魔性の女
8月に入り、夏の補習期間も中盤にさしかかった頃――
「すごいじゃないの詩織ちゃん。ほとんどの英単語、すらすら書けるようになったよね?」
「はい、佳乃先輩のお陰です!」
「ううん、私は覚え方を教えただけ。覚えたのは詩織ちゃんの実力よ」
「いえいえ、すべて先輩のお陰ですから」
「そんなことはないよ。詩織ちゃんは――」
「はいはい、互いに褒めあっても何も出てきませんよ!」
詩織と佳乃はすっかり仲良くなり、休憩時間の度に図書室で会うようになっていた。
佳乃の親友である智恵子もよく図書室に訪れているのだが、彼女のお目当ての翔太はこの時間は花壇の水やりのために外に出ている。だから彼女は少々ご機嫌斜めなのであった。
相変わらずいちゃいちゃしている詩織と佳乃を眺めながら、智恵子はふと疑問に思った。
「ねえ詩織ちゃん……もう再テスト受ければ受かるんじゃないのかな? 90点取れれば合格なんでしょう?」
その言葉を聞いた詩織は、少し困ったような表情になり、
「そうなんですけど……」
「けど……?」
「あの……」
今度は熟れたトマトのように真っ赤になり、
「私……先輩たちに勉強を教えてもらうのが楽しくなっちゃって……」
恥ずかしそうに手で顔を覆った。
それを目の当たりにした佳乃は、可愛い子猫を見つけたような表情で詩織の頭をなでなでした。
可愛いものに目がないはずの智恵子は意外にも冷静に――というよりも冷酷に詩織の様子を眺めていた。そして……
「詩織ちゃん、どうやらあなたも友達がいないタイプのようね」
「えっ!? いえ、決してそんな……クラスに友達は沢山いますよ? 園芸部の先輩にも仲良くしてもらっていますし……」
「えっ、そ、そうなの?」
どうやら智恵子の見立ては間違っていたようだ。詩織は初対面の相手でもその純朴な仕草と言動で垣根は作らない。その相手が男であったら放ってはおけないだろう。ある意味、魔性の女といっても過言ではない。
「じゃあ、詩織ちゃんと佳乃ちゃんの立場は正反対ということね?」
「はあっ? なな、なに言ってるの智恵子……それではまるで私がぼぼ……ボッチみたいな言い方になっているけれど?」
「そうですよ智恵子先輩! ひどいじゃないですか。佳乃先輩の親友である先輩が誤解してどうするんですか? 佳乃先輩には彼氏さんだっていらっしゃるし、こんなに優しい佳乃先輩は学校でも人気者のはずです! まあ、翔太が何かと誤解しているみたいですが、それは出会いが強烈すぎたことが原因なので……」
「あ、ありがとう詩織ちゃん……全人類の中であなただけが私の理解者よ……」
「先輩……」
この2人はもう放っておくしかない。智恵子はそう思った。
その後、佳乃の勧めで再テストを受け、見事合格を勝ち取った。
こうして詩織の夏の補習は終わりを告げた――
園芸部の倉庫は校舎の片隅に軽量ブロックを積んで作られた3帖ほどの空間にスコップや移植ごて、散水用ホース、使わなくなったプランターやプラスチック製の植木鉢などが乱雑に置かれている。しかし所詮はただの倉庫なので本人たちはあまり気にしていない様である。
花壇の水やりを終え、散水用ホースを片付けているところへ詩織がやってきた。
「黒魔術の女を家に呼んだって?」
詩織の言葉を信じられないという感じで翔太が聞き返した。
「だーかーらー、その呼び方は佳乃先輩に失礼だって言っているのに……」
「じゃあ、俺も行くから……あっ、いやちょっと待て……」
翔太は額に手を当てて悩んでいる仕草をし始める。
炎天下で水やりをしていた彼の額は汗でびっしょり濡れている。
眉間にしわを寄せたまま詩織を見やり、
「あの長谷川智恵子という女も来るのか?」
「智恵子先輩も誘ったんだけど来ないって。寺の娘が神社に遊びには行けないって……ねえ、それって本当なのかな? 私はこれまで気にしたことなかったんだけど……」
「そうか! あの女は来ないのか! じゃあ俺も行くぞ。黒魔術の女が何か企んでいる可能性があるからな」
「もうー、素直に来たいって言えばいいじゃないのー!」
「はあっ!? お前何言ってるの? 俺は仕方なくだなぁ――」
「家にはお父さんもお母さんもいるから心配ないよ?」
「――うっ!」
ふふっと笑いながらうつむいた翔太の顔をのぞき込む詩織。
13歳という年齢の彼らでは、男子よりも女子の方が精神的な成長速度は早い。
もうこの時から翔太は完全に尻に敷かれていたのである――
ラブコメ純度100パーセントな展開が5話ほど続きましたが、ここまでお付き合いくださいましてありがとうございました。次話からようやく事件が起こりますのでご安心ください。