巫女の力
一華の父が神主を務める白加美神社は平屋建ての社務所兼住居から本殿までは50メートル程の距離がある。その間には絵馬掛所や手水場が設置され、玉砂利の敷かれた裏参道でつながっている。
黒龍に突き上げられた一華の父の身体は手水場の屋根にバウンドして地面に叩き付けられた。その瞬間を目の当たりにした一華は動くことを忘れたように呆然と立ち尽くす。
「そ、そないなことって……」
足から力が抜け、一華は玉砂利の敷かれた地面に膝をつく。
黒龍は父の様子を確認するように長いひげを揺らしながら顔を近づけている。
『ブワーッ』と大きな鼻の穴から息を吹き付ける。
やがて動かなくなった父に興味を失ったように目を細めて、龍は頭を持ち上げる。
夜空を仰ぐように黒龍は見上げ、短い手足をぴんと伸ばすと……
ふわっと上半身が天に向かって伸びていく。
背中に羽が付いている訳でもないのに、龍は空に舞い上がる。
もはや一華の目には横たわる父の姿しか見えない。
「お、お父さん……」
一華は父に向かって再び走り出す。
玉砂利を踏む音が夜空を舞う龍の耳に届く。
縦長の瞳孔がふわっと広がる。
獲物を目視したときの反応である。
ぐわっと口を開けて龍が迫る。
「イチカちゃん、あぶない!」
上空から迫る龍の口が一華に届く寸前、一華に追いついて上から被さる。
2人は倒れ込むが、背後から襲い来る龍の顎の棘が母の肩口に引っかり、母の身体は前方8メートルに転がる。
「うっ…… イチカちゃん…… 大丈夫……?」
肩を片手で押さえながら上体を起こした母が振り向いて言った。
「あ、あんたこそ大丈夫なの……? 大怪我しているやないの」
母の右肩からは手では押さえきれないほどに流血している。
しかし母は笑顔を装い、立ち上がり、一華から距離をとるように歩き出す。
「私は大丈夫よ、イチカちゃん。詩織ちゃんと一緒にすぐに神社を離れて氏子さんの家に逃げ込んで! 私とお父さんもすぐに合流するから!」
「う、嘘つかへんといて! その怪我でどうやって龍から逃げるつもりなの?」
「大丈夫! 私は白加美神社を守る巫女ですもの。それにイチカちゃんには最後まで認めてもらえなかったけど…… 母は強いのよ。娘を守るためならどんな魔物でも蹴散らしてやるんだから!」
そう言ってニコッと笑う母の横顔は一華に優しい視線を送った。
両手を地面についたままその様子を見ていた一華は、玉砂利を握りしめ歯を食いしばり、母の気持ちを悟る。
母は噓をついている。
彼女には巫女の力はない。
巫女の力は死んだ母から自分に引き継がれ、そして自分はその力を放棄した。
もうこの神社には神職としての父の威厳以外には何も残っていない。
母は自分を逃がすために犠牲になろうとしているのだ。
「ふざけないで! その役割はうちのものだから――! あなたにはそんな力は無いやろう?」
一華は拳を握り立ち上がる。
しかし――
母の姿は忽然と消えていた。
月明かりに照らされて龍が舞う姿が異様な景色を作り上げている。
龍の口は半開きで、何かを咥えている。
「いやぁぁぁ――――!」
一華は再び悲鳴を上げる。
一華の母は黒龍の口に咥えられていた。