後のことは任せたわよ
「これだけの数の魔物、私一人で対処できる訳ないじゃない! 一体どうしろというのよぉぉぉ――!」
大橋先生は屋上の片隅で、必死になって石を積み上げていた。明朝の地震によって崩れた祠を修復しているのだ。
土地神の神通力が使える翔太や詩織とは違い、邪神の半身である彼女には直接的に魔物を祓う力はない。その代わり、この祠に魔物を封じ込め、自然消滅するまで待つという手段でこれまで数多の魔物と戦ってきたのである。
石を積み上げ終わった。
「ったく! こんな大変なときにあのバカはどこで何をしているんだか!」
大橋先生は毒づく。むろん、それは今だ顔を見せない翔太に対しての怒りである。これだけの数の魔物を自分一人で対処できるはずがない。
しかし、彼女はふと思う――
ほんの数ヶ月前まで、自分は一人で魔物と立ち向かっていた。
それがいつの間にか翔太が土地神の力を手にし、共に協力する場面が増えていた。
自分は気付かないうちに翔太を頼っていたのだろうか?
いやいや、13歳の彼に自分が頼っているだと?
そんなことがあるはずがない!
大橋先生は空を見上げる。幸いにして、祠から解放されて久しぶりの自由の身になった魔物たちは、楽しそうに空に地上に、そして地中にて遊んでいるようだ。
奴らが本来の目的を思い出す前に何とかしなければならない。その前に生徒達の安全を確保しておかなければならない。大橋先生は教育公務員としての使命を果たそうと全力で階下に走る。
2年と3年の教室の前で立ち止まり、結界を張る。土地神の神通力ほどではないが、大橋先生にも結界ぐらいは張ることができる。ふと、1階の職員室のことが心配になるが……
「みんな大人なんだから自力で対処しなさいな! 今は子ども達が優先よ!」
心配を払拭するかのように独り事を呟き、再び廊下を走る。
そして1年1組の教室のドアを開けた。
生徒達が一斉に大橋先生の顔を見る。
その背後のガラス窓には――
びっしりと魑魅魍魎がへばり付いていた。
真っ黒い体に血走った巨大な目玉がギョロリと飛び出している魔物。
巨大ガエルのような魔物。
体は人のようだが首から上がトカゲの様な頭をした魔物。
そして鴉天狗。
それらの魔物たちがガラス窓から生徒達を見つめていた。
しかしほとんどの生徒には奴らが見えてはいない。
4人の生徒を除いては……
「どうしてあなた達が1年生の教室に来ているのかしら?」
大橋先生は生徒達を動揺させないように冷静を装って話しかける。
「おおお、俺たち妖怪の姿が見えるんですよ。クラスの他の連中は見えないというのに俺たちだけには見えているんだ!」
その男子生徒は3年生の元サッカー部員、剛史とその仲間2人である。
以前、悪霊に取り憑かれて詩織を非常階段まで追い詰めた連中だ。
「ウチにも見えるの! 校庭にウヨウヨいる妖怪が! ひぃぃぃー、窓にへばりついているわぁぁぁー!」
その女子生徒はサキ。非常階段に詩織を呼び出し、その後ヘビに取り憑かれた女生徒である。その件に関しては大橋先生も共謀者であるのでよく知っている。
「この4人が廊下で騒いでいたので、私がここに連れてきたんです。妖怪退治なら神崎さんと桜木くんの出番だからと思って……あっ、私には彼らが言う妖怪とやらは見えていませんが……」
園芸部の鈴子部長が説明した。
「ごめんなさい部長、今の私はただの中学1年生……もう巫女ではないんです……」
「おお、そうなのか。神崎さんにも色々とあったんだね。おや? 桜木君が見当たらないね……彼はどうしたのだい?」
「桜木君は詩織と別れたショックを引きずってまだ来ていないんです。肝心なときにあのバカは何をやっているんでしょうね!?」
三咲が口を尖らせて怒っている。
「さて、困りましたね先生……私には妖怪とやらは見えませんが、何となくぴりぴりした感覚は伝わってきます。おぞましいというか、嫌な感じです。サッカー部の3人とサキさんには見えているようですが……恐らく以前に妖怪に取り憑かれた人間には見ることができるということでしょうね。当然、先生には見えているんですよね?」
