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甘い紅茶

残酷な描写があります。

「お疲れ様でした」

チン。

グラスのふちを合わせた音が軽く二人の間に響いた。

十河はウイスキーの水割り、一ノ瀬はトニックウオーターを頼んだ。

 カウンター席に並んで座った一ノ瀬は、軽く化粧をしていた。メールに気づいてから慌ててシャワーを浴びたのだろう、髪にまだ湿り気が残っていた。ほんのりとした色気が、十河の男心をそそる。彼女は、日中とは違う服を身に着けていた。

「日中の服は」

十河が口火を切った。

「喪服ですか」

一ノ瀬がそ、と目をふせた。

「鎮魂と冥福を祈るイベントでしたので。華美すぎず、かと言って黒ですと、メッセージ色が強すぎますから」

華やかな場では周囲からはみ出さない程度には、エレガントなものを。

悲しみの場では周囲に溶け込むような、地味目なものを。

(色でイメージを操作しているのか)

 見事だな、と十河は思う。

今、彼女が身に着けているものは、白いワンピースにカーディガン。夏らしく、爽やかだが清潔過ぎない。

(妖艶にも幼稚にもならない、ギリギリのライン。お見事)

一ノ瀬という女は、自分を魅せる演出方法を、心得ているのだろう。




「まさか、此処でお会いするとは、思いませんでした。……そういえば、”次回は交通事故のルポルタージュを手掛ける予定だ”と仰っていましたね」

(私へのインタビューも、そのルポの為の準備なのだろう)

『交通事故』。

 自分でその言葉を口に乗せたというのに、心に痛みが走る。

”父と弟を奪った交通事故を減らしたい”。

 その為にリフレクターを提唱するという仕事を選んだが、常に交通事故とともにある。その事に、どれだけ一ノ瀬が苦痛と恐怖を感じているか。松下や、事務所の中のスタッフしかわかってくれないことだろう。こうして事故現場を訪れれば、必ず悪夢に魘される。

(できれば今晩は、夢を見ずに眠りたい)

一ノ瀬はそれだけを願っていた。


「お酒は飲まれないんですか」

 一ノ瀬の前のグラスを見やる。以前、授賞式ではシャンペングラスを持っていた。一ノ瀬は頭を振った。

「今日は頂きすぎまして」

 緊張しすぎて、ぶっきらぼうな返事になってしまった。様子を窺ったが、十河は気にしていないようだった。

「運転、されないそうですね」

(無謀運転を非難しているつもりなのだろう、ご立派なことだ)

 男の問に、一ノ瀬が頷いた。

「都内ですと、車は要りませんから」

「でも、こういった地方のイベントでは、車の必要性を感じられるのではないですか」

 十河が重ねて尋ねてきた。

(やっぱり、取材の一環だったんだわ)

 一ノ瀬の浮ついていた心が、急に重く沈み込んだ。

彼女の唇が震え、トニックウオーターを飲み下した。彼女の喉が大きく動く様を、十河は黙って見つめていた。

「免許を取得しようと思ったことはあるんです」

 か細い声。

”車の運転が悪い訳ではない、法規を逸脱した運転手が悪いのだ”。

”自分が免許を持てば、商品の納入にてんやわんやのスタッフを手伝いすることが出来る”。

 足が竦む自分を鼓舞して、教習所に入所手続きをした。

「教習所で、事故のビデオを見せられました」

 グラスを持つ手と、声が震えている。その声に、一ノ瀬の顔を見つめてみたら、真っ青だった。

「無謀運転をした運転手側からの映像でした。映った被害者役の方の顔に、父の顔が重なって……! 」




 彼女の、父である一ノ瀬孝則と弟の有起哉は、キャッチボールをするのが日課だった。昔はついていっていたが、一ノ瀬は受験生だったので家に残った。二人はいつも通り、あまり車の通らない道路に向かった。


 ボールを追って、有起哉が私道から公道へ飛び出した。ヘッドライトに気づいた孝則が、有起哉を助ける為に走り出した。孝則が息子に追いついた時、飛び出しに気づいたドライバーがブレーキが踏んだ。制動が間に合わずに二人は、自動車に轢かれた。父・孝則は即死であった。弟の有起哉は自動車のブレーキの制動が効くまで、十数m引きずられた。

--それが現場検証と二人の解剖所見から推測された事柄だった。

 


 一ノ瀬の自宅から事故現場はそう遠くない。

(珍しく、パトカーや救急車がうるさいなー……誰か事故ったんだ)

 そう思いはしたものの野次馬をする程、暇ではない。一ノ瀬は参考書に眼を戻した。

ふと時計を見ていると、二人が家を出てから大分時間が経っている。

 不安に思い、外に出てみた。

赤く点滅する道路と人だかり。

キープアウト、と張られた黄色のテープの向こうの道路に、何かが見えた。

(お父さんの靴に似ている? )

