夜食
「はああーっ」
玄関を開けるなり、ヒールを行儀悪く脱ぎ散らかした。
重い足音を響かせながら、寝室に入って投げ捨てるようにジュエリーを取り去る。ファスナーを一気に引き下ろして、ドレスをハンガーにかけて形を整えた。埃取りをしてから、一歩離れて汚れやシミがついてないか確かめた。
下着姿のまま洗面所に向かうと、乱暴にメイク落としで顔を拭う。ボディラインを整えていたコルセットを脱ぎ捨てた。荒々しく浴室のドアが開閉すると、シャワーの音と鼻歌が中から聞こえてきた。
それから暫くして、リビングに寝巻きに素っぴんという寛いだ格好で女が現れた。ソファ目掛けて突進してくると、ダイブするかのように倒れ込んだ。
「なあに、お行儀悪い。それに家中に聞こえるような、大きいため息ついて。幸せが逃げちゃうわよ! 」
キッチンから料理を持ってきてくれた人物に窘められても、ソファにうつ伏せになったまま、女は顔を上げようともしない。
「だってー。……むっ、無茶苦茶疲れたんだもんっ……! 」
呻き声を上げたら、よしよし、と頭を撫でられた。
「お疲れ様。燿子はええかっこしいだけど、本当はずぼらで大雑把な人間だものね。ちゃんと猫被り切れた? 」
寝そべったまま、一ノ瀬はウン、と頭だけで頷いた。
「パーティ会場だと、あんまり食べられなくてお腹空いたでしょ?さ、ご飯を食べちゃいなさい」
女がつっぷしていたソファの前のテーブルに、サラダとリゾット、カポナータを添えたコロッケが置かれた。
一ノ瀬はようやく身を起こすと、嬉しそうにカトラリーを持ち始めた。
「でも良かったわよね、アワード取れて! 」
受賞を喜んで貰えた一ノ瀬は、頬張ったままヘニャリと笑った。
「ほんとーっ、スポンサーにも嫌味言われずに済むぅ~」
一ノ瀬はほっとしたように返事すると、料理を平らげ始めた。
「うーん。松下君のお料理、相変わらず美味しいっ、最高! 」
一ノ瀬の声に、料理を作った人間が優しく微笑み、そして。
がば、とテーブルに肘をついて乗り出した。
「で? いい男いた? 」
その言葉に一ノ瀬は眼を泳がせた。思いつかなかったのではなく、瞬時に思い浮かんだ事にとまどったのだ。
歪んだ笑みを浮かべた男。一筋縄ではいかない、昏い道を歩いてきたのではないかと思わせる瞳だった。
「……一人」
一ノ瀬が、どうでも良さそうに呟く。それを聞いて、松下が僅かに表情を鋭くした。彼女の表情が緩んでいて、耳が赤くなっているのを見落とさなかったのだ。
しかし、松下が出した声は剽軽なものだった。
「じゃあ、今度こそ恋の予感っ? 」
「やだ、そんなんじゃないってば」
一ノ瀬が慌てて言うと、松下は突っ込んだ。
「じゃ、なんなのよ。僕が”いい男居た?”て、いつも聞いても”居なかった”て答える癖に。耀子が居たって答えたの、今日が初めてよ? 」
う、と一ノ瀬は詰まった。しかし、すぐに項垂れてしまう。
「でも。私の第一印象、最悪だもん……」
へりくだってはいたが、十河が一ノ瀬など歯牙にもかけてないのは一目瞭然だった。男の、余裕のあるあしらい方と吹き付けてくる色っぽさに、一ノ瀬は過剰に反応してしまった。
「ひょっとしたら突っ張っちゃって、可愛げのない態度をしたのォ? 」
松下の呆れた声に、一ノ瀬はテーブルに突っ伏してしまった。
「……その通りでございます」
はあああああ。
二人のため息が重なった。
食事が終わり、カットフルーツやチーズにスナックでワインを傾けている、男と女。見た目には夫婦の寛ぎの時間そのものだが、実質はガールズトーク満開のパジャマパーティ真っ最中である。
松下が、しんみりと言った。
「燿子には、幸せになって欲しいのよね」
「それは松下君も同じよお」
一ノ瀬も言うと、男は首を振った。
「僕には、“モン・シェリ”ではないけれど、ちょいちょいお相手はいるもの。だけど燿子の方が深刻よ! 昔のことがトラウマになって、恋愛出来ないなんて! 」
「……なのよね」
一ノ瀬がふう、とため息をついた。
彼女は恋をしたことがない。
中学生までは同級生に対して、甘酸っぱい思いを抱いた事もあった筈だった。
しかし、いいなと思う相手が出来ても、進展した事はなかった。その相手と、キスするなり手を繋ぐなり、躰を重ねる事を想像しようとすると、硬直してしまう。目の前の男に”あの男”の顔が重なるのだ。相手に性的な関心を寄せられてなくとも、男と二人きりでの密室は怖い。男に近寄られると、途端に恐怖で息が詰まる。下手をすると人目を憚らず叫んだり、相手を突き飛ばして逃げ出しかねない。
--ならば、と。
「この前紹介してあげた、ビアンの子も駄目だったんでしょ? 」
”男性が駄目ならば女性では、どうか”。
松下は、"僕はLGBTの知り合いが多いから、恋人募集中の女性を紹介してあげるわよ"と言ってくれた。
彼女は、年上で押しの強い女性も苦手だったから、正直に"女性を紹介されても、恋愛の対象にはならないかもしれない"とは、松下にも言ってあった。