鈴子部長は大橋先生の正体を知っている。花壇を荒らす犯人、悪霊に取り憑かれたサキの事件に立ち会ったメンバーの一人である。
「そうね。見えるわよはっきりと。何ならどんな形をした魔物か解説しましょうか?」
大橋先生は冷や汗を流しながら言った。
彼女はできるだけクラスの生徒には自分の正体を知らせたくないと思っているのだ。
そのとき――
校庭側のガラス窓がビシッとという音と共にヒビが入った。
生徒が悲鳴を上げる。
窓側にいた生徒達が廊下側へ逃げる。
さらに――
廊下側の前後のドアにはめられたガラスにもヒビが入った。
生徒は再び悲鳴を上げ、大橋先生のいる教卓の周りに集まった。
大橋先生が張った結界もそう長くは持ちそうになかった。
彼女は目を瞑り、考える。
そして――
「ねえ、あなた達。見えないモノに怯える恐怖と、見えるモノに怯える恐怖と、どっちが良い? 先生はあなた達には怖い思いをさせたくなかった。でもそれは叶わなかった。全ては先生の力不足……ううん、思い上がりだった。ごめんなさい。」
大橋先生は生徒達に向かって頭を下げた。
静まりかえる教室。
窓ガラスのヒビが広がる音が生徒達の耳に届くが、もう悲鳴を上げる者はいない。
状況がよく分からない者も、これが緊急事態であることは理解できていた。
「教室の外には魔物がたくさんいるの。この教室は魔物たちに狙われているの。でもあなた達には見えていないでしょう? もし、このまま見えないでいると身を守ることもできない。でも見えてしまうことで恐怖も倍増すると思うの。どうする?」
大橋先生の言葉を聞いた詩織ははっとした。自分には見えず翔太にだけ見えている魑魅魍魎の世界。彼はこれまで幾度となく、その恐怖に打ち勝って自分を守ってくれていたのだ。しかしその彼は今はいない……
「私は……見たいです!」
詩織は大橋先生の顔をしっかり見つめてはっきりと言った。
「怖くてちびっちゃうわよ、神崎さん!」
大橋先生は背の低い詩織を見下ろし気味に答えた。
「良いんです。私はちゃんと見て、立ち向かいたい! 何事にも!」
詩織の決意を耳にして、他の生徒達からも……
「先生、私もです!」
「僕も見たいです!」
「俺もお願いします!」
次々に声が上がった。
大橋先生は満足そうに頷き、
「皆の気持ちは分かりました。じゃあ、先生も隠し事はもうやめます! 先生の本当の姿を見ていてちょうだい」
そう言いながら、皆から少し距離をとって先生は教室の中央に立つ。
「さあ、男の子は刺激が強すぎるから、目を瞑っていること! いいわね!?」
大橋先生のクラスの男子生徒はみんな素直である。
これから何が起こるかも知らされていないのに素直に応じている。
サキは何かを察したのか、剛史の目を両手でふさぐ。
剛史の仲間2人は、鈴子部長と大空三咲が前に立ちはだかって牽制した。
大橋先生は『ふっ』と息を吐いて背中を丸める。
そして呪文を唱え始める。
「我は渡鴉神の半身、大橋恵美子なり。我が麗しき身体をもちいて今一度渡鴉神の力を与えたまえー」
両手を広げて右足1本で身体をくるっと回転させ、右腕を真っ直ぐに上げる。
右手の人差し指をピンと立てると、指先から『パアーッ』と光が放射されて……
大橋先生はピンク色のひらひらが付いた衣装姿に変身した。
背中には両翼4メートルの黒い羽。
変身姿の大橋先生は、皆の方を向き、
「真眼・覚醒――!」
と唱えると、詩織達の目に魔物たちの姿がぼんやりと見え始めた。
軽く悲鳴を上げる生徒もいるが、皆ぐっと堪えている。
これは自分達が望んだ結果なのだから――
「さあ、先生はこれから魔物退治に出かけてきます。皆、協力して自分達の身は自分達で守れるかしら?」
大橋先生は真顔で皆に問い掛けた。
皆は一様に頷いた。
それを見届けた先生は、軽く頷き、最後に詩織に向かって――
「後のことはあなたに任せるわ、元巫女の神崎詩織さん!」
そう言って、窓ガラス1枚を突き破って空に羽ばたいていった。