猜疑
松下が一ノ瀬 孝則の事故を知ったのは半年後。
恋人と連絡が取れずに半狂乱になっていた頃だった。孝則の死を受け入れられずにいた。ただ毎日を、海月のように揺られて過ごした。
ふと、我に帰った。
(彼の子供はどうしたんだろう)
確か、二人いた筈だ。
(生き残っている子に会いたい! )
以前、彼に聞いていた連絡先に電話をかけたら、別人が出た。矢も盾もたまらず、パリ駐在から日本への帰国を申し出た。仕事の合間を縫って、彼の遺児である耀子を探し回った。しかし、耀子の行方を掴むのに三年も要した。
松下は耀子に蛇蝎のように嫌われる事は覚悟で、彼女の父親の恋人である事を告げた。
『初めまして、一ノ瀬 燿子さん。僕は……、僕はお父さんの恋人だった、松下 佳嗣です。お父さんの代わりに僕に世話を焼かせて欲しい』
いきなり前振りもなく名乗ってしまった。
しかし、一ノ瀬は。
『松下さん。ごめんなさい、父の事、知らせてあげられなくて』
涙を溜めて謝ってくれた。思わず彼女を掻き抱き。改めて彼女の顔を見つめた。
『いいんだよ。……それにしても僕達のこと、知っていたの? 』
『母が亡くなる前に教えてくれたんです』
*
一ノ瀬の弟・有起哉を身ごもっている時、母の日名子は夫・孝則から同性愛者だと告げられた。
本人もごく最近気づいたのだという。父は母に土下座した。
『君を幸せにしてあげられないから、離婚して欲しい』
畳に頭を擦りつけて頼んだという。
『ずうずうしいお願いだけど、燿子とお腹の子の親権を、僕にくれないか』
子供がいないほうが日名子も再縁しやすいだろうし、自分は一生子供をもう持てないから、と。
母は天晴な人だった。
燿子との面会の権利、及び腹の子の養育権と養育費で離婚を快諾したのだという。
そして有起哉が生まれた。
燿子は母や弟に会いに行ったり、母が恋人と逢う時には有起哉を預かったりした。時には“家族”4人で旅行もした。
日名子が余命幾ばくもない病気とわかった時、燿子は母から有起哉の面倒をお願いされた。そして父の秘密を教えられたのだ。母は悪戯っぽく笑って言ったものだ。
『燿子のお父さんにはね、男の恋人がいるの。だからママが死んでも、お父さんに”再婚して”ておねだりしちゃダメよ』
”オトコノコイビト”も”サイコン”も意味はわからなかった。しかし、母が期待に満ちた眼で燿子を見ていた。だから、”おねだりしない”と約束したら、母は安心して目を閉じたのだった。
日名子が亡くなって、有起哉は孝則の元に引き取られた。
夜のキャッチボールは父子のかけがえのない、親交を温める時間だったのだ。
*
燿子の笑顔に、松下は不覚にもときめいた。
(……彼にそっくりだったからだ)
松下はそう、自分に言い訳をした。
二人で喫茶店に入り、泣いたり笑ったりしながら、近況や一ノ瀬 孝則のことを語り合った。
彼女の事故後の状況を聞き出した時、牧田昭三とその妻について、松下も怒ってくれた。
が、一ノ瀬から訴えるつもりも復讐するつもりもないと聞き、不承不承、松下も承諾した。
(いずれ決着はつけてやるからな)
娘とも思える大事な女性に辛酸を舐めさせた報復はさせて貰う--。怒りを笑顔でコーティングした。
デザイナー養成学校のHPや受賞歴から、彼女が才能豊かなデザイナーである事はすぐにわかった。だが、正攻法では彼女が世に出るのは数年後、下手すると一生日の目を浴びないままになる事も松下はわかっていた。
(それではダメだ)
一ノ瀬のやりたい事を訊いた時に松下は、既に事業プランを立てていた。彼女の両手を握りしめて、言った。
『燿子ちゃん、君のやりたいことは素敵だ。天国の孝則さんも有起哉君も勿論日名子さんも、きっと喜んでくれるよ。製品を作って、メーカーにアピールするなんて、時間がかかりすぎる。会社を興して、世間に広めよう。僕がアシストする』