紹介されたのは同年代の親しみ深い女性であったが、恋に育ちそうにはなかった。相手の女性も同じ気持ちであったのだろう、二人は名刺交換をして別れたのであった。
「うーん。何か違ってて……」
頭を捻って、口ごもる一ノ瀬を見て松下は同情した。
「これで三連敗ね。タイプを違えて女の子を紹介してきたけど、燿子はやっぱりノンケなのね。でも、男だと躰が強張って、逃げちゃうんだものねえ」
一ノ瀬は項垂れた。
「人を愛せない燿子が痛ましいのよね……」
松下の言葉に、一ノ瀬は呟いた。
「セックス出来たら一歩が踏み出せる気がするんだけど」
だが松下は、ノ瀬の言葉に首を降った。
「僕はアムールの国の人だから、燿子にも心と躰で愛を感じて欲しいの」
プラトニックは、恋愛における最後の最後の手段だと松下は思っている。いずれにせよ、心ありきだ。
「心がないセックスなんて、その場は楽しいけど空しくなるわよ」
諭された、一ノ瀬はぽつりと呟いた。
「努力してるんだけどな」
昔はタクシーに一人で乗る事も出来なかったのだ。今は男性相手にでも、電話を掛けたり握手する事も出来るようになった。
「でも、……益々難しくなってきた気がする」
(無理もない)
松下は思う。
彼女が世間の脚光を浴び始めると、周囲の人間の眼が変わってきた。
男社会の中で成功している女への嫉妬と、そんな女を自分のものにして自分のステータスを上げようとする輩。薄昏い征服欲と、あわよくば金銭を得ようとするさもしい思惑。
決して、『一ノ瀬 耀子』という女が欲しいのではない。
付加価値に食らいついてくる事に気づかされ、彼女は自身がオマケのような気にさせられた。
そんなことを数回繰り返したのち、一ノ瀬は異性と恋愛に発展することにさえ、恐怖を感じるようになってしまった。
がりがりと女が頭を掻き毟る。
そ、とその手を止めて、よしよしと男が彼女の頭を撫でる。
その心地よさに、一ノ瀬がウットリと眼を閉じた。
(なまじアワードを取ってしまったから、余計に燿子の名声や金目当ての人間に群がられる)
細心の注意を払って、一ノ瀬の頭を抱えた男が囁いた。
「……いっそのこと、僕がバージンブレイクしてあげようか? 」
ぎょっとして女が顔を上げると、男はいたって真面目な表情だった。一ノ瀬の表情に気づくと、松下は柔らかな笑みを浮かべてくれた。そこに性的なものは何もない。
(私に対するボランティアの申し出だよね)
彼女はそう考えた。
松下の提案に一ノ瀬は吟味した後、あっさりと首を振った。
「ダメ。自分の恋人と娘がエッチしちゃうだなんて、天国のお父さんが卒倒しちゃうもの。それに松下君、女性としたことないんでしょう? 」
一ノ瀬の問いに松下の答えは、あっけらかんとしたものだった。
「何事も初めてはあるし、バージン同士でもいいんじゃない? 燿子と違って、僕は知識はあるから大丈夫だと思うわよ? 」
一ノ瀬は、松下の申し出を頭の中でじっくり検討した後、もう一度お断りした。
「うーん。でもぉ……松下君が、その、私の躰を見て、『うえっ』とか『気持ち悪いっ』とかなったら私、立ち直れない……」
一ノ瀬の返事に、松下も考えた末に肯定すると、あっさりと引き下がった。
「それもそうねえ、可能性はあるかも。……燿子、荒療治としてではなく、肉体的な愛にも興味があるのよね? 」
「勿論!興味あるわ、すっごくあるわよ! 」
一ノ瀬は、勇んで言った。
「なら、あの男の呪縛も薄れつつあると思って、いいのね? 」
松下が確認してきて、一ノ瀬は頷いた。二十代までは、"仕事だから"と言い聞かせても、同席するので精一杯だった。三十代になってからは、道行く恋人達を羨ましく見つめている自分に気づいた。
「そろそろリハビリを兼ねてデートに持ち込みたいわね」
松下の言葉に一ノ瀬は頷いた。
「……ねえ、さっき言ってた、いい男ってどんな感じ? 」
「えっとね……」
燿子が先ほど、パーティ会場から貰った名刺の束から、ある一枚を抜出した。松下がノートパソコンをテーブルに持ってきて、彼の情報を検索した。
「あら」
松下が、検索画面に目を瞠った。十河の署名入りの記事も何本もヒットしてきたのだ。口笛を吹く勢いで、呟いた。
「あらあら。なかなか硬派じゃなーい? 」
燿子も驚いた。
「そうね」
(絶対にモテるのを鼻にかけてるだけの、口先男だと思ってた)
「……この記事。私、"スゴイな"て思って、ブックマークしておいた奴だわ」
(真面目な人だったんだ)
一ノ瀬は安心もし、嬉しくて何故だか祝杯を挙げたくなった。
(もう少し飲みたい気分)
一ノ瀬が酒を探しにキッチンに向かった後、尚もしつこく検索していた松下が、パソコンの中に何かを発見した。声高に一ノ瀬を呼ばわる。
「ちょっと来てよ、燿子。見て、この画像」
松下が探し出した画像を、二人で頭を突き合わせて、じっくりと見た、
「……彼、よね」