 今朝、自分が磨いた父の靴が見えたような気がした。

靴を履いている人物は、立っているのではなく道路に寝ているようだった。そう思った途端、彼女は駆け出していた。なんとか、人だかりの前に出た。

『お父さん! 』

”まさかお父さんの筈はない”と思う気持ちのほうが大きかった。

少女の声に人ごみが割れた。

 一ノ瀬の目には最初、道路に横になっている大きな『人形』が見えた。

そして視界の先で、救急車が一台停まっていた。小さな円が出来ていた。その中で慌ただしく、必死で何かをしているようだったが、よく見えない。

『お父さんは。有起哉は。弟はどこですか』

 彼女は自分が何を呟いているのか、わかっていなかった。

制服を着た大人達や白い服を着た大人達に囲まれ、矢継ぎ早に何かを言われた。


 一ノ瀬はそこから、白い箱二つと父と弟の写真を眺めていた位からしか、憶えていない。



「……」

黙ってしまった彼女を男が気遣った。

「一ノ瀬さん? どうしました」


 いつしか一ノ瀬は、自分が運転席に座っていた。フロントガラスにぶつかってきたスタントマンに父の貌が重なってみえた。堪えきれずに彼女が小さな悲鳴を上げると、その躰は力を喪った。

崩れ落ちた一ノ瀬を十河は抱えた。案ずるバーテンダーに彼女のルームキーを見せると、想像通り彼女はここの宿泊客だった。とりあえずバーから連れ出し、彼女の部屋に連れて帰った。

 彼女を片手で支えながら十河はなんとか、扉を開けた。ひとまず彼女をソファに座らせると、冷蔵庫の中や、ルームバー等を漁った。

 やがて、一ノ瀬の前に突き出されたのは、湯気の立っている紅茶だった。

それを受け取ると、男に促されて彼女はゆっくりと口をつけた。

甘い温かさが、躰の中にゆっくりと沁みていく。

少しずつ紅茶を飲み下していくうち、色を喪っていた彼女の頬に赤身が戻ってきた。



(ここで腕の中に囲ってしまえば)

昏い瞳で十河は女を見つめていた。

(髪を撫ぜてやり、流すことの出来ない涙を吸ってやれば)

陥落させるのは容易かっただろう。しかし、十河はしなかった。膝まづいていた彼女の前から、ゆっくりと立ち上がった。まだ虚ろな一ノ瀬の視線が男を追う。縋り付きたいような表情に自分を押えて、女の頬に手を添えて囁いた。

「おやすみ」

己の背中に突き刺さってくるような一ノ瀬の視線を、ドアが遮った。

(これでいい)

ドアの反対側で十河は思った。

(ゆっくりと仕掛けて、彼女が堕ちてくるのを待てばいい)

まだ時間はたっぷりとあるのだから。誰にともなく、男はそう言い聞かせていた。



 彼女は暫く、男が出て行ったドアを眺めていた。

オートロックであるから、十河が出て行っても鍵をかける必要がない。

(戻ってくれないかな)

飽かずドアを眺めている自分に気が付いた。彼女はため息をつくと、ゆっくりと服を脱ぎベッドに潜り込んだ。

……一ノ瀬の心のドアは鋼鉄製で、しかも溶接されていた。何人たりとも、どこからも出入りすることは出来なかった。彼女の心情を理解してくれて、温めてくれようとした男もいた。しかし、一ノ瀬自身が望んでも、頑としてドアは開く事はなかった。

(なのに、あの人に対しては)

 鍵さえない木製のドアに変わってしまった気がする。しかもそ自らドアを、あの男に開け放そうとしている。

(たった数回会っただけの人なのに。何が起こっているの? )

 一ノ瀬は、未知への漠然とした恐怖を感じていた。しかし、心臓の煩い音は恐怖からではない事はわかっていた。彼女は、熱をもつ頬を隠すように毛布を引っ張り上げた。

(……私はこれから、どうなってしまうんだろう)

口の中にはいつまでも甘い味が残っていた。



(あんな風になるなんて)

 十河は逃げるように一ノ瀬が宿泊しているホテルを出た。頭が混乱している。

被害者が加害者を恨む顔は腐るほど見てきた。

(PTSDに陥った彼女の症状は、本物だった)

父と弟を亡くした事が、傷としてあれ程に彼女の中に残っているとは思わなかった。

(倒れるなんて、アンタらしくない。”一ノ瀬 燿子”という女は、加害者の涙で肥え太ってきた筈だ)

家族を喪った哀しみのあまり、憎しみを加害者の家族に向けたというのか。


(だとしても、罪もない加害者の家族を甚振っていい事にはならない……!)

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