最初のうち彼女は、松下にさえ怯えていた。
(耀子が男を怖がるから)
自分は彼女を見守る、兄、いやお姉さんになろう。そう思って、とっさに使った事のない女性言葉で話しかけた。しかし、段々と懐いてくれて、松下は嬉しく思ったのだった。
最初は、愛おしい人の忘れ形見だから。
次には、耀子の中に彼の面影を見出そうとしていた。
彼女の幸せを願うようになった。そして燿子の笑顔を見る事が、至福となるのに時間はかからなかった。
だが松下は自分に、想いを燿子に告げる事を禁じた。
大事な娘の上に、愛した人の幻像を重ねている、歪んだ愛情。
バージンブレイクの申し出も本気だった。しかし、彼女が逃げ出せるよう冗談でくるんだ。案の定、本気にされず却下されてしまった。男としては残念な気持ち、そして保護者としてはホッとした気持ちの半々だった。何よりも、せっかく笑顔を見せてくれるようになった燿子が、自分の想いに怯えて飛び立っていくのが怖かった。
(燿子をずっと見守ってきた)
松下は男を疑っていた。
否、愛おしい女に群がる全ての人間を疑ってかかっていると言って良かった。
(広告塔となる耀子を護ると決めた筈だ)
そう思っても、彼女をスケープゴートにしようとする輩、食い物にしようとする輩は後を絶たない。
画像の中の十河 秀明という男は、およそ耀子を恋愛の範疇に入れてなさそうな男だった。
(お前みたいな奴が、耀子の周りには散々集まって来たんだよ)
彼女に旨味を見出し、おこぼれに与るか生き血を啜りに来るのだ。
(また、クズが燿子を苦しめに来たのか)
松下は苦々しく思った。
腹立出しいことに、耀子は男に惹かれていた。自分とて、耀子の恋を祝福しようとする気持ちはある。
ーー嫉妬に身裡がかきむしられるとしても。
『親代わり』として、耀子に近づく人間の素性を把握していないと気が休まらない。
しかし、画像以前の経歴は不明だった。
(十河 秀明という名は偽名か?)
ライターがペンネームを使っているのは、ままある事だ。
それとなく、彼が寄稿している出版社の知り合いに聞いてみたが、彼のオフィスの場所は知らない、という返事だった。
(ネットさえ繋がって入れば、世界の何処に居たって仕事は出来るし、彼の職業には経歴もオフィスの住所さえも必要ない)
彼の人格を顕すものは、書いた記事が全てだ。記事が示す十河という男は、硬派だった。
出版社の知人からの、十河ついてのへの評判は高い。
『昔はピンク記事の外注やら暴露記事の売り込みをしてたが、今は社会派に育ったよ。だが、ズバズバ踏み込むから、政治家にはトドメを刺す時しか使えないな』
(骨のある男か)
そう思っていても、彼への不愉快な感情は抑えられない。
(耀子を奪われてしまう焦燥感なのだろうか)
とうの耀子は、十河と再会出来るのを楽しみにしている。
勝手に接触しないのは、松下が諌めたからだ。
『いいか、アイツの目的がわかるまで耀子は不用意に接触するな! インタビューを受けるかどうかは、僕が奴のバックボーンを調べてからだ、いいな? 』
『わかった。……松下君が男言葉を使う時は真剣な時だもんね』
耀子は深く尋ねる事なく、頷いてくれた。
さりげなく腕をさすって居たので、自分が力を込めて彼女の腕をつかんで居た事に気がついた。怯えさせてしまったかと窺えば、松下の態度に不信感は抱いてはいないようだった。
数枚しかない調査報告書を、松下はばさりと机に投げ出した。
(頭ごなしに彼との接触を禁じてしまえば、耀子は必ずアクションを起こす)
怪しいという己の勘だけでは、二人が会う事は止められない。
松下はため息をつくと十河にインタビューに応じる旨を送信したのだった。