を名前にもらっていきます・・・」
ぼくは生まれた村の方を向いて言いました。
そして白い雲の中を漂っていました。そこはとてもとても温かかったのです。
ママの抱っこを思い出しました。
「あぁ、ママみたいだなぁ・・・。
ママ、ママ、ありがとう、とってもとっても温かかったよ。
ママ・・・。さようなら・・・」
ぼくの身体は、まただんだんと上って行きました。
そして、だんだんとだんだんと透き通って、空の紫の中にとけていきました。